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第三章 記憶と緩まる封印
記憶と香炉
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「結衣を守りたい、ただそれだけだ」
「鬼丸……」
本来の姿を捨て、地位も、強大な力も封じてまで、どうして――
鬼丸に見据えられた結衣の瞳が激しく揺れる。
「それが、俺の願いであり、望みであり――贖罪だからだ」
贖罪。いったい鬼丸が結衣に何をしたというのか。
慣れ親しんだ幼い姿から一転、大人の色香さえ醸し出す姿に、心臓が激しく打ち鳴らされる。
漆黒の長い髪、切長の赤い瞳。どうしてか、初めて見るはずなのに懐かしさを感じる。
結衣の奥底に眠る何かが、激しく揺さぶられている、そんな奇妙な感覚に襲われる。
「はあ……答えになってへんわ。ともかく、お前は結衣に危害を加えるつもりはないんやな? まあ、使い魔契約結んどるんや。主人に逆らうことはできへんやろうけど」
鬼丸と結衣を繋ぐ使い魔契約。召喚の儀にて呼び寄せたあやかしとの契約。
契約を結んだあやかしは、主人となる人間に危害を加えることができない。時間と行動の制約を受け、初めて現世での活動が可能になる。
「とにかく、お前は元々異質やったんや。召喚されて以来向こうに帰らんとずっと結衣のそばに居座ってからに……せやけど、どうするんや? 力を封じていたからこそ、お前は結衣と対等に関係を構築することができとった。せやけどパワーバランスが崩れたんや。結衣のみそっかすな巫力やと、お前を制御することは叶わんやろう」
「そ、それは……」
結衣は、ギュッと両手で胸元を押さえた。
確かに、辰輝の言う通りだ。
元より、鬼丸は結衣が召喚できる範囲から大きく逸脱していた。高位のあやかしなのだ。
召喚の儀。あの日からずっと一緒に過ごしてきて、絆を深めてきた。鬼丸が隣にいることが、当たり前になっていたので、すっかり忘れていた。結衣と鬼丸では、釣り合いが取れない。非力な自分が、高尚なるあやかしを縛り付けてはいけない。
「現に、お前の膨大な妖力がずっと垂れ流し状態になっとる。はぁ、塞いでも塞いでも、次から次に境界が綻ぶわけや……お前が原因やったんやな」
「え……」
結衣が目を見開いて鬼丸を見る。鬼丸は気まずげに視線を逸らしてしまう。それが全てを物語っている。
「……すまない。封印が弱まっているということに気づいたのも、綻びの原因が俺であろうということも、つい先日知ったばかりだった」
「そんな……」
予想だにしない事実を目の前に、結衣の瞳が揺れる。
「あー、もう。とにかく、結衣のそばに居たいんやったらその膨大な妖力どうにかせえ。コントロールできへんのやったら、強制的に隠世に送り返すことになる。それだけは覚えとけ」
そう言い残して、辰輝はドスドスと足音を鳴らしながら母屋へと帰っていった。
危険因子として、今すぐ鬼丸を捕らえて幽閉することもできただろうに、結衣と鬼丸に判断を委ねてくれたことに一先ず安心する。
「まずはお着替えをしましょうね」
呆然と立ち尽くしていた結衣の横をするりと抜けて、大人用の浴衣を持った時子が鬼丸の前に立った。
「時子、すまない」
「ふふ、いいのです。姿が変わろうとも、あなたは結衣様の大切な使い魔に変わりはありませんから」
時子は浴衣と帯を鬼丸に押し付けるように渡すと、そそくさと部屋を後にした。
「少し、後ろを向いていろ」
「わっ、そうだよね。ごめん」
鬼丸に気まずげに言われた結衣は、カッと頬を赤く染めつつ鬼丸に背を向けた。
パサリと浴衣を落とし、新しい浴衣に袖を通す布ぎれの音がする。
「いいぞ」
「う、うん……」
恐る恐る振り返ると、黒地に朱色の炎が描かれた浴衣を恐ろしいほど着こなしている美麗な男の姿があった。昨日まで子供の姿だったというのに、声も、背格好も、顔付きも、そのどれもが男の人になっている。
「お、鬼丸……」
結衣が戸惑って視線を逸らしたため、鬼丸は悲しげに瞳を伏した。
「結衣、すまない。迷惑をかけるつもりは毛頭なかった。ずっと、力を封じてそばに居られれば、それで――ぐっ」
「鬼丸!?」
突然、鬼丸が胸を押さえて膝をついてしまった。慌てて結衣が駆け寄るが、静電気のようにバチッとした痛みが駆け巡り、触れることができない。
「ぐうう……」
苦しそうに肩で息をする鬼丸に、何もしてあげられない無力な自分。どうしてこんなに役立たずなのだろう。鬼丸はいつもそばに居てくれて、結衣のポカリと空いた心を埋めてくれたというのに、何もできない。苦しむ鬼丸の姿が込み上げてきた涙で滲む。
「あーあ、やっぱり僕の心配した通りになっちゃったねえ」
その時、部屋の中に響いた無気力な声。結衣が慌てて振り返ると、いつの間にか七緒の姿があった。
「七緒!? なんでここに……」
まだ朝早いというのに、なぜこちらにいるのか。そもそもどこから入って来たのだろうか。
「んー? 鬼丸のことが心配でさ。隠世から直接来ちゃった。君の記憶が揺らいでいる今、鬼丸の封印はいつ解けてもおかしくない状態だったからさ」
飄々としつつも、七緒は何やらブツブツと唱え始め、そっと鬼丸の背に触れた。
苦しみ喘いでいた鬼丸は、眠りに落ちたかのようにスウッと表情を和らげ、その場に崩れ落ちてしまった。
「鬼丸っ」
「大丈夫、気を失っているだけさ。長年封じていた妖力が逆流のように溢れたんだろう。僕の妖力を流して、奔流のような鬼丸の妖力を中和させたんだよ。半端に封印が緩んでいるから余計に辛いんだ。鬼丸の妖力と、封印の力が反発し合っているね」
慌てた結衣を落ち着かせるように、七緒は柔らかく微笑んだ。その笑顔を見て、結衣はようやく少し気持ちが落ち着いた。すー、はー、と深く息を吸ってから、七緒に問いかけた。
「七緒は、知っていたの?」
曇りのない瞳が真っ直ぐに七緒を射抜く。少しの間を開けて、七緒が口を開いた。
「そうだねえ。黙っていたわけではないんだよ。鬼丸から直接聞いたわけでもないしね。封印の紋は、通常隠世で罪を犯したものが刻まれるものだ。それを自らの身に刻んでまで、鬼丸は君の使い魔になりたかったんだね」
「え……どうしてそこまでして」
今朝から、結衣の知らない事実が次々と明らかになっていく。簡単に脳が処理してくれずに理解が進まない。
「さあ、どうしてだろう。それは君の失った記憶の中にあるんじゃないかな」
「私の、記憶」
「ああ、そうだよ。鬼丸は頑なに君の記憶が戻ることを憂いていたけど、こうなったからには君は彼のことを知るべきだと思う。知って、この先どうするのかを二人で決めればいいさ。さあ、どうする? 鬼丸の封印の紋同様、君の手首にも紋が刻まれている。きっと、君が失ったものを取り戻すにも、記憶が鍵となっているはずだ」
幼い頃、屋敷の外で倒れていた結衣の手首に突如刻まれていた紋様。その日から、結衣の生活は一変した。逸材だと言われた力を失い、封印の紋が刻まれた結衣は腫れ物のように扱われた。けれど、結衣はどうして封印の紋が手首に現れたのか、その経緯を全く覚えていない。
知りたい。自分の身に何が起きたのか。そして、鬼丸のことを、知りたい。
「……どうやって、記憶を取り戻すの?」
決意の光に満ちた結衣の目を見て、七緒は満足げに頷いた。そして、懐から一枚の木札を取り出した。
「これを使うんだ」
七緒が木札を宙に放り投げた。くるくる回る木札は、いつの間にか薄紫色の香炉となり、七緒の手に収まっていた。
「『匂いを嗅げば忘れた記憶を呼び起こせるお香』。これに少し細工をして、鬼丸の記憶も垣間見えるようになっている。さて、過去を知る覚悟は……聞くまでもないね」
「ええ。始めてちょうだい」
結衣は未だ横たわる鬼丸の傍に膝をついた。美しく艶やかな黒髪が、扇のように床に広がっている。
鬼丸を縛り続けて来たのは自分だ。ならば、鬼丸を苦しめている呪縛から解き放ってあげたい。
「じゃあ、始めるよ」
七緒がそう言った瞬間、香炉からぶわりと紫煙が溢れた。すぐに結衣と鬼丸は紫煙に包まれてしまう。頭がぼーっとしてくる。頭の奥深くに干渉されているような奇妙な感覚がする。
