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第二十三章 「初めての亀裂 ― クリス、リネアを“拒む”」
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王宮の執務室には、重たい沈黙が落ちていた。
窓から差し込む午後の光が、書類の山を照らしている。
クリスは机に向かったまま、視線を上げなかった。
背後で、扉が静かに閉まる音がする。
「……殿下」
聞き慣れた声。
柔らかく、甘く、寄り添うような声音。
リネアだ。
「少し、お時間をいただけますか?」
返事がない。
それでも彼女は一歩、また一歩と近づいた。
いつもなら、それを拒まれることはなかった。
「最近……殿下が遠く感じられて」
不安げに、けれど計算された間で言葉を落とす。
「私、何か気に障ることをしてしまったのでしょうか」
その問いに、クリスはようやくペンを置いた。
振り返る。
だがその瞳に、以前の柔らかさはない。
「……リネア」
名を呼ばれ、彼女の顔がわずかに明るくなる。
「はい」
「君は、いつから“代わり”になろうとした?」
空気が凍りついた。
「……え?」
「俺の隣に立つ“代わり”。
俺の迷いを聞く“代わり”。
キャロルの位置に、自然に収まろうとした」
リネアの指先が、震える。
「そんな……私はただ、殿下を支えたくて……」
「支える、か」
クリスは低く息を吐いた。
「君の言葉は、いつも正しかった。
俺が楽になる言葉だった」
一歩、距離を取る。
「だがそれは――俺が考えなくて済む言葉でもあった」
リネアの瞳が揺れる。
「殿下……私は、そんなつもりでは……」
「分かっている」
即答だった。
それが、かえって残酷だった。
「君は悪意で動いていない。
だからこそ……俺は気づくのが遅れた」
クリスは視線を逸らす。
脳裏に浮かぶのは、金髪の後ろ姿。
何も言わず、何も縋らず、ただ距離を取ったキャロル。
「俺は――」
言葉に詰まる。
「俺は、誰かに“守られている気分”になることで、
本当に守るべきものから目を逸らしていた」
沈黙。
リネアの唇が、かすかに震えた。
「……では、私は」
「距離を置こう」
はっきりとした拒絶だった。
声は穏やか。
だが、揺るぎがない。
「今は、君の言葉を必要としていない」
その一言が、致命的だった。
リネアは一瞬、何か言いかけ――
けれど言葉を飲み込む。
「……承知いたしました、殿下」
微笑は、まだ崩れていない。
けれどその奥で、何かが静かに壊れている。
リネアは一礼し、執務室を出ていった。
扉が閉まったあと。
クリスは、椅子に深く身を沈めた。
(拒んだ)
(初めて、自分の意思で)
胸の奥に残るのは、安堵ではない。
痛みだ。
(……遅すぎたのか)
その問いに、答えは出ない。
一方。
離れた回廊で、キャロルは静かに歩いていた。
すれ違う侍女たちの視線。
囁き声。
だが、彼女は気に留めない。
ふと、胸の奥に微かな波が立つ。
(……今)
理由は分からない。
それでも、確信だけがあった。
(亀裂が、入った)
キャロルは立ち止まらない。
振り返らない。
(私は、見届けるだけ)
(選ぶのは、彼)
廊下の先に、光が差していた。
その光は、まだ彼女のもとへは届かない。
だが確かに――
崩れ始めた歯車の音が、静かに響いていた。
王宮の執務室は、昼下がりだというのに重く沈んでいた。
高窓から差し込む光が机上の書類を照らしているが、文字はクリスの目に入らない。
扉が、静かに開いた。
「……殿下」
振り返ると、そこにいたのはキャロルだった。
以前よりも距離を保った立ち位置。
柔らかい微笑。
けれど、その瞳には、かつての温度がない。
「少し、お時間をよろしいでしょうか」
「ああ……」
短く答えたものの、クリスの胸はざわついていた。
彼女と向き合うのは、怖い。
だが避ければ、もう二度と戻れない気もした。
沈黙ののち、クリスが口を開く。
「……最近、君が遠い」
キャロルは否定しなかった。
「距離は、殿下が選ばれたものです」
その言葉に、クリスの眉がわずかに動く。
