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廿壱の抄 過去視
其の伍
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言霊が出てもなお、夢は終わらなかった。
過去の情景が消えて周囲は闇のなか。ただぽつねんとひと柱の桜があるのみだ。これは──刑部桜である。
「────」
八郎は、桜樹の根元に腰かけた。
幾度も見てきたハルカゲの夢。その夢の先で自分がなにをすればいいのかがなんとなく見えてきていた。だからもう、迷うことはない。八郎はその来訪をただただ待っている。
──。
────。
なつかしい匂い。
あったかくて、やさしくて。──ここは自分にとっての『おかえりのバショ』。
ひと柱の桜樹を見つけた。
その根元に座るひとりの少年を見て、ハルカゲは足を止める。
「おかえり」
この匂いは──嗚呼。
瞳を細めて、ハルカゲはふたたび歩き出す。この匂いを知っている。そう、自分とおなじような、けれどすこしだけ違う──。
「キイチ」
ハルカゲはつぶやいた。
少年はすこしおどろいた顔をしたけれど、すぐに微笑んでこちらに両手を広げた。
「ようやっと会えた。ハルカゲ」
「キイチ」
「ううん、ちゃうんよ。おれ八郎っていうねん」
「はち、ろ」
「うん」
八郎は腰をずらしてすこし場所をあけた。ハルカゲは力なくそのとなりに伏せた。ああ、もう疲れた──。
ぐったりと横たわるハルカゲの背を、八郎はやさしい手つきで撫でてきた。
「ずっと、さがしてたんよな。疲れたやろ」
「…………」
「ここ最近、おれに夢見させてくれてたんお前やろ。ぜんぶ見たで。ちゃんと覚えてるよ、景色も、想いも」
八郎の声は心地よい。
和本の封が解かれてから数年、ハルカゲの気が休まることはなかった。千年以上の時を和歌に囲まれてこころ穏やかにねむっていたのに、気がつけば外に飛び出していろいろな人々の夢を転々としていた。
それは胡蝶がそうしろと言ったから。
いや──でも心のどこかで、そうすればまた主人とどこかで会えるかもしれない、という淡い期待もあった。
「けっきょく、逢えなかった」
ぽつりとこぼしたことば。
八郎はただやさしく背中を撫でるばかり。
「ずっと逢いたかったんだ」
「うん」
「でも、それでもね」
「ん」
「心のどこかでわかっていたんだ」
「…………」
「あの人はもういない。待っても来ない」
そんなことは当たり前のことだったのに──。
といって、獣の瞳からぽろりと涙がこぼれる。
もう来ない。
そう思うだけでハルカゲの胸も、身体も、引き裂かれそうなほどに痛んだ。
「なに言うてん」
しかし八郎の声はやさしい。
『来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くやもしおの 身も焦がれつつ』
ひとりの言霊があらわれる。
そのうたは。その人は──。
「てい、か」
「ずっとそばにいててんやんか」
といって八郎がわらう。
言霊に触れようとハルカゲが駆けた。が、それは次の瞬間に光って、一枚の紙となる。
ハルカゲの瞳が、悲しげにゆがむ。
「…………」
『思ふこと むなしき夢の 中空に 絶ゆとも絶ゆな つらき玉の緒』
( 想いは、むなしい夢のなかで絶えてしまうとしても、
苦しくも命をつなぎとめている玉の緒だけは、絶えないで。)
声がした。
「定家も、おまえの主人も」
八郎は視線を前に据えていう。
ハルカゲはハッとした。
手鏡をもったひとりの男。なつかしいこの匂い。おだやかに笑みをたたえるやさしい姿──。
「やっと見つけた、玄影」
「…………」
小野篁、その人。
