王の影姫は真実を言えない

柴田はつみ

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第9章|公爵の左手

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その夜、雨が降っていた。

窓を叩く雨音は規則正しく、まるで誰かの心臓の音のように続いている。
私は寝台の端に座り、指先で青石の指輪をなぞっていた。

冷たい。

指輪は外せない。
外せば、王を否定したことになる。
――そういう形の鎖だ。

そして、外せない鎖がもうひとつある。
私の胸の奥に。

(あなたは、私を妻だと言ったのに)

(どうして触れないの)

アラン公爵の足音が廊下に響いた。
昨日から、私の部屋の前を通る回数が増えた気がする。
見張り――そう思ってしまう自分が嫌だ。

ノック。

「……入る」

返事を待たず、扉が開く。
灯りの陰に、アランが立っていた。

軍装ではない。黒の夜着。
けれど姿勢は軍人のまま。
肩の線が硬く、何も許さないような空気。

「……指輪は」

彼の視線が、まず私の手元へ落ちた。

「……あります」

私は笑った。
笑うと、胸が痛い。

アランは何も言わず、窓際へ歩いた。
外の雨を一瞬見て、カーテンを僅かに引く。
まるで外の闇を確認するように。

その仕草に、私はまた“狙われる”という言葉を思い出す。
守られているのに、守られている形が怖い。

「……窓は必ず閉めろ」

命令。
でも、声音は昨日より低い。疲れている。

「はい」

私は頷く。
“はい”しか言えない。

沈黙が落ちた。
雨音だけが空気を満たす。

その沈黙の中で、私は気づく。

アランが、左手を押さえている。

無意識に。
まるでそこに痛みがあるように、親指の付け根あたりを指で押さえ、離し、また押さえる。



(また……)

前にも見た。
玉座の間でも、茶会でも。
緊張した時、彼は必ず左手を押さえる。

私は呼吸を浅くし、言葉を選ぶ。
踏み込めば危険だと分かる。
でも、踏み込まなければ、永遠に分からない。

「……公爵様。お手は……」

アランの動きが止まった。

一瞬、空気が固まる。

「大したことではない」

短い答え。
それだけで終わらせたいという壁。

けれど私の胸の奥で、何かが疼く。

(私は、何も知らない)

夫のことも。
夫が抱えている傷も。
私に触れない理由も。

知らないから、勝手に誤解する。
誤解するから、さらに遠くなる。

私はゆっくりと立ち上がった。
距離を詰めすぎないよう、でも逃げないように。

「……痛むのですか」

問いは小さかった。
雨音に消されるくらい。

アランは私を見ない。
窓の外を見たまま、左手を押さえる。

「……昔の傷だ」

その言葉だけで、私の胸がぎゅっと縮む。

昔。
過去。
私が入れない時間。

「戦で?」

「……そういうものではない」

否定。
でも、説明はしない。

(言えないんだ)

私が“真実”を言えないのと同じ。
アランにも、言えない何かがある。

その時、雷が遠くで鳴った。
窓ガラスが僅かに震える。

アランの左手が、強く押さえられた。

――痛みがある。
確かに。

私は衝動に負けた。

「……触れても、いいですか」

自分でも信じられないほど、声が震えた。
触れたいのは、手ではない。
彼の“遠さ”に触れたい。

アランの背が僅かに強張る。

「……触れるな」

拒絶。

胸が冷える。
やっぱり。
私はやっぱり、触れてはいけない存在なのだと。

――そう思った瞬間。

アランが、ゆっくり振り向いた。

その瞳が、恐ろしいほど切実だった。
拒絶ではない。
“止めろ”という悲鳴に近い。

「……お前が触れたら、戻れなくなる」

低い声。
雨音の奥で、はっきりと聞こえた。

戻れなくなる?

私は息を呑む。

「……何に、戻れなくなるのですか」

アランは一瞬、唇を噛む。
言葉を飲み込む癖。
彼もまた、自分を縛っている。

「……俺の理性に」

その一言で、血が熱くなった。

理性。
つまり彼は、触れたいと思っている。
触れたいのに、触れない。

(じゃあ、拒絶じゃないの?)

胸が痛い。
救われるはずの言葉なのに、痛い。

「公爵様……私は」

言いかけて、止まる。
私は何を言おうとした?
“妾ではない”? “妹だ”?
言えない。言えば彼を巻き込む。

アランは左手を押さえたまま、声を落とす。

「……この左手は、王宮に逆らった罰の跡だ」

ぽつり、と。

私は凍った。

罰。
王宮に逆らった?

アランの瞳が、ほんの僅かに揺れる。
過去を吐き出す痛みがそこにある。

「昔、守れなかった」

それだけ言って、彼は言葉を切った。
“誰を”守れなかったのかは言わない。

でも私は、なぜかその“誰か”が、今の私と繋がっている気がして怖くなる。

(私……?)

そんなはずはない。
私と彼は、今日結婚したばかり。
他人。王命で結ばれただけ。

なのに――

アランが左手を押さえるたび、
私は“同じ痛み”を感じるような気がする。

雨音が強くなる。
部屋の灯りが揺れる。

アランは一歩近づいて――やっぱり触れない。
触れない距離で、私を見下ろす。

「……お前は、俺の前でだけは、笑うな」

命令の形をした、願いだった。

私は唇を噛んだ。
笑わなければ、泣いてしまう。

「……泣いていい、という意味ですか」

声が掠れる。

アランの喉が僅かに動く。
彼は答えない。
答えられない。

でも、左手を押さえる指が――ほんの僅かに緩んだ。

その瞬間、私は確信してしまう。

この人は、私を拒絶しているのではない。
拒絶している“ふり”をして、守っている。

そしてその守り方は、
彼自身の古傷を、毎夜抉り続けている。

(公爵様……あなたは、どれほど痛いの)

問えない。
触れられない。

私はただ、青石の指輪の冷たさを握りしめ、
彼の左手の癖を――胸に刻むしかなかった。


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