余命一ヶ月の公爵令嬢ですが、独占欲が強すぎる天才魔術師が離してくれません!?

姫 沙羅(き さら)

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1巻

1-2

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(とにかく、今後の身の振り方を考えなくてはならないわ)

 執務室で一通りの身辺整理を終えたアリーチェは、最後にぐるりと室内を見回して忘れ物がないか確認すると、きゅっと唇をみ締める。それからくるりときびすを返すとほんの一瞬だけ足を止め、すぐになにかを振り切るように城の外に向かって歩き出す。
 ――決して振り返ったりはしない。
 胸の奥では衝撃や動揺、驚愕きょうがくや悲痛といったさまざまな感情が渦巻いていたが、その中でも一番に感じていたことは妙なむなしさだった。
 王太子であるハインツとは決して愛し合っていたわけではないが、それでも婚約を解消されたことは少なからずアリーチェにショックを与えていた。そういった意味では、ハインツが最後の最後まで父親である国王に意見していた姿には胸を打たれた。互いに〝政略結婚〟だと割り切った関係だったが、それでもそれなりの信頼関係は築けていたということなのだろう。
 だが、それよりもなによりも。薄情な人間だと言われるかもしれないが、今まで王太子妃になるために積み上げてきた努力や培ってきた経験が無駄になったことが、なによりもアリーチェに打撃を与えていた。

(……呆気あっけないものね)

 こんなふうに、思い描いていた未来像が一瞬ではかなく消えてしまうなど。

「……あら?」

 そんなことを考えていると、気づけば見慣れぬ場所まで来てしまっていた。
 アリーチェらしからぬ失態だが、やはり精神的な打撃は大きかったらしい。王宮の出入口とはまるで反対側。裏手にある植物園近くまで来てしまっていたことに、アリーチェは心の中で自嘲する。

(いやね。私としたことが)

 植物園はその名の通り、植物が育てられている小さな裏庭だ。季節折々の美しい花が咲き乱れる庭園や中庭とは違い、主に薬草などが育てられていたように記憶する。そのため、王宮内の目立たない場所にひっそりと造られていた。
 人々の目を楽しませる華やかな庭園と、人々に役立つ植物が栽培されている地味な裏庭。
 今まで気にも留めていなかったことが突然気になってきて、アリーチェは全体的に地味な草花を見回した。ふと顔を上げた視線の先にはそれなりの大きさをした温室もあり、その扉が薄く開いていることに気づいてアリーチェの目はわずかに見開いた。

(……少し見て帰るくらい……、いいわよね?)

 こんなところに来るのは、きっと最初で最後だろう。
 そう思えば、王宮を去る前に少し寄り道をするくらい許されるだろうと、少し大胆な気持ちが湧き上がる。

「……お邪魔いたします……」

 近くに人がいたとしても聞こえないくらいの声で扉を押し、おずおずと中へ足を踏み入れる。

(……今まで来たことはなかったけれど、こんなふうになっているのね……)

 目の前に現れた光景は緑一色の世界。庭園や中庭のような色鮮やかな華やかさは一切なく、低木や緑が広がっているだけの素朴な空間。けれど、の光を受けて輝く草木は美しく、アリーチェの感性は、これはこれでとてもお洒落しゃれな世界だと認識した。
 不思議と落ち着く感じがする空間に、知らず肩の力が抜けていく。
 どこからか水の音が聞こえてくるような気がするのは、水生植物も育てているからだろうか。

(なに、か……?)

 と、ふいに自分以外の気配を感じ、アリーチェは草陰に隠れるようにしながらも、そっとそちらのほうへ足を向けた。

(人の、声……)

 温室の扉が開いていたことを思えば、先客がいると考えたほうが自然だろう。とするならば、どちらかといえばアリーチェのほうが招かれざる客ということになる。
 こんなところにいたことが知られて大事になってはたまらないと、自分以外の存在を確認しようとしたアリーチェは、その瞬間ぎくりと足を止めて肩を震わせる。
 思わず口元を手で覆い、そこにいる人物を凝視した。

(……殿、下……⁉)

 こちらに背中を向けていてもわかる。奥の少しだけ開けた空間にいたのは、もう会うことの許されない元婚約者、ハインツだった。

(こんなところで一体なにを……)

 低木に身を隠しながらそっとハインツをのぞき見たアリーチェは、そこにある影が一つではないことに気づいて大きく目を見張る。
 長く伸びる葉と、他でもないハインツの陰になって一瞬気がつかなかった人物。
 こちらに背中を向けたハインツの陰に隠れてしまうほど密着しているその人物は。

