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第二章 十二年前の朝、まだ遠い運命の影
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鳥たちのさえずりが、薄いカーテン越しに差し込む朝の光とともに入り込んでくる。
キャロルは、しばらくのあいだ呼吸のしかたさえ忘れていた。
胸の奥で、鼓動だけがやけに大きく鳴り響いている。
(夢じゃない……本当に、戻ってきたんだわ)
指先をぎゅっと握る。
かつて縄に擦り切れたはずの手首は、白く、柔らかく――傷跡ひとつない。
その現実が、かえって胸を締めつけた。
「お嬢様、今日は特別な一日ですよ。王太子殿下が、視察のためにこちらへお越しになると……」
マリアが嬉しそうに続ける。
視察。
――そうだ。この日は、キャロルが初めてクリスと出会った日。
ここから、すべてが始まった。
出会い、婚約、王妃、そして……処刑へ。
(なら――今度は、同じ道を歩かなければいい)
キャロルは静かに息を吸い込んだ。
「マリア。今日の準備は……いつも通りでお願い」
「いつも通り、でございますか?」
「ええ。私は、前に出る必要はありませんわ。殿下は、お父さまがお迎えになるもの」
マリアは少し不思議そうに首を傾げたが、すぐに微笑んだ。
「かしこまりました」
足音が遠ざかる。
寝室にひとり残されたキャロルは、鏡の中の幼い自分を見つめた。
(私はもう、あの人を愛さない。
――決して)
言葉にして、唇をかたく結ぶ。
それは祈りというより、呪いに近い誓いだった。
彼女自身に向けられた、逃げ場のない誓約。
やがて、屋敷の玄関前がざわめき始めた。
石畳に、馬車の車輪が止まる重い音が響く。
キャロルは、二階の廊下の陰から、そっと庭を見下ろした。
黒い軍装に身を包んだ少年が、馬車から降り立つ。
まだ少年と呼ぶべき年頃なのに、立ち姿は凛としていて、空気を支配する静かな威圧感を纏っていた。
鋼のような灰青の瞳。
――クリス。
(ああ……変わらない。
前世のままの、冷たい瞳)
胸の奥が痛む。
それでも視線を逸らさないよう、自分の指をぎゅっと握りしめた。
彼がその視線に気づいたかのように、ふいに顔を上げる。
遠く離れた場所から、灰青の瞳がまっすぐにキャロルを捉えた。
(――見つかった)
喉がひくりと鳴る。
身体がひどく強張った。
次の瞬間。
思いもよらない光が、少年の瞳に灯った。
(……え?)
ほんのわずか――
驚きと、戸惑いと、言葉にならない温度。
そして、微かに、安堵に似た色。
まるで、
「ようやく見つけた」
――そう言っているかのような。
(違う……こんな表情、前世では一度も――)
心臓が暴れる。
足元の床が、ぐらりと揺れた錯覚さえ覚えた。
少年は、なぜか逸らすことなく、じっと彼女を見つめ続ける。
静かに、ゆっくりと、その唇が動いた。
声は、ここまでは届かない。
だが、かすかな口の動きが読めた。
――「キャロル」
それは、まだ名も交わしていないはずの少女の名だった。
(……どうして?)
血の気が引いていく。
キャロルは慌てて、廊下の陰に身を引いた。
壁に背中を預け、震える指先で胸元を押さえる。
(殿下……今、確かに私の名前を――)
まだ出会ってもいないのに。
まだ挨拶も交わしていないのに。
(まるで……私を、知っているみたいに)
呼吸が乱れる。
鼓動の音が耳の奥で響き続ける。
やがて、遠くから父の声と、礼儀正しく挨拶を返す少年の声が聞こえてきた。
日常の音。
けれど、キャロルの世界だけは、静かに軋みを上げていた。
(運命は――本当に、変えられるの?
それとも、また同じ場所へ引き戻される?)
