王の影姫は真実を言えない

柴田はつみ

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第3章|似合わない私

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王宮を出た途端、空気が変わった。
あれほど整えられていた香りも温度も、扉の向こうでは容赦なく現実に戻る。

馬車の扉が閉まり、車輪が石畳を噛む音が響く。
窓の外には夜の王都。灯りは美しいのに、どれも遠い。

私は背筋を伸ばしたまま、膝の上で手を重ねた。
指先の震えが、手袋の布をわずかに引っ張る。

(承りました、陛下)

さっき口にした言葉が、まだ喉の奥に残っている。
命綱。鎖。――言葉の形をした牢。

向かいの席に、アラン公爵が座っている。
馬車は二人きりには広すぎて、二人きりには近すぎた。

灯りの揺れで、彼の横顔が時折浮かび上がる。
整いすぎた輪郭。冷たい睫毛の影。
人形のように美しいのに、触れたら壊れてしまいそうな硬さ。

彼は沈黙していた。
視線は窓の外――というより、どこにも向いていない。

(……やっぱり、嫌なのよね)

王命で押しつけられた妻。
国王の妾と噂される女。
自分の名を汚す存在。

社交界の女たちが言うように、アラン公爵は気の毒だ。
そう思うたび、胸がひくりと痛む。

私は唇の端に笑みを貼りつけたまま、息を整えようとした。
けれど、心が勝手に言葉を繰り返す。

(彼に、私は、釣り合わない)

釣り合わない。釣り合わない。
呪いのように、胸の奥で鳴る。

馬車が揺れて、私の肩がわずかに傾いた。
反射的に、床へ手をつこうとして――やめる。
みっともない。弱さを見せたくない。

その一瞬、視界の端で黒い手袋が動いた。

アランの手。
私の方へ伸びかけて――止まった。

触れない。

まるで、触れてはいけないものに触れようとした人のように。
彼の指先は宙で僅かに迷い、それからゆっくりと膝の上に戻った。

私は胸の奥が冷えるのを感じた。

(……やっぱり)

拒絶。
それ以外の言葉が浮かばない。

「……揺れます。掴まってください」

低い声が、突然落ちた。
感情の温度がない。淡々とした忠告。

私は「はい」と答えた。
それ以上は言えない。言えば、泣いてしまう気がした。

指先で、座席の縁をつかむ。
冷たい革の感触が、皮膚から心まで冷やしていく。

しばらくして、馬車が少し滑らかな道に入った。
揺れが弱まる。沈黙だけが残る。

私は、窓の外へ目を逃がした。
夜の街が流れる。
灯りの列はまるで、誰かの人生のように続いている。

(私の人生も、こうして流れてしまうのかな)

自分で選んだわけではない道。
誰かの命令で決まった結婚。
笑って耐えるしかない未来。

「……国王陛下は、あなたをよく呼ぶのですか」

アランの声が、また落ちた。

心臓が跳ねた。
その問いは柔らかくない。けれど刃でもない。
“確認”だ。――自分の中の疑念を、形にして確かめるための言葉。

私は咄嗟に、胸の奥に鍵をかける。

(真実を言えば、国が揺れる)

(彼を巻き込む)

(言えない)

「……王命があれば」

私はそれだけを答えた。
嘘ではない。けれど真実でもない。

アランの視線が、私に向いたのが分かった。
目を合わせないままでも、空気の重さで分かる。

「王命があれば、従う」

その言い方に、棘が混じった。
彼は“王命”という言葉を嫌っている。
さっき玉座の間で見せた、あの僅かな揺れが脳裏をよぎる。

(封蝋の欠け……気づいていた?)

言いかけて、やめる。
ここで言ったら、彼を巻き込む。彼の怒りを引き出してしまう。

私は微笑んだ。
何度も何度も、自分を守るために練習した笑み。

「公爵様も……王命に従っただけでしょう?」

言った瞬間、胸が痛んだ。
自分で自分を傷つける言葉だと分かっているのに、止められない。

アランの瞳が、少しだけ細くなる。

「……そう見えるなら、それでいい」

その言葉が、氷のように落ちた。

“それでいい”
つまり、私がどう思っても構わない。
それが私には、そう聞こえた。

(ああ、やっぱり)

私は喉の奥で息を呑み、窓の外を見続けた。
涙が溢れないように、瞬きの回数まで数える。

馬車が、ふいに大きく揺れた。
私は思わず肩をすくめた。

次の瞬間――

アランの手が、また伸びた。

今度こそ、触れるかと思った。
手袋越しでも分かるほど、体温を探すような動き。

けれど――触れない。

彼は私の肩ではなく、私の背後のクッションの縁を強く掴み、
揺れで私が倒れないように馬車の内側を支えただけだった。

守るのに、触れない。

その不器用さが、胸に刺さる。

私は笑った。
笑うしかなかった。

「……ご配慮、ありがとうございます」

敬語は、壁だ。
私の心を守る壁。
そして、あなたの心を遠ざける壁。

アランは返事をしない。
ただ、掴んでいた手をゆっくり離し――
また、どこにも触れない場所へ戻す。

触れない。触れられない。
この距離が、これからずっと続くのだろうか。

(ねえ、公爵様)

(あなたは私を、どうしたいの?)

問いは声にならない。
声にしてしまえば、答えが怖いから。

馬車は闇の中を進む。
私は微笑みを貼りつけたまま、胸の奥で繰り返す。

(彼に、私は、釣り合わない)

そしてその呪いを、誰にも解けないまま――
夜は、静かに深くなっていった。
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