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1巻
1-3
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食べ物を粗末にしない。
それもまた、母親が幼い頃から口を酸っぱくしてアリーチェに言い聞かせていた教えの一つだ。
「はい、あ~ん」
病気の子供に食べさせるかのように、スプーンで掬ったクリームシチューをクロムの口元へ持っていく。その行為は嫌がらせのつもりでもあった。だが。
「……ぇ……!」
クロムの口が自然と開き、アリーチェは驚きつつもクリームシチューを運んでやる。
もぐもぐと動いている口は、もはや条件反射だとか無意識に近いものだ。
「う~ん……、手強いなぁ……? これでもダメか……」
なにやらぶつぶつと呟いているクロムは、おそらく今自分が食事をしているという認識すらないのではないだろうか。試しにもう一度シチューを運ぶとクロムの口は開かれて、ゆっくりと咀嚼する。
(……嘘でしょ⁉)
こんなにかいがいしく世話をしてやろうなど、本気で思っていたわけではない。けれど今さらあとには引けず、アリーチェは最後の一口までクロムの食事に付き合ったのだった。
第三話 余命のカウントダウン
二週間がたった。この頃になるとさすがのアリーチェも少しばかり不安に駆られないでもなかったが、胸元の文様以外に呪いの実感があまりないのと、相変わらずの周りの能天気さ。そしてなによりもクロムがまったく焦りを見せていないことから、驚くほど普通の生活ができていた。
ちなみに、その間状況報告を兼ねて連絡を取った母親からは、アリーチェの思うように行動すればいいという返事をもらっていた。
「……あの……、クロム……?」
今日も今日とて雛鳥に餌を与える母鳥の如くクロムの口元にちぎったパンを運びながら、アリーチェはいい加減自分で食べてもらえないものだろうかと、整ったその横顔を窺った。
「……ん~~?」
なにをしているのかアリーチェには皆目見当もつかないが、魔道具らしきもので呪いを解析しようとしているクロムは悩ましげに眉を寄せ、手元の赤い宝石を真剣に見つめ続けたまま。
魔道具と宝石の反応を窺うようにしばらく手元を凝視して、酷くゆっくりと咀嚼したパンをゴクリと飲み下してから数秒後。
「……あ? なんですか?」
やっとその存在に気づいたかのように顔を上げたクロムに、アリーチェはがっくりと脱力してしまった。
「……なんでもないわ」
こんな遣り取りももはや何度目だろうか。
まるで幼い子供のように食べさせてもらっていることを、クロムは恥ずかしいともなんとも思っていない様子だった。クロムにとっては研究が一番。他のことは本気でどうでもいいらしい。
(いつまでこんなことを……!)
羞恥やら怒りやら、自分でもよくわからない感情で内心身体を震わせながら、アリーチェはスープを掬ったスプーンをクロムの口元へ持っていく。もはや条件反射のように口を開けて与えられたものを咀嚼するクロムからは、美味しいとも不味いとも言われたことはない。どうやら猫舌らしく、最初の頃に「熱……っ!」と声を上げたくらいで、あとは本当に無反応だ。
(今度、激辛料理でも作ってやろうかしら)
なにを口にしても一切表情を変えないクロムに、思わずそんなことを考えてしまう。一日の中で一緒にいる時間はかなり長いというのに、会話らしい会話をしたことがあっただろうか。こうして手作り料理を直接食べさせているにもかかわらず、未だにクロムの好き嫌いもわからない。
(……嫌いなものがなくたって、好きな食べ物くらい……)
クロムのことだ。食べられればなんでもいいくらいの感覚なのかもしれないが、食べることに無頓着な人間にも〝好みの食べ物〟の一つや二つくらい普通あるだろう。
(……好きな食べ物がわかれば作るのに……)
なにを作ればクロムの関心をこちらに向けられるだろうか。
パンの最後の一欠片を咀嚼しているクロムをぼんやりと眺めながら、そんなことを考える。
別段料理が得意なわけでも好きだと思ったこともなかったが、研究員たちの喜びようを見ると悪い気はしなかった。むしろ、なんだかくすぐったい気持ちにさせられる。
(ち、違うわよ⁉ これは、呪いの解析をできるだけ円滑にさせるために……!)
人間、美味しいものを食べるという行為は、志気を高める効能があると思うのだ。
だから、ひいてはすべて解呪のため。つまりは、アリーチェのためになるからに違いない。
決して、「美味しい」と喜ぶクロムの姿を見てみたいからではなく。
(研究オタクのくせに……!)
残り少なくなったスープを片手に、よくわからない八つ当たりで肩を震わせる。
どこからどう見ても野暮ったいダサ男にもかかわらず、よくよく見ると妙に整った顔は世の中に謝れと言いたくなる。自分の外見など興味ないだろう研究オタクに、その顔は宝の持ち腐れだろう。
(……悔しいけど、綺麗な顔をしているのよね……)
婚約者だったハインツも、一般的には美形の部類に入るのだろうが、アリーチェの好みではなかった。一方、クロムは……
(~~! 違うわ! 人間、中身よ! 中身……!)
うっかりとんでもないことを考えそうになったアリーチェは慌てて首を横に振り、思考を霧散させる。
(こんな……っ! 魔道具オタク……!)
研究が恋人という変人オタク。誰もが匙を投げた呪いの解呪に、唯一本気で向き合ってくれて……
(それは……っ! クロムがオタクだから……!)
