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第26章|左手の傷の真実
しおりを挟む夜の公爵邸は、音が少ない。
蝋燭の炎が揺れる音さえ、耳に刺さるほど静かだ。
静かな夜ほど、人の心は余計なものを拾う。
足音の間隔。扉の閉まる重さ。息の浅さ。
私は寝台の端に座り、指輪を外せないまま手を見つめていた。
青石の冷たさは、今夜も指を締める。
鎖の冷たさ。
守りの冷たさ。
――そして、夫の冷たさ。
(私の前でだけは、笑うな)
あの言葉を守ろうとして、私は笑えなくなった。
笑えないと、泣けない。
泣けないと、胸が痛いだけになる。
扉の外で足音が止まり、ノックがあった。
珍しい。アランは普段ノックなどしない。
その不自然さだけで、胸がざわつく。
「入る」
低い声。
扉が開き、アランが入ってきた。
いつもの軍装ではない。黒に近い夜着の上に外套を羽織っている。
外から戻ったばかりの匂い。冷たい夜気。
王宮の匂いが混じっている。
彼の目が、私を見る。
見るのに、近づかない。
いつもの距離。
「……起きていたのか」
「はい」
短い返事。
夫婦の会話が、いつも短い。
短いほど、余白が増える。
余白は誤解を育てる。
アランは窓際へ歩き、カーテンを少しだけ引いた。
雨の音が、薄く聞こえる。
雨粒が窓を叩く音が、心臓みたいに続いている。
私はその背中を見つめた。
背中が広い。
広いのに、遠い。
そして、また見てしまう。
アランの左手。
彼は無意識に、左手を押さえていた。
親指の付け根から掌にかけて、痛みを誤魔化すように。
押さえて、離して、また押さえる。
いつもの癖。
(また……)
第9章で見た、あの癖。
緊張した時、怒りを飲み込む時、言葉を抑える時。
彼の左手は、必ず先に痛む。
私は、胸の奥が疼くのを感じた。
(私は、何も知らない)
夫のことも。
夫が抱えている傷も。
私に触れない理由も。
知らないから、勝手に誤解する。
誤解するから、さらに遠くなる。
私はゆっくりと立ち上がった。
距離を詰めすぎないよう、でも逃げないように。
「……痛むのですか」
問いは小さかった。
雨音に消されるくらい。
アランは私を見ない。
窓の外を見たまま、左手を押さえる。
「……昔の傷だ」
その言葉だけで、私の胸がぎゅっと縮む。
昔。
過去。
私が入れない時間。
「戦で?」
「……そういうものではない」
拒むような否定。
でも、拒絶ではない。
“言えない”の形。
その瞬間、雨が強く窓を叩いた。
水の線がガラスを走り、外の景色が滲む。
私は思った。
(私も、同じだ)
私も、言えない。
真実を言えば死ぬ。
夫に言えば夫も死ぬ。
だから、いつも曖昧な言葉しか出せない。
曖昧な言葉が、誤解になる。
誤解が、鎖になる。
私は息を整えながら、もう一歩だけ近づいた。
触れない距離。
触れられない距離。
「……隠すほど、痛いのですね」
言ってしまった。
責めるつもりはない。
責める言葉になってしまうのが怖い。
アランの指が止まった。
左手を押さえる動きが、止まる。
そして、少しだけ肩が硬くなる。
「……痛いのは、傷じゃない」
低い声が落ちた。
傷じゃない。
胸が、どくりと鳴る。
なら、痛いのは何?