やがて結衣の意識は深く落ちていった。
「鬼丸……」
本来の姿を捨て、地位も、強大な力も封じてまで、どうして――
鬼丸に見据えられた結衣の瞳が激しく揺れる。
「それが、俺の願いであり、望みであり――贖罪だからだ」
贖罪。いったい鬼丸が結衣に何をしたというのか。
慣れ親しんだ幼い姿から一転、大人の色香さえ醸し出す姿に、心臓が激しく打ち鳴らされる。
漆黒の長い髪、切長の赤い瞳。どうしてか、初めて見るはずなのに懐かしさを感じる。
結衣の奥底に眠る何かが、激しく揺さぶられている、そんな奇妙な感覚に襲われる。
「はあ……答えになってへんわ。ともかく、お前は結衣に危害を加えるつもりはないんやな? まあ、使い魔契約結んどるんや。主人に逆らうことはできへんやろうけど」
鬼丸と結衣を繋ぐ使い魔契約。召喚の儀にて呼び寄せたあやかしとの契約。
契約を結んだあやかしは、主人となる人間に危害を加えることができない。時間と行動の制約を受け、初めて現世での活動が可能になる。
「とにかく、お前は元々異質やったんや。召喚されて以来向こうに帰らんとずっと結衣のそばに居座ってからに……せやけど、どうするんや? 力を封じていたからこそ、お前は結衣と対等に関係を構築することができとった。せやけどパワーバランスが崩れたんや。結衣のみそっかすな巫力やと、お前を制御することは叶わんやろう」
「そ、それは……」
結衣は、ギュッと両手で胸元を押さえた。
確かに、辰輝の言う通りだ。
元より、鬼丸は結衣が召喚できる範囲から大きく逸脱していた。高位のあやかしなのだ。
召喚の儀。あの日からずっと一緒に過ごしてきて、絆を深めてきた。鬼丸が隣にいることが、当たり前になっていたので、すっかり忘れていた。結衣と鬼丸では、釣り合いが取れない。非力な自分が、高尚なるあやかしを縛り付けてはいけない。
「現に、お前の膨大な妖力がずっと垂れ流し状態になっとる。はぁ、塞いでも塞いでも、次から次に境界が綻ぶわけや……お前が原因やったんやな」
「え……」
結衣が目を見開いて鬼丸を見る。鬼丸は気まずげに視線を逸らしてしまう。それが全てを物語っている。
「……すまない。封印が弱まっているということに気づいたのも、綻びの原因が俺であろうということも、つい先日知ったばかりだった」
「そんな……」
予想だにしない事実を目の前に、結衣の瞳が揺れる。
「あー、もう。とにかく、結衣のそばに居たいんやったらその膨大な妖力どうにかせえ。コントロールできへんのやったら、強制的に隠世に送り返すことになる。それだけは覚えとけ」
そう言い残して、辰輝はドスドスと足音を鳴らしながら母屋へと帰っていった。
危険因子として、今すぐ鬼丸を捕らえて幽閉することもできただろうに、結衣と鬼丸に判断を委ねてくれたことに一先ず安心する。
「まずはお着替えをしましょうね」
呆然と立ち尽くしていた結衣の横をするりと抜けて、大人用の浴衣を持った時子が鬼丸の前に立った。
「時子、すまない」
「ふふ、いいのです。姿が変わろうとも、あなたは結衣様の大切な使い魔に変わりはありませんから」
時子は浴衣と帯を鬼丸に押し付けるように渡すと、そそくさと部屋を後にした。
「少し、後ろを向いていろ」
「わっ、そうだよね。ごめん」
鬼丸に気まずげに言われた結衣は、カッと頬を赤く染めつつ鬼丸に背を向けた。
パサリと浴衣を落とし、新しい浴衣に袖を通す布ぎれの音がする。
「いいぞ」
「う、うん……」
恐る恐る振り返ると、黒地に朱色の炎が描かれた浴衣を恐ろしいほど着こなしている美麗な男の姿があった。昨日まで子供の姿だったというのに、声も、背格好も、顔付きも、そのどれもが男の人になっている。
「お、鬼丸……」
結衣が戸惑って視線を逸らしたため、鬼丸は悲しげに瞳を伏した。
「結衣、すまない。迷惑をかけるつもりは毛頭なかった。ずっと、力を封じてそばに居られれば、それで――ぐっ」
「鬼丸!?」
突然、鬼丸が胸を押さえて膝をついてしまった。慌てて結衣が駆け寄るが、静電気のようにバチッとした痛みが駆け巡り、触れることができない。
「ぐうう……」
苦しそうに肩で息をする鬼丸に、何もしてあげられない無力な自分。どうしてこんなに役立たずなのだろう。鬼丸はいつもそばに居てくれて、結衣のポカリと空いた心を埋めてくれたというのに、何もできない。苦しむ鬼丸の姿が込み上げてきた涙で滲む。
「あーあ、やっぱり僕の心配した通りになっちゃったねえ」
その時、部屋の中に響いた無気力な声。結衣が慌てて振り返ると、いつの間にか七緒の姿があった。
「七緒!? なんでここに……」
まだ朝早いというのに、なぜこちらにいるのか。そもそもどこから入って来たのだろうか。
「んー? 鬼丸のことが心配でさ。隠世から直接来ちゃった。君の記憶が揺らいでいる今、鬼丸の封印はいつ解けてもおかしくない状態だったからさ」
飄々としつつも、七緒は何やらブツブツと唱え始め、そっと鬼丸の背に触れた。
苦しみ喘いでいた鬼丸は、眠りに落ちたかのようにスウッと表情を和らげ、その場に崩れ落ちてしまった。
「鬼丸っ」
「大丈夫、気を失っているだけさ。長年封じていた妖力が逆流のように溢れたんだろう。僕の妖力を流して、奔流のような鬼丸の妖力を中和させたんだよ。半端に封印が緩んでいるから余計に辛いんだ。鬼丸の妖力と、封印の力が反発し合っているね」
慌てた結衣を落ち着かせるように、七緒は柔らかく微笑んだ。その笑顔を見て、結衣はようやく少し気持ちが落ち着いた。すー、はー、と深く息を吸ってから、七緒に問いかけた。
「七緒は、知っていたの?」
曇りのない瞳が真っ直ぐに七緒を射抜く。少しの間を開けて、七緒が口を開いた。
「そうだねえ。黙っていたわけではないんだよ。鬼丸から直接聞いたわけでもないしね。封印の紋は、通常隠世で罪を犯したものが刻まれるものだ。それを自らの身に刻んでまで、鬼丸は君の使い魔になりたかったんだね」
「え……どうしてそこまでして」
今朝から、結衣の知らない事実が次々と明らかになっていく。簡単に脳が処理してくれずに理解が進まない。
「さあ、どうしてだろう。それは君の失った記憶の中にあるんじゃないかな」
「私の、記憶」
「ああ、そうだよ。鬼丸は頑なに君の記憶が戻ることを憂いていたけど、こうなったからには君は彼のことを知るべきだと思う。知って、この先どうするのかを二人で決めればいいさ。さあ、どうする? 鬼丸の封印の紋同様、君の手首にも紋が刻まれている。きっと、君が失ったものを取り戻すにも、記憶が鍵となっているはずだ」
幼い頃、屋敷の外で倒れていた結衣の手首に突如刻まれていた紋様。その日から、結衣の生活は一変した。逸材だと言われた力を失い、封印の紋が刻まれた結衣は腫れ物のように扱われた。けれど、結衣はどうして封印の紋が手首に現れたのか、その経緯を全く覚えていない。
知りたい。自分の身に何が起きたのか。そして、鬼丸のことを、知りたい。
「……どうやって、記憶を取り戻すの?」
決意の光に満ちた結衣の目を見て、七緒は満足げに頷いた。そして、懐から一枚の木札を取り出した。
「これを使うんだ」
七緒が木札を宙に放り投げた。くるくる回る木札は、いつの間にか薄紫色の香炉となり、七緒の手に収まっていた。
「『匂いを嗅げば忘れた記憶を呼び起こせるお香』。これに少し細工をして、鬼丸の記憶も垣間見えるようになっている。さて、過去を知る覚悟は……聞くまでもないね」
「ええ。始めてちょうだい」
結衣は未だ横たわる鬼丸の傍に膝をついた。美しく艶やかな黒髪が、扇のように床に広がっている。
鬼丸を縛り続けて来たのは自分だ。ならば、鬼丸を苦しめている呪縛から解き放ってあげたい。
「じゃあ、始めるよ」
七緒がそう言った瞬間、香炉からぶわりと紫煙が溢れた。すぐに結衣と鬼丸は紫煙に包まれてしまう。頭がぼーっとしてくる。頭の奥深くに干渉されているような奇妙な感覚がする。
やがて結衣の意識は深く落ちていった。
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