胡蝶の夢に生け

乃南羽緒

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廿の抄 たからもの

其の伍

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 一方の八郎はといえば。
 帰る、といった高村を送るため、文次郎の散歩も兼ねて八郎も外へ出た。
 というのも、居間で繰り広げられる甘酸っぱいラブシーンが気恥ずかしかったから、という理由が大きい。

「はぁ、助かった──」
「ハハハハッ。まあな、お前からしたらちょっと居たたまれないよな」
「ホントっすよ。まあでも、ようやく言えたんやなァて思ったらちょっとホッとしましたけど」
「……知ってたんか」
 そりゃあ、と八郎は高らかにわらった。
「だってしゅう、アイツけっこう分かりやすいでしょ。ふだんは澄ました顔しとっても、かんちゃんいてたらもうそっちしか見てへんもんさ。ま、アイツは完璧に隠せてると思てたみたいやけど」
「いつからなんや、ガキの頃?」
「うーん。おれがあれッて気づいたのは──小六も終わりのころ、かんちゃんの卒業式が終わったくらいからえらい気にかけてて」
「なるほどね」
 と高村はくすぐったそうにわらった。その頃、夢のなかで環奈がさみしそうに弟が出来るのだ、と教えてくれた。
 おそらくは、そのことがきっかけで『環奈』という女の子を守ろうと意識するようになったのかもしれない。
「そうかそうか──」
「滝沢にはわるいことしたなぁ」
「ええんよ。恋なんてそんなもんや」
「うん」
「それをいうなら、八郎かてそうやろ」
「えっ?」
 ドキリ、と八郎の胸が鳴った。
 おもわず閉口してしまって、地面を歩く文次郎の爪音だけが耳に届く。
 高村はぐんと伸びをした。
「初恋やったんやろお前」
「あ、あー。んな、昔のはなし」
 ほんのガキのころの話やで、と八郎はわらう。
「なんとなく、なんとなくやけどな」
「うん」
「小六の、あのころから──なんとなくやけどこうなる気ィしててん。せやからいつの間にか、かんちゃんのこと好きでいるのもやめた」
「…………」
「ね。あっさりやめられるほどのちいさな気持ちやったんスよ」
 とわらった八郎に、高村はただ「そうか」とだけ返した。

 高村の家の前に、ひとりの女が立っている。『式』となった小町だ。
 ぼんやりとその横に浮かぶのは言霊状態の業平だった。まったく、『言霊』という存在と出会った当初はとっても怖かったというのに、いまでは当たり前のように受け入れている自分がいる。
 八郎は苦笑して手を振った。
「小町さァん、姿見えんかったけどどこ行ってたん」
「俺が使いを頼んでたんや。ご苦労やったな小町」
 と、いうや小町は泣きそうに顔をゆがめた。
 どうやら業平から、環奈が目を覚ましたという報告を聞いていたらしい。ビャッと泣き出して高村に抱きついた。
「よかった……よかった、ほんとうに」
「はいはい。わかったから、そっちはどうやった」
「……ええ、あの方はすばらしい研究者でした。感服いたしましたわ」
「研究者って──小町さんだれに会うてたん?」
「浜崎先生よ」
 といった小町は、すこし困ったようにわらった。

 ※
 ──六花と鬼一の関係性が知りたい。
 と。
 文次郎の夢から夢路にもどった篁にいわれた小町は、すぐさま『式』となって調査に出かけた。
 大学では、ちょうど環奈が倒れて医務室に運ばれたころ。
 小町は浜崎の研究室へ単身乗り込むこととなったのである。

「白地蔵の史料?」
 アポイントもないうえ、自大学の生徒でもない小町の突然の来訪にもかかわらず、浜崎は快く迎え入れてくれた。
 小町が、白地蔵の娘についての史料を見せてくれと深く頭を下げると、浜崎は困惑しながらもここ数か月で集めていたらしい史料の写しをパラパラとデスクに広げはじめた。
「なんか論文でも書くんですか」
「いえ、ろんぶんなどよりもずっと大切なことです」
「……?」
 あまりにも真剣な眼差しに、浜崎は軽口を叩きかけてやめた。
 小町の手が分厚い紙の束に伸びる。
「これは?」
「あの寺でおよそ百三十年もの間、多くの小坊主たちが記してきた日記らしい。辺りの村のようすや寺の作務についての記述がほとんどやねんけど、まあ根気よく探したら出てきたんですよ。ちょうど寛喜の飢饉についての記述が」
「えっ!」
「すごいでしょ。けっこう骨が折れたわ」
 おどろいた。
 寛喜の飢饉についての記述でこれだけの量があるのだ。きっと気の遠くなるような期間分の日記を読みすすめたのだろう。小町は感激のあまりに瞳がうるむ。
「すばらしいわ、あなたってまことの研究者なのですね……!」
「いやしかしまだ釈文が出来てなくて。たぶん見てもわからんですよ」
「しゃくもん?」
「中身がぜんぶくずし字になってるでしょ、これを現代風に書き直したものを釈文ていうねんけど。それがまだ」
「ああ」
 それなら差し支えございません、と小町はパラパラ紙をめくってゆく。
 当たり前だ。当時自分が書いていたような字なのだから。
 ……と、小町の正体を知っているならばそう思うが、しかし浜崎は知らない。こんな若人が辞書も使わずに、なにゆえスラスラとくずし字を読解しているのか──といいたげに小町の横顔をいぶかしげに覗き込んだ。
「すごい──ていねいに細かく書いてある」
 小町はつぶやいた。
 日記の内容は、一日の寺院生活や村内にて起こったことがほとんどだが、日付が寛喜の飢饉と呼ばれるころに近づくにつれ、やれ洪水だ、一揆だ、といった記述が増えていく。
「あ」
 紙をめくる手がとまった。

