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第2章|王命の結婚
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王宮の廊下は、香が薄い。
華やかな広間とは違い、ここには笑い声も、無遠慮な囁きもない。――代わりに、足音だけが響く。
一歩、また一歩。
絹の靴が石床を撫でるたび、心臓が小さく跳ねた。
「リュミエール様、姿勢を」
ミナが背後で囁く。
その声はいつも通り落ち着いているのに、私には分かる。彼女は、私を支えるために“平静”を選んでいる。
「分かっているわ」
返した声が、思いのほか乾いていた。
喉が渇いているのではない。――怖いのだ。
扉が開く。
香木の匂いが、ふっと流れ込んだ。
玉座の間。
そこは広間の光とは違う、冷たい光が満ちる場所だった。王のために磨かれた床、王のために整えられた空気。
人はここで、言葉を選ぶ。息遣いすらも。
国王シオンは、玉座に座っていた。
金の冠は眩しいのに、その瞳は氷のように静かで――私を見ても、兄の温度はない。
(……兄上)
心の中だけで呼ぶ。
呼べるのは、ここだけ。誰にも聞かれない場所でだけ。
左右に控えるのは宰相グレゴールと近衛隊長バルド。
そして――少し離れた位置に、ひとりの男が立っていた。
アラン公爵。
闇色の軍装。肩章が硬い光を放つ。
そこに立っているだけで、空気の密度が変わるような存在感。
けれど、その顔には表情がない。
国王が告げた。
「王命である。アラン・ド・ヴァルモン公爵は、リュミエールを妻として迎えよ」
あまりにも簡潔な一文。
祝福の言葉も、配慮もない。
それなのに、世界が決まってしまう。
私の指先が震えそうになり、手袋の内側で爪を立てた。痛みで、呼吸を整える。
(……私は、王命の道具)
そう思うことで、心を守れる。
期待しない。望まない。
そうすれば、落ちなくて済む。
視線を上げると、アラン公爵が一歩前に出た。
歩幅は正確で、音がほとんどしない。軍人の歩き方だ。
「承りました」
その声は低く、落ち着いている。
拒む余地などない。――けれど彼の声には、ほんの僅かな棘が混じっているように聞こえた。
(……命令に従うだけ)
そうだ。きっとそう。
私と同じ。どちらも、選べない。
「婚姻の証を」
宰相が持ち上げたのは、一通の書状だった。
厚い羊皮紙。王家の紋が刻まれた封蝋。――本来なら欠けることなど許されない、完全な印。
その瞬間、ミナの息が止まった。
私は横目で、彼女の指先を見た。
手袋越しでも分かるほど、白くなっている。まるで血が引いたみたいに。
(ミナ……?)
視線だけで問いかけると、ミナは私の背後で、ほんの少し首を振った。
――見ないで、という合図。
けれど私は、見てしまった。
封蝋の端。
ほんの小さな欠け。
誰も気づかないほど些細で、それでも“完璧であるはずのもの”にあると、異様に目立つ傷。
背筋が冷えた。
(どうして……欠けているの?)
王命は、揺らがない。揺らいではならない。
もしここに不備があるなら――これは本当に“王の意思”なのか。
あるいは、誰かの手が入っているのか。
国王シオンは、その欠けに気づいていないように見えた。
宰相も、近衛隊長も、無表情のまま。
アラン公爵だけが――一瞬だけ、視線を封蝋に落とした。
ほんの一瞬。
けれど私は確かに見た。
彼の眉が、僅かに動いた。怒りとも、警戒とも取れる微細な揺れ。
(気づいた……?)
気づいて、何を思うのだろう。
“これも王宮の策略か”と。
あるいは――“この婚姻自体が罠か”と。
私は唇の内側を噛んだ。
言いたい。ミナが気づいたこと、私も見てしまったこと。
でも、ここで声にすれば――全てが燃える。
国王は淡々と言う。
「リュミエール。お前は公爵家の妻として、役目を果たせ」
お前。
その呼び方が、胸に刺さった。
兄妹であるはずの私たちに、ここでは“兄妹”の言葉が許されない。
だから兄は、私を“駒”として呼ぶしかない。
(守るための残酷)
そう分かっていても、痛い。
私は一礼した。
膝を折り、背を真っ直ぐに保つ。
涙が落ちないように。声が震えないように。
「承りました、陛下」
その言葉は、私の命綱だった。
誰にも真実を渡さないための、鎖。
儀礼が終わり、私が立ち上がった瞬間――アラン公爵と目が合った。
遠い夜会とは違う。
近い。逃げられない距離。
彼の瞳は、深い色をしていた。
冷たいのではない。――“冷たく装っている”ような色。
そして、口元だけが僅かに動く。
「……怖がるな」
声にはならないほど小さく。
でも確かに、その一言が私に届いた。
――怖がるな。
それは慰めなのか、命令なのか。
分からない。
分からないからこそ、胸が苦しくなる。
(あなたは、私をどう思っているの?)
