胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

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肆の抄 体育祭後編

其の肆

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 ※
「ようし、待ちわびた二人三脚がやってきよったで。これは負けられへんぞ、仲宗根」
「ウン。春菜これチョー練習したもんね、ぜったい負けねーし」
 二人三脚。
 入場門からグラウンドに駆け出した一同は、闘志をむき出しでコースを見る。何度も練習したとおりだ、負けるわけがない──と武晴はにやりとわらった。
「俺に預けろよ、滝沢」
「う、うん」
 京子は頬を染めた。
 柊介の横顔をちらと見る。いつになく闘争心を剥き出している姿に、またしつこいほど恋に落ちた。
「ま、さすがに二人三脚は速いやつもそうおらん。余裕やろ!」
「そんなタケちゃん、ヨユーぶっこいて。コケても知らんからね」
「いや俺がコケたらお前もコケんで」
「アッそーじゃん。絶対コケんなよ!」
「コケたら肉まんおごったるわ」
「きゃはは!」

 ──人はそれを、フラグという。
 第六走者として走り出したふたりが、ゴール手前で武晴の足がもつれたために盛大にズッコケたのは、フラグ樹立後わずか三分後のことだった。
 ゴール付近で泣きわめく春菜を見て、スタート地点から遠目に眺めていた柊介が「アホが調子乗っとるからや」と舌打ちをする。そして第七走者に控えていた同朋に声をかけた。
「おい夏木と胡桃沢──あんなボケかます必要あらへんからな。自分たちの走りでいったれよ」
「お、おう」
 そういう柊介と京子ペアは第八走者。
 第七走者がゴールするのを見届けて、柊介は足もとをぐっと縛った。
「安心せえ。俺はタケみたいにコケやせん」
「うん……信じてる」
「ようし言うたな、全力十割や。ついてこいよ!」
「はい!」
 そしてふたりはスタートを切った。
 京子は風のように走った。風になって、そのまま天に昇っていくような心持ちであった。
 己の身体すべてを柊介に託したことで京子の胸には不安のひとつだって残っていない。おもえば一瞬のできごとで、ふたりはスタートからぶっちぎりで一位を勝ち取った。
 ゴールテープを切り、一着の列に並ぶ。
 わずかに息を切らした柊介をじっと見つめると、彼はとびきりの笑顔で「一等とった!」とハイタッチをしてきた。
「ようやったやん、おまえ」
「ありがとう……あ、有沢くんがペアで、本当にうれしい」
 いまの京子にはこれが精一杯の告白だった。
 しかし柊介は額面どおりに受け取って、上機嫌に「せやろ」とわらう。そして六着の列に座る武晴ペアに視線をうつすと、ふたりは膝に顔をうずめていた。
「俺はボケハルみてぇにコケへんからな。……おいタケ、おまえ大丈夫か」
「…………」
 しかし武晴はちらりと柊介を見て、ふたたび顔を伏せる。
 いつもならばこんなこと、笑いのネタに変えてしまうはずの男がどうしたのだ、と柊介は眉をひそめた。そして「おまえ」と立ち上がる。
「選抜無理なんか」
「…………う」
 ハッと顔をあげた武晴の瞳に涙がにじんだ。柊介が駆け寄ると、彼の足は紫に腫れあがっている。
「お前──なにやっとんねん。はよ冷やせ!」
「せ、せやかて俺……怖うて動かれへんもんさ。選抜残ってんのに、これやったら固めてもスピード出えへん!」
「アホか。そない足しとるやつ選抜出すわけないやろボケ。代わりの選手立ててもろたらええんじゃ。はよ救護してもらえ」
「せやかて……つぎの選抜で勝てへんねやったら学年優勝出けへんやん。俺えらいことしてしもた──」
 とめずらしくしおらしい武晴の肩をぐいと支え、柊介は「アホ」とふたたび言った。
「ええから掴まれ。おまえ忘れたんか、選抜決めるとき俺が松田のゴリラに言うたやんけ」
「へ……?」