アリーチェのためなどではなく、クロム自身の興味から。そう、思うのに。
(……楽、なのよね……)
地位や権力に一切興味がないからだろうか。アリーチェのことを特別視しないクロムの傍にいると、自然と肩の力が抜けるのだ。クロムの横顔を眺めていると、トクン……ッ、と胸が鳴り、アリーチェはぼんやりしながらクロムの口にスープを運んでやる。
そうして研究に没頭しているためか、妙に食べる速度が遅いクロムがスープの具を咀嚼している間、アリーチェは机の上に置かれている紙にチラリと視線を投げる。
(……なにが書いてあるのかさっぱりだわ)
そこにはなにやら数式が羅列されていたが、アリーチェにはまったく理解できない。
アリーチェにも魔力というものはあるらしく、魔術学を学んだ結果、指先に小さな光を灯せる程度の初歩的な魔術を扱うくらいはできるようになっていた。だが、科学が進んだ現代において魔術そのものが衰退してしまった世界では、王宮付きの高位魔術師でさえ、せいぜい馬一頭を燃やし尽くすことができる火炎球を生み出せるくらいだ。それでも彼らが重宝されるのは、治癒力を上げる魔術を習得していたり、魔力がなければ作動させることのできない魔道具を扱えるからという理由が大きかった。
かつては国を滅ぼしかねない「魔女」と呼ばれる存在がいて、さらにそれを封印した天才魔術師がいたという伝説のような話も聞いたことがあるものの、それもどこまでが真実なのだろうか。
(……まさか、古代魔術文字、とか?)
元々魔術に関する文字自体が複雑で難解だ。知識だけを詰め込んだアリーチェの頭でっかちな理解では、〝天才〟クロムが書き殴る数式を読み解けるはずもない。それでも思わずそんなことを思ってしまうのは、彼が他でもない古代魔道具研究の第一人者だからだ。
クロムが研究・解析する分野の中には、古代魔術文字も含まれている。もはや解析不能と言われている古代魔術文字だが、なぜだか彼であれば読めてしまえるかもしれないという気にさせられる。
今まで使用用途が不明だった数々の魔道具を、クロムは数年で次から次へと解き明かしていったのだから。
(……クロム自身は魔術を使えない……、のよね……?)
古代魔道具の最大の利点は、一部を除き、基本的には魔力がなくとも使い方さえわかれば誰にでも扱えるという特徴にあった。魔道具の内部に魔石が埋め込まれており、定められた動作をするだけで動かすことができるのだ。
古代魔道具研究の第一人者として有名なクロムだが、クロム自身が魔術を扱えるという話は聞いたことがない。
「……はい。最後のデザート」
相変わらず一言の会話もないまま隣から指で摘まんだ葡萄を差し出せば、クロムはぱくりとそれに食いついた。
「……あ……っ」
と、その瞬間。指ごと口に含まれて、アリーチェの目は驚愕で見開いた。
「……え?」
葡萄を口に含んで離れたクロムは、己がしたことに気づいていなくとも、思いの外大きな反応をしてしまったアリーチェには気づいたらしく、不思議そうな目を向けてくる。
横着をしてフォークを使わなかったアリーチェに問題がなかったとは言わないが、無意識に人の指まで口に含んでしまうクロムもクロムだ。いくら手元の解析に没頭しているとはいえ、注意が足りなすぎる……、というよりも注意をしなさすぎだ。
「……今……っ! 指、を……! 人の指まで……っ!」
なんだかものすごい羞恥を感じ、真っ赤になって訴えるアリーチェに、きょとん、と目を丸くしたクロムは、そこでなんとなく事態を理解したらしく「あぁ」と納得の吐息を洩らす。
「失礼しました」
なんでもないことのようにあっさりと謝られ、恥ずかしがっているこちらのほうがおかしいようなクロムの態度に、さらに顔が熱を持つ。
(指……っ! 食べられ……⁉)
そこまで大袈裟なものではないが、アリーチェにとっては衝撃だ。
指先を柔らかな唇に食まれた感覚は、妙に生々しくアリーチェの中に残っている。
そして意識してしまえば、葡萄を口にしたことで瑞々しく艶めく唇が色っぽくてドキリとする。
(なにドキドキしてるのよ……!)
動揺しているのがアリーチェだけともなれば自意識過剰のようで、アリーチェは懸命に心音を抑えようと自分自身へ訴える。
(私はただの給仕係……!)
