【完結】かなしい蝶と煌炎の獅子 〜不幸体質少年が史上最高の王に守られる話〜

倉橋 玲

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第2.5章 小話2

【リクエスト】異邦者・前編

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 それは、雨上がりの午後のことだった。



 あと半月ほどで九歳の誕生日を迎える少年、天ヶ谷グレイは、母親と兄と一緒に自分の誕生日プレゼントを探しに出かけていた。目的地は、少し大きめのおもちゃ屋だ。
 プレゼントは実際に自分の目で見て決めたいという少し生意気なグレイの意見を、母が笑って許してくれたのである。三つ歳の離れた兄は、自分もお小遣いの範囲でグレイに何か買ってあげたい、と言ってついてきた。ちなみに、妹と弟は、父と一緒に留守番中である。
 ぱしゃんぱしゃんと水溜まりを踏みながら、グレイが少しだけご機嫌な様子で歩く。そんな様子を微笑ましく見ていた母と兄だったが、母の方がふいと顔を横に向け、あら、と声を上げた。
「見て、二人とも。虹よ。綺麗ねぇ」
 おっとりとした声につられ、兄も母と同じ方へ顔を向けると、雨上がりの空には綺麗な虹が架かっていた。
「本当だ。綺麗だね、グレイ」
 そう言いながらグレイの方へと振り返った兄は、しかし視線の先に弟の姿がないことに気づき、慌てて辺りを見回した。
「グレイ?」
 どこか不安を滲ませる声がもう一度弟の名を呼んだが、反応が返ってくることはない。
 先程まで確かにグレイが居た場所には、僅かに波紋を揺らす水溜まりだけが残っていた。




