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4巻
4-2
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「今日は元々訪れるつもりではあったが……予想だにせぬ僥倖よな。これは見事じゃのぉ。ノアの『父ちゃん』に通ずるものがあるわ」
ミミィの集中力が極限まで高まった鬼気迫る様は、確かに鍛冶の最中の父ちゃんに似ている。
かつて力こそ全て、と言っていたエスティも、一流の職人の仕事ぶりには何やら価値を見いだしてくれたようだ。……と思ったけど、よく考えたら鍛冶も『増幅』も強さにつながるものだから興味があるだけだったりして……。
エスティの横から身を乗り出したユーリが、熱に浮かされたように目を輝かせ、つばを飛ばしてしゃべり出した。
「凄い、凄い! 何この魔法回路! 知ってる、ノア? 補助魔法と魔道具の基礎はほとんど同じなんだ。むしろ、補助魔法使い以外にも補助魔法を使えるように落とし込んだのが魔道具っていうか。だから私も魔道具のことはちょっとだけ分かるんだけど、普通魔道具ってのは、ひとつかふたつの属性を組み合わせて作るんだ。二種を竹型、三種を松型、四種を梅型と呼んでて、その上に五種を組み合わせた桜型があるんだ。でも桜型が使われるのはたったひとつ、光の魔道具だけ。光の魔道具は最もよく使われてる魔道具でもあるんだけど、火でも風でも水でも木でも土でもない『光』を生じさせるのは、実は魔道具士の技術の集大成、すっごい難しいことなんだって。魔道具も単純なものは一重咲き、複雑になればなるほど二重咲き、三重咲きと呼ばれてて、大抵の魔道具は三重咲きまで。その模様を内から上段・中段・下段って呼んでて……」
「ちょ、いきなり何語り出してんの、ユーリ!?」
目をキラキラさせたユーリが、興奮にダンダンと足を踏み鳴らす。
「ホントに凄いんだってば! この凄さが上手く伝えられないのがもどかしいぃ!」
「えぇ? どのへんが?」
聞き返したオイラが悪かった。
「女将が今描いているのは、桜型の八重咲き。この世に存在しないはずの『光』以外の五属性魔道具なんだよ! 何で五属性が『増幅』効果をもたらすか分かる? 魔力ってのは、属性関係なく、人によって少しずつ違うんだよ。そしてその違う魔力を混ぜ合わせると、二種類なら二乗、三種類なら三乗で魔力の量が増えていく。つまり十の魔力だったなら二種類で百、三種類で千。当然のデメリットとして魔力操作も二乗三乗で難しくなっていくから、そんじょそこらの魔法使いには出来っこないんだけど。だから魔力がいっぱいある竜の骨が魔法触媒として珍重されるわけ。魔法使いが自分の魔力と骨に残った竜の魔力を混ぜ合わせて、己の限界以上の魔力を使えるようになるからなんだよ。女将は元々ひとつであるはずの本人の魔力を属性の色を付けることで五種類に分け、それを再びひとつにより合わせることで五乗の魔力へと増幅させているんだよ。何でそんなこと思いつけたんだろう! それに五乗の魔力ってことは通常の五乗、制御が難しいんだよ!? こんなの爆弾と変わらないよ。そこを補うために、『増幅』効果の回路は二重咲き部分まで、残りの花弁は全て、魔力の波やうねりを抑え、魔力錬成をスムーズにし、魔力操作を補助するための模様――これだけ膨大な種類の模様が、互いに反発せず機能するなんて、どれだけの計算と施行を繰り返したのか――」
うん。何か、めっちゃ難しいことをやってるってのは分かった。
怒濤の勢いのユーリの言葉に、セバスチャンさんだけは同意するように何度も頷いていたけれど、エスティの目が途中から泳いでいたのをオイラは見逃さなかった。セバスチャンさんが熱心に見ているから言い出せないだけで、実はちょっと飽きてきてるでしょ。
すると泳いでいたエスティの視線が、ふとジェルおじさんへと止まった。
小首を傾げ、いまだに滔々と語っているユーリとジェルおじさんとの間で視線が行き来する。
「ところで、見ぬ顔じゃがおぬしらは何者じゃ?」
必死で気配を消していたジェルおじさんが、ビクッと肩を震わせると、それからひとつ深呼吸して、何とか威厳を絞り出した。
「……火竜女王、エスティローダ殿とお見受けします。私はジェラルド・カーネル・デントコーン。こっちは、私の息子でユーリティウス・リンカ・デントコーンです」
普段のゆるいジェルおじさんからはかけ離れた固い挨拶に、エスティは鷹揚に頷き、微笑んだ。
「ふむ、いかにも我はエスティローダ。火竜の女王じゃ。デントコーンということは、おぬしがノアの言う『この国の王様をやっているジェルおじさん』か。なるほど」
エスティの扇子がひらりと舞い――それは瞬時にパルチザン『金烏』、本来の形へと姿を変える。
体ごと回すようにして斜め下から切り上げられた巨大な刀身がジェルおじさんを横薙ぎにする、と思った瞬間、それは頬の寸前でピタリと止まった。
ジェルおじさんは避けるでも反撃するでもなく、ただエスティを見据えるとニッと笑った。
「お会い出来て光栄ですな」
オイラの角度からだと、ジェルおじさんの首筋をものすっごい冷汗が流れていくのが見えたけれど、エスティは満足そうに笑うと『金烏』を扇子へと戻した。
