王の影姫は真実を言えない

柴田はつみ

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第25章|古文書庫の鍵

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朝の空気は澄んでいた。
澄んでいるほど、屋敷の中の“濁り”が目立つ。

近衛が出入りし、噂の文が回り、白椿の押し花が増えた。
何ひとつ、元に戻らない。
戻らないまま日常だけが続くふりをしている。

私は窓辺で指輪を眺めていた。
青石は今日も深い海の色をしている。
どれほど見つめても底が見えない。
底が見えないものは、人を怖がらせる。

「奥様」

ミナが、いつもより低い声で呼んだ。
声が低い時は、誰かがいる。

「……老書記テオ様が、面会を求めております」

老書記。
王宮の文書庫を長く預かってきた、年老いた記録官。
“記録の守り手”であり、“秘密の番人”でもある。

私は胸が冷えるのを感じた。

(王宮の人間? それとも、公爵家に仕える人?)

どちらでも怖い。
王宮なら監視。
公爵家なら、私への疑い。

でも、白椿の押し花は“導き”に見えた。
導きだと信じたくなる自分が怖い。

「……通して」

私が答えると、ミナは頷き、扉の方へ向かった。
その背中が、祈りみたいに小さい。



客間は、陽の差し方が柔らかい部屋だった。
本来なら、お茶の香りが心を落ち着ける。
けれど私はもう、香りという言葉に喉が反射する。

扉が開き、老人が入ってきた。

背は低く、歩幅は小さい。
髪は白く、手は細い。
それなのに、その目だけが異様に澄んでいる。
古い書物の頁のような目だ。

「公爵夫人」

老書記テオは深く礼をした。
礼が丁寧すぎて、私は逆に怖くなる。
丁寧さは、刃を隠す布になるから。

「突然の訪問をお許しくださいませ。……私は、ただの書記でございます」

ただの書記。
王宮で“ただの”という言葉ほど信用できないものはない。

「お話を伺います」

私は椅子に座り、手袋越しに膝を押さえた。
震えが出ないように。
出れば、弱さが露呈する。

テオはゆっくりと口を開いた。

「公爵夫人。あなたの周りで……白椿が増えたと」

息が止まりかけた。

(知っている)

誰にも言っていない。
ミナと私しか知らないはずだ。
それを、この男が知っている。

ミナが背後で小さく息を呑む気配がした。
私は笑みを作れなかった。

「……何のことでしょう」

言った瞬間、声が乾いているのが分かる。
嘘の味がする。

テオは微笑んだ。
笑ったのではない。
“憐れむ”でもない。
ただ、古い記録をめくるような穏やかさ。

「隠すのは、正しい。隠さねば、あなたは壊れます」

その言い方が、怖い。
まるで、私の壊れ方を知っているみたいに。

私は喉の奥に力を入れて問う。

「……あなたは、何を知っているのですか」

テオは少し目を伏せた。
躊躇ではない。
言葉を選んでいる。

「私は、王宮の文書庫を預かってきた者です。
 秘密がいつ“人を殺す”かを……見てきました」

心臓が、どくりと鳴った。

(殺す)

宰相の条件が蘇る。
真実を言えば死ぬ。
自然に消える。

テオは、ゆっくりと手を差し出した。
そこにあるのは、紙切れではない。
鍵でもない。
――言葉だけ。

「鍵は銀にある」

ぽつり、と落とされたその言葉が、客間の空気を変えた。

〔銀の髪飾り〕

銀。
私の胸の奥が冷たくなる。

修道院の箱。
銀の髪飾り。
王家の紋と祈りの紋。
欠けた印。

私は無意識に、胸元へ手を当てた。
そこに銀はない。
銀は、隠してある。
触れない場所に。

テオの視線が、私の動きへ向く。
見透かすようではない。
“確かめる”視線。

「……やはり、お持ちか」

その言葉で、私は震えそうになった。
持っている。
隠している。
隠しているという事実が、私を罪人にする。

「私は……」

言いかけて止まる。
言えば死ぬ。
言えば夫が死ぬ。

沈黙が落ちる。

テオは沈黙の重さを受け止めるように、低く言った。

「公爵夫人。今、あなたを守っているのは沈黙です。
 しかし――沈黙だけでは、いずれ心が死ぬ」

心が死ぬ。

その言葉が、胸に刺さる。
私はもう、泣き方を忘れかけている。
それが、心が死ぬ兆しだと自分でも分かる。

「……では、どうすれば」

口から本音が漏れた。
漏れた瞬間、自分が怖い。
私は“どうすれば”と誰かに頼ってはいけないのに。

テオは答えなかった。
答えの代わりに、ただひとつだけ言った。

「文書庫には、扉があります。
 あなたが鍵を持つなら、扉は開く」

扉。
文書庫。
王宮の秘密。

私は息ができなくなった。

(扉を開けたら、私は真実に触れる)