国王の妾と噂される女。
王命で押しつけられた妻。
公爵の人生を汚す、汚名の花嫁。
私がそうでしかないなら――
あなたの目は、どうしてこんなにも、私を離さないの。
けれど答えは出ない。
私も、彼も、ここでは何も言えない。
私は扇を握り直し、微笑んだ。
社交界が求める“公爵夫人の顔”を作る。
そして、欠けた封蝋の記憶を胸に押し込めたまま、王宮の扉を出た。
この結婚が、花束ではなく――
棘の冠だと知りながら。
華やかな広間とは違い、ここには笑い声も、無遠慮な囁きもない。――代わりに、足音だけが響く。
一歩、また一歩。
絹の靴が石床を撫でるたび、心臓が小さく跳ねた。
「リュミエール様、姿勢を」
ミナが背後で囁く。
その声はいつも通り落ち着いているのに、私には分かる。彼女は、私を支えるために“平静”を選んでいる。
「分かっているわ」
返した声が、思いのほか乾いていた。
喉が渇いているのではない。――怖いのだ。
扉が開く。
香木の匂いが、ふっと流れ込んだ。
玉座の間。
そこは広間の光とは違う、冷たい光が満ちる場所だった。王のために磨かれた床、王のために整えられた空気。
人はここで、言葉を選ぶ。息遣いすらも。
国王シオンは、玉座に座っていた。
金の冠は眩しいのに、その瞳は氷のように静かで――私を見ても、兄の温度はない。
(……兄上)
心の中だけで呼ぶ。
呼べるのは、ここだけ。誰にも聞かれない場所でだけ。
左右に控えるのは宰相グレゴールと近衛隊長バルド。
そして――少し離れた位置に、ひとりの男が立っていた。
アラン公爵。
闇色の軍装。肩章が硬い光を放つ。
そこに立っているだけで、空気の密度が変わるような存在感。
けれど、その顔には表情がない。
国王が告げた。
「王命である。アラン・ド・ヴァルモン公爵は、リュミエールを妻として迎えよ」
あまりにも簡潔な一文。
祝福の言葉も、配慮もない。
それなのに、世界が決まってしまう。
私の指先が震えそうになり、手袋の内側で爪を立てた。痛みで、呼吸を整える。
(……私は、王命の道具)
そう思うことで、心を守れる。
期待しない。望まない。
そうすれば、落ちなくて済む。
視線を上げると、アラン公爵が一歩前に出た。
歩幅は正確で、音がほとんどしない。軍人の歩き方だ。
「承りました」
その声は低く、落ち着いている。
拒む余地などない。――けれど彼の声には、ほんの僅かな棘が混じっているように聞こえた。
(……命令に従うだけ)
そうだ。きっとそう。
私と同じ。どちらも、選べない。
「婚姻の証を」
宰相が持ち上げたのは、一通の書状だった。
厚い羊皮紙。王家の紋が刻まれた封蝋。――本来なら欠けることなど許されない、完全な印。
その瞬間、ミナの息が止まった。
私は横目で、彼女の指先を見た。
手袋越しでも分かるほど、白くなっている。まるで血が引いたみたいに。
(ミナ……?)
視線だけで問いかけると、ミナは私の背後で、ほんの少し首を振った。
――見ないで、という合図。
けれど私は、見てしまった。
封蝋の端。
ほんの小さな欠け。
誰も気づかないほど些細で、それでも“完璧であるはずのもの”にあると、異様に目立つ傷。
背筋が冷えた。
(どうして……欠けているの?)
王命は、揺らがない。揺らいではならない。
もしここに不備があるなら――これは本当に“王の意思”なのか。
あるいは、誰かの手が入っているのか。
国王シオンは、その欠けに気づいていないように見えた。
宰相も、近衛隊長も、無表情のまま。
アラン公爵だけが――一瞬だけ、視線を封蝋に落とした。
ほんの一瞬。
けれど私は確かに見た。
彼の眉が、僅かに動いた。怒りとも、警戒とも取れる微細な揺れ。
(気づいた……?)
気づいて、何を思うのだろう。
“これも王宮の策略か”と。
あるいは――“この婚姻自体が罠か”と。
私は唇の内側を噛んだ。
言いたい。ミナが気づいたこと、私も見てしまったこと。
でも、ここで声にすれば――全てが燃える。
国王は淡々と言う。
「リュミエール。お前は公爵家の妻として、役目を果たせ」
お前。
その呼び方が、胸に刺さった。
兄妹であるはずの私たちに、ここでは“兄妹”の言葉が許されない。
だから兄は、私を“駒”として呼ぶしかない。
(守るための残酷)
そう分かっていても、痛い。
私は一礼した。
膝を折り、背を真っ直ぐに保つ。
涙が落ちないように。声が震えないように。
「承りました、陛下」
その言葉は、私の命綱だった。
誰にも真実を渡さないための、鎖。
儀礼が終わり、私が立ち上がった瞬間――アラン公爵と目が合った。
遠い夜会とは違う。
近い。逃げられない距離。
彼の瞳は、深い色をしていた。
冷たいのではない。――“冷たく装っている”ような色。
そして、口元だけが僅かに動く。
「……怖がるな」
声にはならないほど小さく。
でも確かに、その一言が私に届いた。
――怖がるな。
それは慰めなのか、命令なのか。
分からない。
分からないからこそ、胸が苦しくなる。
(あなたは、私をどう思っているの?)
国王の妾と噂される女。
王命で押しつけられた妻。
公爵の人生を汚す、汚名の花嫁。
私がそうでしかないなら――
あなたの目は、どうしてこんなにも、私を離さないの。
けれど答えは出ない。
私も、彼も、ここでは何も言えない。
私は扇を握り直し、微笑んだ。
社交界が求める“公爵夫人の顔”を作る。
そして、欠けた封蝋の記憶を胸に押し込めたまま、王宮の扉を出た。
この結婚が、花束ではなく――
棘の冠だと知りながら。
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