「くくっ、前代の勇者だったか。確かにノアの叔父というだけある。今後ともよろしゅうにな」
竜の挨拶はまず攻撃から。いなすかかわすかして一撃を返すのが竜の礼儀だと思っていたけど、『あえて避けない』という選択肢があるとは思わなかった。でも、オイラがやった場合、問答無用で吹っ飛ばされる未来しか見えない。
「凄い、凄いよ! 魔道具でこんなことまで出来るなんて! 女将天才!」
……自分の父親が女王竜に武器を向けられているというのに、全く気付かず『増幅』の魔道具しか見えていないユーリには、何だかオイラとの血のつながりを感じる……。
そこから少し離れた縁側では、ルル婆とリリィが静かに話していた。
「『魔物の領域』から魔獣がいなくなったと聞いて、まず思い出すのは百五十年前の『悠久の白峰』、祟り竜の件じゃね」
「デイリー暦一八二一年八月、現アルファルファ神聖国内『悠久の白峰』にて魔獣の約九割が減少した一件」
リリィの言った具体的な年数に、オイラは驚いてルル婆に近づき、尋ねた。
「え、祟り竜って、理性を失った狂った竜が暴れ回って、竜と魔獣と人とが協力して倒したっていう昔話? あれ、本当にあった話だったの?」
「わしゃが研究したから確かじゃよ。けど今回のはちっと違う。『夕闇谷』には、祟り竜どころか音も気配もニオイもないんじゃわ。まるで生き物の消失した死の谷――」
虚空を見つめしばらく黙していたルル婆が、魔法の杖をドンとついた。
「いや違う。ニオイがなかった。死はニオう。血も死体も長時間ニオイを発する。そして死は虫や鳥、死体の捕食者の生を呼ぶもの。死んでいないなら、魔獣たちはどこへ行った?」
「どこへ行ったって、ルル。それを確かめるためのリリの『風見』だろ?」
ララ婆の言葉に頷きつつも、ララ婆は眉間にシワを寄せた。
「魔獣がいるから魔物の領域。魔獣がいなくなったならば、魔素がなくなっていても不思議はない――わしゃらは無意識にそう思い込んどった」
「うん? 何か違うってのかい、ルル?」
ルル婆は中天を過ぎた太陽に眩しそうにシワだらけの手をかざし、ひとつ深呼吸をした。
「順番が逆じゃったんじゃよ。魔獣がいなくなるから魔素がなくなるのではなく……魔素がなくなったから、魔獣は暮らせなくなったんじゃ。魔物の領域の魔獣は、ダンジョンの魔獣とは違う。実体がある。魔素を得られなくなった魔獣は――他へ行くしかない。それが今まで目撃されてないってことは、いずれ、これから」
聞いている内にみるみる顔色を失ったララ婆が、ポツリと零した。
「まさか」
ルル婆と異なり全く思い当たる節のないオイラが首を傾げたとき、いつの間にやら隣に来ていたエスティが扇子でポンと手のひらを叩いた。
「なんじゃ、気付きおったのか」
「えっ、て、エスティ、ひょっとして『夕闇谷』から魔獣がいなくなったのが何でなのか、知ってたの!?」
「『夕闇谷』とやらは見てはおらぬが。人間が早々に忘れてしまったことでも、我ら竜種からすれば、一生のうち何度も目にする風物詩のようなものであるからの。想像は付く」
「じゃあ教えてみてよ、なんで魔獣がいなくなったのさ?」
それに対して、エスティは答えるでもなくニヤリと笑うと、リリィの腕を掴み、オイラの背をミミィのほうへと押す。
「そんな些事より、大盗賊の娘が一仕事終えたようじゃぞ。我は、そこな風竜小娘を呼びに参ったのじゃ。王都一と豪語する魔道具職人の腕、我は早う確認してみたいのじゃ」
不本意ながらもミミィのほうに目をやると、半径1メートルほどの範囲にミスリルの板が五芒星の形に並んでいた。それをつなぐようにオイラが打ったミスリルの剣が伏せられ、その全面に白い花のような魔法回路が描かれている。
ミミィはお盆の二倍くらいの大きさのミスリル板に、また違った形の魔法回路を描き終えたところだった。
エスティって、大言壮語……っていうとちょっとニュアンスが違うけど、実力を伴った上で大きいことを言う人のこと、結構好きだよね。ミミィと気が合うのも分かる気がする。
「百聞は一見にしかずじゃ、のぉセバス」
「さようでございますな、お嬢様」
恭しく同意する黒服の執事もまた、ミミィの描く魔法回路を興味深げに見つめている。
話の腰をボッキリ折られた婆ちゃんたちも、複雑な顔をしつつもミミィの作り上げた魔道具? 魔装置? を取り囲んだ。
「さぁさぁ、遠からん者は音にも聞け! 近くば寄って目にも見よ! 他では決してお目にかかれない天才魔道具職人クヌギ屋ミミによる一世一代渾身の大傑作、本日限りの興行だ!」
集中しすぎて変なテンションになったらしく、そんなことを言っているミミィに、ユーリがやんややんやと拍手を送る。
小首を傾げたリリィが、ミミィに促されて五芒星の中心に入る。
ピューーーぃぃぃーーーピュアーー
リリィの口元から発せられたか細い口笛が辺りに響いたとき。
ぶわっとリリィの足下から、仄かに白く輝く風が螺旋を描いて吹き上がった。
リリィの膝上丈のスカートが膨れ、普段はスカートに紛れている白いしっぽとカボチャパンツがはっきり見えた。白い髪も大きく巻き上がる。
「なるほど、これが『増幅』……だがこれでは、戦いに持って行くわけにはいかぬな」
