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第6章|噂屋ヴィオラの値段
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翌日の午後、王都は薄い霧に包まれていた。
太陽の光さえ柔らかく見えるのに、胸の内だけが晴れない。
私は公爵邸の客間で、茶会の準備を整えていた。
“公爵夫人”として、社交は避けられない。避けた瞬間、噂はさらに強くなる。
――出れば傷つく。
出なければ追い詰められる。
どちらを選んでも痛いなら、せめて“公爵家に迷惑をかけない形”を選ぶしかない。
「奥様、本日の招待客は三名です。ヴィオラ様も……」
ミナが言いかけて、唇を噛む。
「噂屋のヴィオラ?」
私は笑みを作った。
作ったつもりだったのに、頬が硬いのが自分でも分かる。
「来るのね」
ヴィオラ。
社交界の“空気”を売る女。
誰が誰を見た、どこで笑った、どんな香水をつけていた――そんなものを金に変え、命に変える。
扉が開き、香りが流れ込んだ。
甘い。
花の蜜のような――けれどどこか、頭が痺れる匂い。
「ごきげんよう、公爵夫人」
現れたのは、艶やかな紫のドレスを纏った女だった。
髪は黒く、瞳は笑っているのに、奥は冷たい。
ヴィオラは深く礼をしながら、私の顔を見上げる。
その視線は“値札”を付けるようだった。
「お噂はかねがね。……ああ、でも“噂”の方が先かしら?」
くすり、と笑う。
場の空気が、彼女の言葉に合わせて少しだけ傾く。
私は扇を開き、口元を隠した。
微笑みは隠さない。隠したら負ける。
「噂より先に、本日のお茶をお楽しみくださいませ」
「まあ、さすが公爵夫人。余裕がおありになる」
ヴィオラは席に着く。
同席の貴婦人たちも笑う。
笑い声は柔らかいのに、私の背中を撫でるのは冷たい指だった。
茶器が運ばれ、湯気が立つ。
香りがさらに広がった。
――甘く、濃い香り。
私はその匂いに、喉の奥がわずかに痒くなるのを感じた。
花の香りに似ているのに、何かが違う。
“飲みたくない”という本能が、胸の奥で小さく鳴く。
けれど私は、杯を手に取った。
ここで拒めば、噂に“確信”を与える。
(私は、逃げない)
そう決めたはずなのに、指先が僅かに震えた。
ヴィオラは私の動きを見逃さない。
まるで獲物の瞬きの回数を数える蛇のように。
「……公爵夫人。ひとつ、率直に伺っても?」
「どうぞ」
「国王陛下は、今でもあなたを――」
言いかけて、わざと止める。
止めた沈黙が、客間を満たす。
貴婦人たちの耳が、ぴくりと動いたのが分かった。
人は沈黙に弱い。沈黙は、想像で埋めたくなる。
ヴィオラは、扇の影で微笑む。
「“妾”として、可愛がっていらっしゃるのかしら?」
胸の奥に、冷たい針が刺さった。
それでも私は、笑う。
「噂は噂ですわ」
「まあ。なら――“証拠”があれば、噂ではなくなるのに」
ヴィオラの声が、甘くなる。
甘いまま、刃になる。
「私、持っておりますのよ。『妾の証拠』」
客間の空気が、ぴたりと止まった。
ミナが息を呑む。
私は扇の骨を、少しだけ強く握る。
「……何のことでしょう」
「ふふ。知らないふり、お上手」
ヴィオラは指先で茶杯の縁をなぞった。
その爪が、陶器に触れる音が嫌に耳につく。
「王宮からあなたへ届く品。密やかな呼び出し。……それだけでも十分な“香り”がするのに」
香り――。
彼女が言ったその言葉と同時に、私は再び茶の匂いを意識した。
甘い。濃い。
頭が、ほんの少し霞む。
(……まさか)
私は気づかれないように、息を浅くする。
匂いだけでこんなに――?