(……あれは、伯爵家の……)

 しっかりと抱き合っている二人の姿を愕然がくぜんと見つめ、アリーチェは冷水を浴びせられたかのように身体からだが冷えていくのを感じた。

「ハインツ様……っ」
「あぁ、イザベラ。会いたかったよ」
「わたくしもです……っ」

 感極まった様子で互いを抱き締め合う二人からは、彼らがここで落ち合ってすぐであることがうかがえた。

「もう少しだ、イザベラ。もう少しだけ辛抱してくれ」

 ハインツが顔を上げさせ、艶やかな黒髪をそっとでている相手は、レーガン伯爵家の娘・イザベラだ。社交界でも美しすぎると有名なイザベラは、髪をで下ろすハインツの手にうっとりとした表情を返しているが、〝辛抱〟とは一体なんのことを言っているのだろうか。
 状況がみ込めず、ただその場で二人のり取りを見守ることしかできないアリーチェは、次の瞬間、己の耳を疑った。

「さすがに婚約を解消したばかりですぐに君を迎えるわけにもいかない」
「そんな……っ」

 言われた言葉がよほどショックだったのか、イザベラの顔は動揺で青白くなっているものの、アリーチェの受けた衝撃はそれ以上だ。
 アリーチェがハインツとの婚約を白紙にさせられてからまだ半日もたっていない。
 アリーチェが呪いにかかったのは半月ほど前の出来事だが、そのあとすぐに次の婚約者候補が挙げられていたとでもいうのだろうか。
 ――それにしては二人の会話は違和感がありすぎた。むしろ、それらの会話からは……

(……ま、さか……)

 身体からだじゅうから急速に熱が引いていき、口元を手で覆ったアリーチェは身体からだを小刻みに震わせる。
 信じがたい憶測が頭の中をぎったが、いくらなんでもそんなことはありえない。
 だが、湧いた疑念を必死で否定しようとするアリーチェに、残酷な現実が突き付けられる。

「でも、必ず君を妻にするから」

 イザベラへそう語りかけるハインツの声色には、アリーチェが今まで聞いたこともないような熱がこもっており、その事実にも大きな衝撃を受ける。

「こんなふうに陰でこそこそ会うのではなくて、早く堂々と君といたいよ」
「ハインツ様……っ」

 ハインツから向けられる赤裸々な愛の言葉に、イザベラは嬉しそうに目の前の胸元へと顔を寄せ、感極まった声を上げる。

(……う、そ……)

 ハインツの言葉は、この逢瀬おうせが少なくとも数回は繰り返されていることを示していて、アリーチェの疑念を確信へ変えるには充分すぎるり取りだった。
 イザベラとの逢瀬がアリーチェと婚約を結んだ後からなのか、そもそもその前からだったのかはわからないが、どちらにせよハインツの心がイザベラに向いていることだけはたしかだろう。
 あまりの衝撃の事実に顔面蒼白そうはくになるアリーチェだったが、驚愕きょうがくの会話はそれだけでは終わらなかった。

「……本当に、上手うまくいってよかったですわ」
「そうだね」

 にっこりと微笑ほほえんだイザベラに、ハインツが真面目な顔でうなずいた。
 今度は一体なんの話をしているのだろうと愕然がくぜんとするアリーチェの瞳に、苦々しい表情を浮かべたハインツの姿が映り込む。

「いくら筆頭公爵家の娘だからと、強引に婚約させられてはたまらない」
(……っ⁉)

 アリーチェとハインツの婚約は決して強引に推し進められたものではないはずだが、ハインツのその発言は確実にアリーチェとの婚約を批難するものだった。
 まさかハインツが自分との婚約をそこまで疎ましく思っていたとは想像すらしていなかったアリーチェは、血の気を失った顔で二人を見続けることしかできなくなる。アリーチェと共にいる時のハインツは優しくて。そんなことを思っているなど、微塵も感じたことはなかったのに。

「ハインツ様……」

 イザベラはうっとりとハインツへ身を任せ、二人はそのまましばらく無言で抱き合った。
 辺りにはどこからか聞こえてくるかすかな水音だけが響き、長いのか短いのかわからない時間がたった頃。

「……ところでイザベラ」

 やっと満足がいったのか、ゆっくりと身体からだを離したハインツから向けられた呼びかけに、イザベラは紫色の大きな瞳を返す。

「はい」
「例の、首飾りに込められていた呪いのことだけれど……」

 耳に飛び込んできたハインツの言葉に、アリーチェの瞳は大きな打撃を受けて見開いた。

「一体なんの呪いなんだい?」

 集められた魔術師全員が解析不可能だと申し訳なさそうに首を振ったアリーチェの呪いに関することを、なぜイザベラに問いかけるのか。
 その、イザベラが呪いの種類を知っているかのようなハインツの疑問は、まるで……

