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伍の抄 黒犬
其の肆
しおりを挟む和本製作も終わりごろのこと。
鬼一はその日も変わらずに、山荘へ向かっとってん。
その日は朝から雨がひどうての。
番傘片手に駆け足で山をのぼったが、いつもよりすこし遅れてしもうた。あたりは雨に濡れた土の匂いでいっぱいになって、鬼一はその異変になかなか気が付かへんかったんや。
そう、異変。
山荘に立ち込める血の匂いにな。
…………。
中は、荒れ放題やった。壁のところどころに血が飛び散って、そらぁひどい有様でな。完成間近の和本が見当たらん。そのうえ部屋のどこにも定家がいてへん。おまけにハルカゲもおらんときた。
鬼一は番傘を投げ捨ててあたりを探し回った。
ほどなく見つけた場所は、すこし山深うなったところ──。
ハルカゲがおってん。
それも黒い獣姿の──ハルカゲがよ。
その周りには、おそらく山賊であろう腹を食い破られた死体がごろごろ転がっとってな。さすがの鬼一もその凄惨さに動けんくなってしもうたほどやった。ほんでもハルカゲが必死になにかを舐めとるのに気が付いて、声をかけて近寄った。
そしたらな、定家がおってん。……ハルカゲの足もとに。
外傷はない、が。死んどった。
ハルカゲはその顔をずーっと舐めてた。クンクン鳴いて、舐めてたんや。
和本?
ああ、あったよ。ハルカゲが持ってた──。
どうやら山賊がそれを盗み出して、定家とハルカゲがあとを追っかけたらしいねんな。定家にとっちゃいのちよりも大事なもんやったさかいに。……ほんでも老齢がたたって倒れてしもた。
ハルカゲはそらァもう怒って、とうとう山賊を食い殺してしもうた、と。
そう、────ころしたんや。
そうやな。鬼一はハルカゲと約束しとった。
人を殺したら永久に封じる、と。
そうやで。
もちろん正当防衛や。そんなことは鬼一とて分かっておったわい。
ほんでも、鬼一はもう終わりにせんといかんと思うた。
ハルカゲもわかっとったみたいでよ。鬼一が言い出せんところを見て自ずから望んだんや。
だから、鬼一は選んだ。
封印する場所を、三人で楽しゅうつくった和本のなかに──と。
それからふたりで、和本を完成させてまもなく……鬼一はハルカゲを封じた。
──封印をとく鍵を、己の血と定めて。
鬼一はそうして定家の死体とともに己を焼いた。そう、二度と封が解かれぬよう、己の血をこの世から消し去るために。
うん、焼身したんや。
これまた不思議なことに、ハルカゲが和本のなかに封じられたと同時に、鬼一の不老不死も終わりを告げた。
…………鬼一はな。
燃されるなかの死ぬ間際、術をのこした。
己を燃す木屑から式をつくったんや。
式とは、式神のことやな。
その式に命じた。
己が死んだ後、この和本を御蓋山の禁足地深くに埋めること。
そしてお前は永久に和本とともにあれ──と。
……────。
鬼一の、ハルカゲに対するせめてもの慰めやな。
こうして鬼一の長い長い人生は幕を閉じ、和本は永い永い眠りについた──。
なあ、胸糞わるい話やろ。
ほんでもこれが和本にまつわるすべての話。
せやからなんとしても言霊を和本に戻して、逃げ出したハルカゲをもとに戻さんといかん。
わかるやろ。
──それが、三人でつくった和本のあるべき姿なんや。
────。
さあ。
文次郎が、腹が減ったという顔しとる。もうやめよう。
長い話をすまんかったな。……そういうわけなもんで、わるいがいますこし、協力してくれ。
八郎、柊介。──環奈。
たのむで。
※
──。
────。
高村居宅から帰る道すがら。
夢かうつつか、どこかフワフワとした気分のまま八郎はじっと黙りこくっている。
文次郎の息づかいと、地面を歩く爪音だけが響く。
柊介は、
「じゃあな」
と唐突にいった。
ふっと顔をあげる。いつの間にか刑部家の前についている。
柊介の家はさらにその先にあるのだ。
「あ、──なんやもう帰るん。夕飯いっしょに食べようや」
「今日はめずらしく光が作るねんて。食わんと拗ねるで、帰る」
と、柊介はめんどくさそうにつぶやいた。
光とは、柊介が中学三年生のころからいっしょに住んでいる彼の叔父である。八郎は「へえ」と驚いた顔をした。
「光さん自分で料理出来んねや。こんど食わしてもらお」
「たぶんカレーや。ほな、……」
言いかけて、柊介は環奈を見た。
よほどに眠いのか立ったまま白目を向く彼女の額に、柊介は強めにでこぴんをする。
「イデッ」
「お前ははよう布団入って寝ろ」
「ウゥ~ン──」
「なあ、しゅう……」
「なに」
「できるかな、おれたちに」
「は?」
「ハルカゲを──見つけられるかな」
「…………」
弱気なことをいう。
柊介は一瞬の沈黙ののち、ちいさくわらった。
「本がお前を選んだのやろ。なら、でけへんことがあるかよ」
「…………」
そして柊介はさっさと自分の家へ歩き出してしまった。
その背中を見送る八郎の胸には、込み上げるなにかがある。
※
とても高い山のうえ。
つよく風が吹きすさぶなか、八郎はひとり眼下の町を見下ろしている。
バサバサとはためく己の着物は見慣れぬ黒染めの織物だった。
八郎の胸は、熱く気高い誇りに満ちあふれている。
それがなにに対してなのか、今回ばかりは八郎もわかっていた。
──ハルカゲの帰る場所。
なんとしてもはやく、それをととのえてやらねばならぬと思った。ととのえて、ハルカゲを連れ戻したら。
そうしたらきっと、篁も。
あんなに寂しく笑うこともなくなるはずだ。
そう思った。
どうか、どうかみんなが笑って暮らせるように。
願いを込めて。──
『おほけなく 浮世の民に おほふかな
我がたつ杣に 墨染の袖』
※ ※ ※
──身のほど知らずながら、
辛い浮世を生きる民を包みたい。
僧衣であるこの墨染の袖で
覆い守るように。──
第九十五番 前大僧正慈円
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仏法をもって民を救わんと
決意した折に詠める。
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