婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない

柴田はつみ

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第50章|エピローグ:選び直した恋

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 春の光は、王宮の石をやわらかくする。

 冬の間は冷たかった回廊も、今は少しだけ温度を持っている。
 窓の外では白い花が揺れ、噴水の水音が細く続く。
 王宮は何事もなかったかのように整っていた――ただ一つ、“噂”の居場所だけが減っている。

 記録で裁かれたからだ。
 涙ではなく、帳簿と刻印で。
 そして、最後に残ったのは――人間だった。

 セシリアは中庭の端で立ち止まり、風に髪を揺らした。

 淡い蜂蜜色――いや、金髪の長い髪が陽を拾い、絹みたいに光る。
 灰青の瞳は、もう以前ほど怯えていない。
 怖さが消えたわけではない。
 ただ、怖さの中で立つ方法を覚えた。

 胸元には名札がある。

 侍女としての名。
 それは屈辱の印ではなく、“自分で選んだ人生”の印になっていた。

 ――記憶は、まだ全部戻っていない。

 婚約者がレイヴンだったことは知っている。
 婚約破棄の理由も知った。
 封印と狼と、器回収の闇も知った。

 それでも、愛していたはずの思い出だけが、まだ薄い霧の向こう側だ。

 たまに、旋律が胸の奥で鳴る。
 机を叩く音が聞こえる。
 触れそうで触れない記憶が、指先のすぐ先で揺れる。

 ――けれど、もう焦らない。

 焦れば、また誰かが“鍵”として利用しようとする。
 だから、ゆっくりでいい。
 自分の意志で取り戻す。

 足音がした。

 振り向く前に分かる足音。
 重くて静かで、でも迷いがない。

 レイヴンだった。

 漆黒の髪。
 金に近い琥珀の瞳。
 軍装ではなく、今日だけは少しだけ柔らかい服装。

 それでも彼の背筋は、王太子の背筋だった。
 そしてその仮面の下に、まだ痛みが残っているのも分かる。

 レイヴンはセシリアの前で止まった。

 触れそうで触れない距離。
 封印を恐れる距離。
 それでも、以前より少しだけ近い距離。

「……体調は」

 相変わらず言葉が不器用だ。
 心配の言い方が、命令の形に寄る。

 セシリアは小さく笑った。

「大丈夫です。……殿下も、寝ていますか」

 レイヴンの喉が僅かに動く。

「寝ている」

 嘘。
 でも、前より嘘が短くなった。
 短くなった分だけ、セシリアは許せる気がした。

 沈黙が落ちる。

 風が花を揺らし、噴水が小さく歌う。
 沈黙が怖くない。

 怖くないようにするために、二人はここまで戦ったのだ。

 セシリアは胸元の名札に指を当てた。
 冷たい金属が、今日は温かく感じる。

「殿下」

 呼ぶ声は震えていない。
 逃げない声。

 レイヴンが琥珀の瞳で見た。
 見て、逸らさない。

「……何だ」

 セシリアは息を吸った。

 言葉にするのは怖い。
 でも、言葉にしないとまた誰かが勝手に決める。
 自分の人生も、彼の人生も。

「私、全部は思い出せていません」

 レイヴンの指先が、右鎖骨に触れそうになって止まった。
 癖。恐怖を抑える癖。

 セシリアは続ける。

「あなたが私の婚約者だったことは知っている。
 婚約破棄の理由も知っている。
 ……でも、あなたを愛していた“記憶”だけが、まだ戻らない」

 痛い。
 言った瞬間、胸が少し痛い。

 レイヴンの瞳が揺れた。
 救われたい揺れ。
 怖い揺れ。

 セシリアは、目を逸らさなかった。

「それでも――」

 声が少しだけ震える。
 震えるのは怖いからじゃない。
 大事なことを言う震え。

「思い出せなくても、私はあなたを選びたい」

 その言葉で、レイヴンの仮面が静かに割れた。

 琥珀の瞳の奥が濡れる。
 喉が震える。
 声が出ない。

 レイヴンは一歩踏み出して、止まった。

 触れたい。
 でも触れれば揺れる。

 揺れる恐怖が、まだ残っている。

 セシリアはそっと、手を差し出した。

 触れるためではない。
 “ここにいる”という合図のため。

 机を叩く代わりに。
 旋律を口ずさむ代わりに。

 手のひらを開いたまま、待つ。

 レイヴンの手が震えた。
 震えながら、ゆっくり伸びる。

 触れる寸前で止まる。
 ためらいが、空気に浮く。

 セシリアは小さく言った。

「……怖いなら、少しずつでいいです」

 その一言が、レイヴンの心臓をほどいた。

 レイヴンはゆっくり膝をついた。

 王太子が、王宮の中庭で膝をつく。
 それは異常だ。
 でも今は、異常でいい。

 レイヴンは震える声で言った。

「……セシリア。俺は、最初からやり直したい」

 最初から。
 婚約破棄の夜の前からではない。

 “今の二人”から。

「お前が思い出していなくてもいい。
 俺が、お前の隣で、もう一度選ばれたい」

 その言葉は、命令ではなく懇願だった。
 守るための嘘でもない。
 本音だけの言葉。

 セシリアの目から、涙が落ちた。

 でもそれは、悔しい涙じゃない。
 生きていてよかった涙だ。

 セシリアは頷いた。

「はい。……選びます」

 そして、ふっと口ずさんでしまう。

 短い旋律。
 三つ四つの音。
 あの合図。

 レイヴンの瞳が揺れ、息を呑む。
 でも今回は崩れない。

 崩れずに、笑った。

 不器用な笑み。
 それでも、確かな温度のある笑み。

 レイヴンは立ち上がり、まだ触れない距離で言った。

「……この音を、今度は逃げずに聞く」

 セシリアは涙を拭いながら笑う。

「じゃあ、返事をください」

 レイヴンは小さく息を吸い、机を叩く代わりに――指先で自分の胸を軽く叩いた。

 トン。トン。

 約束の返事。

 “ここにいる”の合図。

 セシリアの胸の奥の霧が、ほんの少しだけ晴れた気がした。

 記憶はまだ全部戻っていない。
 でも、選ぶことはできる。

 選び直した恋は、思い出の上にではなく、意志の上に立つ。

 王宮の風が、白い花を揺らす。
 二人の間を通り抜け、旋律の残り香だけを残していった。


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