「それが、あいにくわたくしにもわかりませんの」
「わからない⁉」

 申し訳なさそうに眉を下げたイザベラの表情は、アリーチェさえ思わず手を差し伸べてしまいたくなるほど美しかった。
 そして、驚いたように目を見張ったハインツに、イザベラは困ったような微笑ほほえみを浮かべてみせる。

「はい。わたくしも人に薦められるまま買ってしまったものですので……」
「……そうか……」

 小さな嘆息一つであっさりとそれを受け入れるハインツは、なにを考えているのかアリーチェには理解できなかった。
 あれほど必死になってアリーチェの呪いを解こうとしていたハインツはなんだったのだろう。
 アリーチェの呪いが解けるまで待つと国王ちちおやに食い下がったハインツは。
 あれらはすべて偽りの姿だったというのだろうか。

「ですが、そう気に病むことはありませんわ」

 にっこりと微笑ほほえんだイザベラは、甘える仕草でハインツの肩へと手を伸ばす。

「実際、アリーチェ様はお元気にしてらっしゃるではありませんか」
「そう、だね……」

 少しだけ悩むような様子を見せながらも、ハインツがアリーチェにかけられた呪いについてイザベラを追及するようなことはない。罪悪感の欠片かけらも見えない二人は、互いの身体からだに触れ合ったまま。

「それより殿下」

 そこでしっとりと微笑ほほえんだイザベラがほんの少しだけ顔を上げ、なにかをねだるような目を向ければ、ハインツはそっと身をかがめて顔を寄せる。

「……ん……」
(――っ!)

 アリーチェの場所から肝心な部分は見えないが、一つに重なった二人の影がなにをしているかなど、イザベラの口かられてくる甘い吐息を聞けば明白だった。

「今夜はお会いできませんの……?」

 どこか寂しげで、それでいてうっとりと誘うようなイザベラの甘い声に、そこで初めてアリーチェの指先はぴくりと動いた。逃げようとするかのように足は後ろに下がり、身体からだは小刻みに震え出す。

(……こんなこと、って……!)

 呆然ぼうぜんと二人の姿を見つめたまま、アリーチェはじわりじわりと距離を取り、二人の姿が完全に視界から消えた後。

(……まさか、私の呪いは殿下とイザベラ様が……⁉)

 あまりのショックから知らず涙を流していたアリーチェは、くるりときびすを返すと逃げるようにして王宮を後にしたのだった。



   第二話 天才と変人は紙一重


「なるほど。つまり、すべては外部犯に見せかけた王太子の自作自演だったと」

 ここに至るまでの経緯を聞き終えたクロムは、特段表情を変えることもなくただ淡々とうなずいた。
 その反応から見るに、アリーチェの事情になど興味がないのだろう。

「……そういうことになるのかしらね?」

 こんなことになってもいまだに認めたくない部分があるのか、つい遅くなってしまう反応に、アリーチェは心の中で自嘲する。
 この話をしたのはクロムが初めてだ。
 とてもではないが、自分にかけられた呪いが王太子の策略によるものだとは誰にも話せなかった。
 明確な証拠がなにもない以上、そんなことを口にしたらアリーチェの立場のほうが危うくなる。少なくとも現状、王家そのものはアリーチェの呪いを解くために手を尽くしてくれてはいるのだから。

「ようするに王太子は、貴女あなたと婚約を解消し、別の女と一緒になりたかったと」
「っ。そうよ……っ。そういうことよ……!」

 淡々と状況を分析され、アリーチェはぐっ、と唇をみ締める。
 わかってはいても、改めてその事実を突き付けられると胸にズキリとした痛みが走った。
 それは、王太子に対する長年の情からか、それとも悔しさからか。
 アリーチェがハインツに抱く感情は決して色恋ではなかったが、それでもたしかな信頼関係は築けていたと思うのだ。もし、どうしても他に一緒になりたい女性ができたと相談されたなら、それはそれできちんと真摯に向き合っただろうと思う程度には。
 それなのに、まさか呪いでアリーチェを排除しようとするほど疎ましく思われていたなんて。

