胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

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肆の抄 体育祭後編

其の伍

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 ※
「高村先生、バンザーイ!」

 赤組応援席のボルテージは最高潮に達している。
 風のごとく駆け抜けた高村の勇姿に惚れ惚れした女子生徒は、高村が応援席に戻ってくるや、みな一気に手鏡を覗いて前髪の割れを気にし出す。
 姿こそみえないが、喜び躍る環奈のうしろで小町もいっしょに小躍りしている。
「さあこれであとはお前たち、選抜対抗のみとなった」
 高村は快走の疲れも見せずににやりとわらった。
「選抜でも学年別の一位のみに点数がわずかやけれども加算される。一位の入る点数は十点。つまりいま七点差の青組には、選抜で勝てば一発逆転の機会というわけや」
「かならず勝ちます」
「先生が約束守ってくれたんや、俺たちも守らなな」
 恵子と柊介の瞳に、弱気な心は一筋として見えはしない。
「たのむで。お前たち四人にかかってる。柿本、明夫、松田、柊介。大丈夫、勝てる」
 高村がひとりひとりの背中をかるく叩いた。
 四人は、入場門へと駆ける。
 赤組応援席は先ほどまでの騒がしさは露と消え、糸が張りつめたような空気が漂っている。しかしそれをぶち壊したのは、やはり彼らだった。
「よおし、最後の応援だーッ!」
 廿楽。
「ここまで食らいついた赤組の本気を、いまこそ見せるときが来た!!」
 潮江。
 環奈は八郎に支えられながら重そうに赤組の旗を掲げ、仙石はいつの間にか手ずからカメラを回している。
「たのむわよ、恵子……みんな」
 松子は祈る。京子は柊介を想い、春菜はハンカチで涙をぬぐう。
 真剣な顔で武晴は明夫を見つめて、環奈を支える八郎は放送席のとなりにきらめく優勝旗を見た。
「おっしゃあ、青組ィ!」
 八郎はさけんだ。
 青組応援席がぎろりと赤組応援席をにらむ。
「あの優勝旗、うちがもろたで。見とけよ、いてこましたらァ!」
 挑発。
 赤組応援席は咆哮をあげた。
 しかし青組応援席はクールにそれを受け流し、涼しい顔でグラウンドに目線を投じた。
「ようしお前ら、声出せ!」
 赤組団長が声を張る。
「いっけーいけいけいけいけあーか!」
「いっけーいけいけいけいけあーか!!」
 一年までもが声に続いた。
「おっせーおせおせおせおせあーか!」
「おっせーおせおせおせおせあーか!」

「いーけ! おーせ! あーかーぐーみ!!」

 選抜組は入場し、選抜一年の第一走者がスタートの構えをとった。
 これが、泣いても笑っても最後の闘い。
 位置について。
「よーい!」
 パンッ
 一年生が一斉に駆け出す。
 各色の応援席が一気に声をあげた。
 一年生の走者は四名。ひとりの距離は二百メートルである。
 第三走者がバトンを受けて走り出したのを見て、二年生第一走者である柿本瑞穂は立ち上がった。
「瑞穂、よろしく」
「まっかしときィ」
 恵子のことばに、瑞穂はあかるくウインクを返す。
 第四走者が走り込んできた。瑞穂は「よっしゃ」とちいさくつぶやくと、バトンを受け取って駆けだした。
 グラウンドの反対側。
 二年生第二走者として明夫がラインに立っている。柊介はなにも言わなかった。瑞穂が駆ける。青組走者と拮抗して駆け込んでくる勢いだ。明夫は前を向いた。
 足音を聞く。
 明夫は弓道で養った不動心をこころにまとった。
 ちらと後ろを見る。ぼんやりと歪む視界のなかで、瑞穂の持つバトンだけがくっきりと見えた。
「千堂!」
 瑞穂が声を出した。
 それを合図に明夫が駆け出す。手にバトンが乗ったのを感じて、明夫はぐんとスピードをあげた。
「チッ」
 と、横を走る青組走者──倉持勇斗の気配がする。しかし明夫は前だけを見て走った。足の速さではこいつに勝つ自信があった。
「千堂ッ」
 松田恵子。
 ちいさな身体がこちらに手を振っている。明夫の足はさらにスピードを増す。メガネのない視界のなかで、やはり彼女だけはくっきりと見えた。
「松田!」
 さけんだ瞬間、恵子がふっと微笑した。──ような気がした。
 がむしゃらに手を前に突き出すと、バトンはぴったりと恵子の手に乗った。
「サンキュ!」
 という言葉とともに恵子が駆けていく。
 明夫はグラウンドの内側にはけてその行く先を目で追いかける。彼女はぐんぐんとスピードを増していった。青組はもはやそのスピードに追い付けていない。
 二年生第四走の有沢柊介は、恵子の走りを目で追う。残り三十メートルほどになったときに前を向いて膝をゆるめた。
「有沢ッ」
 という恵子の声。
 軽く足を前に出す。バトンが手に乗った。
「おう」
 そして柊介は駆けだした。
 なんという速さだろうか。柊介はおそらくこの選抜メンバー全学年のなかでも、もっとも速かったに違いない。
 走る柊介の視界に、ちらりと赤組応援席が映る。
 柊介はかるく頬をゆるめて二百メートルを走り、三年生の第一走者にバトンを手渡した。
 それからすぐにグラウンドに寝転がり、空をあおぐ。
「は、ハッ。うあーッしゃあ!」
 勝った。
 青組に勝った。
 雄叫びをあげる柊介を驚いたように明夫が見つめる。彼がここまで興奮するとはめずらしい。しかし気持ちはわかる。普段はおとなしい明夫でさえ腹の底から叫びたい気持ちでいっぱいだったのだから。
 ────。
 そのまま選抜三年生が順位をキープしたことで、赤組は見事一位を勝ち取ることができた。
 なんと驚いたことに青組走者が途中でバトンを落とすハプニングがあり、結果は四位。カラー順位でも赤組が一位に輝くことができたのである。
「やった、やったァ!」
 選抜組が応援席に戻った瞬間、赤組応援席は歓声に包まれた。
 いちばん飛び上がってよろこんだのはなぜか環奈で、潮江と廿楽に胴上げまでしてもらうほどだった。

「ようやったな、本当にようがんばった。偉かったぞう!」
 と高村は瑞穂と恵子の頭を撫でくりまわし、柊介と明夫を全力で抱きしめた。
 その後の閉会式で、学年順位発表の際、一位が二年三組──とアナウンスが流れたときは、あの恵子が涙を流したほどである。
「鬼の目にも涙ってか」
 と柊介はわらったが、その表情はどこか穏やかだった。
 応援合戦の優勝は黄組、カラー順位総合第一位は赤組として優勝旗が団長に手渡される。八郎はこみあげる涙をこらえてそのようすを見つめた。

 こうして、白泉高等部の第六十一回体育祭は幕を閉じたのであった──。

 ※
「さ、たーんとおあがり」
 焼肉屋にて。
 笑顔の高村は生徒全員を前に両手を広げてそういった。
 貸切状態の焼肉屋では、高村学級の生徒たちがそれぞれにっこりと肉やビビンバを頬張っている。
「ホンマに焼き肉ご馳走してくれるとは思わへんかった」
 と、柊介さえも目を丸くする。
 そのとなりで武晴が「お金ヤバない?」と不安げに肉を食べた。その言葉に高村はくすくすと肩を揺らす。
「子どもが金なぞ気にするな。ほれ二時間食べ放題やで──遠慮せんと肉を食え」
 さあ、松田恵子である。
 焼き肉禁止令をおのれに課していた恵子は、およそ三週間ぶりとなる焼き肉のうまさに涙を流している。
「うっ……う、うまい。高村センセェ──一生ついていきマス……!」
「こんでええわい」
 と高村は苦笑したが「来年は」といった表情は穏やかだった。
「お前たちが団長になるんやなぁ──」
「春菜、来年もたかむーのクラスがいいなー」
「いやうちの担任になってもろて来年も焼き肉おごってもらうんやし」
「いや、来年こそは俺の走りに期待してもらわんと!」
「おまえどうせまたコケるやろ」
「うるせー!」
 恵子と武晴の掛け合いが始まったのを横目に、八郎と柊介は高村を見た。しかし彼は、優しい顔でそれを眺めるのみ。
 何をいうこともない。
 むしろ席を立って、ひとりひとりの生徒たちのもとへ順繰りに声をかけに行く。選抜にて快走を見せた柿本瑞穂や、運動が苦手な生徒たちは、高村の来訪に手を打って喜んだ。
 やがて高村は、端に座っていた千堂明夫のとなりに移動する。
「よう、MVP」
「あ、先生──」
「ええ走りやったで」
「あざす……あ、でもあの。バトンもらうとき、不動心が役に立ちました」
「へえ。えらいやないか、そうかそうか」
 高村は何度もうなずいた。
 褒められた明夫は、とくになにを言うでもなく、しかし嬉しそうに肉を食う。
 その様子を眺めて、高村はぼそりといった。
「カッコええとこ見せられたんちゃうか」
「グフッ」
 明夫がむせる。
 みるみるうちに、耳まで真っ赤に染まるのがおかしくて、高村は声をあげてわらった。
「アホか。バレバレや」
「いや、はっ、え?」
「気付いとらんのは当事者だけやで」
 というのと同時に、高村の笑い声で皿と箸を持参した恵子や武晴が集まってきた。
「あ──」
「千堂、そこまで目ェ悪ないやん。フツーにバトンもろたで」
「いやそれは」
 明夫が口ごもる。それを横目に武晴はニヤケを隠しきれずに後ろを向いた。
「松田の存在感がひときわすごかったおかげや」
「はー?」
「人間のなかにゴリラが一頭おったら、そら存在感もすげェわな」
「…………」
 という柊介の茶々に邪魔はされたが、うつむいた明夫は非常に満足した顔をしていた。

 ────。

『しのぶれど 色にいでにけり わが恋は
        ものや思うと 人のとふまで』

『恋すてふ わが名はまだき たちにけり
       人知れずこそ 想いそめしか』

 その夜。
 夢路にあらわれたのは、ふたりの言霊。
 はてさてそれが、それぞれ誰の夢路であったのかは──。

 篁のみぞ知る。

 ※ ※ ※
 ──人に知られまいと隠した想いも、
   顔に出てしまっていたようだ。
   何か物思いをしているね、と
   人が尋ねるほどまでに。──

 第四十番 平兼盛
  天暦御時歌合、
  『初恋』の題にて詠める。
  「天気左にあり」とて勝ちにけり。

 ※ ※ ※
 ──恋をしているという私の噂が
   早くも立ってしまった。
   人に知られぬよう、心ひそかに
   想いはじめたばかりというのに。──

 第四十一番 壬生忠見
  天暦御時歌合、
  『初恋』の題にて詠める。
  名歌惜しくも負けにけり。

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