玄影は耳をぺたんとうしろに倒して篁に駆け寄った。こんどは和本にならない。ちゃんといる。ちゃんと。……泣きわめくように鼻を鳴らしてこの千年分を甘えつくすように篁にすり寄った。
「ずーっと探してたんだぞ」
そんな愛犬をぎゅうと抱きしめて、篁はわずかに涙を流した。
逢えた。逢えた。逢えた。
興奮のあまり身体をふるわす玄影がちらと八郎を見ると、彼はまるで自分のことのようにとろけるような笑みを浮かべてこちらを見ていた。
※ ※ ※
──いくら待ってもあなたは来ないけど、
それでも夕なぎに焼く藻塩のように
わたしの身も、胸も、
あなたを想って焦がれています。──
第九十七番 権中納言定家
建保六年の内裏歌合にて
恋の題として
詠める。
──。
────。
刑部桜の花びらがちらちらと散り落ちる。
まるでレースカーテンのごとく、再会のよろこびを噛みしめる篁と玄影の姿をときおり隠した。まるで映画のワンシーンのようにうつくしい情景に、八郎は目が離せない。
しかし楽しそうに跳ねまわっていた玄影はやがてしっぽを垂れてうつむいた。
「どうした玄影」
「篁、どうしよう。私はあの子をひとりにしてしまった」
「あの子──胡蝶のことか。しかし彼女は」
お前を騙していたんだろう、と篁がすこし冷たく言い放つ。
けれど玄影は「ちがう」と吠えた。
「胡蝶はこの千年ものあいだ、この玄影をまもってくれたんだ。片時も離れずに話し相手になってくれた。あいしてくれたんだよ」
「ならばお前はどうしたい」
といった篁の顔はわずかにわらっていた。
玄影は、垂れたしっぽをふたたび奮い立たせる。
「このあいだは貴方を想うあまりに、胡蝶をひとりにしてしまったけれど──やっぱり私はあの子のそばにいたい。いてやらねばならないんだ」
「…………」
篁がちらと八郎に視線を寄越した。
その視線をうけて、刑部桜の幹に手をかけ立ち上がる。八郎の腹はもうずいぶん前から決まっている。
おれも行く、といって八郎ははにかんだ。
「ええ加減に終わらせたらんとかわいそうや」
「そうだな、玄影──行こう」
ウン、と。
玄影は獣の瞳に涙をうかべて、力強くうなずいた。
過去の情景が消えて周囲は闇のなか。ただぽつねんとひと柱の桜があるのみだ。これは──刑部桜である。
「────」
八郎は、桜樹の根元に腰かけた。
幾度も見てきたハルカゲの夢。その夢の先で自分がなにをすればいいのかがなんとなく見えてきていた。だからもう、迷うことはない。八郎はその来訪をただただ待っている。
──。
────。
なつかしい匂い。
あったかくて、やさしくて。──ここは自分にとっての『おかえりのバショ』。
ひと柱の桜樹を見つけた。
その根元に座るひとりの少年を見て、ハルカゲは足を止める。
「おかえり」
この匂いは──嗚呼。
瞳を細めて、ハルカゲはふたたび歩き出す。この匂いを知っている。そう、自分とおなじような、けれどすこしだけ違う──。
「キイチ」
ハルカゲはつぶやいた。
少年はすこしおどろいた顔をしたけれど、すぐに微笑んでこちらに両手を広げた。
「ようやっと会えた。ハルカゲ」
「キイチ」
「ううん、ちゃうんよ。おれ八郎っていうねん」
「はち、ろ」
「うん」
八郎は腰をずらしてすこし場所をあけた。ハルカゲは力なくそのとなりに伏せた。ああ、もう疲れた──。
ぐったりと横たわるハルカゲの背を、八郎はやさしい手つきで撫でてきた。
「ずっと、さがしてたんよな。疲れたやろ」
「…………」
「ここ最近、おれに夢見させてくれてたんお前やろ。ぜんぶ見たで。ちゃんと覚えてるよ、景色も、想いも」
八郎の声は心地よい。
和本の封が解かれてから数年、ハルカゲの気が休まることはなかった。千年以上の時を和歌に囲まれてこころ穏やかにねむっていたのに、気がつけば外に飛び出していろいろな人々の夢を転々としていた。
それは胡蝶がそうしろと言ったから。