恐怖にも似た不安が、胸を掻きむしる。
それでも彼女は、震える唇をかたく結んだ。
(いいえ。今度こそ――私が変える)
たとえ、彼がこちらを見つめていても。
たとえ、その瞳に、前世の後悔の影が宿っていようとも。
(私は、もう愛さない。
――絶対に)
それは、心の奥に刻みつけるような、静かな宣誓だった。
キャロルは、しばらくのあいだ呼吸のしかたさえ忘れていた。
胸の奥で、鼓動だけがやけに大きく鳴り響いている。
(夢じゃない……本当に、戻ってきたんだわ)
指先をぎゅっと握る。
かつて縄に擦り切れたはずの手首は、白く、柔らかく――傷跡ひとつない。
その現実が、かえって胸を締めつけた。
「お嬢様、今日は特別な一日ですよ。王太子殿下が、視察のためにこちらへお越しになると……」
マリアが嬉しそうに続ける。
視察。
――そうだ。この日は、キャロルが初めてクリスと出会った日。
ここから、すべてが始まった。
出会い、婚約、王妃、そして……処刑へ。
(なら――今度は、同じ道を歩かなければいい)
キャロルは静かに息を吸い込んだ。
「マリア。今日の準備は……いつも通りでお願い」
「いつも通り、でございますか?」
「ええ。私は、前に出る必要はありませんわ。殿下は、お父さまがお迎えになるもの」
マリアは少し不思議そうに首を傾げたが、すぐに微笑んだ。
「かしこまりました」
足音が遠ざかる。
寝室にひとり残されたキャロルは、鏡の中の幼い自分を見つめた。
(私はもう、あの人を愛さない。
――決して)
言葉にして、唇をかたく結ぶ。
それは祈りというより、呪いに近い誓いだった。
彼女自身に向けられた、逃げ場のない誓約。
やがて、屋敷の玄関前がざわめき始めた。
石畳に、馬車の車輪が止まる重い音が響く。
キャロルは、二階の廊下の陰から、そっと庭を見下ろした。
黒い軍装に身を包んだ少年が、馬車から降り立つ。
まだ少年と呼ぶべき年頃なのに、立ち姿は凛としていて、空気を支配する静かな威圧感を纏っていた。
鋼のような灰青の瞳。
――クリス。
(ああ……変わらない。
前世のままの、冷たい瞳)
胸の奥が痛む。
それでも視線を逸らさないよう、自分の指をぎゅっと握りしめた。
彼がその視線に気づいたかのように、ふいに顔を上げる。
遠く離れた場所から、灰青の瞳がまっすぐにキャロルを捉えた。
(――見つかった)
喉がひくりと鳴る。
身体がひどく強張った。
次の瞬間。
思いもよらない光が、少年の瞳に灯った。
(……え?)
ほんのわずか――
驚きと、戸惑いと、言葉にならない温度。
そして、微かに、安堵に似た色。
まるで、
「ようやく見つけた」
――そう言っているかのような。
(違う……こんな表情、前世では一度も――)
心臓が暴れる。
足元の床が、ぐらりと揺れた錯覚さえ覚えた。
少年は、なぜか逸らすことなく、じっと彼女を見つめ続ける。
静かに、ゆっくりと、その唇が動いた。
声は、ここまでは届かない。
だが、かすかな口の動きが読めた。
――「キャロル」
それは、まだ名も交わしていないはずの少女の名だった。
(……どうして?)
血の気が引いていく。
キャロルは慌てて、廊下の陰に身を引いた。
壁に背中を預け、震える指先で胸元を押さえる。
(殿下……今、確かに私の名前を――)
まだ出会ってもいないのに。
まだ挨拶も交わしていないのに。
(まるで……私を、知っているみたいに)
呼吸が乱れる。
鼓動の音が耳の奥で響き続ける。
やがて、遠くから父の声と、礼儀正しく挨拶を返す少年の声が聞こえてきた。
日常の音。
けれど、キャロルの世界だけは、静かに軋みを上げていた。
(運命は――本当に、変えられるの?
それとも、また同じ場所へ引き戻される?)
恐怖にも似た不安が、胸を掻きむしる。
それでも彼女は、震える唇をかたく結んだ。
(いいえ。今度こそ――私が変える)
たとえ、彼がこちらを見つめていても。
たとえ、その瞳に、前世の後悔の影が宿っていようとも。
(私は、もう愛さない。
――絶対に)
それは、心の奥に刻みつけるような、静かな宣誓だった。
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