「据え置き型でございますから。ですが円形で固定すれば、多少は移動が可能かもしれませんな」
「これの中心を通してブレスを放ったら、風竜王くらい丸焼きに出来るのではないか?」
不穏な会話を交わす火竜の主従に、オイラは思わず突っ込む。
「全部を全部、戦いに結びつけるとこはさすが戦闘狂だよね」
「全部を全部、鍛冶に結びつける鍛冶バカに言われたくはないの」
「……炉の中にこれを作ってもらったら、今までとは違う剣が打てたりするかな?」
そこまで聞いて、ミミィが額に青筋を浮かべてニッコリと笑った。
「この『増幅』の魔道具は、幼竜相当のリリ姉さんの力を成竜に近づけるので精一杯。成竜のブレスなんぞに耐えられるわけがないでしょうが! ノアちゃんも! ミスリルが溶ける炉の温度に、ミスリルで作った魔道具が耐えられるわけがないだろうよ!」
ああ、そういえばミミィはエスティとジェルおじさんが自己紹介しあってたときに話を聞いてなかったから、エスティが女王竜だって知らないのかー、なんて思ったとき、ミミィの持つミスリル板がまばゆく輝いた。
「っ!?」
白く波打ったように揺れるミスリル板の表面に、次第に何かの光景が映し出される。
木の葉みたいなものが見えるけど、多分……これは、オーツ共和国『夕闇谷』の光景だ。
リリィの白いこめかみに、つぅっと一筋の透明な汗が流れた。
「リリ、もっと下、もっと下だ。上から伝書鳩で見たんじゃ、木々が深すぎてよく分からなかった最奥……行けるかい?」
まるで鳥にでもなったかのように、重なった木の葉をすり抜け、枝をくぐり抜けて視界が開ける。
ぐんぐん流れていく景色の中、木の梢や岩、草花は映っても、魔獣はおろか鳥も虫さえも映り込まない。リリィが運ぶのは景色だけで、ニオイも音も温度も感触も伝わってはこない。
それが一層、『夕闇谷』を作り物めいて見せていた。
ピューーーぃぃぃーーー
掠れがちな口笛。白く揺れるミスリル板に、一瞬、大きな木とそれを囲む大勢の生き物が見えて――……
ハッ、ハッ、という短い呼吸の音と共に、ミスリル板の景色が大きく乱れる。
「リリィ、大丈夫!?」
オイラの声に、ミスリル板を凝視していたララ婆がギョッとリリィを振り返り、顔色を変えた。
「リリ!? こりゃ魔力欠乏症だ! もういい、止めるんだよリリ! 無理をさせちまった。ルル、頼めるかい!?」
リリィは細い眉を寄せ、白い指先が苦しそうに胸元を握りしめる。早く浅い呼吸を繰り返し、滝のような汗が流れていた。
それでも口笛を続けようと口を尖らせかけたリリィを、ララ婆が力ずくで五芒星の中から引きずり出した。
リリィの背にルル婆が手のてらを当てると、ルル婆の手が淡い紫に輝いた。輝きは、リリィの中に吸い込まれていき……リリィの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「もうちょっとで、見えた」
「何を言ってるんだい! あとちょっとでも続けてたらアンタが危なかったよ!」
震える指先を『増幅』の魔道具に伸ばすリリィを、ララ婆が叱り飛ばす。
魔法を使えないオイラは知らなかったんだけど、ララ婆によると、魔法を使いすぎて魔力が空っぽになってもまだ魔法を使い続けると、体が『魔力を生み出すこと』だけに集中してしまう。つまり、消化や呼吸、鼓動などの、普段無意識に体が行っている機能が段々と止まっていってしまうんだそうだ。
リリィに魔力を分け与えているらしいルル婆が、難しい顔で口を曲げた。
「それにしても、これほど急激な魔力欠乏症は聞いたこともないよ。たったこれっぽっちの時間でリリの魔力が底をつくとはねぇ。前回は、四半時やっても平然としてたってのに……『夕闇谷』のせいかい?」
リリィがコクリと頷く。
「風に魔力を送っても送っても、まるでどこかに吸われていってるみたいで……奥に行けば行くほど、風に力が入らなくなった。ごめん、母さんたち。リリ、役に立たなかった」
そんなことあるもんかい、と言いかけたララ婆の言葉を、パサリと広げられたエスティの扇子が遮った。
「そう悲観することはないぞ、小娘。一瞬ではあったが、肝心な場所は見えたからのぉ」
「えっ?」
目を丸くして見上げるリリィに、エスティは口元を吊り上げた。
「まずは見事と褒めてやろう。風竜が風を用いて遥か遠くの事象を『視る』ことは知っておったが、まさかその様をこの目で見られようとは思っておらなんだ。風竜独自の技を、万人に知れる型に落とし込んだは天晴れ。姉妹の妙技、人にしか考えつかぬ技術よな。その褒美に、我もひとつ、人が知るはずもない知識を披露してやろう」
フフン、と自慢げに笑うと、エスティはツカツカと縁側へと近づいた。
そこに出しっぱなしになっていた父ちゃんの褞袍を地面へ広げると、そこにバシャバシャと婆ちゃんたちの飲み残しの玄米茶、さらには鉄瓶に残っていたお茶も残さずかける。
「ちょっ、いきなり何するのエスティ!?」
父ちゃんの褞袍は赤茶色でゴミゴミした柄だし、お茶の染みくらいそんなに目立たないけど……。
「まあ、黙って見ておるがいい」
そう言いながらエスティは、懐から落花生の載ったクッキーをごそごそと取り出し、褞袍の上にひとつ置いた。
っていうかエスティ、お菓子常備してんの? 竜形態のときにはどうなってんの、それ?
