112 / 139
拾玖の抄 暗雲の兆し
其の弐
しおりを挟む
二十六聖人殉教地。
この場所では、かつて豊臣秀吉の命により二十六名のカトリック信者が磔刑に処されたという歴史がある。思想の自由が当たり前になった現代、当時の処刑場跡には、二十六名の人物彫刻が施されたレリーフが立つ。
「…………」
高村は手鏡を覗く。
本来のつかいかたではないけれど、いまだけ、真実を映し出すというこの『浄玻璃鏡』に頼らざるにはいられなかった。
天に向かってまっすぐに伸びる十字架。張り付けられた人びと。泣き崩れる親にむかって『泣かないで』と微笑む子ども──。
「泣かないで、か」
鏡からレリーフに視線をうつした高村のくちびるから、ぽつりと漏れた。
レリーフに彫刻された二十六人のうち、少年が三人いることに気づく。彼らは最期まで、その信仰心が一瞬もブレることなく神に召されていったという。
(皮肉なものだ)
と、手鏡を懐にしまったときである。
皮肉やなァ──というつぶやきが真後ろから聞こえてきた。ぎょっとしてうしろを振り向くと、なぜか高村を盾にして八郎およびいつものメンバーがレリーフを見上げている。
「やっほ、センセ」
「なんやおまえら。びっくりしたやないか」
「だって先生がえらいぼうっと突っ立ってるからさあ。声をかけるにかけられんくて」
「……あっそう。いま皮肉やて言うたんだれや」
と高村が汗をぬぐうと、武晴が「ハイハーイ」と元気よく手をあげた。
だってさあ、と彼はふたたびレリーフを見上げる。
「救いを求めて神を信じたのに、そのせいで身をほろぼしたんやで。皮肉のほかのなにもんでもないやん」
「えっタケ、すげえ深いこと言うやん」
「やろ」
八郎の感嘆に胸を張る武晴。しかしそのとなりでレリーフをじっくりと見つめていた明夫は首を振った。
「でも気持ちは救われたんちゃうんか。なにも信じてへん人が迎える最期より、ずっと希望に満ちた最期やったかもしれん。……信仰ってそういうもんちゃうか」
「こ、このメガネ。たまに核心をつきよる」
一同はぎょっとして明夫を見据える。
その視線が恥ずかしかったのか、明夫はすっかり閉口してしまった。
「明夫のいうとおりやなァ」
高村がいった。
「『信仰をやめろ』と言われて『ハイ』とうなずき、このときに命が助かっていたとしたら──今わの際、きっと後悔に押しつぶされて何倍も苦しむ羽目になったかもしれんな」
「やっぱ宗教って怖ェ」
「ちゃうで、武晴。こうして彼らの勇姿を後世に残してでも伝えたいのはそこやない。明夫はわかるか?」
「えっ──」
とつぜん振られ、明夫は口ごもる。
ふたたび視線をレリーフに向け、
「強さ……?」
と自信なさげにつぶやいた。
ほかの三人が高村の顔色をうかがう。正解の是非を問うている目だ。
「うん。うん──せやな。強さ。心の支えともいえるかな。彼らは絶対的な存在である神を信じたことで、おのれの行動、思考すべてに確信をもつことができた。自分に確信が持てると人はつよくなる。失敗をおそれなくなって行動的になる──とかね」
「でも、宗教が戦争を引き起こしてるんは事実やで」
「そのとおりや武晴。でもそれは、人びとが外に神さまを見出すからやねん」
「外?」
ペットボトルのお茶を傾けた柊介の手がとまる。
「そう。神さまっちゅうのはな、ホンマはいつでも自分の内にいるものやねん。いっつも自分の内から自分のことを見守ってるもんや」
「その神さまってだれ?」
と袖をつかむ八郎に、「だれ──」と高村は苦笑した。
「誰かのう。だれでもあり、だれでもない。けれどその神さまを信じることができなきゃ、人はいつまで経っても自分の思うままに歩かれへん。だからといって……それはとてもむずかしいことやねんけどな。なんでやとおもう、柊介」
「え、……そら、人は弱いからなんちゃうん」
「そのとおりやな。人は弱い。心はすぐに折れるし疲れたらなにもかも嫌んなる。ひどいこと言われたら嫌いになるし、人を愛せば欲が出る。まったくどうしようもないアホタレや。それでもこの世の地獄の果てに、死後はどうか極楽へと願って正しい生き方を望むもんやから、外に神さま見っけて自分を正してくれる存在に縋るんや」
つまり、と高村はレリーフに背を向けて街中へと歩き出す。生徒たちもつられてそのあとに続いた。