「で。その方も呪いの中身はわからないと話していたと」

 決して同情してほしいわけではなかったが、あまりにも淡々と確認され、アリーチェは少しだけ呆気あっけに取られつつ慌てて首を縦に振る。

「そ、そうよ……!」

 なぜだろうか。〝変人〟クロムと話していると、自分のぺースを乱されて、うだうだ悩んでいることが馬鹿馬鹿しくなってくる。研究オタクのクロムにとって、アリーチェの気持ちや事情など二の次三の次。古代魔道具研究家・クロムの関心は、物珍しいアリーチェの呪いのみに注がれている。
 そんな、アリーチェ自身のことなどどうでもいいと言われているかのような態度には腹が立つというのに。と、同時に、妙な安堵あんどの気持ちを覚えてしまう自分も混在する。

(……あぁ……、そうだわ……)

 そこで、すとん、と胸に落ちたものがあり、アリーチェは唇を震わせた。

(……私は……、同情されたくなかったのよ……)

 アリーチェがかけられた呪いに関しては箝口令かんこうれいが敷かれていて、事情は一部の人間にしか知られていない。それでもその〝一部〟の人間は……、アリーチェと近しい人たちばかりだということもあるだろうが、一様に「可哀かわいそうに」という同情の瞳を向けてきた。
 腫れ物に触るような扱いをされることが居たたまれず、かなしかった。
 この後、本当の事情をなにも知らない人々が、婚約を解消されたアリーチェにどんな目を向けてくるだろうかと想像するだけで、悔しくてむなしくて仕方がなかった。
〝天才〟と名高いクロムの存在を知ってすぐ、解呪を口実に王都を飛び出してきた理由はこれなのだ。
 ――本当は。一刻も早く逃げ出したかった。
 あわれみと同情の瞳を向けられることにはもううんざりだったのだ。

「……まぁ、さすがに命にかかわることですし、なによりも興味深い検体には違いありませんし……」
(〝けん・たい〟……⁉ 今、〝検体〟って言った……⁉)

 聞き捨てならないことを聞いた気がするが、ぐっと怒りを抑えて黙り込む。
 呪いを解くために、クロムは最後の頼みの綱なのだ。

「いいですよ。そのご依頼、お引き受けします」

 心なしかその瞳と声色が弾んでいるように見えるのは……、きっと気のせいだ。

「その代わり、条件があります」
「条件……?」
「はい」

 高位魔術師の誰一人としてわからなかった難解な呪い。そんな呪いを解いてくれるというのなら、いくら支払ってもかまわない。だが、深々とうなずいたクロムは、拍子抜けするような条件を提示した。

貴女あなたも、きちんと協力してください」
「…………はぁ」

 きちんともなにも、呪いはアリーチェの身に宿っているというのだから、消極的になるはずもない。
 なにを言っているのかと気の抜けた答えを返したアリーチェへ、クロムは「それならいいです」とでもいうかのようにわずかに微笑ほほえんだ。

「では、さっそくですが」

 そうしてアリーチェへ向けられた真剣な瞳。

「触らせてください」
「…………は?」

 なにを? と目が点になり、しばらくしてその言葉の意味を理解したアリーチェは、そのまま悲鳴を上げてクロムを平手打ちしなかった自分を褒めたたえてやりたくなっていた。


 アリーチェの母親は少し変わっていて、「自分のことはすべて自分でできるように」が教育方針だった。そのため、普通の貴族令嬢であれば一生することなどないような、掃除から洗濯、料理までの家事を一通り覚えさせられていた。ついでに言えば、護身術も一通り習わされていたりする。

(……まさかお母様の趣味がこんなところで役に立つなんて……)

 大きな鍋をお玉でき回しながら先ほど起こったことを回想し、アリーチェはしみじみとした溜め息を吐き出した。

『さすがに解呪は無理です』

 まるで深刻さを感じない独特な声色でそう告げられた時には絶望しかけたが、すぐ後の「……今すぐには」というつぶやきに、アリーチェは目を点にしてそのまま固まった。

『それにしても、また随分と興味深いものが……』

 胸元の文様をじろじろと見られ、思わず平手打ちしたい衝動に駆られてしまったが、クロムのその視線には一欠片ひとかけらの下心もなく、完全に研究対象を前にした時の好奇心から来ているものだということがわかって、アリーチェはなんとも複雑な気持ちになってしまっていた。