だが、そんなふうに焦るアリーチェの一方で、黙々と作業に戻ったクロムはなにやら眉間に皺を寄せて悩ましげな呟きを洩らす。
「ん~……。この波動、なんか引っかかるんだよなぁ……」
アリーチェに対しては丁寧語を崩さないクロムだが、さすがに独り言まではそうではないらしい。
「どこかで似たような波形を見たことがあるような……」
見た目は顕微鏡に似た魔道具を覗き込みながらぶつぶつと呟いているクロムの横で、アリーチェは無言に戻る。今までもこうして研究に没頭するクロムの姿を見てきたが、独り言とは珍しい。
「ん~~?」
ますます顔を顰めて考えこむクロムに、アリーチェは食器を片づけてしまおうと席を立ちかける。
「……あぁ、そうか。もしかしたら」
が、なにやら活路を見出したらしいクロムの呟きに、アリーチェは思わず振り返る。
と。中途半端に立ちかけていた体勢のせいで、クロムの視線の高さにはちょうどアリーチェの胸元が晒されていた。そしてその、ドレスの胸元を。
「な……っ⁉ ななな……、な、ん……っ⁉」
ぐい、と。なんの前置きもなく下ろされて、あまりの衝撃に真っ赤になって言葉を失った。
「ちょっと黙ってじっとしてて」
女性の胸元を覗き込みながら、クロムの瞳は真剣そのものだ。
もはや呪いの刻印を確認することしか頭にないクロムは、いつもの丁寧語すら忘れている。
「ちょ……っ」
思わず上げかけたアリーチェの制止の声さえ耳に届かず、胸の膨らみの間へさらに顔を近づけたクロムは、じっ……、と呪いの文様を凝視して、次に珍しくも弾んだ声を上げる。
「なるほど! とするならば……」
一歩、解呪に近づいたらしい。だが。
「ん……っ」
胸元にかかった吐息に背筋がぞくりと震え、羞恥とはまた別の感覚に、アリーチェは心臓がドキドキと高鳴るのを感じた。
「……変態……っ!」
そうしてわなわなと身体を震わせたアリーチェは、クロムの顔へ平手打ちをお見舞いしてしまっていた。
朝。夜着を脱いだ時に胸元の文様を確認するのは癖のようになっていた。
現状を受け入れてはいるものの、未だにこれは悪い夢なのではないかと……、朝起きたら胸元の刻印が消えていたりしないだろうかと、ついそんなことを考えてしまう。
そうしていつもと同じように鏡に映った己の胸元へと目を落としたアリーチェは、その瞬間、引き攣った悲鳴を上げかけて呑み込んでいた。
「ひ……っ⁉」
胸の谷間近くに咲く毒々しい華の文様は、今日も存在を主張していて……、否、主張しすぎていた。
「……育って……、る……?」
昨日までと比べ、心なしか大きくなったような気がする華の文様を見つめ、アリーチェの心臓はドクドクと嫌な鼓動を刻む。新たに現れた華の蕾のような文様に、さらには細い蔦のようなものが生え始めている呪いの証は、まさに〝成長している〟としか言いようのないものだった。
「……な、んで……」
鏡に映る青白い顔をした自分自身を愕然と見つめ、アリーチェはすぐにハッとなると着の身着のまま小さな客室を飛び出した。
徹夜か、もしくは寝ても研究室で仮眠だけ、というクロムは、いつも通りそこにいるだろうか。
「クロム……ッ!」
ノックも忘れて扉を開け放てば、そこには自分の研究机に向かったクロムが丸い目をしてアリーチェに顔を上げていた。
「こんな朝早くからどうしました?」
いつもと変わりないクロムの姿に、知らずほっとしてしまうのはなぜだろうか。
アリーチェは無意識に小さな吐息をつき、それでも焦った様子でクロムへ訴える。
「も、文様が……っ!」
「文様が?」
きょとん、と続きを促してくるクロムに、じわりと涙が滲んだ。
「刻印が……っ、大きくな……っ」
全力で走ってきたせいか胸が喘ぎ、アリーチェは途切れ途切れに声を上げる。けれど、そんなアリーチェに視線を向けたクロムからは動揺も焦燥も見られない。
「……あぁ……」
「なにか知ってるの……⁉」
むしろこの事態を予想していたかのような薄い反応に、アリーチェの瞳は揺れ動く。
「……いえ……」
「なによ⁉ 勿体ぶってないで話してちょうだい……!」
たとえ可能性の一つだったとしても、こうなることを想定していたのだとしたら教えておいてほしかったと、アリーチェはうっすらと涙の滲んだ目でクロムを睨み付ける。
「……その……」
「早く言いなさいよ……!」
キッ! と八つ当たりのように鋭い視線を投げ、アリーチェは説明を求めて声を上げる。
「呪いが育つなんてことがあるの……⁉」
小さな華の蕾に短い蔦。まるでこれからさらに華が咲き、身体中に蔦が生え伸びていくような感覚への空恐ろしさで、身体が震えてしまう。
「呪いが、発動の準備を始めた証拠です」
どことなく困ったように告げられて、アリーチェは一瞬唖然とした。
「……それ、って……?」
「俺の見立てた通りです。少しずつ身体に根付いていった呪いが、発動十日前になって全身へ浸透し始めたんだと思います」
「……は……」
「おそらくは、これから少しずつその文様が全身に広がっていくのだと思います」
アリーチェが感じた感覚は正しかったらしい。これから本物の植物のように少しずつ蔦は伸びていき、胸元の華も毒々しく咲き乱れるだろうと説明され、今度こそ愕然と言葉を失った。
「だからといって、痛くも痒くもないかと。そういう類の呪いのようなので」
「……なにを呑気な……」
死ぬ直前まで肌に浮かんだ文様以外身体に変化はなにもなく、発動と同時に一瞬で命を奪う呪い。
「いえ。これでも少しは焦ってますよ? 思ったよりも解析にてこずっていて」
「そんな……っ!」
ここにきて初めて知らされた解析の進捗具合にアリーチェの顔は青くなる。
「あぁ、でも、心配はしないでください」
にこりともすることなく、クロムはただ淡々と冷静な瞳をアリーチェへ向けてくる。
