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《29》僕の勝手

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彼は風のように庭を駆け抜けながら、ふいにこちらを見下ろした。
ノワは慌てて視線を逸らす。こんな時でさえ、見入ってしまうほどの美形だ。

警報は庭中にも鳴り響いていた。


「掴まってろよ」


頷いて、前に向き直る。


「!!」


僅か15メートルほど先に高い塀があった。


「リ、リダル!ぶつかる!」


叫ぶが、彼の足は止まる気配がない。


(嘘だろ···!)


ノワはリダルの胸元に顔を押し付けた。

臓器が持ち上げられるような浮遊感。次いで、ジェットコースターで急降下した時と同じ感覚を味わう。


(な、何?!)


時間にすれば数秒にも満たない瞬間は、酷く長く感じられた。

とん、と、静かな衝撃があった。

ゆったりとした揺れがつづく。


「いつまでくっ付いてんだよ」


頭上から嘲笑が聞こえる。
ノワはハッとして顔を放した。

そこは、第三宮殿の庭だった。


「何がしたいのかと思えば·····襲われたい願望でも持ってんのか?」


大層な性癖だな、と、彼は下品な言葉を吐く。

穏やかな夜風が頬を撫でる。
先程の出来事が幻のように感じられた。


「おい、なんか言えよ。つまんねぇだろ····」


馬鹿にするような声がふと止まる。


「お前、泣いてんのか?」


ノワは涙を拭った。

最悪だ。
こんなやつに涙を見せるなんて、情けなくてたまらない。


「まじかよ」


言い返す気力は湧かなかった。

きっとリダルは、興味本位でこちらの様子を見ていたのだろう。
助けに来たのだって、気まぐれ。またはノワという玩具を失わないため。

だったら、もう腕から降ろせばいいのに、彼はノワを抱えたまま歩き続けた。

ノワはしばらく抜け殻のようにじっとしていた。


「泣きやめよ」


ふと笑い声を止めたリダルが、そんな言葉を吐く。

泣きたくて泣いているわけではない。


「いやだ」


命令される筋合いはない。自分は、彼の言うとおりになる玩具じゃない。


「誰を好きだろうと、捕まろうと、泣こうと、僕の勝手だろ·····」


精一杯、抵抗を口にする。
再び涙腺が緩む。


「助けなんてなくても、1人でどうにか出来た!」


溢れた涙が、目尻からこぼれ落ちそうだった。


「赤ん坊か、お前は」


首筋を吐息が撫でる。
顔の上に影が落ちた。


「ごちゃごちゃうるせぇな」


見上げたノワは、目を見開いた。


瞳の奥まで見えそうな距離だ。嘘のような美形が傾かれ──鼻先で、低い声が囁いた。


「俺の服が濡れんだろ?」


だから泣きやめと、彼が命令する。


「··········っ?」


どの星よりも鮮明な赤が、瞳の奥で眩しく瞬く。

涙は引っ込んでいた。
気がつけば、門の外へと連れ出されていた。


「じゃあな」


リダルが背を向ける。


「ま、待って」


彼は以外にも素直に立ち止まった。
咄嗟に引き止めたものの、先が続かない。


「····ユージーン様は、大丈夫だよね?」


礼は言えなかった。
誤魔化すように、ユージーンの安否を確かめる。


「あいつは気絶してるだけだ」


リダルは視線の端だけでノワを振り返った。
広い背中は、それきり暗闇の中へと消えた。


「·····」


ノワは彼が消えた方とは反対側を歩き出した。
馬車を捕まえて、無意識のまま行先を告げる。

来る時と同じく窓の外を眺めた。

幾度となく、黒髪の男を思い出した。

並外れた身体能力と美貌。変装をして正体を偽り、手馴れた様子で人を拘束することの出来る不審者。

危険人物に違いない。


(どうして、あんな声····)


淋しい夜風のような声が、耳にこびりついて離れない。


「あー、もう!」


叫び声をあげる。

ブルルン、と、馬が呼応した。

だから、全部あいつの気まぐれなんだ。自分に言い聞かせ、無理矢理別のことを考える。


何はともあれ、目的は果たした。


今頃、公爵邸では、召集された騎士たちが侵入者を探している頃だろう。
ユージーンのことを心配する必要は無さそうだ。

残る課題は、まだ半月ほど残った長い夏期休暇を、どう楽しむか。


(取り敢えず、家に帰ろう····)


パトリック伯爵邸を、当たり前のように家と認識していることに気づいた。

伯爵夫妻、弟のアレクシス、幼い頃から面倒を見てくれた使用人達、今は全員が恋しい。

そうだ、自分はよく頑張った。
第二の故郷に帰ろう。
ノワは力なく微笑んだ。




















   肥え太った豚が、身体中に宝石をまきつけている。

手に持ったナイフで肉を切り、口へ運ぶ。

酷い匂いだ。
奴らはブヒブヒと、醜い鳴き声をあげていた。

贅沢の限りを尽くしてもなお、卑しい欲望はとどまることを知らない。

権力を欲し、金を欲す。

"貴族は高貴な血筋"?










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