玄米茶を吸い込んだ褞袍の上には、クッキーの甘い匂いに釣られて、何匹もの蟻が登ってきていた。
婆ちゃんたちも、いぶかしげにしながらもエスティと褞袍とを見比べていた。
03 魔物の領域とは
「良いか、小娘。我は女王ゆえ寛容じゃ。おぬしらにも分かりやすいよう説明してやる。まずは、この褞袍はおぬしらの暮らす大地じゃと思え」
「はい?」
なんだか突拍子もないことを言い出した……そう懐疑的に眉を寄せた全員の顔が、次のエスティの言葉で激変した。
「そして、この褞袍に染みた茶が、人が魔素と呼ぶもの」
人が知るはずもない知識――エスティの先ほどの言葉が頭をよぎる。
「この褞袍の上を歩く蟻が、おぬしたち人間じゃ。蟻は軽すぎるゆえ、濡れた褞袍の上を歩いても褞袍自体には何の変化もない。しかし、ここに――……」
エスティがクッキーのすぐ脇に、襟首を掴んだタヌキ――うちの飼い猫をひょいと置く。
突然竜に掴まれたタヌキは、置物のようにカチンと固まっていた。
「竜という重しを置く。すると」
ひたひたに濡れた褞袍はタヌキの重さの分だけ沈み、脚の周りにじわりとお茶が染み出してくる。
瞬く間に、脚の周りは小さなお茶の水たまりのようになった。
「これが、魔物の領域の成り立ちじゃ」
「「……なっ!!!」」
絶句する婆ちゃんたちに代わって、オイラが頭の中を整理しつつ確認する。
「ってことは、つまり、竜の住処が、魔物の領域になっていくってこと?」
「そうじゃ。竜の周りに魔素は染み出す」
「それじゃあ、魔物の領域は魔素の吹きだまり、っていうのは間違いなんだ」
なぜかエスティはチラッチラッとセバスチャンさんのほうを見つつ、軽く首を傾げた。
セバスチャンさんは無言での何かのハンドサインをパパパッと送ってきた。エスティが小さく頷く。
「ふむ、あながち間違いとも言い切れぬ。今は茶で説明したが、本来魔素は風にも流れるし、水にも溶ける。単に染み出しただけでは、竜の周りに留まり続けることはない。それを、魔物の領域と呼ばれる特定の地域に定着させているのは、そこにある、その菓子よ」
「クッキー?」
タヌキが生み出したお茶だまりに半分浸かったクッキーは、元々かなり柔らかかったのか、少しずつ溶け出して玄米茶にとろみを加えている。
「魔素を、定着させる存在……じゃと!?」
驚愕に顔を引きつらせるルル婆に、エスティはニマニマと得意げな笑みを向ける。
「知りたいか? 知りたいかの、大賢者?」
苦虫を噛み潰したような顔をしたルル婆に、エスティは楽しそうに、胸元から何やら小さなものを取り出すと、手首を返して軽くヒュッと投げつけた。
ルル婆の顔の前で、ララ婆の右手がパシッとそれを受け止める。開いた手のひらの上にあったのは、茶色い半円形の――……
「種? これって……回復の柿の!?」
回復の柿というのは、魔物の領域で魔獣が偶に落とす回復アイテムだ。回復薬より効果は高いが、傷みやすく魔物の領域の外に持ち出せないデメリットがある。
見慣れた種に思わず声をあげると、エスティは満足そうに頷いた。
「さよう。おぬしらが回復の柿と呼ぶものは、トレントの実なのじゃ」
「トレントでしゅと!?」
婆ちゃんたちはビックリしているけど、オイラはいまいちピンとこない。なんかどっかで聞いたことがある気もするけど……?