「貴女を死なせないことだけはお約束します」
「……え……?」
「ただ、今俺が持っているのは手段を選ばない方法なので、本当にどうにもならなかった時の最後の一手ですが」
「それってどんな……」
そんなものがあるのなら、最初から話しておいてほしい。
そう呆然と問いかけるアリーチェへ、クロムの真剣な瞳が返ってくる。
「それはさすがにお話しできません」
方法はあるが、その中身は話せない。そんな中途半端な回答では、アリーチェの不安は拭われない。
「ですが、貴女を死なせないことだけは断言できますから」
不安定に揺れ動くアリーチェの瞳に、こちらを真っ直ぐ見つめたクロムの顔が映り込む。
なに一つ解決していないのに、信じていいような気がするのはなぜだろう。
「と、いうことで」
手元の解析に意識を戻しつつ、クロムは声だけをアリーチェへ投げてくる。
「なるべく俺の傍にいてくださいね」
呪いを確認したいと思った時にすぐに行動できるように。
呼びに行く時間すら惜しいと告げられて、こんな時にもかかわらず、あまりにもクロムらしい物言いに自然と笑みが零れたアリーチェは、今日も三食分の食事をクロムに食べさせることになるのだろうな、と、呑気なことを考えてしまっていた。
そしてその夜のこと。
「少し効率が落ちてきたような気がするので、さすがに今日は自室で横になろうかと思うのですが」
基本的にクロムは、研究室のソファで仮眠を取るくらいで、ほとんど寝ずに作業に没頭している。
一刻も早く呪いを解いてほしいと思う気持ちは本音だが、さすがにたまにはきちんとした睡眠を取ったほうがいいと思ってしまうほど、クロムの日常生活は常軌を逸していた。
「だったら……」
自分も借りている客室に戻ろうと、わざわざ持ち込んだ椅子からアリーチェが腰を上げかけた時。
「一緒に俺の部屋に来てもらえますか?」
真顔で声をかけられて、眠気でぼんやりしていたアリーチェの脳は一気に覚醒した。
「一緒に寝てください」
「……はぁ⁉」
一体なにを言い出すのかと、アリーチェはクロムへ白黒する瞳を向ける。
だが不思議と、不埒な考えは一切浮かんでこなかった。
なにせ、今まで研究室で何度二人きりになろうとも、アリーチェなどいないかのように研究に没頭し続けていた男なのだ。そういう心配はまったくしていない。――なんとなく、女として魅力がないのかと、少しばかりもやりとした気持ちが湧かなくもなかったが、そんなことには蓋をする。
「なにを言って……?」
「寝ている時に突然閃くこともあるので」
夢の中で。と、あっさり告げられて、アリーチェは思わず無言になった。
(……この人、夢の中でまで研究をしているの……?)
万が一にも本当に夢の中でなにか閃けば、アリーチェが熟睡していようがかまわず叩き起こされるに違いない。クロムがそういう性格であることを、アリーチェはこの半月でよく理解していた。
「……わかったわ……」
これは、自分の命にかかわる超重要任務。渋々と腹を括ったアリーチェは、それでも初めて入ったクロムの簡素な私室には小さなベッドが一つしかない事実を前にして、綺麗な顔を引き攣らせることになるのだった。
濡れた髪をタオルで拭きながら部屋に戻ってきたクロムは、己のベッドの中ですうすうと寝息を立てているアリーチェの姿を見つけ、無意識に眉間に皺を寄せる。
部屋にベッドが一つしかないことで一悶着あったものの、結果的にアリーチェが部屋を出ていくことはなかった。それはいいのだが……
「……さすがにちょっと無防備すぎじゃないですか……?」
自分も寝るべく布団を捲れば、その拍子に空気が入って肌寒さを感じたのか、アリーチェの身体は少しだけ丸くなる。
「俺も一応は男、ですよ……?」
アリーチェの隣に潜り込みながら、つい目の前の耳に囁きかけ……
「食べられてしまったらどうするんですか」
もちろん、すでに夢の中にいるアリーチェから答えが返ってくることはない。
クロムは小さく肩を落とし、アリーチェを腕の中に抱き締めると目を閉じて。
「……お前の狙いは、この子か」
ふいにしっかりと目を開けたクロムは、誰もいない暗い虚空に向かって問いかけた。
そこには、禍々しい力を感じさせる、誰にも見えない黒い影があった。
「それとも……」
その影は、まさか気づかれるとは思っていなかったのか、ぎくりと警戒するかのような動きを見せる。
「彼女に手を出すな」
ある一点を鋭く睨み付ければ、黒い影はすごすごと逃げ出すように移動する。
「――消えろ」
力ある言葉を前に、それは、音なき断末魔の叫びを上げて掻き消えた。
後にはただ、アリーチェの無防備な寝息が聞こえるのみ。
そうして次の日の朝。うっすらと目を開けたアリーチェは、自分が抱き枕のようにクロムの腕の中に抱き込まれていることに気づいて、ついその身体をベッドの下に蹴り落としてしまっていた。
第四話 余命いくばくの初夜
気づけば三食のご飯を作る時以外には、研究室にこもっているクロムの傍で読書をしたり編み物をしたり、時には真剣なその横顔をこっそり観察してみたり……、という生活が当たり前になっていた。
読書は元々嫌いではなかったが、編み物や縫い物に関して言えば、貴族令嬢の嗜みとして一通り覚えた程度でそこまで好きではなかったのだが、ここに来て研究員たちの個人的な物を繕っているうちに、いつの間にか好きな作業の一つになりつつあった。
簡単なボタン付けから始まり、穴の開いたズボンなどを修復するたびにあまりにも喜ばれるものだから、悪い気はしなくなり、つい調子に乗ってしまう。
ひたすら呪いの宝石の分析に没頭するクロムとは相変わらず会話らしい会話はないままだが、居心地の悪さを感じたことは一度もないから不思議だった。