真実に触れたら、死ぬ。
でも、触れなければ、私は“妾”として死ぬ。

どちらも死だ。

ミナが小さく言った。

「奥様……危険です。王宮の文書庫など……」

テオはミナの方を見ず、私だけを見た。

「危険です。だからこそ、鍵は銀にある。
 銀は、あなたのために作られた鍵です」

あなたのため。

その優しさが、怖い。
優しさの形をした罠に見えるから。

その時、廊下の奥から足音が近づいた。

硬い歩幅。
軍人の足音。

アラン公爵。

扉が開き、アランが入ってきた。
外套の端に冷たい風が残っている。
その顔は無表情なのに、目だけが鋭い。

彼は室内の空気を一目で読み取った。
テオの存在。
私の硬い姿勢。
ミナの不安。

「……誰だ」

低い声。
敵を切り分ける声。

テオは立ち上がり、深く礼をした。

「老書記テオでございます。公爵様。
 私は――ただの、記録の番人」

アランの視線が私へ向く。
問いを投げる視線。

私は言えない。
銀の髪飾りのこと。
文書庫の扉のこと。
白椿の合図のこと。

言えないから、ただ頷いた。
頷くしかない。

アランの目が僅かに細くなる。
“また隠した”と受け取られる恐怖が、胸を締める。

でもテオが、先に言った。

「公爵様。公爵夫人を疑わないでください」

その一言が、私をさらに怖くした。
なぜ、あなたがそれを言う?
あなたは味方なのか?
敵なのか?

アランの声が低くなる。

「……疑ってはいない」

短い否定。
温度がない。
でも、それは彼なりの必死の否定だと分かる。

テオは静かに言った。

「なら、守ってください。
 あなたの沈黙と冷たさは、彼女を守ります。
 同時に、彼女の心を殺します」

その言葉に、アランの左手が僅かに動いた
押さえかけて、止める。
痛みを隠す癖。

私は胸が痛い。
私のせいで、また彼が痛む。

アランはテオを睨むように見た。

「何が言いたい」

テオは、ようやく視線をアランに向けた。
老人の目が、刃のように澄む。

「“扉”の話です」

その瞬間、アランの空気が変わった。
敵を斬る空気ではない。
過去を思い出したような硬さ。

「……文書庫の扉か」

アランが低く言う。

テオが頷く。

「鍵は銀にある」

再び、その言葉。

私は心臓が跳ねた。
アランも、それを聞いてしまった。

アランの視線が、私の胸元へ落ちる。
そこに銀はない。
でも、彼は感じ取る。
私が“隠している何か”を。

私は息を止めた。
見つかったら、終わる気がして。

アランは何も言わなかった。
言わないまま、私の前に立つ。
壁みたいに。
守りの形で、距離を作る。

テオは最後に言った。

「公爵夫人。開くかどうかは、あなたの意志です。
 ただ――扉は、あなたを“妾”から救うために存在します」

妾から救う。

その言葉が、胸の奥で小さく鳴った。
救われたい。
でも救われ方が怖い。

テオは一礼し、静かに去っていった。
残り香はない。
残ったのは、言葉だけ。

鍵は銀にある。

扉がある。

救いがある。

その三つが、私の胸を同時に締めつける。

アランが低く言った。

「……何を隠している」

問いは短い。
短いほど、答えが要る。

私は笑えなかった。
泣けなかった。
ただ、震える息で言った。

「……言えません」

言えない。
言えば死ぬ。

アランの瞳が揺れる。
怒りではない。
痛みだ。

彼は一歩近づきかけて、止まった。
触れない。
触れたら壊れる。
触れたら漏れる。

「……分かった」

その二文字が、私の心をさらに沈めた。
分かった=諦めた、に聞こえるから。

でも、アランは最後に言った。

「扉を開けるなら、俺の目の届く場所で開けろ」

命令の形。
でも、それは願いだった。

――危険でも、ひとりにするな。
その願い。

私は小さく頷いた。
頷いた瞬間、涙が出そうになって、堪えた。

鍵は銀にある。
扉は王宮にある。
そして私は、公爵夫人として今日も沈黙を選ぶ。

でも、胸の奥で――
白椿の合図が、静かに次を指していた。
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