「ほかにもいてるやろってよ。お前しかおらんわけやない、まだまだ頼れるやつはなんぼでもおるねんから。そない気にすな」
「し、柊……」
 弱弱しくわらった武晴に、柊介は不敵な笑みを浮かべる。
(……とはいったものの)
 柊介は内心で焦っていた。
 誰が代わりをつとめるか──と考えたとき、たしかに走れるやつはたくさんいるが、果たして武晴ほどスピードの出る男がいるだろうかとめまぐるしく思考する。
 救護スペースに武晴を残し、二人三脚の退場に合流して応援席に戻ると、すでに話は恵子にまでわたっていた。
「尾白がリタイア……」
「うわあ、ここにきてかァ。つぎ青組に勝たれへんと逆転は無理やのに」
 八郎が頭を抱える。しかし恵子は冷静だった。
「いやまだいてる。──千堂」
「えっ」
 千堂明夫は肩を揺らした。
「正直、青組以外は敵やない。青組も、女子はうちと瑞穂やったら固いし、有沢やったら陸上部エースの若狭にも勝てる。問題はもうひとりの……倉持勇斗や。さっきクラス対抗でうちらに喧嘩ふっかけてきよったあの男。千堂、あいつ抜かそうとしとったやん。いける」
「そうか、雪辱晴らすチャンスやで!」
 と八郎は瞳をかがやかせた。
 しかし明夫は顔を青ざめさせて首を横に振る。
「せやけど、メガネがのうてバトンがちゃんと渡せるかどうか」
「そんなん気にせんでええ。バトンをもらうんは瑞穂からや、瑞穂は確実にあんたにバトン渡せるねん。それでもろたら、つぎの走者はうちや」
 恵子はまっすぐ明夫を見た。
「どんなバトンでもうちは絶対にもろたる。せやからあんたはただバトンを前に渡してくれたらええねん」
「…………」
「明夫──すまねえ」
 武晴だった。
 紫に変色していた足首はしっかりと固定され、その手には松葉づえが抱えられている。
「たのむ。おまえならぜったい勝てるよってに。走ってくれへんか?」
「…………わ、かった」
 明夫はうなずいた。
「大丈夫、ぜったい負けへん。つぎが松田やったら──俺、ぜったい渡せる」
「──よし」
 恵子は微笑した。
「せやったら選手変更してもらわな」
「わたしいってくる!」
 松子は駆けだした。その後姿を見送った恵子は、つぎの教員対抗リレーに参加するため入場門に立つ高村のもとへゆく。
「先生」
「おう松田」
「選手交代、千堂におねがいしました」
「明夫? そいつァええ。やられたら正攻法でやり返す──それが勝負っちゅうもんや。さすがやぞ松田」
 といった高村に、恵子はわずかにわらう。そして高村のうしろに控えていた須藤真澄をちらと見て、
「せやから女狐駆除はおねがいしまーす」
 と言い放ち、応援席へと戻っていった。
「んまあ!」
「はっはっは、まかしときい!」
「高村先生!」
 須藤真澄は、顔を真っ赤にして怒った。

 校長チーム対教頭チーム。
 なんと、五十を超えたツートップが第一走者として、校長率いる寒色チーム対教頭率いる暖色チームの教員が闘うというこの競技。教員が入場するなか、放送席のアナウンスでは「死なない程度にがんばってください」などと不敬な言葉が飛んでいる。
 すでに入場の駆け足で息を切らす校長と教頭がスタートラインに立つ姿は、どうにもおかしくて、生徒たちからは笑いの渦が巻き起こった。
 赤組応援席では、潮江と廿楽が興奮したように旗を振っている。
 彼らが現役だった六年前からこの高校に在籍する教員も多い。校長や教頭もまさしくそうだ。なつかしさと嬉しさで応援せずにはいられないらしい。
「須藤先生もアンカーですか」
「ええ、若いころは国体選手やったんです。小さいころから走り回っていた野生児でしたから、基礎体力も自信はあるんですよ。それに──ひとを女狐呼ばわりする生徒をかばう人には負けたないですわね」
「ふっふっふ、我が子かわいさですよ。それにしても野生児とは笑わせますな」
「え?」
「野を駆け山を登り、沖へ流れ鬼を統べるこのタカムラが、本物の野生児というものを見せてさしあげますよ」
 と、いった高村は底意地のわるい笑みを浮かべた。