 ──次の御供は、白の娘。
 
「……その名、六花」
 ぽつりとこぼれたことばに、小町は唖然とした。
 いた。
 やはり六花は存在した。あの白地蔵の娘は名を六花といったのだ。そして文次郎や環奈の夢のなかで好き勝手遊んでいた娘も──。
「では鬼一は……」
「キイチ?」
 ふたたびこぼれたことばに浜崎が反応した。
 ええ、と小町は史料から目を離さぬままに答える。
「鬼一法眼のことです。浜崎先生はご存じありません?」
「鬼一法眼はもちろん知ってますよ。しかしなんでまた」
「……なにか関係があるはずなんです」
 胡蝶と六花。
 ふたりの関係にはかならずなにかつながりがあるはずだ。それさえわかれば、きっと父が頭を悩ませることもなくなる。小町はくちびるを噛みしめて文面を追いつづけた。
 その必死なすがたに、とうとう浜崎もなにを言うこともできなくなって、ひっそりと小町のためにお茶をいれてやった。
 しかし彼女はそれすら気付かずに紙をめくる。
 めくって、めくって、日記のなかで数年の月日が経ったころ。

 ──旅人来り。

 その文字を見た。
 小町の手がふたたび止まる。
「た、旅人来り──」
 おもわずふるえた声。興奮のあまりに手指までふるわせた小町の肩をたたき、浜崎は口角をあげた。
「おちついて」
「……はい」
 先に視線を投じる。
 望んでいた文字列を見た。

 ──御供淵にあらわれし獣について尋ね来たる、と。

「これだわ!」
「見っけたか」
「ええ、ええ! 来たんだわ。名は書いてないけれどこれはぜったいに鬼一のことよ。そうか、鬼一は半身の行方を追っていたんだもの。ここを訪れていないわけはなかったんだわ」
「え、え?」
「ここで、鬼一が六花の御霊と会うたかも──ええ、ええ。どうしましょう可能性ばっかり膨らんじゃって、たしかめないと。けれどどうやって……いやもうここから先はおもうさまじゃないかしら。しょせん言霊のわたくしだもの、そうね、そうだわ……」
「おち、落ち着け。お茶あるで、飲みなさい」
「あっ」
 パッと手で口を抑える。
 いけない。いらんことをたくさんつぶやいてしまった──と眉をけわしくひそめて、小町はこわごわとお茶に手を伸ばした。
 それで、と浜崎はほかの史料を片付けはじめる。
「探しものは見つかりましたかお嬢様」
「は……はい。おかげさまで──」
「そいつァよかった」
 よかった。
 空気を察して深くは聞かないでいてくれるらしい。小町はパッと浜崎の腕をつかんだ。
「あの、あの。本当にありがとうございます。貴方がいてよかった」
「おいおい。男やもめに年ごろの女がそういうことを言うもんやない」
「……あっ、そんなつもりは」
「いや冗談ですけどね」
 と浜崎はぎこちなくわらって、ちらととなりの併設する第八研究室のようすを覗いた。
 生徒たちは環奈の見舞いに出払ったため、いつの間にかこの空間にはふたりだけになっている。
 こいつはいかん、と浜崎は立ち上がった。
「小町さんはそろそろ帰らんと。もう時間も遅い」
「はい。またいずれ、父とともにかならずお礼に参ります」
「いやいやいいって。それよりひとりじゃ危ないやろ、だれか護衛でもつけるか」
「あら、でしたら先生が途中まで送ってくださらない?」
「え」
「電車の乗り方がすこしふあんなんです。そこまででいいですから」
「…………」
 すこし箱入りに育てすぎやしないか、と。
 高村六道に対して、心のなかで嫌味をこぼしながら「はいはい」と浜崎は苦笑した。
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