「俺は、そんなつもりで……」
言いかけた言葉を、キャロルは静かに遮った。
「殿下」
その声は穏やかで、感情を含まない。
「私は、殿下の隣に
妃候補ではないリネアが立っていたことを――拒みませんでした」
クリスの喉が、小さく鳴る。
キャロルは視線を逸らさず、続けた。
「それが、どういう意味か……お分かりになりますか?」
問いではなかった。
確認でもない。
結論だった。
「殿下は、その時点で――
私ではなく、リネアを“選んでいた”ということになります」
空気が凍りつく。
「……違う」
クリスの声は掠れていた。
「そんなつもりじゃない。俺は……」
キャロルは、ゆっくりと首を振る。
「いいえ。違いません」
金髪が、光を受けて静かに揺れる。
「殿下が選ばれたのは、
私を傷つけない選択ではなく――
殿下ご自身が、楽でいられる選択です」
クリスの指が、机の縁を強く掴む。
「……そんなことは……」
「分かっています」
即答だった。
それが、何より残酷だった。
「悪意ではなかったのでしょう。
だからこそ、私は責めません」
キャロルは、静かに言い切る。
「けれど――」
一拍、間を置く。
「私は、殿下に拒まれたのではありません」
クリスが、息を呑む。
「“拒む必要のない存在”にされたのです」
その一言で、クリスの顔色がはっきりと変わった。
否定できない。
反論もできない。
論理として、完璧だった。
「……キャロル」
名を呼ぶ声は、震えている。
「俺は……」
キャロルは、ほんのわずかに微笑んだ。
「殿下。どうか誤解なさらないで」
優しい声。
だが、その優しさは刃だった。
「私は、怒っているわけではありません」
一歩、後ろへ下がる。
「ただ――
二番目に選ばれる場所には、戻らないと決めただけです」
その言葉は、宣告だった。
キャロルは一礼し、踵を返す。
長い金髪が揺れ、扉の向こうへ消えていく。
残されたクリスは、その場に立ち尽くした。
(……俺は)
(選んだつもりで、何も選んでいなかった)
そして――
選ばなかったことで、最も失ってはならないものを失った。
この瞬間、
クリスの中で初めて、はっきりと亀裂が走った。
それは、取り返しのつかない音だった。
窓から差し込む午後の光が、書類の山を照らしている。
クリスは机に向かったまま、視線を上げなかった。
背後で、扉が静かに閉まる音がする。
「……殿下」
聞き慣れた声。
柔らかく、甘く、寄り添うような声音。
リネアだ。
「少し、お時間をいただけますか?」
返事がない。
それでも彼女は一歩、また一歩と近づいた。
いつもなら、それを拒まれることはなかった。
「最近……殿下が遠く感じられて」
不安げに、けれど計算された間で言葉を落とす。
「私、何か気に障ることをしてしまったのでしょうか」
その問いに、クリスはようやくペンを置いた。
振り返る。
だがその瞳に、以前の柔らかさはない。
「……リネア」
名を呼ばれ、彼女の顔がわずかに明るくなる。
「はい」
「君は、いつから“代わり”になろうとした?」
空気が凍りついた。
「……え?」
「俺の隣に立つ“代わり”。
俺の迷いを聞く“代わり”。
キャロルの位置に、自然に収まろうとした」
リネアの指先が、震える。
「そんな……私はただ、殿下を支えたくて……」
「支える、か」
クリスは低く息を吐いた。
「君の言葉は、いつも正しかった。
俺が楽になる言葉だった」
一歩、距離を取る。
「だがそれは――俺が考えなくて済む言葉でもあった」
リネアの瞳が揺れる。
「殿下……私は、そんなつもりでは……」
「分かっている」
即答だった。
それが、かえって残酷だった。
「君は悪意で動いていない。
だからこそ……俺は気づくのが遅れた」
クリスは視線を逸らす。
脳裏に浮かぶのは、金髪の後ろ姿。
何も言わず、何も縋らず、ただ距離を取ったキャロル。
「俺は――」
言葉に詰まる。
「俺は、誰かに“守られている気分”になることで、
本当に守るべきものから目を逸らしていた」
沈黙。
リネアの唇が、かすかに震えた。
「……では、私は」
「距離を置こう」