 何が起きたのか、グレイには判らなかった。ただ、確かに水溜まりを踏んだ筈の右足が、水溜まりを抜けてずぶりと地面に埋まったことだけは判った。まるで階段で足を踏み外してしまったような感覚だ。訳が判らぬまま、ぐらりと傾いだ身体を立て直そうと左足に力を入れたところで、今度はそっちからも地面の感覚が消えた。
 その後はもう、呆気ないものだった。突然足元にぽっかりと開いた穴のようなものに、抗うこともできず落ちていく。そしてグレイの兄が振り返るころにはもう、その穴は跡形もなく消えてなくなっていたのだった。
 ぐるんぐるんと、身体がすごい勢いで回される。大きく振り回されるようなその感じはジェットコースターに似ていたが、これはそれよりももっと酷い。天地が判らなくなるだけではなく、身体のそこかしこが雑巾を絞るかのように捻じれる感覚さえして、グレイは吐きそうになるのを必死で堪えた。
 洗濯機に入れられたようなその状態は永遠に続くように思われたが、次の瞬間、身体を振り回す力と、みちみちと絞るような感覚が消えた。代わりに、凄まじい引力に捕まったように、グレイの身体が一方向へと引っ張られる。
 そのまま、唐突にグレイは硬い場所に投げ出された。その勢いにろくな受け身を取ることもできず、むき出しの膝やひじなどを強かに打ち付けてしまう。
「いって……」
 打った場所をさすりながら痛みに呻いたグレイが次に気づいたのは、鼻腔に届く悪臭だった。
(なんだ……この気持ち悪いにおい……)
 ただでさえ頭がグラグラしていて吐き気がするというのに、それを助長するような臭いが立ち込めていて、グレイは盛大に顔を顰めた。これまでに嗅いだことのない臭いだ。だというのに、何故かぞわぞわとした悪寒すら感じさせる。
 そんな中、グレイの耳に複数人の歓喜の声が聞こえた。
(人の声?)
 声がした方へ顔を向ければ、薄暗い部屋の中に数人の大人たちがいた。ただ、どの人間もなんだか身なりが変だ。グレイはあまりそういった類に詳しくないが、それでも、ゲームや漫画に出てくる魔法使いや僧侶の恰好に似ていると思い至った。
(……なんだ、コイツら?)
 グレイはコスプレイヤーという存在を知らなかったが、もし知っていたら真っ先にその単語を思い浮かべていたことだろう。そうでなくても、彼の頭にはハロウィンの仮装という言葉が浮かんでいた。
「――! ――――、――!」
「――――! ――!!」
 変な格好をした大人たちは一様に興奮した様子で何事かを口にしているが、少年には何を言っているのかさっぱり理解できなかった。
 聞いたことがない言語だ。声の調子と表情から喜んでいるということくらいは判るが、それ以上は想像もつかない。
(……なんだよ、ここ)
 混乱のままにきょろきょろと辺りを見回してみれば、そこそこ広い部屋の中には大人たちの他に、よく判らない置物が幾つも置いてあった。部屋が薄暗いのは、主な明かりとして使用しているのが蛍光灯などではなく、燭台の蝋燭だからのようだ。それから、この部屋をぼんやりと照らす灯りがもうひとつ。
 グレイの真下、床に描かれている謎の模様。一体どういう原理なのか、円状に描かれたその模様は、煌々と光を放っていた。蓄光塗料とは違う、もっと内部から光を放っているような不思議な感じだ。
 それ以上の情報を得ようと更に目を凝らしたグレイだったが、頼りなげな光たちでは部屋の隅までを見ることができない。これ以上辺りを見たところで何も変わらないだろうと考えたグレイは、部屋から人へと視線を戻した。そして、ぎゅうと顔を顰める。
 大人たちが自分に向ける目つきが、気に食わなかったのだ。檻の中にいる動物をジロジロと眺めて観察するような、そんな目だ。どちらかと言えば気位が高いグレイにとって、それは酷く不愉快だった。
「なんだよオマエら。ここどこだ」
「――? ――」
「――――、――」
「なに言ってんのかわかんねェよ」
「――、――――――」
「――――」
 大人たちは少年を眺めながら何かを喋っているようだったが、やはりその内容は聞き取れない。だが反応を見るに、どうやらグレイに彼らの言葉が判らないように、彼らもグレイの言葉を理解できないようだった。
(……とにかく、話ができるヤツをさがさないと)
 そう思ったグレイが身体を起こそうとしたとき、その場にいた大人の男が一人近づいてきて、彼の腕を乱暴に掴んだ。
「うわっ」
 驚くグレイを気にも留めず、男は彼を荷物のように引き摺った。石の床にすれる膝が痛くて抗議の声を上げたものの、男は目線のひとつもくれない。それに憤慨したグレイは周囲に訴えようと他の大人たちに視線をやったが、もう誰もこちらを見てはいなかった。まるでグレイへの興味が失せたようだ。
 グレイを掴んだ大人が向っているのは、どうやら部屋の隅のようだった。隅の方は灯りが極端に少なくて何があるのか見えないが、そこに近づくにつれて悪臭が強くなっていくことだけは感じる。そのあまりの臭いにグレイは思わず片手で鼻を覆ったが、あまり効果はなかった。
 そのうち、男はぞんざいにグレイを部屋の一角へと放り投げた。思わず目を閉じたグレイは、固いような柔らかいような、よく判らないものに正面からぶつかってしまう。どうやら、何かが積み上げられている場所に放られたらしい。
 ぶつかった拍子に例の臭いが一際強く鼻腔へ襲い掛かってきて、彼は目を閉じたまま盛大に顔を顰めた。触れた塊は水気を帯びているようで、グレイの身体はじんわりと濡れ、不快な気分に拍車が掛かる。
 まるでモノのような扱いを受けたグレイは憤慨し、文句を言ってやらねば気が済まないと目を開けた。