『ここまで保存状態のいい魔石はなかなかないですよ⁉』

 例の首飾りを手渡せば、クロムは興奮したように瞳を輝かせ、すぐにでも解析に移りたいと弾んだ声を上げていた。
〝天才〟で〝変人〟で〝オタク〟。まさにこの言葉は彼のためにあるようなものではないだろうか。
 そんなわけで、無事彼の〝研究対象〟として認定されたアリーチェは、研究施設にとどまることを余儀なくされてしまった。元々その覚悟もしていたため、荷物の準備は万全だったが、まさか調理道具が欲しいと思うなどとは想像もしていなかった。
 余命一カ月の呪いは、じわじわと身体からだを弱らせていくようなものではなく、突然命を奪う類のものだという。よって、現状は痛くもかゆくもないため、死期がすぐそこに迫っていると告げられてもいまいち実感がなかった。とはいえ、恐怖がないわけではない。ないわけではないのだが……
 保証などどこにもないというのに、彼に任せておけばきっと大丈夫だろうと思えてしまうこの安心感はなんなのか。
 そんなこんなでアリーチェは今、楽しそうに研究室にこもって呪いの解析を始めたクロムと、研究員たちのためにシチューを作っていた。
 研究員たちはこの施設に滞在し、日々研究にいそしんでいる。ここで一日を過ごしたアリーチェがまずびっくりしたのは、彼らの食事事情だ。食事作りは当番制らしいのだが、空腹が満たせればなんでもいいといった程度のもので、栄養バランスなどなにも考えられていない。そんな料理を前にして、アリーチェの顔は引きった。そして仕方なく台所に立ち、今に至る。
 どうせ特にすることもないのだ。早く解析を終わらせてもらうためにもより頭が働くように、アリーチェはまずは食事改善から取り組むことにした。

「あ! シチューだ……!」

 時刻はすでにお昼時。匂いを嗅ぎつけてきたのか、童顔の青年が鼻をくんくんさせながらやってきたかと思うと、その後からぞろぞろと他の研究員たちも食堂に入ってくる。

「シチューなんて食べるの何年ぶりだろう……」

 シチューほどバランスよく栄養を取りながら簡単に作れる食事もないと思うのだが、彼らは本当に今までどんなものを食べてきたのだろう。

「いやぁ~、初めは居候なんて冗談じゃないと思ったが、毎日こんな食事が食べられるならずっといてくれてかまわねぇぞ?」
「いいですね! いっそここに住んじゃいます?」

 がははと豪快に笑う中年男性に続き、先ほどの青年が明るく同意する。
 昨日はアリーチェのことを余所者よそもの扱いしていたというのに、たった一日でこの身の変わりようはなんだろう。男は胃袋をつかめばイチコロだというのが母親の教えだったが、まさか本当にそんなことがあるとは思ってもみなかった。

「ところでクロムは?」

 部屋に集まってくる研究員たちの中にクロムの姿を見つけられず、アリーチェはきょろきょろと辺りを見回した。

「あー……、クロムさんでしたら……」
「アイツは放っておくと平気で一食や二食忘れるからなぁ……」
「は?」

 そこで返ってきた研究員たちの苦笑いに、アリーチェの目は点になる。

「夢中になると、時間の経過も空腹も忘れるそうです」
「これぞ真のオタクだな」
「見習いたくないですねぇ~」

 自分たちはそこまでではないとしみじみと語る研究員たちに薄ら寒いものを覚えたアリーチェは、お盆に一人分の食事を用意すると、さっさとその場を後にする。

「アリーチェさん?」
「……みな様、勝手によそって食べてください」
「へ?」
「いってきます」

 目を丸くする研究員にかまうことなく食堂を出ると、昨日教えてもらったメイン研究室に向かい、部屋の扉をノックする。

「クロム……?」

 が、返事はない。

「失礼します……」

 仕方なくそっと部屋に足を踏み入れると、今までアリーチェが感じたことのない独特な空気感が漂っていた。
 広い研究室の壁の一面は上から下まで専門書で埋められており、また別の一面は等間隔で作られた棚の上に魔法薬やら乾燥させた薬草らしきものやらが並べられている。大きな暖炉の横には引き出しのみの棚があり、厳重に管理されているのか一つ一つ鍵まで付けられている。
 最後の一面にはたくさんの植木鉢に囲まれた大きな窓があり、魔法植物と思われるものが育てられていた。そしてそんな部屋の中央にいくつか置かれた机の一つが、クロム専用の研究机だった。

「……クロム……?」
「はい」

 真剣な顔で机に向かっているクロムへ遠慮がちに声をかければ、さすがにアリーチェの存在に気づいたクロムが顔を上げる。

「どうかしたんですか?」
「お昼を持ってきたのだけれど」
「そしたらそこに置いておいてください」

 すぐに興味を失ったように手元へ視線を戻したクロムは、おそらくこのまま放っておいたら食事の存在を忘れるに違いない。先ほどの研究員たちの会話からも確信し、む、と眉間にしわを寄せたアリーチェは、強引にでも食べさせることにする。


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