筆頭公爵家の令嬢として、王太子の婚約者として。ずっと弱味を見せることのできない緊張した生活を続けてきたせいか、肩肘を張らないこの生活をアリーチェは案外と気に入っていた。
そういえば、一度だけクロムがなにかを思い立った時にアリーチェが傍にいなかったことがあるのだが、その時のいじけたような表情は今でも忘れられない記憶になっている。そんな二人の姿に研究員たちからは「らぶらぶだねぇ~」などという野次が飛んできたものの、それは綺麗に黙殺した。
それもまた、母親が幼い頃から口を酸っぱくしてアリーチェに言い聞かせていた教えの一つだ。
「はい、あ~ん」
病気の子供に食べさせるかのように、スプーンで掬ったクリームシチューをクロムの口元へ持っていく。その行為は嫌がらせのつもりでもあった。だが。
「……ぇ……!」
クロムの口が自然と開き、アリーチェは驚きつつもクリームシチューを運んでやる。
もぐもぐと動いている口は、もはや条件反射だとか無意識に近いものだ。
「う~ん……、手強いなぁ……? これでもダメか……」
なにやらぶつぶつと呟いているクロムは、おそらく今自分が食事をしているという認識すらないのではないだろうか。試しにもう一度シチューを運ぶとクロムの口は開かれて、ゆっくりと咀嚼する。
(……嘘でしょ⁉)
こんなにかいがいしく世話をしてやろうなど、本気で思っていたわけではない。けれど今さらあとには引けず、アリーチェは最後の一口までクロムの食事に付き合ったのだった。
第三話 余命のカウントダウン
二週間がたった。この頃になるとさすがのアリーチェも少しばかり不安に駆られないでもなかったが、胸元の文様以外に呪いの実感があまりないのと、相変わらずの周りの能天気さ。そしてなによりもクロムがまったく焦りを見せていないことから、驚くほど普通の生活ができていた。
ちなみに、その間状況報告を兼ねて連絡を取った母親からは、アリーチェの思うように行動すればいいという返事をもらっていた。
「……あの……、クロム……?」
今日も今日とて雛鳥に餌を与える母鳥の如くクロムの口元にちぎったパンを運びながら、アリーチェはいい加減自分で食べてもらえないものだろうかと、整ったその横顔を窺った。
「……ん~~?」
なにをしているのかアリーチェには皆目見当もつかないが、魔道具らしきもので呪いを解析しようとしているクロムは悩ましげに眉を寄せ、手元の赤い宝石を真剣に見つめ続けたまま。
魔道具と宝石の反応を窺うようにしばらく手元を凝視して、酷くゆっくりと咀嚼したパンをゴクリと飲み下してから数秒後。
「……あ? なんですか?」
やっとその存在に気づいたかのように顔を上げたクロムに、アリーチェはがっくりと脱力してしまった。
「……なんでもないわ」
こんな遣り取りももはや何度目だろうか。
まるで幼い子供のように食べさせてもらっていることを、クロムは恥ずかしいともなんとも思っていない様子だった。クロムにとっては研究が一番。他のことは本気でどうでもいいらしい。
(いつまでこんなことを……!)
羞恥やら怒りやら、自分でもよくわからない感情で内心身体を震わせながら、アリーチェはスープを掬ったスプーンをクロムの口元へ持っていく。もはや条件反射のように口を開けて与えられたものを咀嚼するクロムからは、美味しいとも不味いとも言われたことはない。どうやら猫舌らしく、最初の頃に「熱……っ!」と声を上げたくらいで、あとは本当に無反応だ。
(今度、激辛料理でも作ってやろうかしら)
なにを口にしても一切表情を変えないクロムに、思わずそんなことを考えてしまう。一日の中で一緒にいる時間はかなり長いというのに、会話らしい会話をしたことがあっただろうか。こうして手作り料理を直接食べさせているにもかかわらず、未だにクロムの好き嫌いもわからない。
(……嫌いなものがなくたって、好きな食べ物くらい……)
クロムのことだ。食べられればなんでもいいくらいの感覚なのかもしれないが、食べることに無頓着な人間にも〝好みの食べ物〟の一つや二つくらい普通あるだろう。
(……好きな食べ物がわかれば作るのに……)
なにを作ればクロムの関心をこちらに向けられるだろうか。
パンの最後の一欠片を咀嚼しているクロムをぼんやりと眺めながら、そんなことを考える。
別段料理が得意なわけでも好きだと思ったこともなかったが、研究員たちの喜びようを見ると悪い気はしなかった。むしろ、なんだかくすぐったい気持ちにさせられる。
(ち、違うわよ⁉ これは、呪いの解析をできるだけ円滑にさせるために……!)
人間、美味しいものを食べるという行為は、志気を高める効能があると思うのだ。
だから、ひいてはすべて解呪のため。つまりは、アリーチェのためになるからに違いない。
決して、「美味しい」と喜ぶクロムの姿を見てみたいからではなく。
(研究オタクのくせに……!)
残り少なくなったスープを片手に、よくわからない八つ当たりで肩を震わせる。
どこからどう見ても野暮ったいダサ男にもかかわらず、よくよく見ると妙に整った顔は世の中に謝れと言いたくなる。自分の外見など興味ないだろう研究オタクに、その顔は宝の持ち腐れだろう。
(……悔しいけど、綺麗な顔をしているのよね……)
婚約者だったハインツも、一般的には美形の部類に入るのだろうが、アリーチェの好みではなかった。一方、クロムは……
(~~! 違うわ! 人間、中身よ! 中身……!)
うっかりとんでもないことを考えそうになったアリーチェは慌てて首を横に振り、思考を霧散させる。
(こんな……っ! 魔道具オタク……!)
研究が恋人という変人オタク。誰もが匙を投げた呪いの解呪に、唯一本気で向き合ってくれて……
(それは……っ! クロムがオタクだから……!)