ヴィオラは楽しそうに続ける。
「公爵様もお気の毒。あんなに美しくて、英雄で……それなのに、国王の妾を妻に」
同情の言葉を装いながら、私を地面に埋める言葉。
「でも、ねえ。公爵家が傷つかない方法もありますのよ?」
私は杯を置いた。
音を立てないように。手の震えを隠すように。
「……方法?」
ヴィオラの瞳が細くなる。
「私が噂を“別の形”に変えて差し上げます。その代わり――」
彼女は身を乗り出し、声を落とす。
甘い香りの奥で、毒の気配がした。
「お値段を、頂戴?」
――噂には値段がある。
命にも、値段がある。
私は微笑みを崩さなかった。
崩したら、彼女の勝ちだ。
「……ヴィオラ様。噂を売るのは自由ですが、真実を売るのは罪ですわ」
「まあ、怖い」
ヴィオラは笑った。
笑っているのに、目が笑っていない。
「では、こうしましょう。公爵夫人が“今ここで”倒れてくだされば、噂はもっと高く売れる」
その一言で、背筋が凍った。
(この茶……)
私は喉の奥が熱くなるのを感じた。
視界の端が、少し揺れる。
ミナが一歩前へ出ようとして――私が目で制した。
ここで騒げば、噂が“事実”になる。
私は、公爵家を巻き込みたくない。
けれど、身体は正直だった。
胸が、苦しい。
香りが、肺に絡みつく。
ヴィオラが、私の様子を愉しむように見ている。
「公爵夫人? 顔色が……」
私は笑った。
笑いながら、唇を噛む。
(倒れない。倒れたら、彼が――)
アラン公爵が哀れだと、また言われる。
私のせいで、彼がまた傷つく。
そう思った瞬間――
扉が開いた。
冷たい風が流れ込む。
甘い香りが、僅かに散る。
「……随分と、賑やかな茶会だな」
低い声。
アラン公爵が立っていた。
礼装のまま、目だけが鋭く光っている。
彼の視線が、真っ直ぐに――私の杯へ落ちた。
次に、ヴィオラへ。
その瞬間、客間の空気が変わった。
噂を操る女ですら、一瞬だけ言葉を失う。
アランはゆっくりと歩み寄り、私の前に立つ。
そして、何も言わずに――私の杯を取り上げた。
触れられない夫が、初めて“私のもの”に触れた。
それが、なぜだか胸を締めつけた。
「……妻に、何を飲ませた」
静かな声。
けれどその静けさは、刃より怖い。
ヴィオラは微笑みを取り戻す。
「まあ、公爵様。私はただ、香り高いお茶を――」
アランは笑わない。
ただ、左手を僅かに押さえる癖が出る。
そして、私の前に壁のように立つ。
(守って、くれている……?)
そう思った瞬間、視界が揺れた。
私は膝の上で手を握りしめた。
倒れない。倒れない。
倒れたら、噂が勝つ。
でも――甘い香りが、私を沈めようとしてくる。
アランの声が、遠くで聞こえた。
「……ミナ。医師を呼べ」
ミナが走り出す足音。
ヴィオラの笑い声が、薄く響く。
「ふふ。お値段、上がりましたわね」
――噂屋の値段。
それは、私の命の値段だった。
そして私は、意識の底で思う。
(ごめんなさい、アラン公爵)
(また、あなたが“気の毒”と言われてしまう)
闇が落ちてくる。
その最後に、私が見たのは――
私を見下ろす夫の瞳が、恐ろしいほど切なかったことだった。
太陽の光さえ柔らかく見えるのに、胸の内だけが晴れない。
私は公爵邸の客間で、茶会の準備を整えていた。
“公爵夫人”として、社交は避けられない。避けた瞬間、噂はさらに強くなる。
――出れば傷つく。
出なければ追い詰められる。
どちらを選んでも痛いなら、せめて“公爵家に迷惑をかけない形”を選ぶしかない。
「奥様、本日の招待客は三名です。ヴィオラ様も……」
ミナが言いかけて、唇を噛む。
「噂屋のヴィオラ?」
私は笑みを作った。
作ったつもりだったのに、頬が硬いのが自分でも分かる。
「来るのね」
ヴィオラ。
社交界の“空気”を売る女。
誰が誰を見た、どこで笑った、どんな香水をつけていた――そんなものを金に変え、命に変える。
扉が開き、香りが流れ込んだ。
甘い。
花の蜜のような――けれどどこか、頭が痺れる匂い。
「ごきげんよう、公爵夫人」
現れたのは、艶やかな紫のドレスを纏った女だった。
髪は黒く、瞳は笑っているのに、奥は冷たい。
ヴィオラは深く礼をしながら、私の顔を見上げる。
その視線は“値札”を付けるようだった。
「お噂はかねがね。……ああ、でも“噂”の方が先かしら?」
くすり、と笑う。
場の空気が、彼女の言葉に合わせて少しだけ傾く。
私は扇を開き、口元を隠した。
微笑みは隠さない。隠したら負ける。
「噂より先に、本日のお茶をお楽しみくださいませ」
「まあ、さすが公爵夫人。余裕がおありになる」
ヴィオラは席に着く。
同席の貴婦人たちも笑う。
笑い声は柔らかいのに、私の背中を撫でるのは冷たい指だった。
茶器が運ばれ、湯気が立つ。
香りがさらに広がった。
――甘く、濃い香り。