「トレントって、魔獣?」
「トレントってのは、まぁ植物系の魔物の一種じゃわ。そこの『無限の荒野』によくいる鬼アザミや鬼栗なんかも植物系の魔物じゃね。ただ、トレントが他とは決定的に異なるのは、自ら動けるってことじゃと言われておる」
ルル婆の解説に、オイラの頭にうにょうにょと蔓を動かす鬼アザミと、根っこで獲物を捕まえる鬼栗が浮かぶ。
「って、鬼アザミも鬼栗も動くよね? それに、言われている……ってルル婆でも見たことないの?」
「普通の植物系の魔物は、枝葉や蔓、根を動かすことはあっても、一度根ざした場所から動くことはないし、距離をとれば襲われることも追いかけてくることもないじゃろ? しかしトレントは、『歩く』と言われておるんじゃ。ただ、ほとんどの魔物図鑑に載っているほど有名な魔物であるにもかかわらず、目撃例は極端に少ないんじゃよ。下手をしたら、そこのチギラモグラよりも生息数が少ないのかもしれないね」
言われて、オイラは首元の黒モフへと視線を落とす。オイラからだと顔はよく見えない。今までクースーピーと寝息が聞こえていたけれど、自分の話題になったと分かって起きたのか、くあっ、とあくびの音がした。
そこに、エスティの不思議そうな声がした。
ミミィの集中力が極限まで高まった鬼気迫る様は、確かに鍛冶の最中の父ちゃんに似ている。
かつて力こそ全て、と言っていたエスティも、一流の職人の仕事ぶりには何やら価値を見いだしてくれたようだ。……と思ったけど、よく考えたら鍛冶も『増幅』も強さにつながるものだから興味があるだけだったりして……。
エスティの横から身を乗り出したユーリが、熱に浮かされたように目を輝かせ、つばを飛ばしてしゃべり出した。
「凄い、凄い! 何この魔法回路! 知ってる、ノア? 補助魔法と魔道具の基礎はほとんど同じなんだ。むしろ、補助魔法使い以外にも補助魔法を使えるように落とし込んだのが魔道具っていうか。だから私も魔道具のことはちょっとだけ分かるんだけど、普通魔道具ってのは、ひとつかふたつの属性を組み合わせて作るんだ。二種を竹型、三種を松型、四種を梅型と呼んでて、その上に五種を組み合わせた桜型があるんだ。でも桜型が使われるのはたったひとつ、光の魔道具だけ。光の魔道具は最もよく使われてる魔道具でもあるんだけど、火でも風でも水でも木でも土でもない『光』を生じさせるのは、実は魔道具士の技術の集大成、すっごい難しいことなんだって。魔道具も単純なものは一重咲き、複雑になればなるほど二重咲き、三重咲きと呼ばれてて、大抵の魔道具は三重咲きまで。その模様を内から上段・中段・下段って呼んでて……」
「ちょ、いきなり何語り出してんの、ユーリ!?」
目をキラキラさせたユーリが、興奮にダンダンと足を踏み鳴らす。
「ホントに凄いんだってば! この凄さが上手く伝えられないのがもどかしいぃ!」
「えぇ? どのへんが?」
聞き返したオイラが悪かった。
「女将が今描いているのは、桜型の八重咲き。この世に存在しないはずの『光』以外の五属性魔道具なんだよ! 何で五属性が『増幅』効果をもたらすか分かる? 魔力ってのは、属性関係なく、人によって少しずつ違うんだよ。そしてその違う魔力を混ぜ合わせると、二種類なら二乗、三種類なら三乗で魔力の量が増えていく。つまり十の魔力だったなら二種類で百、三種類で千。当然のデメリットとして魔力操作も二乗三乗で難しくなっていくから、そんじょそこらの魔法使いには出来っこないんだけど。だから魔力がいっぱいある竜の骨が魔法触媒として珍重されるわけ。魔法使いが自分の魔力と骨に残った竜の魔力を混ぜ合わせて、己の限界以上の魔力を使えるようになるからなんだよ。女将は元々ひとつであるはずの本人の魔力を属性の色を付けることで五種類に分け、それを再びひとつにより合わせることで五乗の魔力へと増幅させているんだよ。何でそんなこと思いつけたんだろう! それに五乗の魔力ってことは通常の五乗、制御が難しいんだよ!? こんなの爆弾と変わらないよ。そこを補うために、『増幅』効果の回路は二重咲き部分まで、残りの花弁は全て、魔力の波やうねりを抑え、魔力錬成をスムーズにし、魔力操作を補助するための模様――これだけ膨大な種類の模様が、互いに反発せず機能するなんて、どれだけの計算と施行を繰り返したのか――」
うん。何か、めっちゃ難しいことをやってるってのは分かった。
怒濤の勢いのユーリの言葉に、セバスチャンさんだけは同意するように何度も頷いていたけれど、エスティの目が途中から泳いでいたのをオイラは見逃さなかった。セバスチャンさんが熱心に見ているから言い出せないだけで、実はちょっと飽きてきてるでしょ。
すると泳いでいたエスティの視線が、ふとジェルおじさんへと止まった。
小首を傾げ、いまだに滔々と語っているユーリとジェルおじさんとの間で視線が行き来する。
「ところで、見ぬ顔じゃがおぬしらは何者じゃ?」
必死で気配を消していたジェルおじさんが、ビクッと肩を震わせると、それからひとつ深呼吸して、何とか威厳を絞り出した。
「……火竜女王、エスティローダ殿とお見受けします。私はジェラルド・カーネル・デントコーン。こっちは、私の息子でユーリティウス・リンカ・デントコーンです」
普段のゆるいジェルおじさんからはかけ離れた固い挨拶に、エスティは鷹揚に頷き、微笑んだ。
「ふむ、いかにも我はエスティローダ。火竜の女王じゃ。デントコーンということは、おぬしがノアの言う『この国の王様をやっているジェルおじさん』か。なるほど」