アリーチェのためなどではなく、クロム自身の興味から。そう、思うのに。
(……楽、なのよね……)
地位や権力に一切興味がないからだろうか。アリーチェのことを特別視しないクロムの傍にいると、自然と肩の力が抜けるのだ。クロムの横顔を眺めていると、トクン……ッ、と胸が鳴り、アリーチェはぼんやりしながらクロムの口にスープを運んでやる。
そうして研究に没頭しているためか、妙に食べる速度が遅いクロムがスープの具を咀嚼している間、アリーチェは机の上に置かれている紙にチラリと視線を投げる。
(……なにが書いてあるのかさっぱりだわ)
そこにはなにやら数式が羅列されていたが、アリーチェにはまったく理解できない。
アリーチェにも魔力というものはあるらしく、魔術学を学んだ結果、指先に小さな光を灯せる程度の初歩的な魔術を扱うくらいはできるようになっていた。だが、科学が進んだ現代において魔術そのものが衰退してしまった世界では、王宮付きの高位魔術師でさえ、せいぜい馬一頭を燃やし尽くすことができる火炎球を生み出せるくらいだ。それでも彼らが重宝されるのは、治癒力を上げる魔術を習得していたり、魔力がなければ作動させることのできない魔道具を扱えるからという理由が大きかった。
かつては国を滅ぼしかねない「魔女」と呼ばれる存在がいて、さらにそれを封印した天才魔術師がいたという伝説のような話も聞いたことがあるものの、それもどこまでが真実なのだろうか。
(……まさか、古代魔術文字、とか?)
元々魔術に関する文字自体が複雑で難解だ。知識だけを詰め込んだアリーチェの頭でっかちな理解では、〝天才〟クロムが書き殴る数式を読み解けるはずもない。それでも思わずそんなことを思ってしまうのは、彼が他でもない古代魔道具研究の第一人者だからだ。
クロムが研究・解析する分野の中には、古代魔術文字も含まれている。もはや解析不能と言われている古代魔術文字だが、なぜだか彼であれば読めてしまえるかもしれないという気にさせられる。
今まで使用用途が不明だった数々の魔道具を、クロムは数年で次から次へと解き明かしていったのだから。
(……クロム自身は魔術を使えない……、のよね……?)
古代魔道具の最大の利点は、一部を除き、基本的には魔力がなくとも使い方さえわかれば誰にでも扱えるという特徴にあった。魔道具の内部に魔石が埋め込まれており、定められた動作をするだけで動かすことができるのだ。
古代魔道具研究の第一人者として有名なクロムだが、クロム自身が魔術を扱えるという話は聞いたことがない。
「……はい。最後のデザート」
相変わらず一言の会話もないまま隣から指で摘まんだ葡萄を差し出せば、クロムはぱくりとそれに食いついた。
「……あ……っ」
と、その瞬間。指ごと口に含まれて、アリーチェの目は驚愕で見開いた。
「……え?」
葡萄を口に含んで離れたクロムは、己がしたことに気づいていなくとも、思いの外大きな反応をしてしまったアリーチェには気づいたらしく、不思議そうな目を向けてくる。
横着をしてフォークを使わなかったアリーチェに問題がなかったとは言わないが、無意識に人の指まで口に含んでしまうクロムもクロムだ。いくら手元の解析に没頭しているとはいえ、注意が足りなすぎる……、というよりも注意をしなさすぎだ。
「……今……っ! 指、を……! 人の指まで……っ!」
なんだかものすごい羞恥を感じ、真っ赤になって訴えるアリーチェに、きょとん、と目を丸くしたクロムは、そこでなんとなく事態を理解したらしく「あぁ」と納得の吐息を洩らす。
「失礼しました」
なんでもないことのようにあっさりと謝られ、恥ずかしがっているこちらのほうがおかしいようなクロムの態度に、さらに顔が熱を持つ。
(指……っ! 食べられ……⁉)
そこまで大袈裟なものではないが、アリーチェにとっては衝撃だ。
指先を柔らかな唇に食まれた感覚は、妙に生々しくアリーチェの中に残っている。
そして意識してしまえば、葡萄を口にしたことで瑞々しく艶めく唇が色っぽくてドキリとする。
(なにドキドキしてるのよ……!)
動揺しているのがアリーチェだけともなれば自意識過剰のようで、アリーチェは懸命に心音を抑えようと自分自身へ訴える。
(私はただの給仕係……!)
