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第4章|公爵家の冷たい食卓
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公爵邸の食堂は、広すぎた。
長い長いテーブル。磨き抜かれた銀器。白磁の皿。
温かい料理が並んでいるのに、空気だけが冷えている。
蝋燭の火が揺れるたび、影が伸びて――まるで“席の空白”を強調するみたいだった。
私は背筋を伸ばし、椅子に座った。
手袋の上から膝を押さえる。震えが出ないように。
向かいには、アラン公爵。
隣の上座には、公爵夫人前当主――オデット様。
彼女は香水をつけない。
その代わり、言葉が香りより強い。
「……公爵家へようこそ、リュミエール」
歓迎の言葉に聞こえるのに、温度がない。
氷の上に置かれた花束みたいに、きれいで冷たい。
「身に余る光栄です、奥様」
私は微笑みを作った。
社交会で鍛えた笑み。泣かないための仮面。
オデットはナイフとフォークを手にし、ゆっくりと肉を切った。
その音が、やけに大きく響く。
「あなたの噂は……王都でも賑やかね」
たった一文で、喉が締まった。
フォークが落ちる音など立てたら負けだ。
私は静かに水を一口含み、喉を潤したふりをする。
「噂は、事実ではありません」
言えるのは、それだけ。
“事実”の核心は言えない。
国王の異母妹だと――口にした瞬間、私はここから消える。
「事実かどうかは問題ではないのよ」
オデットは微笑んだ。
微笑んだのに、刃物みたいに冷たい。
「公爵家にとって大切なのは“見え方”です」
……分かっている。痛いほど。
公爵家は誇りだ。
王都で最も華やかで、最も羨望される家。
その名に泥がつくことが、どれほどの損失か。
そして、その泥が――私だ。
「あなたがここへ来たことで、公爵家は“国王の妾を妻にした家”と囁かれる」
オデットは皿に視線を落としたまま、淡々と言う。
淡々としているからこそ、逃げ道がない。
「汚名を持ち込まないで頂戴」
その言葉は、私の胸に落ちた。
鈍い音がした気がした。
心が、少し欠ける音。
私は笑う。
笑って耐える。
それが私の役目。
「……心得ております」
声が震えないように、語尾を丁寧に整える。
そのとき――ふと、視線を感じた。
アラン公爵。
彼はずっと黙っていた。
食事の手を止めることもなく、淡々と口に運ぶ。
だが、その瞳だけが動いている。
私ではなく、オデット様を見ている。
(止めてくれるの……?)
胸が、ほんの少しだけ期待に揺れた。
けれど――アランは何も言わなかった。
沈黙。
たったそれだけで、私の期待はすぐに冷えていく。
(……そうよね)
彼だって、王命に従っただけ。
母に逆らう理由もない。
私を庇う理由も――ない。
私はフォークを持ち上げた。
口に運ぶ。味がしない。
「アラン」
オデットが、息子を呼ぶ。
名前だけで、食堂の空気が一段硬くなった。
「王宮からの命令なら仕方ない。でも、あなたは公爵よ。あなたの顔に泥を塗るような真似は許しません」
“許しません”
それは、私に向けた言葉ではないふりをしながら、私に刺さる言葉だった。
アランは、短く答える。
「分かっている」
それだけ。
それだけなのに――私は、心の中で何かが崩れる音を聞いた。
(分かっている、って……)
分かっているのは何?
“汚名を持ち込むな”が正しいということ?
それとも――私がここにいることが迷惑だということ?
私の胸は、勝手に悪い方へ答えを作っていく。
社交界の囁きが蘇る。
――公爵が可哀想。
――王命だから仕方ない。
――妻が妾なんて、気の毒。
その言葉が、今この食卓にもいる気がした。
私は笑みを貼りつけたまま、ナプキンで口元を拭った。
指先が少し震えたのを、誰にも見られないように。
「……お食事、口に合いませんか」
オデットの声が、柔らかいふりをして問う。
「いいえ、とても美味しく頂いております」
嘘。
味がしない。胸が苦い。
「そう」
オデットは満足したように頷いた。
“公爵家の嫁”としての体裁が保たれたから。
食卓は続く。
会話は少ない。
少ない言葉が、逆に重い。
私は、隣にいるはずの夫が遠いのを感じた。
同じテーブルにいるのに、遠い。
触れられない距離。
(私が、ここにいるせいで)
(この人は、ずっと気の毒だと言われ続ける)
その罪悪感が、私の背筋をさらに真っ直ぐにした。
泣かない。
泣いたら、“妾の女”と同じになる気がした。
弱さを見せたら、噂が勝つ。
――食事が終わり、椅子が引かれる音がした。
私は立ち上がり、深く一礼する。
「本日は、ありがとうございました」
それは感謝ではなく、降伏の礼だった。
アランは最後まで、私を見なかった。
……そう思った。
けれど扉へ向かう直前、ほんの一瞬だけ――
背中に視線が刺さった。
振り向く勇気は出ない。
振り向いたら、泣いてしまう。
私はそのまま歩いた。