エスティの扇子がひらりと舞い――それは瞬時にパルチザン『金烏』、本来の形へと姿を変える。
体ごと回すようにして斜め下から切り上げられた巨大な刀身がジェルおじさんを横薙ぎにする、と思った瞬間、それは頬の寸前でピタリと止まった。
ジェルおじさんは避けるでも反撃するでもなく、ただエスティを見据えるとニッと笑った。
「お会い出来て光栄ですな」
オイラの角度からだと、ジェルおじさんの首筋をものすっごい冷汗が流れていくのが見えたけれど、エスティは満足そうに笑うと『金烏』を扇子へと戻した。
「くくっ、前代の勇者だったか。確かにノアの叔父というだけある。今後ともよろしゅうにな」
竜の挨拶はまず攻撃から。いなすかかわすかして一撃を返すのが竜の礼儀だと思っていたけど、『あえて避けない』という選択肢があるとは思わなかった。でも、オイラがやった場合、問答無用で吹っ飛ばされる未来しか見えない。
「凄い、凄いよ! 魔道具でこんなことまで出来るなんて! 女将天才!」
……自分の父親が女王竜に武器を向けられているというのに、全く気付かず『増幅』の魔道具しか見えていないユーリには、何だかオイラとの血のつながりを感じる……。
そこから少し離れた縁側では、ルル婆とリリィが静かに話していた。
「『魔物の領域』から魔獣がいなくなったと聞いて、まず思い出すのは百五十年前の『悠久の白峰』、祟り竜の件じゃね」
「デイリー暦一八二一年八月、現アルファルファ神聖国内『悠久の白峰』にて魔獣の約九割が減少した一件」
リリィの言った具体的な年数に、オイラは驚いてルル婆に近づき、尋ねた。
「え、祟り竜って、理性を失った狂った竜が暴れ回って、竜と魔獣と人とが協力して倒したっていう昔話? あれ、本当にあった話だったの?」
「わしゃが研究したから確かじゃよ。けど今回のはちっと違う。『夕闇谷』には、祟り竜どころか音も気配もニオイもないんじゃわ。まるで生き物の消失した死の谷――」
虚空を見つめしばらく黙していたルル婆が、魔法の杖をドンとついた。
「いや違う。ニオイがなかった。死はニオう。血も死体も長時間ニオイを発する。そして死は虫や鳥、死体の捕食者の生を呼ぶもの。死んでいないなら、魔獣たちはどこへ行った?」
「どこへ行ったって、ルル。それを確かめるためのリリの『風見』だろ?」
ララ婆の言葉に頷きつつも、ララ婆は眉間にシワを寄せた。
「魔獣がいるから魔物の領域。魔獣がいなくなったならば、魔素がなくなっていても不思議はない――わしゃらは無意識にそう思い込んどった」
「うん? 何か違うってのかい、ルル?」
ルル婆は中天を過ぎた太陽に眩しそうにシワだらけの手をかざし、ひとつ深呼吸をした。
「順番が逆じゃったんじゃよ。魔獣がいなくなるから魔素がなくなるのではなく……魔素がなくなったから、魔獣は暮らせなくなったんじゃ。魔物の領域の魔獣は、ダンジョンの魔獣とは違う。実体がある。魔素を得られなくなった魔獣は――他へ行くしかない。それが今まで目撃されてないってことは、いずれ、これから」
聞いている内にみるみる顔色を失ったララ婆が、ポツリと零した。
「まさか」
ルル婆と異なり全く思い当たる節のないオイラが首を傾げたとき、いつの間にやら隣に来ていたエスティが扇子でポンと手のひらを叩いた。
「なんじゃ、気付きおったのか」
「えっ、て、エスティ、ひょっとして『夕闇谷』から魔獣がいなくなったのが何でなのか、知ってたの!?」
「『夕闇谷』とやらは見てはおらぬが。人間が早々に忘れてしまったことでも、我ら竜種からすれば、一生のうち何度も目にする風物詩のようなものであるからの。想像は付く」
「じゃあ教えてみてよ、なんで魔獣がいなくなったのさ?」
それに対して、エスティは答えるでもなくニヤリと笑うと、リリィの腕を掴み、オイラの背をミミィのほうへと押す。
「そんな些事より、大盗賊の娘が一仕事終えたようじゃぞ。我は、そこな風竜小娘を呼びに参ったのじゃ。王都一と豪語する魔道具職人の腕、我は早う確認してみたいのじゃ」
不本意ながらもミミィのほうに目をやると、半径1メートルほどの範囲にミスリルの板が五芒星の形に並んでいた。それをつなぐようにオイラが打ったミスリルの剣が伏せられ、その全面に白い花のような魔法回路が描かれている。
ミミィはお盆の二倍くらいの大きさのミスリル板に、また違った形の魔法回路を描き終えたところだった。
エスティって、大言壮語……っていうとちょっとニュアンスが違うけど、実力を伴った上で大きいことを言う人のこと、結構好きだよね。ミミィと気が合うのも分かる気がする。
「百聞は一見にしかずじゃ、のぉセバス」
「さようでございますな、お嬢様」
恭しく同意する黒服の執事もまた、ミミィの描く魔法回路を興味深げに見つめている。
話の腰をボッキリ折られた婆ちゃんたちも、複雑な顔をしつつもミミィの作り上げた魔道具? 魔装置? を取り囲んだ。
「さぁさぁ、遠からん者は音にも聞け! 近くば寄って目にも見よ! 他では決してお目にかかれない天才魔道具職人クヌギ屋ミミによる一世一代渾身の大傑作、本日限りの興行だ!」
集中しすぎて変なテンションになったらしく、そんなことを言っているミミィに、ユーリがやんややんやと拍手を送る。
小首を傾げたリリィが、ミミィに促されて五芒星の中心に入る。
ピューーーぃぃぃーーーピュアーー
リリィの口元から発せられたか細い口笛が辺りに響いたとき。
ぶわっとリリィの足下から、仄かに白く輝く風が螺旋を描いて吹き上がった。