だが、そんなふうに焦るアリーチェの一方で、黙々と作業に戻ったクロムはなにやら眉間に皺を寄せて悩ましげな呟きを洩らす。
「ん~……。この波動、なんか引っかかるんだよなぁ……」
アリーチェに対しては丁寧語を崩さないクロムだが、さすがに独り言まではそうではないらしい。
「どこかで似たような波形を見たことがあるような……」
見た目は顕微鏡に似た魔道具を覗き込みながらぶつぶつと呟いているクロムの横で、アリーチェは無言に戻る。今までもこうして研究に没頭するクロムの姿を見てきたが、独り言とは珍しい。
「ん~~?」
ますます顔を顰めて考えこむクロムに、アリーチェは食器を片づけてしまおうと席を立ちかける。
「……あぁ、そうか。もしかしたら」
が、なにやら活路を見出したらしいクロムの呟きに、アリーチェは思わず振り返る。
と。中途半端に立ちかけていた体勢のせいで、クロムの視線の高さにはちょうどアリーチェの胸元が晒されていた。そしてその、ドレスの胸元を。
「な……っ⁉ ななな……、な、ん……っ⁉」
ぐい、と。なんの前置きもなく下ろされて、あまりの衝撃に真っ赤になって言葉を失った。
「ちょっと黙ってじっとしてて」
女性の胸元を覗き込みながら、クロムの瞳は真剣そのものだ。
もはや呪いの刻印を確認することしか頭にないクロムは、いつもの丁寧語すら忘れている。
「ちょ……っ」
思わず上げかけたアリーチェの制止の声さえ耳に届かず、胸の膨らみの間へさらに顔を近づけたクロムは、じっ……、と呪いの文様を凝視して、次に珍しくも弾んだ声を上げる。
「なるほど! とするならば……」
一歩、解呪に近づいたらしい。だが。
「ん……っ」
胸元にかかった吐息に背筋がぞくりと震え、羞恥とはまた別の感覚に、アリーチェは心臓がドキドキと高鳴るのを感じた。
「……変態……っ!」
そうしてわなわなと身体を震わせたアリーチェは、クロムの顔へ平手打ちをお見舞いしてしまっていた。
朝。夜着を脱いだ時に胸元の文様を確認するのは癖のようになっていた。
現状を受け入れてはいるものの、未だにこれは悪い夢なのではないかと……、朝起きたら胸元の刻印が消えていたりしないだろうかと、ついそんなことを考えてしまう。
そうしていつもと同じように鏡に映った己の胸元へと目を落としたアリーチェは、その瞬間、引き攣った悲鳴を上げかけて呑み込んでいた。
「ひ……っ⁉」
胸の谷間近くに咲く毒々しい華の文様は、今日も存在を主張していて……、否、主張しすぎていた。
「……育って……、る……?」
昨日までと比べ、心なしか大きくなったような気がする華の文様を見つめ、アリーチェの心臓はドクドクと嫌な鼓動を刻む。新たに現れた華の蕾のような文様に、さらには細い蔦のようなものが生え始めている呪いの証は、まさに〝成長している〟としか言いようのないものだった。
「……な、んで……」
鏡に映る青白い顔をした自分自身を愕然と見つめ、アリーチェはすぐにハッとなると着の身着のまま小さな客室を飛び出した。
徹夜か、もしくは寝ても研究室で仮眠だけ、というクロムは、いつも通りそこにいるだろうか。
「クロム……ッ!」
ノックも忘れて扉を開け放てば、そこには自分の研究机に向かったクロムが丸い目をしてアリーチェに顔を上げていた。
「こんな朝早くからどうしました?」
いつもと変わりないクロムの姿に、知らずほっとしてしまうのはなぜだろうか。
アリーチェは無意識に小さな吐息をつき、それでも焦った様子でクロムへ訴える。
「も、文様が……っ!」
「文様が?」
きょとん、と続きを促してくるクロムに、じわりと涙が滲んだ。
「刻印が……っ、大きくな……っ」
全力で走ってきたせいか胸が喘ぎ、アリーチェは途切れ途切れに声を上げる。けれど、そんなアリーチェに視線を向けたクロムからは動揺も焦燥も見られない。
「……あぁ……」
「なにか知ってるの……⁉」
むしろこの事態を予想していたかのような薄い反応に、アリーチェの瞳は揺れ動く。
「……いえ……」
「なによ⁉ 勿体ぶってないで話してちょうだい……!」
たとえ可能性の一つだったとしても、こうなることを想定していたのだとしたら教えておいてほしかったと、アリーチェはうっすらと涙の滲んだ目でクロムを睨み付ける。
「……その……」
「早く言いなさいよ……!」
キッ! と八つ当たりのように鋭い視線を投げ、アリーチェは説明を求めて声を上げる。
「呪いが育つなんてことがあるの……⁉」
小さな華の蕾に短い蔦。まるでこれからさらに華が咲き、身体中に蔦が生え伸びていくような感覚への空恐ろしさで、身体が震えてしまう。
「呪いが、発動の準備を始めた証拠です」
どことなく困ったように告げられて、アリーチェは一瞬唖然とした。
「……それ、って……?」
「俺の見立てた通りです。少しずつ身体に根付いていった呪いが、発動十日前になって全身へ浸透し始めたんだと思います」
「……は……」
「おそらくは、これから少しずつその文様が全身に広がっていくのだと思います」
アリーチェが感じた感覚は正しかったらしい。これから本物の植物のように少しずつ蔦は伸びていき、胸元の華も毒々しく咲き乱れるだろうと説明され、今度こそ愕然と言葉を失った。
「だからといって、痛くも痒くもないかと。そういう類の呪いのようなので」
「……なにを呑気な……」
死ぬ直前まで肌に浮かんだ文様以外身体に変化はなにもなく、発動と同時に一瞬で命を奪う呪い。
「いえ。これでも少しは焦ってますよ? 思ったよりも解析にてこずっていて」
「そんな……っ!」
ここにきて初めて知らされた解析の進捗具合にアリーチェの顔は青くなる。
「あぁ、でも、心配はしないでください」
にこりともすることなく、クロムはただ淡々と冷静な瞳をアリーチェへ向けてくる。
「貴女を死なせないことだけはお約束します」
「……え……?」
「ただ、今俺が持っているのは手段を選ばない方法なので、本当にどうにもならなかった時の最後の一手ですが」
「それってどんな……」
そんなものがあるのなら、最初から話しておいてほしい。
