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 それから私たちは毎日、共に登校しました。いつも私が先に煙草屋の前で待っていたのですが、一度だけ、遅れてしまったことがありました。
 杉原は、毎日待たなくていい、と言うのに、その日は私が来るまで待っていてくれたのです。先輩を待たせるとは、一体どういう了見だ? ケラケラと笑っていました。


 六月になりました。私はまだ、学校生活に慣れず、クラスにも馴染めずに、孤立していました。
 私は美術室で、絵を描きませんでした。学校の授業についていけなかったので、部活動の時間は授業の復習をしていました。
 杉原何も言わずに見守ってくれていましたが、私が英語の勉強をしているときに、遂に話しかけてきました。

 今から言う事は、全く悪気は無いし、傷ついたら申し訳ないのだけれど、聞いてくれるか?
 君はもしかしたら発達障害を患っているかもしれない。話を聞いて、一緒に居て、そう思った。自分でも気になっていると言っていたし、本当に気になるのなら、一度病院で調べてみるといいかもしれない。
 自分の持つ個性に名前がつく事は、嫌になるかもしれないが、楽になるかもしれない。どう転ぶかは分からないが、結局、一生付き合っていかなければならない問題には違いない。
 よく考えてから、ご両親に相談してみてはどうだ? 僕で良ければ相談に乗るよ、唯一の可愛い後輩だ。

 今までずっと、私の無能は怠惰なせいだと言われ続けてきました。それが違う可能性があると提示され、すぐにでも調べてみたく思いました。
 物事の結果を否定されるのは納得できたのですが、過程を否定されることはどうしても辛く、呪いのように纏わり付くのです。

 私は家に帰ってから、早速母に相談しました。自分で自分を障害者と呼ぶことと、私を障害者かもしれないとと言った杉原に激怒しました。果ては、杉原の人格まで否定する始末です。
 いくら母でも、それだけは許せなかったのです。初めて、怒鳴り合うような口論をして、なんとか母を折れさせて、私は精神科を受診する運びとなりました。それからしばらく、母と口を聞かなくなりました。


 結局私は、やはりと言うべきでしょうか、発達障害でした。その中でも、学習障害と呼ばれているもので、教科書を読めなかったり、九九を覚えることができなかったり、あまつさえ平仮名を書けなかったのもそのせいだったのです。他にも併発していたそうですが、私は大して気になりませんでした。
 その事実だけが免罪符のように、私を救ってくれたのです。神が、冷たい沼の奥深くに沈んでいる私を、掬い上げてくれたようでした。

 ただ、母は変わってしまいました。私にひたすら泣きながら謝り、それは縋っているようでした。私は自分のディスアドバンテージを、生涯どうでもいいと思っていました。
 母は胡散臭い発達障害の本を、家で読むようになったのです。偉人の名前をつらつらと並べ、彼らは発達障害の疑いがあったと嬉しそうに言うのです。それは、私に対して、精神に対する傷害でした。その期待は、重過ぎたのです。
 無理矢理、幼少期のエピソードなどの類似点を探しては、一々私に報告してくるのです。母が元から阿呆だったのか、私が母を阿呆にしてしまったのか分かりませんが、どうやら前者だったと思います。

 私の人生はその日を境に変わったようで、あまり変わってなかったと思います。
 ただ、一番嬉しかったのは、教科書の読み方を教えてもらったことです。学校の先生にではありません、病院の先生にです。
 読んでいる行の文字以外は、ほかの白紙で隠してしまうのです。一行だけに集中できて、随分と捗るようになりました。
 しかしそんな読み方をしているのは、クラスで私しかいません。周りの連中にはよく、知恵遅れと揶揄されました。私はそれでも、強くなった気でいました。障害者という強力な鎧を纏ったような、いえ、違います、鎧を脱ぎ捨て障害者であることを曝け出し、自分の身を守ったのです。

 杉原だけは唯一、私に全く態度を変えませんでした。どれだけ私の心の支えになったでしょうか、感謝してもしきれません。障害は決してアドバンテージになるものだとは限らないのにな。しみじみと、今思い出しても心が温かくなり、大粒の涙がポロポロと溢れてしまいます。



 杉原は基本的に大人びているのですが、時折中学生らしい一面が顔を覗かせるのです。私はそんな杉原が好きでした。
 美術室でルービックキューブを取り出し、ゆっくりガチャガチャと色をバラバラにしてから、私に渡してきました。一面でいいから揃えてみ、言われ私は色を揃えようとしました。

 十分もかけて真っ白い一面を揃えました。杉原に渡すと机の上に置いて、ルービックキューブを描き始めました。色の揃ったルービックキューブを画用紙に描いた後、裏に、色の揃ってないルービックキューブの絵を描きました。
 私は美術の美の字も知りませんでしたが、二面性を両面に描くことは面白いと思ったのです。色の揃っているように見える世界も、他の面から見れば実はしっちゃかめっちゃかなのではないかと。あえて曝け出そうとはせずに、隠すように裏面に描いているのですから。崇高な皮肉は、胸に突き刺さりました。

 中学生が考えそうな下らないことだ。そんな評価をさせる余地さえも、わざと残しているのではないか。杉原はオゾンと同じくらい高い位置から、嘲り見下しているのでないかと思いました。



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