リリィの膝上丈のスカートが膨れ、普段はスカートに紛れている白いしっぽとカボチャパンツがはっきり見えた。白い髪も大きく巻き上がる。
「なるほど、これが『増幅』……だがこれでは、戦いに持って行くわけにはいかぬな」
「据え置き型でございますから。ですが円形で固定すれば、多少は移動が可能かもしれませんな」
「これの中心を通してブレスを放ったら、風竜王くらい丸焼きに出来るのではないか?」
不穏な会話を交わす火竜の主従に、オイラは思わず突っ込む。
「全部を全部、戦いに結びつけるとこはさすが戦闘狂だよね」
「全部を全部、鍛冶に結びつける鍛冶バカに言われたくはないの」
「……炉の中にこれを作ってもらったら、今までとは違う剣が打てたりするかな?」
そこまで聞いて、ミミィが額に青筋を浮かべてニッコリと笑った。
「この『増幅』の魔道具は、幼竜相当のリリ姉さんの力を成竜に近づけるので精一杯。成竜のブレスなんぞに耐えられるわけがないでしょうが! ノアちゃんも! ミスリルが溶ける炉の温度に、ミスリルで作った魔道具が耐えられるわけがないだろうよ!」
ああ、そういえばミミィはエスティとジェルおじさんが自己紹介しあってたときに話を聞いてなかったから、エスティが女王竜だって知らないのかー、なんて思ったとき、ミミィの持つミスリル板がまばゆく輝いた。
「っ!?」
白く波打ったように揺れるミスリル板の表面に、次第に何かの光景が映し出される。
木の葉みたいなものが見えるけど、多分……これは、オーツ共和国『夕闇谷』の光景だ。
リリィの白いこめかみに、つぅっと一筋の透明な汗が流れた。
「リリ、もっと下、もっと下だ。上から伝書鳩で見たんじゃ、木々が深すぎてよく分からなかった最奥……行けるかい?」
まるで鳥にでもなったかのように、重なった木の葉をすり抜け、枝をくぐり抜けて視界が開ける。
ぐんぐん流れていく景色の中、木の梢や岩、草花は映っても、魔獣はおろか鳥も虫さえも映り込まない。リリィが運ぶのは景色だけで、ニオイも音も温度も感触も伝わってはこない。
それが一層、『夕闇谷』を作り物めいて見せていた。
ピューーーぃぃぃーーー
掠れがちな口笛。白く揺れるミスリル板に、一瞬、大きな木とそれを囲む大勢の生き物が見えて――……
ハッ、ハッ、という短い呼吸の音と共に、ミスリル板の景色が大きく乱れる。
「リリィ、大丈夫!?」
オイラの声に、ミスリル板を凝視していたララ婆がギョッとリリィを振り返り、顔色を変えた。
「リリ!? こりゃ魔力欠乏症だ! もういい、止めるんだよリリ! 無理をさせちまった。ルル、頼めるかい!?」
リリィは細い眉を寄せ、白い指先が苦しそうに胸元を握りしめる。早く浅い呼吸を繰り返し、滝のような汗が流れていた。
それでも口笛を続けようと口を尖らせかけたリリィを、ララ婆が力ずくで五芒星の中から引きずり出した。
リリィの背にルル婆が手のてらを当てると、ルル婆の手が淡い紫に輝いた。輝きは、リリィの中に吸い込まれていき……リリィの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
「もうちょっとで、見えた」
「何を言ってるんだい! あとちょっとでも続けてたらアンタが危なかったよ!」
震える指先を『増幅』の魔道具に伸ばすリリィを、ララ婆が叱り飛ばす。
魔法を使えないオイラは知らなかったんだけど、ララ婆によると、魔法を使いすぎて魔力が空っぽになってもまだ魔法を使い続けると、体が『魔力を生み出すこと』だけに集中してしまう。つまり、消化や呼吸、鼓動などの、普段無意識に体が行っている機能が段々と止まっていってしまうんだそうだ。
リリィに魔力を分け与えているらしいルル婆が、難しい顔で口を曲げた。
「それにしても、これほど急激な魔力欠乏症は聞いたこともないよ。たったこれっぽっちの時間でリリの魔力が底をつくとはねぇ。前回は、四半時やっても平然としてたってのに……『夕闇谷』のせいかい?」
リリィがコクリと頷く。
「風に魔力を送っても送っても、まるでどこかに吸われていってるみたいで……奥に行けば行くほど、風に力が入らなくなった。ごめん、母さんたち。リリ、役に立たなかった」
そんなことあるもんかい、と言いかけたララ婆の言葉を、パサリと広げられたエスティの扇子が遮った。
「そう悲観することはないぞ、小娘。一瞬ではあったが、肝心な場所は見えたからのぉ」
「えっ?」
目を丸くして見上げるリリィに、エスティは口元を吊り上げた。
「まずは見事と褒めてやろう。風竜が風を用いて遥か遠くの事象を『視る』ことは知っておったが、まさかその様をこの目で見られようとは思っておらなんだ。風竜独自の技を、万人に知れる型に落とし込んだは天晴れ。姉妹の妙技、人にしか考えつかぬ技術よな。その褒美に、我もひとつ、人が知るはずもない知識を披露してやろう」
フフン、と自慢げに笑うと、エスティはツカツカと縁側へと近づいた。
そこに出しっぱなしになっていた父ちゃんの褞袍を地面へ広げると、そこにバシャバシャと婆ちゃんたちの飲み残しの玄米茶、さらには鉄瓶に残っていたお茶も残さずかける。
「ちょっ、いきなり何するのエスティ!?」
父ちゃんの褞袍は赤茶色でゴミゴミした柄だし、お茶の染みくらいそんなに目立たないけど……。
「まあ、黙って見ておるがいい」
そう言いながらエスティは、懐から落花生の載ったクッキーをごそごそと取り出し、褞袍の上にひとつ置いた。
っていうかエスティ、お菓子常備してんの? 竜形態のときにはどうなってんの、それ?