そう呆然と問いかけるアリーチェへ、クロムの真剣な瞳が返ってくる。
「それはさすがにお話しできません」
方法はあるが、その中身は話せない。そんな中途半端な回答では、アリーチェの不安は拭われない。
「ですが、貴女を死なせないことだけは断言できますから」
不安定に揺れ動くアリーチェの瞳に、こちらを真っ直ぐ見つめたクロムの顔が映り込む。
なに一つ解決していないのに、信じていいような気がするのはなぜだろう。
「と、いうことで」
手元の解析に意識を戻しつつ、クロムは声だけをアリーチェへ投げてくる。
「なるべく俺の傍にいてくださいね」
呪いを確認したいと思った時にすぐに行動できるように。
呼びに行く時間すら惜しいと告げられて、こんな時にもかかわらず、あまりにもクロムらしい物言いに自然と笑みが零れたアリーチェは、今日も三食分の食事をクロムに食べさせることになるのだろうな、と、呑気なことを考えてしまっていた。
そしてその夜のこと。
「少し効率が落ちてきたような気がするので、さすがに今日は自室で横になろうかと思うのですが」
基本的にクロムは、研究室のソファで仮眠を取るくらいで、ほとんど寝ずに作業に没頭している。
一刻も早く呪いを解いてほしいと思う気持ちは本音だが、さすがにたまにはきちんとした睡眠を取ったほうがいいと思ってしまうほど、クロムの日常生活は常軌を逸していた。
「だったら……」
自分も借りている客室に戻ろうと、わざわざ持ち込んだ椅子からアリーチェが腰を上げかけた時。
「一緒に俺の部屋に来てもらえますか?」
真顔で声をかけられて、眠気でぼんやりしていたアリーチェの脳は一気に覚醒した。
「一緒に寝てください」
「……はぁ⁉」
一体なにを言い出すのかと、アリーチェはクロムへ白黒する瞳を向ける。
だが不思議と、不埒な考えは一切浮かんでこなかった。
なにせ、今まで研究室で何度二人きりになろうとも、アリーチェなどいないかのように研究に没頭し続けていた男なのだ。そういう心配はまったくしていない。――なんとなく、女として魅力がないのかと、少しばかりもやりとした気持ちが湧かなくもなかったが、そんなことには蓋をする。
「なにを言って……?」
「寝ている時に突然閃くこともあるので」
夢の中で。と、あっさり告げられて、アリーチェは思わず無言になった。
(……この人、夢の中でまで研究をしているの……?)
万が一にも本当に夢の中でなにか閃けば、アリーチェが熟睡していようがかまわず叩き起こされるに違いない。クロムがそういう性格であることを、アリーチェはこの半月でよく理解していた。
「……わかったわ……」
これは、自分の命にかかわる超重要任務。渋々と腹を括ったアリーチェは、それでも初めて入ったクロムの簡素な私室には小さなベッドが一つしかない事実を前にして、綺麗な顔を引き攣らせることになるのだった。
濡れた髪をタオルで拭きながら部屋に戻ってきたクロムは、己のベッドの中ですうすうと寝息を立てているアリーチェの姿を見つけ、無意識に眉間に皺を寄せる。
部屋にベッドが一つしかないことで一悶着あったものの、結果的にアリーチェが部屋を出ていくことはなかった。それはいいのだが……
「……さすがにちょっと無防備すぎじゃないですか……?」
自分も寝るべく布団を捲れば、その拍子に空気が入って肌寒さを感じたのか、アリーチェの身体は少しだけ丸くなる。
「俺も一応は男、ですよ……?」
アリーチェの隣に潜り込みながら、つい目の前の耳に囁きかけ……
「食べられてしまったらどうするんですか」
もちろん、すでに夢の中にいるアリーチェから答えが返ってくることはない。
クロムは小さく肩を落とし、アリーチェを腕の中に抱き締めると目を閉じて。
「……お前の狙いは、この子か」
ふいにしっかりと目を開けたクロムは、誰もいない暗い虚空に向かって問いかけた。
そこには、禍々しい力を感じさせる、誰にも見えない黒い影があった。
「それとも……」
その影は、まさか気づかれるとは思っていなかったのか、ぎくりと警戒するかのような動きを見せる。
「彼女に手を出すな」
ある一点を鋭く睨み付ければ、黒い影はすごすごと逃げ出すように移動する。
「――消えろ」
力ある言葉を前に、それは、音なき断末魔の叫びを上げて掻き消えた。
後にはただ、アリーチェの無防備な寝息が聞こえるのみ。
そうして次の日の朝。うっすらと目を開けたアリーチェは、自分が抱き枕のようにクロムの腕の中に抱き込まれていることに気づいて、ついその身体をベッドの下に蹴り落としてしまっていた。
第四話 余命いくばくの初夜
気づけば三食のご飯を作る時以外には、研究室にこもっているクロムの傍で読書をしたり編み物をしたり、時には真剣なその横顔をこっそり観察してみたり……、という生活が当たり前になっていた。
読書は元々嫌いではなかったが、編み物や縫い物に関して言えば、貴族令嬢の嗜みとして一通り覚えた程度でそこまで好きではなかったのだが、ここに来て研究員たちの個人的な物を繕っているうちに、いつの間にか好きな作業の一つになりつつあった。
簡単なボタン付けから始まり、穴の開いたズボンなどを修復するたびにあまりにも喜ばれるものだから、悪い気はしなくなり、つい調子に乗ってしまう。
ひたすら呪いの宝石の分析に没頭するクロムとは相変わらず会話らしい会話はないままだが、居心地の悪さを感じたことは一度もないから不思議だった。
筆頭公爵家の令嬢として、王太子の婚約者として。ずっと弱味を見せることのできない緊張した生活を続けてきたせいか、肩肘を張らないこの生活をアリーチェは案外と気に入っていた。
そういえば、一度だけクロムがなにかを思い立った時にアリーチェが傍にいなかったことがあるのだが、その時のいじけたような表情は今でも忘れられない記憶になっている。そんな二人の姿に研究員たちからは「らぶらぶだねぇ~」などという野次が飛んできたものの、それは綺麗に黙殺した。
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