「自分を律する人になれっちゅうことや。人類がみなそうしたらきっと自分は自分と割り切って、宗教戦争も起こらんようになる。……まあ、でもそうなったらなったでつまらん世の中になりそうな気もするけどな」
「なんやそれ」
「人の世っちゅうのは、いつでも混沌として理不尽で、呆れるくらいしょうもないもんやねん。せやから、いろいろ言うてもたが──お前たちはお前たちのままであれ。きっと変わってくれるなよ」
念押しするように八郎と柊介、武晴、明夫の頭を順番に撫でていく。
まるでお別れのあいさつかのようで、八郎はおもわず「先生」と呼びかけた。
「ん?」
「せ、先生──先生、来年もおれらの担任になってや。変わらへんところちゃんと見たってくれよ」
「なんやねん唐突に」
あまりにもとつぜんの話題転換に、高村だけではなく武晴や明夫までもが肩を揺らして笑いだす。ただひとり、柊介だけは表情が固かった。
「せやってもう十月も終わりやん。二年生ってあと五ヵ月もないねんで、おれクラス替えいややもん。この高村学級で三年も持ち越したい」
「アホ。むりに決まっとるやろ」
「いややァ」
「おまえ、ハチ。駄々こねんなよいきなり!」
えも言われぬ焦燥。
八郎の胸のなかによどむ不安が、気を逸らせた。
「だいじょうぶ」
しかし高村はそういって微笑した。
え、と顔をあげた八郎は息を呑む。これまでに見たことのないほど、慈愛に満ちた笑みだった。
「ちゃんと見てるから」
「…………」
どこから、とは聞けなかった。聞けぬまま高村はほかの場所も見て回るといってさっさと離れてしまった。
その背中が遠くて、とおくて──八郎は心細さのあまりに奥歯をぎゅっと噛みしめ、涙をこらえるほどだった。
この場所では、かつて豊臣秀吉の命により二十六名のカトリック信者が磔刑に処されたという歴史がある。思想の自由が当たり前になった現代、当時の処刑場跡には、二十六名の人物彫刻が施されたレリーフが立つ。
「…………」
高村は手鏡を覗く。
本来のつかいかたではないけれど、いまだけ、真実を映し出すというこの『浄玻璃鏡』に頼らざるにはいられなかった。
天に向かってまっすぐに伸びる十字架。張り付けられた人びと。泣き崩れる親にむかって『泣かないで』と微笑む子ども──。
「泣かないで、か」
鏡からレリーフに視線をうつした高村のくちびるから、ぽつりと漏れた。
レリーフに彫刻された二十六人のうち、少年が三人いることに気づく。彼らは最期まで、その信仰心が一瞬もブレることなく神に召されていったという。
(皮肉なものだ)
と、手鏡を懐にしまったときである。
皮肉やなァ──というつぶやきが真後ろから聞こえてきた。ぎょっとしてうしろを振り向くと、なぜか高村を盾にして八郎およびいつものメンバーがレリーフを見上げている。
「やっほ、センセ」
「なんやおまえら。びっくりしたやないか」
「だって先生がえらいぼうっと突っ立ってるからさあ。声をかけるにかけられんくて」
「……あっそう。いま皮肉やて言うたんだれや」
と高村が汗をぬぐうと、武晴が「ハイハーイ」と元気よく手をあげた。
だってさあ、と彼はふたたびレリーフを見上げる。
「救いを求めて神を信じたのに、そのせいで身をほろぼしたんやで。皮肉のほかのなにもんでもないやん」
「えっタケ、すげえ深いこと言うやん」
「やろ」
八郎の感嘆に胸を張る武晴。しかしそのとなりでレリーフをじっくりと見つめていた明夫は首を振った。
「でも気持ちは救われたんちゃうんか。なにも信じてへん人が迎える最期より、ずっと希望に満ちた最期やったかもしれん。……信仰ってそういうもんちゃうか」
「こ、このメガネ。たまに核心をつきよる」
一同はぎょっとして明夫を見据える。
その視線が恥ずかしかったのか、明夫はすっかり閉口してしまった。
「明夫のいうとおりやなァ」
高村がいった。
「『信仰をやめろ』と言われて『ハイ』とうなずき、このときに命が助かっていたとしたら──今わの際、きっと後悔に押しつぶされて何倍も苦しむ羽目になったかもしれんな」
「やっぱ宗教って怖ェ」
「ちゃうで、武晴。こうして彼らの勇姿を後世に残してでも伝えたいのはそこやない。明夫はわかるか?」
「えっ──」
とつぜん振られ、明夫は口ごもる。
ふたたび視線をレリーフに向け、
「強さ……?」
と自信なさげにつぶやいた。
ほかの三人が高村の顔色をうかがう。正解の是非を問うている目だ。