いや──でも心のどこかで、そうすればまた主人とどこかで会えるかもしれない、という淡い期待もあった。
「けっきょく、逢えなかった」
ぽつりとこぼしたことば。
八郎はただやさしく背中を撫でるばかり。
「ずっと逢いたかったんだ」
「うん」
「でも、それでもね」
「ん」
「心のどこかでわかっていたんだ」
「…………」
「あの人はもういない。待っても来ない」
そんなことは当たり前のことだったのに──。
といって、獣の瞳からぽろりと涙がこぼれる。
もう来ない。
そう思うだけでハルカゲの胸も、身体も、引き裂かれそうなほどに痛んだ。
「なに言うてん」
しかし八郎の声はやさしい。
『来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くやもしおの 身も焦がれつつ』
ひとりの言霊があらわれる。
そのうたは。その人は──。
「てい、か」
「ずっとそばにいててんやんか」
といって八郎がわらう。
言霊に触れようとハルカゲが駆けた。が、それは次の瞬間に光って、一枚の紙となる。
ハルカゲの瞳が、悲しげにゆがむ。
「…………」
『思ふこと むなしき夢の 中空に 絶ゆとも絶ゆな つらき玉の緒』
( 想いは、むなしい夢のなかで絶えてしまうとしても、
苦しくも命をつなぎとめている玉の緒だけは、絶えないで。)
声がした。
「定家も、おまえの主人も」
八郎は視線を前に据えていう。
ハルカゲはハッとした。
手鏡をもったひとりの男。なつかしいこの匂い。おだやかに笑みをたたえるやさしい姿──。
「やっと見つけた、玄影」
「…………」
小野篁、その人。
玄影は耳をぺたんとうしろに倒して篁に駆け寄った。こんどは和本にならない。ちゃんといる。ちゃんと。……泣きわめくように鼻を鳴らしてこの千年分を甘えつくすように篁にすり寄った。
「ずーっと探してたんだぞ」
そんな愛犬をぎゅうと抱きしめて、篁はわずかに涙を流した。
逢えた。逢えた。逢えた。
興奮のあまり身体をふるわす玄影がちらと八郎を見ると、彼はまるで自分のことのようにとろけるような笑みを浮かべてこちらを見ていた。
※ ※ ※
──いくら待ってもあなたは来ないけど、
それでも夕なぎに焼く藻塩のように
わたしの身も、胸も、
あなたを想って焦がれています。──
第九十七番 権中納言定家
建保六年の内裏歌合にて
恋の題として
詠める。
──。
────。
刑部桜の花びらがちらちらと散り落ちる。
まるでレースカーテンのごとく、再会のよろこびを噛みしめる篁と玄影の姿をときおり隠した。まるで映画のワンシーンのようにうつくしい情景に、八郎は目が離せない。
しかし楽しそうに跳ねまわっていた玄影はやがてしっぽを垂れてうつむいた。
「どうした玄影」
「篁、どうしよう。私はあの子をひとりにしてしまった」
「あの子──胡蝶のことか。しかし彼女は」
お前を騙していたんだろう、と篁がすこし冷たく言い放つ。
けれど玄影は「ちがう」と吠えた。
「胡蝶はこの千年ものあいだ、この玄影をまもってくれたんだ。片時も離れずに話し相手になってくれた。あいしてくれたんだよ」
「ならばお前はどうしたい」
といった篁の顔はわずかにわらっていた。
玄影は、垂れたしっぽをふたたび奮い立たせる。
「このあいだは貴方を想うあまりに、胡蝶をひとりにしてしまったけれど──やっぱり私はあの子のそばにいたい。いてやらねばならないんだ」
「…………」
篁がちらと八郎に視線を寄越した。
その視線をうけて、刑部桜の幹に手をかけ立ち上がる。八郎の腹はもうずいぶん前から決まっている。
おれも行く、といって八郎ははにかんだ。
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