私はその匂いに、喉の奥がわずかに痒くなるのを感じた。
花の香りに似ているのに、何かが違う。
“飲みたくない”という本能が、胸の奥で小さく鳴く。
けれど私は、杯を手に取った。
ここで拒めば、噂に“確信”を与える。
(私は、逃げない)
そう決めたはずなのに、指先が僅かに震えた。
ヴィオラは私の動きを見逃さない。
まるで獲物の瞬きの回数を数える蛇のように。
「……公爵夫人。ひとつ、率直に伺っても?」
「どうぞ」
「国王陛下は、今でもあなたを――」
言いかけて、わざと止める。
止めた沈黙が、客間を満たす。
貴婦人たちの耳が、ぴくりと動いたのが分かった。
人は沈黙に弱い。沈黙は、想像で埋めたくなる。
ヴィオラは、扇の影で微笑む。
「“妾”として、可愛がっていらっしゃるのかしら?」
胸の奥に、冷たい針が刺さった。
それでも私は、笑う。
「噂は噂ですわ」
「まあ。なら――“証拠”があれば、噂ではなくなるのに」
ヴィオラの声が、甘くなる。
甘いまま、刃になる。
「私、持っておりますのよ。『妾の証拠』」
客間の空気が、ぴたりと止まった。
ミナが息を呑む。
私は扇の骨を、少しだけ強く握る。
「……何のことでしょう」
「ふふ。知らないふり、お上手」
ヴィオラは指先で茶杯の縁をなぞった。
その爪が、陶器に触れる音が嫌に耳につく。
「王宮からあなたへ届く品。密やかな呼び出し。……それだけでも十分な“香り”がするのに」
香り――。
彼女が言ったその言葉と同時に、私は再び茶の匂いを意識した。
甘い。濃い。
頭が、ほんの少し霞む。
(……まさか)
私は気づかれないように、息を浅くする。
匂いだけでこんなに――?
ヴィオラは楽しそうに続ける。
「公爵様もお気の毒。あんなに美しくて、英雄で……それなのに、国王の妾を妻に」
同情の言葉を装いながら、私を地面に埋める言葉。
「でも、ねえ。公爵家が傷つかない方法もありますのよ?」
私は杯を置いた。
音を立てないように。手の震えを隠すように。
「……方法?」
ヴィオラの瞳が細くなる。
「私が噂を“別の形”に変えて差し上げます。その代わり――」
彼女は身を乗り出し、声を落とす。
甘い香りの奥で、毒の気配がした。
「お値段を、頂戴?」
――噂には値段がある。
命にも、値段がある。
私は微笑みを崩さなかった。
崩したら、彼女の勝ちだ。
「……ヴィオラ様。噂を売るのは自由ですが、真実を売るのは罪ですわ」
「まあ、怖い」
ヴィオラは笑った。
笑っているのに、目が笑っていない。
「では、こうしましょう。公爵夫人が“今ここで”倒れてくだされば、噂はもっと高く売れる」
その一言で、背筋が凍った。
(この茶……)
私は喉の奥が熱くなるのを感じた。
視界の端が、少し揺れる。
ミナが一歩前へ出ようとして――私が目で制した。
ここで騒げば、噂が“事実”になる。
私は、公爵家を巻き込みたくない。
けれど、身体は正直だった。
胸が、苦しい。
香りが、肺に絡みつく。
ヴィオラが、私の様子を愉しむように見ている。
「公爵夫人? 顔色が……」
私は笑った。
笑いながら、唇を噛む。
(倒れない。倒れたら、彼が――)
アラン公爵が哀れだと、また言われる。
私のせいで、彼がまた傷つく。
そう思った瞬間――
扉が開いた。
冷たい風が流れ込む。
甘い香りが、僅かに散る。
「……随分と、賑やかな茶会だな」
低い声。
アラン公爵が立っていた。
礼装のまま、目だけが鋭く光っている。
彼の視線が、真っ直ぐに――私の杯へ落ちた。
次に、ヴィオラへ。
その瞬間、客間の空気が変わった。
噂を操る女ですら、一瞬だけ言葉を失う。
アランはゆっくりと歩み寄り、私の前に立つ。
そして、何も言わずに――私の杯を取り上げた。
触れられない夫が、初めて“私のもの”に触れた。
それが、なぜだか胸を締めつけた。
「……妻に、何を飲ませた」
静かな声。
けれどその静けさは、刃より怖い。
ヴィオラは微笑みを取り戻す。
「まあ、公爵様。私はただ、香り高いお茶を――」
アランは笑わない。
ただ、左手を僅かに押さえる癖が出る。
そして、私の前に壁のように立つ。
(守って、くれている……?)
そう思った瞬間、視界が揺れた。
私は膝の上で手を握りしめた。
倒れない。倒れない。
倒れたら、噂が勝つ。
でも――甘い香りが、私を沈めようとしてくる。
アランの声が、遠くで聞こえた。
「……ミナ。医師を呼べ」
ミナが走り出す足音。
ヴィオラの笑い声が、薄く響く。
「ふふ。お値段、上がりましたわね」
――噂屋の値段。
それは、私の命の値段だった。
そして私は、意識の底で思う。
(ごめんなさい、アラン公爵)
(また、あなたが“気の毒”と言われてしまう)
闇が落ちてくる。
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