「うん。うん──せやな。強さ。心の支えともいえるかな。彼らは絶対的な存在である神を信じたことで、おのれの行動、思考すべてに確信をもつことができた。自分に確信が持てると人はつよくなる。失敗をおそれなくなって行動的になる──とかね」
「でも、宗教が戦争を引き起こしてるんは事実やで」
「そのとおりや武晴。でもそれは、人びとが外に神さまを見出すからやねん」
「外?」
ペットボトルのお茶を傾けた柊介の手がとまる。
「そう。神さまっちゅうのはな、ホンマはいつでも自分の内にいるものやねん。いっつも自分の内から自分のことを見守ってるもんや」
「その神さまってだれ?」
と袖をつかむ八郎に、「だれ──」と高村は苦笑した。
「誰かのう。だれでもあり、だれでもない。けれどその神さまを信じることができなきゃ、人はいつまで経っても自分の思うままに歩かれへん。だからといって……それはとてもむずかしいことやねんけどな。なんでやとおもう、柊介」
「え、……そら、人は弱いからなんちゃうん」
「そのとおりやな。人は弱い。心はすぐに折れるし疲れたらなにもかも嫌んなる。ひどいこと言われたら嫌いになるし、人を愛せば欲が出る。まったくどうしようもないアホタレや。それでもこの世の地獄の果てに、死後はどうか極楽へと願って正しい生き方を望むもんやから、外に神さま見っけて自分を正してくれる存在に縋るんや」
つまり、と高村はレリーフに背を向けて街中へと歩き出す。生徒たちもつられてそのあとに続いた。
「自分を律する人になれっちゅうことや。人類がみなそうしたらきっと自分は自分と割り切って、宗教戦争も起こらんようになる。……まあ、でもそうなったらなったでつまらん世の中になりそうな気もするけどな」
「なんやそれ」
「人の世っちゅうのは、いつでも混沌として理不尽で、呆れるくらいしょうもないもんやねん。せやから、いろいろ言うてもたが──お前たちはお前たちのままであれ。きっと変わってくれるなよ」
念押しするように八郎と柊介、武晴、明夫の頭を順番に撫でていく。
まるでお別れのあいさつかのようで、八郎はおもわず「先生」と呼びかけた。
「ん?」
「せ、先生──先生、来年もおれらの担任になってや。変わらへんところちゃんと見たってくれよ」
「なんやねん唐突に」
あまりにもとつぜんの話題転換に、高村だけではなく武晴や明夫までもが肩を揺らして笑いだす。ただひとり、柊介だけは表情が固かった。
「せやってもう十月も終わりやん。二年生ってあと五ヵ月もないねんで、おれクラス替えいややもん。この高村学級で三年も持ち越したい」
「アホ。むりに決まっとるやろ」
「いややァ」
「おまえ、ハチ。駄々こねんなよいきなり!」
えも言われぬ焦燥。
八郎の胸のなかによどむ不安が、気を逸らせた。
「だいじょうぶ」
しかし高村はそういって微笑した。
え、と顔をあげた八郎は息を呑む。これまでに見たことのないほど、慈愛に満ちた笑みだった。
「ちゃんと見てるから」
「…………」
どこから、とは聞けなかった。聞けぬまま高村はほかの場所も見て回るといってさっさと離れてしまった。
その背中が遠くて、とおくて──八郎は心細さのあまりに奥歯をぎゅっと噛みしめ、涙をこらえるほどだった。
0
あなたにおすすめの小説
秋月の鬼
凪子
キャラ文芸
時は昔。吉野の国の寒村に生まれ育った少女・常盤(ときわ)は、主都・白鴎(はくおう)を目指して旅立つ。領主秋月家では、当主である京次郎が正室を娶るため、国中の娘から身分を問わず花嫁候補を募っていた。
安曇城へたどりついた常盤は、美貌の花魁・夕霧や、高貴な姫君・容花、おきゃんな町娘・春日、おしとやかな令嬢・清子らと出会う。
境遇も立場もさまざまな彼女らは候補者として大部屋に集められ、その日から当主の嫁選びと称する試練が始まった。
ところが、その試練は死者が出るほど苛酷なものだった……。
常盤は試練を乗り越え、領主の正妻の座を掴みとれるのか?
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
黄泉津役所
浅井 ことは
キャラ文芸
高校入学を機にアルバイトを始めようと面接に行った井筒丈史。
だが行った先は普通の役所のようで普通ではない役所。
一度はアルバイトを断るものの、結局働くことに。
ただの役所でそうではなさそうなお役所バイト。
一体何をさせられるのか……
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる