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第I章|噂の花が咲く夜
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「見て あそばせ 侯爵夫人……」
薄桃色の扇が、上品に口元を隠した。けれど隠れているのは唇だけで、瞳の光は隠しきれない。狙いを定めた小鳥のような視線が、私の背に絡みつく。
「まあ……あれはアラン公爵。いつ見ても素敵ですわねぇ」
「本当に、羨ましいくらいの美形ですわ。……それなのに……」
言葉の最後が、わざとらしく溶ける。
甘い香水の中に、針の匂いが混じった。
「お気の毒だわ。いくら王命だからと言っても……ねぇ」
――ねぇ、の一音で、私は“それ”を思い出す。
国王の妾。
そう呼ばれている私。
シャンデリアの光は金色に降り注いでいるのに、胸の奥だけが冷たい。
ドレスの裾が擦れる音、グラスが触れ合う高い音、笑い声。
華やかなものほど、痛みが際立つ夜だ。
私は薄く微笑んだ。
笑うことは、息をするのと同じ。そうでなければここに立っていられない。
「リュミエール様」
背後で、侍女ミナが囁く。声は震えていない。震えているのは、私の指先だった。
レースの手袋の上から、そっと自分の指を握りしめる。爪が肌に食い込んで、ようやく現実に繋がれる。
「大丈夫よ」
口が勝手に、そう言う。
大丈夫――私は何度この嘘を、自分に飲ませてきたのだろう。
社交会場は王都でも指折りの大広間。壁を飾る絵画には、勝利の歴史と王家の紋章。
その下を、貴婦人たちの噂が滑る。軽い足取りのふりをして、足首を狙う刃のように。
私は歩く。
視線を浴びながら、足を止めない。止めた瞬間、心が砕ける気がしたから。
そして――気づく。
遠い。けれど確かにそこにいる。
黒に近い紺の礼装、肩の線がまっすぐで、微動だにしない姿勢。
人々の称賛を当然のように受けながら、表情だけが凍ったままの男。
アラン公爵。
彼は笑わない。
誰に向けても。――少なくとも、私は見たことがない。
その無表情が、私には救いでもあり、刃でもあった。
“私に笑わない”のではない。彼は、世界に笑わない。
そう分かっていても、胸は勝手に痛む。
(……私は、似合わない)
あの人の隣には、もっと相応しい女性がいる。
気品も、家柄も、立ち居振る舞いも、そして何より――汚れていない噂。
私は、汚名を纏ってここに立っている。
「――ほら、ご覧なさい。あの女、笑ってる」
「厚かましいこと。妾のくせに、公爵夫人の座に居座って」
「でも……国王陛下が、手放さないほどの女ってことよ?」
誰かが、くすりと笑った。
その笑いが私の背中に落ちて、冷たい水のように染みる。
国王の妾――。
いいえ、違う。
私は国王の異母妹だ。血の繋がりがある。
それが真実。けれど真実は、声にした瞬間に刃になる。
国の均衡を壊す。
王妃を辱める。
政敵に利用される。
そして何より――アランを巻き込む。
だから私は、黙る。
黙って、笑って、耐える。
アラン公爵の視線が、ふっとこちらへ向いた。
一瞬だけ。
広間の喧騒が遠のくほど、鋭く、深い視線。
まるで「無事か」と訊くように。――いや、そんなはずはない。
(違う。私が勝手に、そう見たいだけ)
私は視線を逸らした。
見てしまったら、縋ってしまう。
縋ったら、崩れてしまう。
そのとき、背後のミナが小さく息を呑む気配がした。
私は振り向かず、扇の影で唇を動かす。
「どうしたの?」
「……王命書の封蝋……」
ミナの声が、ほんの少しだけ低くなる。
その一言で、私の背筋が凍った。
封蝋――。
結婚を命じた、あの書状。
誰もが頭を垂れ、誰もが逆らえない王命。
その封蝋に、欠けがあったとしたら?