 ――そこで目に飛び込んできたものを、グレイは咄嗟に理解することができなかった。

 それは、人だ。間違いなく、人間だ。
 恐怖の名残が色濃い顔も、開かれた口から垂れ下がる舌も、見開かれた眼球も。そのどれもが人間にしか見えない。だが、グレイはそう理解しようとするのを無意識のうちに拒絶した。
 だって、人間は普通、頭の下に身体がくっついているはずだ。だが、グレイが見たそれは、まるで強い力でねじり切ったかのように、首から下がちぎれていた。
 あまりのことに悲鳴を上げることすらできなかったグレイは、そのままゆっくりと視線を動かす。そしてそこに広がった光景に、彼はその場にぺたりと座り込んでしまった。
 そこに積み重なっていたのは、肉の塊たちだ。先程のあれと似たような状態の頭と、はらわたを覗かせる胴と、分離した手足と。更には、明らかに人間ではない化け物のような何かの残骸すらも。その全てが、捻じれたり千切れたり融けたりしていて、元の形を留めてはいなかった。
 そこまでを認識してしまったグレイは、襲ってきた強烈な寒気に全身をがたがたと震わせた。喉元まで胃の中の物がせり上がってきて、そしてそのままグレイはそれを床にぶちまけた。
 部屋全体を覆い尽くすそれが死臭であると、ようやく理解したのだ。
 吐しゃ物に濡れた口から、ひゅうひゅうと呼吸が漏れる。肉塊たちから目が離せないまま、呼吸すら危うくなってきたグレイの背後で、不意に硬質な音がした。
 カリカリと床を掻くようなその音に、グレイは錆びたブリキのような動きでゆっくりと背後を振り返った。
「――――ッ!」
 そこにいたのは、先ほどグレイを引き摺った男だった。特段感情も浮かばない顔でこちらを見下ろすその手には、赤黒いもので汚れた両刃の剣が握られている。
 ――ころされる。
 瞬間、本能的な死への恐怖が全身を支配する。一刻も早く逃げなければならないと、そう判っているのに、初めて味わう心底からの恐れはグレイから身体の自由を奪い取っていた。憐れな幼子はただただ震えるばかりで、指一本まともに動かせない。
 恐怖で丸く開かれた子供の目が、自分に向かってくる鈍色の切っ先を捉える。
 ああ、あの刃がこの首か胸かに突き刺さって、たくさん痛くて、血が出て、そして死ぬんだ。
 悟ったグレイが、最後の気力を振り絞って瞼を下ろす。そうでもしなければ、剣先の行方を追ってしまいそうだったのだ。だが、
 痛みを覚悟したグレイのすぐ傍で、突然鈍い音が響いた。次いで、何かが倒れる音と、鉄が石畳に転がる音と、人々の怒声が同時に耳に飛び込んでくる。
(こ、こんどはなんだ……?)
 突如喧騒に呑まれた空気に困惑しつつも、グレイは予期していた痛みがなかったことに僅かに安堵した。だが、それも一瞬のことである。聡い子供は己が未だ危機的状況を脱していないことをしっかりと把握していたので、すぐさま目を開けて状況の把握に努めようとした。だがしかし、その目を開けると同時に彼を襲ったのは、唐突な浮遊感だった。
「っ!?」
 引き攣った悲鳴を上げたグレイが、慌てて浮遊感の正体を探ろうと視線を彷徨わせる。結果、どうやら人間らしき何かに抱えられているらしいということが判った。思わずびくりと身体を震わせたグレイは、次の瞬間先ほどの恐怖を思い出し、なんとか逃げなければとがむしゃらに手足を動かした。小さな手や足が、片腕でグレイを抱えている人物を叩いて蹴る。だが、その人物はそれをものともせず、空いている方の手で一度だけ、グレイの頭をぽんと撫でた。
 思いがけないその行為に、グレイは虚をつかれて暴れるのをやめた。そして、今一度自分を抱える人物に目をやる。
 先程まではこの部屋にはいなかった、背の高い人間だ。随分がたいが良いし、きっと男だろう。頭から口元までを隠すように布が巻かれていて顔は判らないが、かろうじて見える両目が、一瞬グレイを見て細められた。
(……笑った?)
 多分、恐らく、そうだ。だが、グレイがそれをきちんと確認する前に、彼は目を逸らしてしまった。つられて彼の視線の方へとグレイが目をやれば、先程グレイを囲んでいた人間たちが鬼のような形相をしてこちらを睨んでいた。
 グレイが思わず身を固くすると、自分を抱える腕に力が籠められるのを感じた。ここまで来れば、グレイも薄ぼんやりとではあるが状況を把握し始めていた。
(多分、こいつは、あいつらとは敵対してるんだ)
 怪しい服の連中がこちらに向けている目は、好意的なそれではない。ならば、そう考えるのが自然だった。
(助けてくれた、のか、は、わかんないけど)
 ここがどこなのかすら把握できていないグレイからすれば、誰を信じれば良いのか判断できない状況だ。警戒を怠らないままグレイが覆面の男を窺えば、男はちらりと少年に視線を落としてから、ぱちりと片目を閉じて寄越した。そして、それにグレイが反応を返す前に、男が地面を蹴る。
 大きく前に跳んだ彼は、あろうことか怪しい集団のど真ん中を突っ切って抜けるつもりらしい。そんなことをすればあっという間にやられてしまうと驚いたグレイだったが、真に驚くべきはその後であった。
 敵陣の中心に突っ込む形で飛び込んだ男は、空いている方の腕と脚だけで敵を薙ぎ倒し始めたのだ。グレイを抱えているというのに、相手の攻撃を器用に潜り抜け、脚払いやら掌底やらで次々と敵を沈めていく。そして、そんな彼の目指す先には、似たような覆面をしている人間がもう一人いた。その人物もまた、グレイを抱えている覆面が進む道を作るかのように、周囲の人間たちを地面に転がしていく。
 こうして、あれよあれよと言う間にその場にいた人間全てをのしてしまった二人の覆面は、グレイを連れてまんまとその場を逃げおおせたのだった。
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