はっきりとした拒絶だった。
声は穏やか。
だが、揺るぎがない。
「今は、君の言葉を必要としていない」
その一言が、致命的だった。
リネアは一瞬、何か言いかけ――
けれど言葉を飲み込む。
「……承知いたしました、殿下」
微笑は、まだ崩れていない。
けれどその奥で、何かが静かに壊れている。
リネアは一礼し、執務室を出ていった。
扉が閉まったあと。
クリスは、椅子に深く身を沈めた。
(拒んだ)
(初めて、自分の意思で)
胸の奥に残るのは、安堵ではない。
痛みだ。
(……遅すぎたのか)
その問いに、答えは出ない。
一方。
離れた回廊で、キャロルは静かに歩いていた。
すれ違う侍女たちの視線。
囁き声。
だが、彼女は気に留めない。
ふと、胸の奥に微かな波が立つ。
(……今)
理由は分からない。
それでも、確信だけがあった。
(亀裂が、入った)
キャロルは立ち止まらない。
振り返らない。
(私は、見届けるだけ)
(選ぶのは、彼)
廊下の先に、光が差していた。
その光は、まだ彼女のもとへは届かない。
だが確かに――
崩れ始めた歯車の音が、静かに響いていた。
王宮の執務室は、昼下がりだというのに重く沈んでいた。
高窓から差し込む光が机上の書類を照らしているが、文字はクリスの目に入らない。
扉が、静かに開いた。
「……殿下」
振り返ると、そこにいたのはキャロルだった。
以前よりも距離を保った立ち位置。
柔らかい微笑。
けれど、その瞳には、かつての温度がない。
「少し、お時間をよろしいでしょうか」
「ああ……」
短く答えたものの、クリスの胸はざわついていた。
彼女と向き合うのは、怖い。
だが避ければ、もう二度と戻れない気もした。
沈黙ののち、クリスが口を開く。
「……最近、君が遠い」
キャロルは否定しなかった。
「距離は、殿下が選ばれたものです」
その言葉に、クリスの眉がわずかに動く。
「俺は、そんなつもりで……」
言いかけた言葉を、キャロルは静かに遮った。
「殿下」
その声は穏やかで、感情を含まない。
「私は、殿下の隣に
妃候補ではないリネアが立っていたことを――拒みませんでした」
クリスの喉が、小さく鳴る。
キャロルは視線を逸らさず、続けた。
「それが、どういう意味か……お分かりになりますか?」
問いではなかった。
確認でもない。
結論だった。
「殿下は、その時点で――
私ではなく、リネアを“選んでいた”ということになります」
空気が凍りつく。
「……違う」
クリスの声は掠れていた。
「そんなつもりじゃない。俺は……」
キャロルは、ゆっくりと首を振る。
「いいえ。違いません」
金髪が、光を受けて静かに揺れる。
「殿下が選ばれたのは、
私を傷つけない選択ではなく――
殿下ご自身が、楽でいられる選択です」
クリスの指が、机の縁を強く掴む。
「……そんなことは……」
「分かっています」
即答だった。
それが、何より残酷だった。
「悪意ではなかったのでしょう。
だからこそ、私は責めません」
キャロルは、静かに言い切る。
「けれど――」
一拍、間を置く。
「私は、殿下に拒まれたのではありません」
クリスが、息を呑む。
「“拒む必要のない存在”にされたのです」
その一言で、クリスの顔色がはっきりと変わった。
否定できない。
反論もできない。
論理として、完璧だった。
「……キャロル」
名を呼ぶ声は、震えている。
「俺は……」
キャロルは、ほんのわずかに微笑んだ。
「殿下。どうか誤解なさらないで」
優しい声。
だが、その優しさは刃だった。
「私は、怒っているわけではありません」
一歩、後ろへ下がる。
「ただ――
二番目に選ばれる場所には、戻らないと決めただけです」
その言葉は、宣告だった。
キャロルは一礼し、踵を返す。
長い金髪が揺れ、扉の向こうへ消えていく。
残されたクリスは、その場に立ち尽くした。
(……俺は)
(選んだつもりで、何も選んでいなかった)
そして――
選ばなかったことで、最も失ってはならないものを失った。
この瞬間、
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