言えないのだ。
彼もまた、言えないものを持っている。
その言えないものが、左手に集まっている。
私は唇を噛んだ。
言葉を選ぶ時間が欲しかった。
でも、選べば選ぶほど、言えなくなる。
「……私が、怖いのですか」
出てしまった。
最悪の問い。
自分を刺す問い。
アランが、初めて窓から目を離し、私を見た。
その目は冷たくない。
でも、痛いほど切実だった。
「怖い」
短い肯定。
私は心臓が跳ねた。
やっぱり。
私は怖い。
妾の噂の女。王宮の鎖の女。触れたら汚れる女。
そう思った瞬間、アランが続けた。
「……俺が、俺自身が怖い」
私は息を呑んだ。
「俺が触れたら……戻れなくなる」
同じ言葉。
理性。
壊れる。
私は胸が熱くなるのに、涙が出ない。
出し方を忘れた目が、ただ痛む。
「……戻れなくなるのは、何に」
問いは震えた。
震えを隠せなかった。
アランは一度だけ視線を落とし、左手の甲を見つめた。
その手の甲には、薄い古い傷が走っている。
光の角度で、白く浮かぶ。
「……この手は、昔……命令に逆らえなかった」
命令。
その言葉で、胸が凍る。
王命。
宰相。
近衛。
私の人生を縫ってきた言葉。
アランは淡々と言うのに、喉の奥がかすかに震えていた。
「守るべきものがあった。
だが俺は……守れなかった」
短い告白。
でも、その短さが痛い。
言葉にできないほどの痛みが、そこにある。
「……誰を」
私は、聞かなくていいことを聞きたくなった。
知ってしまえば、戻れないかもしれない。
アランの目が僅かに細くなる。
「言えない」
その返事は冷たい。
でも、冷たさの奥に“言ったら終わる”という恐怖がある。
(私と同じだ)
同じだと分かった瞬間、胸が少しだけ救われる。
でも同時に、絶望も深くなる。
言えない夫婦。
言えないものを抱えたまま結ばれた夫婦。
雨音が強くなる。
部屋の灯りが揺れる。
アランが、ふっと笑いそうな気配を見せた。
笑いではない。
自嘲だ。
「……だから俺は、王宮の影に敏感だ」
王宮の影。
私の周りの影。
バルド。宰相。噂屋。クラリス。
「近づけば、同じことになる」
同じこと――守れず、失う。
その言葉が、私の胸を締めつけた。
「公爵様……私は」
私は何を言うつもりだった?
“失わないで”
“私を守って”
“私を信じて”
全部、言いたいのに言えない。
アランは一歩近づいた。
近づいたのに、触れない。
触れられる距離で止まる。
その距離が、いちばん苦しい。
「……お前は、俺の前でだけは壊れるな」
また命令。
命令の形をした願い。
私は笑えなかった。
泣けなかった。
ただ、震える息で答える。
「壊れないように、しているのです」
その言葉が、嘘ではなく事実なのが悲しい。
アランの左手が、また押さえられた。
今度は痛みを隠すためではない。
抑えたい衝動を抑えるため。
「……この傷が疼くときは」
アランがぽつりと言う。
「何かを守ろうとしているときだ」
その一言で、私の胸がぎゅっと締まった。
守ろうとして、冷たくなる。
守ろうとして、触れない。
守ろうとして、眠らない。
それが彼の愛の形かもしれないと思ってしまうのが、怖い。
私は小さく言った。
「……私は、守られる価値があるのでしょうか」
口にした瞬間、恥ずかしくなる。
でも、止められない。
アランの目が揺れた。
揺れて、痛そうに細くなる。
「価値の話じゃない」
短い否定。
「俺が……守ると決めた」
決めた。
それは優しい言葉のはずなのに、どこか怖い。
決めた、と言われると私は“選ばれた”のではなく、“守られる対象”になる。
でもその夜、初めて私は気づいた。
アランの冷たさは、拒絶ではない。
痛みだ。
そして、その痛みの形が、左手の傷に出る。
私は近づきたい。
触れたい。
でも触れれば、彼の古傷がもっと疼くかもしれない。
私は、何もできないまま立ち尽くした。
アランは踵を返し、扉へ向かう。
出ていく前に、一度だけ振り向いた。
「……眠れ」
それは命令ではなく、願いに聞こえた。
扉が閉まる。
私は静かな部屋で、雨音を聞きながら思う。
(公爵様の左手が痛むたびに、私は――守られているのかもしれない)
その“かもしれない”が、切ない。
確信にはならない。
確信になれば、噂が壊れるのに。
守りの痛みが、私たちの距離を縮めるのではなく、
さらに遠ざけていく夜だった。
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