冷たい食卓の向こうで、誰よりも苦しそうに沈黙していたのが――
夫だということを、まだ知らないまま。
長い長いテーブル。磨き抜かれた銀器。白磁の皿。
温かい料理が並んでいるのに、空気だけが冷えている。
蝋燭の火が揺れるたび、影が伸びて――まるで“席の空白”を強調するみたいだった。
私は背筋を伸ばし、椅子に座った。
手袋の上から膝を押さえる。震えが出ないように。
向かいには、アラン公爵。
隣の上座には、公爵夫人前当主――オデット様。
彼女は香水をつけない。
その代わり、言葉が香りより強い。
「……公爵家へようこそ、リュミエール」
歓迎の言葉に聞こえるのに、温度がない。
氷の上に置かれた花束みたいに、きれいで冷たい。
「身に余る光栄です、奥様」
私は微笑みを作った。
社交会で鍛えた笑み。泣かないための仮面。
オデットはナイフとフォークを手にし、ゆっくりと肉を切った。
その音が、やけに大きく響く。
「あなたの噂は……王都でも賑やかね」
たった一文で、喉が締まった。
フォークが落ちる音など立てたら負けだ。
私は静かに水を一口含み、喉を潤したふりをする。
「噂は、事実ではありません」
言えるのは、それだけ。
“事実”の核心は言えない。
国王の異母妹だと――口にした瞬間、私はここから消える。
「事実かどうかは問題ではないのよ」
オデットは微笑んだ。
微笑んだのに、刃物みたいに冷たい。
「公爵家にとって大切なのは“見え方”です」
……分かっている。痛いほど。
公爵家は誇りだ。
王都で最も華やかで、最も羨望される家。
その名に泥がつくことが、どれほどの損失か。
そして、その泥が――私だ。
「あなたがここへ来たことで、公爵家は“国王の妾を妻にした家”と囁かれる」
オデットは皿に視線を落としたまま、淡々と言う。
淡々としているからこそ、逃げ道がない。
「汚名を持ち込まないで頂戴」
その言葉は、私の胸に落ちた。
鈍い音がした気がした。
心が、少し欠ける音。
私は笑う。
笑って耐える。
それが私の役目。
「……心得ております」
声が震えないように、語尾を丁寧に整える。
そのとき――ふと、視線を感じた。
アラン公爵。
彼はずっと黙っていた。
食事の手を止めることもなく、淡々と口に運ぶ。
だが、その瞳だけが動いている。
私ではなく、オデット様を見ている。
(止めてくれるの……?)
胸が、ほんの少しだけ期待に揺れた。
けれど――アランは何も言わなかった。
沈黙。
たったそれだけで、私の期待はすぐに冷えていく。
(……そうよね)
彼だって、王命に従っただけ。
母に逆らう理由もない。
私を庇う理由も――ない。
私はフォークを持ち上げた。
口に運ぶ。味がしない。
「アラン」
オデットが、息子を呼ぶ。
名前だけで、食堂の空気が一段硬くなった。
「王宮からの命令なら仕方ない。でも、あなたは公爵よ。あなたの顔に泥を塗るような真似は許しません」
“許しません”
それは、私に向けた言葉ではないふりをしながら、私に刺さる言葉だった。
アランは、短く答える。
「分かっている」
それだけ。
それだけなのに――私は、心の中で何かが崩れる音を聞いた。
(分かっている、って……)
分かっているのは何?
“汚名を持ち込むな”が正しいということ?
それとも――私がここにいることが迷惑だということ?
私の胸は、勝手に悪い方へ答えを作っていく。
社交界の囁きが蘇る。
――公爵が可哀想。
――王命だから仕方ない。
――妻が妾なんて、気の毒。
その言葉が、今この食卓にもいる気がした。
私は笑みを貼りつけたまま、ナプキンで口元を拭った。
指先が少し震えたのを、誰にも見られないように。
「……お食事、口に合いませんか」
オデットの声が、柔らかいふりをして問う。
「いいえ、とても美味しく頂いております」
嘘。
味がしない。胸が苦い。
「そう」
オデットは満足したように頷いた。
“公爵家の嫁”としての体裁が保たれたから。
食卓は続く。
会話は少ない。
少ない言葉が、逆に重い。
私は、隣にいるはずの夫が遠いのを感じた。
同じテーブルにいるのに、遠い。
触れられない距離。
(私が、ここにいるせいで)
(この人は、ずっと気の毒だと言われ続ける)
その罪悪感が、私の背筋をさらに真っ直ぐにした。
泣かない。
泣いたら、“妾の女”と同じになる気がした。
弱さを見せたら、噂が勝つ。
――食事が終わり、椅子が引かれる音がした。
私は立ち上がり、深く一礼する。
「本日は、ありがとうございました」
それは感謝ではなく、降伏の礼だった。
アランは最後まで、私を見なかった。
……そう思った。
けれど扉へ向かう直前、ほんの一瞬だけ――
背中に視線が刺さった。
振り向く勇気は出ない。
振り向いたら、泣いてしまう。
私はそのまま歩いた。
冷たい食卓の向こうで、誰よりも苦しそうに沈黙していたのが――
夫だということを、まだ知らないまま。
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