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拾参の抄 漸進
其の伍
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その日の夜。
明夫は夢のなかで恐れていた。──明日が来ることを。
どんな顔をして松田恵子と顔を合わせればいいのか皆目見当もつかない。
気まずくなっていたらどうしよう。
隕石落ちねえかな、いま。
キモイなんて言われたら──立ち直れる気がしない。
あの表情はいったいどんな感情によるものだったのか。
このさき、どうなっていくのか。
『由良の途を わたる舟人 かぢをたえ
ゆくえも知らぬ 恋の道かな』
まただ。また、和歌。
そしてこの人も──また。
「ふっふふははは、やっかいな女に惚れたもんよな」
高村である。いや、高村の顔こそしているがその形は昔の貴人のようだ。
しかしこれは夢だから、明夫がそれを疑問に思うことはない。
「初恋からハードモードッすよ……」
「いいじゃないか。茨道の恋、けっこうけっこう!」
「そ、そんなに茨でしょうか」
「あ──いやいや。ことばのあやというもんだ。うん、……」
タカムラは言いにくそうにわらう。
※ ※ ※
──流れの速い由良川を漕ぎ渡る船頭が、
櫂をなくして行先もわからずただよう。
そんなように、わたしの恋も
行く末のわからぬものだよ。──
第四十六首 曽禰好忠
題知らず。
片恋の悩める想いを、
由良川にあてて詠める。
※
いつかだれかが言った名言がある。
──食物に対する愛より誠実な愛はない。
恵子は、そう思っている。
もしも、世界中のなによりも愛する人と一緒にいて、一週間なにも食べていないとき。
小さなパンをひとつだけ見つけたら、人はどうするのだろう。
────。
「千堂」
おはよ、と声をかけたのは恵子だった。
あまりに突然のことで明夫の思考と動作は一斉に停止した。──が、それはあくまで一秒程度の話である。
おお、と明夫がつぶやく。
「おはよう。……」
まさか話しかけてくるとは夢にも思わなかった。いや、本当に。明夫の手のひらは急激にじっとりと手汗をかいてきた。
「今日もなんか持ってない?」
「あ、え。ああ──うん。ほんとすごいな、嗅覚」
とリュックからミニドーナツの袋を取り出す。なんの気なしにそのまま恵子に渡すと、彼女はエッ、とおどろいた。
「ぜんぶ?」
「あ、いや」
「千堂さァ」
「…………」
恵子の声がわずかにぴりつく。千堂の心臓がドッドッと脈打った。
が、
「めっちゃいいヤツやん」
ミニドーナツを袋ごと受け取って、恵子は花が咲いたようにわらったのだ。
「…………」
「アンタの友だちってロクなのいてへんけど、千堂は見直したわ」
「……いや、俺はべつに。その、松田が」
好きだから、とは言えない。
けれどほかに理由もない。
「いっぱい食べてんのを見るのは、嫌いやないんで。……」
苦しい言い訳となったが、明夫にとっては人生でもっとも勇気を出した瞬間だった。
もちろん、恵子はそのままの意味で捉えているようだ。しかし明夫のなかの達成感はじゅうぶんだった。
「なるほどね」
彼女のなかで、納得したようである。
いったいなにが『なるほど』なのか、と明夫が首をかしげると、彼女は二歩、三歩と先に歩みを進めて振り返った。
「じゃあWin-Winやな」
「…………」
呆気にとられる明夫。
今後も頼むで、といって先にゆく彼女の後ろ姿を見つめて、くしゃりと前髪をかきあげる。
「『いっぱい食べる君が好き』と君が言ったから」
突如。
うしろから声をかけられた。
ハッと振り返る。
そこには、武晴、八郎、柊介の三人がニタァとわらって明夫の顔を覗き込んでいる。
「九月六日はカロリミット記念日──おめでとう明夫!」
そして武晴は、満面の笑みで握手を求めてきた。
明夫は赤面し、
「おま──おまえら!」
と怒った。
──。
────。
ドーナツの袋を抱え、恵子はほくそ笑む。
──食物に対する愛より誠実な愛はない。
恵子は思う。
一週間断食の折、小さなパンを見つけたならば、自分は真っ先にすべてを食らう自信がある。
だって、世界中の何よりも愛する人なんていないから。
じゃあ、みんなは?
潮江は。廿楽は。松子は。高村は。千堂なら──どうするだろう。
──松田がいっぱい食べてんのを見るのは、嫌やないんで。
そういった彼は、一週間という危機的状況でも同じことを言うのだろうか。
恵子は思う。
もしもそんな状況で自分が誰かを愛するならば、それはきっとすべてのパンを分け与えてくれた男だろう、と思った。
そしてそのパンを半分こにして、ふたりで生き延びたい。
それはきっと恵子にとって、食物にも勝る──究極の愛、である。
明夫は夢のなかで恐れていた。──明日が来ることを。
どんな顔をして松田恵子と顔を合わせればいいのか皆目見当もつかない。
気まずくなっていたらどうしよう。
隕石落ちねえかな、いま。
キモイなんて言われたら──立ち直れる気がしない。
あの表情はいったいどんな感情によるものだったのか。
このさき、どうなっていくのか。
『由良の途を わたる舟人 かぢをたえ
ゆくえも知らぬ 恋の道かな』
まただ。また、和歌。
そしてこの人も──また。
「ふっふふははは、やっかいな女に惚れたもんよな」
高村である。いや、高村の顔こそしているがその形は昔の貴人のようだ。
しかしこれは夢だから、明夫がそれを疑問に思うことはない。
「初恋からハードモードッすよ……」
「いいじゃないか。茨道の恋、けっこうけっこう!」
「そ、そんなに茨でしょうか」
「あ──いやいや。ことばのあやというもんだ。うん、……」
タカムラは言いにくそうにわらう。
※ ※ ※
──流れの速い由良川を漕ぎ渡る船頭が、
櫂をなくして行先もわからずただよう。
そんなように、わたしの恋も
行く末のわからぬものだよ。──
第四十六首 曽禰好忠
題知らず。
片恋の悩める想いを、
由良川にあてて詠める。
※
いつかだれかが言った名言がある。
──食物に対する愛より誠実な愛はない。
恵子は、そう思っている。
もしも、世界中のなによりも愛する人と一緒にいて、一週間なにも食べていないとき。
小さなパンをひとつだけ見つけたら、人はどうするのだろう。
────。
「千堂」
おはよ、と声をかけたのは恵子だった。
あまりに突然のことで明夫の思考と動作は一斉に停止した。──が、それはあくまで一秒程度の話である。
おお、と明夫がつぶやく。
「おはよう。……」
まさか話しかけてくるとは夢にも思わなかった。いや、本当に。明夫の手のひらは急激にじっとりと手汗をかいてきた。
「今日もなんか持ってない?」
「あ、え。ああ──うん。ほんとすごいな、嗅覚」
とリュックからミニドーナツの袋を取り出す。なんの気なしにそのまま恵子に渡すと、彼女はエッ、とおどろいた。
「ぜんぶ?」
「あ、いや」
「千堂さァ」
「…………」
恵子の声がわずかにぴりつく。千堂の心臓がドッドッと脈打った。
が、
「めっちゃいいヤツやん」
ミニドーナツを袋ごと受け取って、恵子は花が咲いたようにわらったのだ。
「…………」
「アンタの友だちってロクなのいてへんけど、千堂は見直したわ」
「……いや、俺はべつに。その、松田が」
好きだから、とは言えない。
けれどほかに理由もない。
「いっぱい食べてんのを見るのは、嫌いやないんで。……」
苦しい言い訳となったが、明夫にとっては人生でもっとも勇気を出した瞬間だった。
もちろん、恵子はそのままの意味で捉えているようだ。しかし明夫のなかの達成感はじゅうぶんだった。
「なるほどね」
彼女のなかで、納得したようである。
いったいなにが『なるほど』なのか、と明夫が首をかしげると、彼女は二歩、三歩と先に歩みを進めて振り返った。
「じゃあWin-Winやな」
「…………」
呆気にとられる明夫。
今後も頼むで、といって先にゆく彼女の後ろ姿を見つめて、くしゃりと前髪をかきあげる。
「『いっぱい食べる君が好き』と君が言ったから」
突如。
うしろから声をかけられた。
ハッと振り返る。
そこには、武晴、八郎、柊介の三人がニタァとわらって明夫の顔を覗き込んでいる。
「九月六日はカロリミット記念日──おめでとう明夫!」
そして武晴は、満面の笑みで握手を求めてきた。
明夫は赤面し、
「おま──おまえら!」
と怒った。
──。
────。
ドーナツの袋を抱え、恵子はほくそ笑む。
──食物に対する愛より誠実な愛はない。
恵子は思う。
一週間断食の折、小さなパンを見つけたならば、自分は真っ先にすべてを食らう自信がある。
だって、世界中の何よりも愛する人なんていないから。
じゃあ、みんなは?
潮江は。廿楽は。松子は。高村は。千堂なら──どうするだろう。
──松田がいっぱい食べてんのを見るのは、嫌やないんで。
そういった彼は、一週間という危機的状況でも同じことを言うのだろうか。
恵子は思う。
もしもそんな状況で自分が誰かを愛するならば、それはきっとすべてのパンを分け与えてくれた男だろう、と思った。
そしてそのパンを半分こにして、ふたりで生き延びたい。
それはきっと恵子にとって、食物にも勝る──究極の愛、である。
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