玄米茶を吸い込んだ褞袍の上には、クッキーの甘い匂いに釣られて、何匹もの蟻が登ってきていた。
婆ちゃんたちも、いぶかしげにしながらもエスティと褞袍とを見比べていた。
03 魔物の領域とは
「良いか、小娘。我は女王ゆえ寛容じゃ。おぬしらにも分かりやすいよう説明してやる。まずは、この褞袍はおぬしらの暮らす大地じゃと思え」
「はい?」
なんだか突拍子もないことを言い出した……そう懐疑的に眉を寄せた全員の顔が、次のエスティの言葉で激変した。
「そして、この褞袍に染みた茶が、人が魔素と呼ぶもの」
人が知るはずもない知識――エスティの先ほどの言葉が頭をよぎる。
「この褞袍の上を歩く蟻が、おぬしたち人間じゃ。蟻は軽すぎるゆえ、濡れた褞袍の上を歩いても褞袍自体には何の変化もない。しかし、ここに――……」
エスティがクッキーのすぐ脇に、襟首を掴んだタヌキ――うちの飼い猫をひょいと置く。
突然竜に掴まれたタヌキは、置物のようにカチンと固まっていた。
「竜という重しを置く。すると」
ひたひたに濡れた褞袍はタヌキの重さの分だけ沈み、脚の周りにじわりとお茶が染み出してくる。
瞬く間に、脚の周りは小さなお茶の水たまりのようになった。
「これが、魔物の領域の成り立ちじゃ」
「「……なっ!!!」」
絶句する婆ちゃんたちに代わって、オイラが頭の中を整理しつつ確認する。
「ってことは、つまり、竜の住処が、魔物の領域になっていくってこと?」
「そうじゃ。竜の周りに魔素は染み出す」
「それじゃあ、魔物の領域は魔素の吹きだまり、っていうのは間違いなんだ」
なぜかエスティはチラッチラッとセバスチャンさんのほうを見つつ、軽く首を傾げた。
セバスチャンさんは無言での何かのハンドサインをパパパッと送ってきた。エスティが小さく頷く。
「ふむ、あながち間違いとも言い切れぬ。今は茶で説明したが、本来魔素は風にも流れるし、水にも溶ける。単に染み出しただけでは、竜の周りに留まり続けることはない。それを、魔物の領域と呼ばれる特定の地域に定着させているのは、そこにある、その菓子よ」
「クッキー?」
タヌキが生み出したお茶だまりに半分浸かったクッキーは、元々かなり柔らかかったのか、少しずつ溶け出して玄米茶にとろみを加えている。
「魔素を、定着させる存在……じゃと!?」
驚愕に顔を引きつらせるルル婆に、エスティはニマニマと得意げな笑みを向ける。
「知りたいか? 知りたいかの、大賢者?」
苦虫を噛み潰したような顔をしたルル婆に、エスティは楽しそうに、胸元から何やら小さなものを取り出すと、手首を返して軽くヒュッと投げつけた。
ルル婆の顔の前で、ララ婆の右手がパシッとそれを受け止める。開いた手のひらの上にあったのは、茶色い半円形の――……
「種? これって……回復の柿の!?」
回復の柿というのは、魔物の領域で魔獣が偶に落とす回復アイテムだ。回復薬より効果は高いが、傷みやすく魔物の領域の外に持ち出せないデメリットがある。
見慣れた種に思わず声をあげると、エスティは満足そうに頷いた。
「さよう。おぬしらが回復の柿と呼ぶものは、トレントの実なのじゃ」
「トレントでしゅと!?」
婆ちゃんたちはビックリしているけど、オイラはいまいちピンとこない。なんかどっかで聞いたことがある気もするけど……?
「トレントって、魔獣?」
「トレントってのは、まぁ植物系の魔物の一種じゃわ。そこの『無限の荒野』によくいる鬼アザミや鬼栗なんかも植物系の魔物じゃね。ただ、トレントが他とは決定的に異なるのは、自ら動けるってことじゃと言われておる」
ルル婆の解説に、オイラの頭にうにょうにょと蔓を動かす鬼アザミと、根っこで獲物を捕まえる鬼栗が浮かぶ。
「って、鬼アザミも鬼栗も動くよね? それに、言われている……ってルル婆でも見たことないの?」
「普通の植物系の魔物は、枝葉や蔓、根を動かすことはあっても、一度根ざした場所から動くことはないし、距離をとれば襲われることも追いかけてくることもないじゃろ? しかしトレントは、『歩く』と言われておるんじゃ。ただ、ほとんどの魔物図鑑に載っているほど有名な魔物であるにもかかわらず、目撃例は極端に少ないんじゃよ。下手をしたら、そこのチギラモグラよりも生息数が少ないのかもしれないね」
言われて、オイラは首元の黒モフへと視線を落とす。オイラからだと顔はよく見えない。今までクースーピーと寝息が聞こえていたけれど、自分の話題になったと分かって起きたのか、くあっ、とあくびの音がした。
そこに、エスティの不思議そうな声がした。
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