 パンッ

 という合図とともに、五十代の親爺がふたり懸命に駆けだした。
 足をもつれさせながら二百メートルを走り切り、次の走者へバトンを手渡したのはほぼ同時のタイミング。走り終えたふたりはごろりとグラウンドに転がって、息も絶え絶えに笑っている。
 生徒たちはいまだかつてないほどに爆笑し、声を張って声援を送った。
 みな若かった時分の感覚と現実の身体のギャップによって、グラウンドに転がったりバトンを落としたり。大人特有の感覚なのか、子どもからすれば理解ができないようで生徒たちはげらげらと笑う。
 高村にバトンを渡すのは、さきほど話した八田弘道。教員のなかでは年若の男である。
 なんとも面白いことに両チームは非常に拮抗した走りを見せていた。
 高村六道と須藤真澄。
 とうとうアンカーが準備にはいる。
 赤組応援席が色めきだつ。
「高村せんせぇ!」
 八田が真っ赤な顔をして走り込んできた。ほぼ同タイミングで、寒色チームの男性教員も駆け込んでくる。
 高村が、真澄が、バトンを受け取った。
(勝負!)
 と、真澄が前を向く。
 ぐんと風を切って足を踏み出すと、若干うしろに高村が遅れたように見えた。
(口ほどにもないわ)
 真澄がふっと口から息を漏らしたときである。
 風が右頬のみを撫でた。
 ハッと顔をあげると、いつの間にか高村が長い足を前に運んで、ぐんと距離をあけている。
「なっ」
 真澄は眉をしかめた。カッと頭に血がのぼり、がむしゃらにその背中を追いかけた。
 しかしその広い背中はなぜか遠ざかるばかり。
 ゴールまでの二百メートルは、永遠のような一瞬のような。真澄は三歩ほど及ばず、高村が身体で切ったゴールテープを横目に、ゴールラインを越えた瞬間にグラウンドへ身を投げた。
「はっ……は、ハッ」
「はは、ハハハッ」
 笑い声に、ふと横を見る。
 高村がおなじようにグラウンドに転がっていた。
「はーあ。こんなに走ったんは久しぶりで、死にそうや。はは、ははは──」
「……完敗です。くやしいけど」
 どっと額から汗が出た。
 真澄は化粧が落ちる、とぼんやり思ったけれど、そんなことはどうでもよかった。勝負では負けたけれど、思いきり走ったのが気持ちよくて最高の気分だったからだ。
『高村先生が僅差でゴール! 教頭チームの勝利です!」
 アナウンスが流れ、生徒たちはワッと歓声をあげる。
 上半身を起こして、じんわりと火照る身体を感じていた真澄に、高村が手を差し伸べてきた。
「お疲れ様です、いや。ほんとうに」
「こちらこそ。ありがとうございました」
 真澄はふっと笑みをこぼす。その手を取って立ち上がった。
 ふと高村がうれしそうに「ああほら」とわらった。
「化粧が落ちてます」
「いやだ。あんまり見んでください」
 真澄は顔をうつむける。しかし高村はなぜか弾んだ声で「いや先生」といった。
「それくらい化粧がないほうがずっときれいですよ、前から言いたかった」
(えっ!)
「あれ、須藤先生」
 教員が退場するなか。
 となりを走る八田が真澄の顔に気がついた。
「アンカー激戦でしたね、顔真っ赤ですよ」
「…………どうも!」
 言われなくてもわかっている。
 自分でもさっきから、やっと落ち着いてきたはずの身体の火照りが頬に集中するのを感じていたのだから。
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