王の影姫は真実を言えない

柴田はつみ

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第5章|優しさが痛い

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公爵邸の廊下は、夜になると音が消える。
蝋燭の炎が小さく揺れ、壁の絵画が静かに息をしているように見えた。

私はミナに髪を梳かれていた。
鏡に映る自分の顔は、笑顔を作る前の“素”に近い。
疲れている。けれど疲れた顔など見せてはいけない。

「……奥様」

ミナが、櫛を止めた。
言いにくいことほど、彼女はこうして呼びかける。

「今夜の寝所のことですが……」

私は喉の奥が、きゅっと締まるのを感じた。

結婚したのだ。
王命で。
公爵夫人としての役目がある。

――なのに、今日の食卓。
オデット様の言葉。
アランの沈黙。

(触れられないのが、当然だわ)

そう思うことで心を守ろうとしても、身体は正直で、勝手に震える。

「分かってるわ」

私が答えるより先に、廊下の向こうから足音がした。
規則正しく、迷いのない歩幅。

扉がノックされる。

「入る」

短い声。アラン公爵。
許可を待たず扉が開く。――それが彼の流儀なのだろう。軍人の癖。

黒に近い紺の夜着。
それでも、光を背負うと彼は一段と眩しい。
美しさが、痛い。

「公爵様……」

私は立ち上がり、一礼した。
習慣の礼。心を隠す礼。

アランは視線を私に留める。
留めるのに、奥まで踏み込んでこない。

「……今日の件で、お前が傷つく必要はない」

その言葉は、優しいはずだった。
けれど、どこか距離がある。
“妻”ではなく、“責任ある相手”への声。

私は微笑んだ。
いつもの、耐えるための笑み。

「傷ついてなどおりません。公爵家のご負担にならないよう、努めます」

言いながら胸が痛い。
“負担”という言葉を、自分で口にしたことが。

アランの眉が、わずかに動く。
けれど彼は、その揺れをすぐに押し殺した。

「……今夜の寝所だが」

その一言で、部屋の空気が一段冷える。

ミナが一歩下がり、視線を伏せた。
私は背筋をさらに伸ばす。

「お前は……休め」

アランはそう言った。

――休め。
それは労り。
けれど、次の言葉が落ちた瞬間、私の心は凍った。

「夜具は別に用意させた」

……別。

胸の奥で、何かが落ちる音がした。
静かに、深く、底へ。

(拒絶だ)

そう思うな、と自分に言い聞かせても、心が勝手に結論を出す。

国王の妾と噂される女に、触れたくない。
汚名を背負った妻と同じ寝台に入るのは、公爵にとって屈辱。
そういうことなのだ、と。

「分かりました」

私は笑った。
笑って答えた。
その笑みが、きっと少し歪んでいたのを私は気づかないふりをした。

「公爵様のお心遣い、ありがとうございます」

……ありがとうございます。
ありがとうと言うほど、惨めになる。

アランの視線が、私の手に落ちた。
私は手袋の指先を握りしめている。
震えが出ないように、強く。

「……泣くな」

低い声。
命令のように聞こえるのに、どこか苦しそうだった。

私は首を振る。

「泣いてなどおりません」

嘘。
泣きたい。けれど泣けない。

アランは一歩近づいた。
私は反射的に息を止める。

近い。
この距離で、触れられるかもしれないと――心が勝手に期待してしまう。

けれど彼は、触れなかった。

私の髪にも、頬にも、肩にも。
ただ、テーブルの上の蝋燭の火を指先で消しただけだった。

ふっ、と闇が増える。
明るさが消えると、彼の表情がさらに読み取れない。

「……お前は、これ以上王宮に近づくな」

突然の言葉だった。

私は息を呑む。

「……なぜ、ですか」

声が、少しだけ震えた。
私は震えを隠すように背筋を伸ばす。

闇の中で、アランの喉が僅かに動いた。
言葉を飲み込む音がした気がした。

「……命令だ」

命令。
また命令。
王命で結婚し、夫からも命令を受ける。

私は笑った。
笑って、頷くしかない。

「承知いたしました」

その瞬間、アランが――ほんの僅かに、息を吐いた。
安堵にも見え、諦めにも見える。

彼は踵を返し、扉へ向かう。

(行ってしまう)

何か言いたい。
“私は違う”と。
“妾ではない”と。
“あなたを汚したくないだけ”だと。

でも言えない。

扉が閉まる直前、アランの声が落ちた。

「……眠れ」

それは確かに優しさだった。
なのに、優しさが痛い。

扉が閉まる。

私は闇の中で、ひとり立ち尽くした。
胸の奥に、言えない真実が鎖のように絡みつく。

ミナが小さく私の肩にショールを掛けた。

「奥様……」

私は笑った。
泣かないために。

「大丈夫よ」

その言葉は、私の命綱。
そして、私自身を縛る鎖。

――別の夜具。別の寝所。
同じ屋敷にいるのに、触れられない距離。

私は、今夜も“公爵夫人”の仮面のまま、眠りにつく。

彼が、私を拒絶したのだと――信じ込んだまま。
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