(そんなはずは……)
心臓が、どくりと音を立てる。
胸の奥で、咲いてはいけない花が、嫌なほど鮮やかに開く。
私は笑みを崩さないまま、ゆっくりと息を吸った。
香水の甘さの向こうに、血の匂いがする気がした。
広間の中央で、アラン公爵が貴族たちの輪から一歩外れた。
視線が再び、私を捉える。
遠いのに、確かに守られている気がして――同時に、遠すぎて泣きたくなる。
「……リュミエール様」
ミナが、今度は祈るように囁いた。
私は扇の骨を、強く握った。
折れてしまいそうなほど。
(噂の花は、今夜も咲く)
咲いて、咲いて、私を飲み込む。
けれど私は、枯れない。枯れることすら許されない。
アラン公爵が哀れだ、と言われ続ける夜に――
私は、笑って立ち続ける。
たった一つの真実を、胸の奥に封じたまま。
薄桃色の扇が、上品に口元を隠した。けれど隠れているのは唇だけで、瞳の光は隠しきれない。狙いを定めた小鳥のような視線が、私の背に絡みつく。
「まあ……あれはアラン公爵。いつ見ても素敵ですわねぇ」
「本当に、羨ましいくらいの美形ですわ。……それなのに……」
言葉の最後が、わざとらしく溶ける。
甘い香水の中に、針の匂いが混じった。
「お気の毒だわ。いくら王命だからと言っても……ねぇ」
――ねぇ、の一音で、私は“それ”を思い出す。
国王の妾。
そう呼ばれている私。
シャンデリアの光は金色に降り注いでいるのに、胸の奥だけが冷たい。
ドレスの裾が擦れる音、グラスが触れ合う高い音、笑い声。
華やかなものほど、痛みが際立つ夜だ。
私は薄く微笑んだ。
笑うことは、息をするのと同じ。そうでなければここに立っていられない。
「リュミエール様」
背後で、侍女ミナが囁く。声は震えていない。震えているのは、私の指先だった。
レースの手袋の上から、そっと自分の指を握りしめる。爪が肌に食い込んで、ようやく現実に繋がれる。
「大丈夫よ」
口が勝手に、そう言う。
大丈夫――私は何度この嘘を、自分に飲ませてきたのだろう。
社交会場は王都でも指折りの大広間。壁を飾る絵画には、勝利の歴史と王家の紋章。
その下を、貴婦人たちの噂が滑る。軽い足取りのふりをして、足首を狙う刃のように。
私は歩く。
視線を浴びながら、足を止めない。止めた瞬間、心が砕ける気がしたから。
そして――気づく。
遠い。けれど確かにそこにいる。
黒に近い紺の礼装、肩の線がまっすぐで、微動だにしない姿勢。
人々の称賛を当然のように受けながら、表情だけが凍ったままの男。
アラン公爵。
彼は笑わない。
誰に向けても。――少なくとも、私は見たことがない。
その無表情が、私には救いでもあり、刃でもあった。
“私に笑わない”のではない。彼は、世界に笑わない。
そう分かっていても、胸は勝手に痛む。
(……私は、似合わない)
あの人の隣には、もっと相応しい女性がいる。
気品も、家柄も、立ち居振る舞いも、そして何より――汚れていない噂。
私は、汚名を纏ってここに立っている。
「――ほら、ご覧なさい。あの女、笑ってる」
「厚かましいこと。妾のくせに、公爵夫人の座に居座って」
「でも……国王陛下が、手放さないほどの女ってことよ?」
誰かが、くすりと笑った。
その笑いが私の背中に落ちて、冷たい水のように染みる。
国王の妾――。
いいえ、違う。
私は国王の異母妹だ。血の繋がりがある。
それが真実。けれど真実は、声にした瞬間に刃になる。
国の均衡を壊す。
王妃を辱める。
政敵に利用される。
そして何より――アランを巻き込む。
だから私は、黙る。
黙って、笑って、耐える。
アラン公爵の視線が、ふっとこちらへ向いた。
一瞬だけ。
広間の喧騒が遠のくほど、鋭く、深い視線。
まるで「無事か」と訊くように。――いや、そんなはずはない。
(違う。私が勝手に、そう見たいだけ)
私は視線を逸らした。
見てしまったら、縋ってしまう。
縋ったら、崩れてしまう。
そのとき、背後のミナが小さく息を呑む気配がした。
私は振り向かず、扇の影で唇を動かす。
「どうしたの?」
「……王命書の封蝋……」
ミナの声が、ほんの少しだけ低くなる。
その一言で、私の背筋が凍った。
封蝋――。
結婚を命じた、あの書状。
誰もが頭を垂れ、誰もが逆らえない王命。
その封蝋に、欠けがあったとしたら?
(そんなはずは……)
心臓が、どくりと音を立てる。
胸の奥で、咲いてはいけない花が、嫌なほど鮮やかに開く。
私は笑みを崩さないまま、ゆっくりと息を吸った。
香水の甘さの向こうに、血の匂いがする気がした。
広間の中央で、アラン公爵が貴族たちの輪から一歩外れた。
視線が再び、私を捉える。
遠いのに、確かに守られている気がして――同時に、遠すぎて泣きたくなる。
「……リュミエール様」
ミナが、今度は祈るように囁いた。
私は扇の骨を、強く握った。
折れてしまいそうなほど。
(噂の花は、今夜も咲く)
咲いて、咲いて、私を飲み込む。
けれど私は、枯れない。枯れることすら許されない。
アラン公爵が哀れだ、と言われ続ける夜に――
私は、笑って立ち続ける。
たった一つの真実を、胸の奥に封じたまま。
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