美しい世界を紡ぐウタ

序章 ウタ紡ぎ

三

　〇＊〇＊〇


　おれは自室のベッドで寝返りを打つ。あの日、一人早めに眠ったのに、翌日目覚めたのは昼近くですでにアルシャたちの姿はなかった。

『いっそのこと、正式なカムナギになってしまえば？』

「……簡単に言ってくれるぜ」

　ボソリと呟き、布団に潜る。
　嬉しくないと言えば嘘になる。カムナギになれば、依頼に関わる全員が気持ちよくその一件を終えられるだろう。聖界から敵視されることも減るはずだ。けれど、そのためには難関の試験に合格しなくてはならない。

 (聖典もないし…)

　それぞれのウタには、聖紋せいもんと呼ばれるアートのような字で綴られた紋様があるという。ルーマ家のような名家には、その家に伝わる独自の聖紋が収められた聖典があるらしい。
　
 (ウタに関することは、知りたいと思うけど)

　わざわざ貴族ばかりの学び舎に通って試験を受けずとも、“ウタ紡ぎ” として活動できている。それに、いつか、依頼を引き受けたときに言われたのだ。

『一向にカムナギが来る気配がなくて。あんたに来てもらえて良かったよ』

　もし、それがままある事なら。

「リューくん、朝ごはんできたわよー！」

　階下から響いた明るい声に促され、むくりと起き上がる。ハンガーにかかっている制服に目をやり、小さく息を吐いた。それはフード付きの丈の短いマントのような上着で、胸元に学問所のエンブレムが刺繍されている。
　この町に通学制の学び舎が設立されたのは、おれが十一歳の頃だった。都会の波が、ついにこの田舎町までやってきたのだ。そこへ通うのは強制ではないが、通わないと不審がられる。たかだか三四年で、学問所はその程度には浸透していた。
　そんなわけで、おれは紺色裏地の黒マントをぞんざいに身に纏い、部屋を出た。

「おはよう、リューくん」
「おはよう、リュー」
「……はよ」

　階段を下りてリビングに行くと、すでに陶芸家の父は食後のコーヒーを飲んでいる。

「もうじき卒業だな」
「高等学校へは、本当に行かなくていいの？」
「いい」

　“ウタ紡ぎ” の活動については、両親も知っている。母は心配そうだが、「それがあなたのやりたい事なら」と、認めてくれた。

「今日は良い色が出る気がするんだ」
「こんなに良いお天気だものね」
「そうとも。絶好の焼き日和だよ。君も今日はいるんだろ？　お昼は一緒に――」

　両親の軽やかな会話を聞きながら黙々と朝食を平らげる。

「いってらっしゃい！」

　背中にかかった母の声に軽く手を上げ、麗かな日差しのなかへ足を踏み出した。
　通学路を粛々と歩いていたのは最初だけ。当然のごとく脇道に逸れたおれは、裏山へ向かう畦道にいた。顔を上げれば清々しい青空が広がっている。それなのに、どうして学問所で窮屈な思いをしていられるだろう。

「今日はなにを紡ごうか…」

　煌めく光たちを目に映し、小さく呟いた。
　山道を少し入ったところで、ふと足を止める。風に乗って、かすかな話し声が耳に届いた。そっと木々の向こうへ目をやると、お気に入りの場所にどこかで見たような不良たちがいるではないか。
　仕方がない。今日は諦めよう。小さく息を吐き、回れ右をする。

「なあ、あの銀髪、リュエルじゃね？」
「おーマジだ。おまえもサボりか」
「おい、一曲歌えよ。今でもカムナギの真似して歌ってるんだろ」
「精靈さんとおしゃべりしたりな」

　耳障りな笑い声に突き動かされ、ゆっくりと振り返る。

「カムナギの真似じゃねえ。紡ぐのが好きなだけだ。ウタは "紡ぐ" って言うんだよ。そのくらい知ってろ」
「ンだと、偉そうに！」
「どこの馬の骨とも知れない銀髪野郎が何言ってんだ」

　その言葉を耳にした瞬間、走り込んで膝蹴りしていた。

「ぐふぉっ」

　怒りで身体が燃えるように熱い。おれは手の平を握りしめ、なんとか平静を装った。

「この色は先祖返りだ。今度言ったら容赦しねェからな」
「すでに、容赦ねえ、っつの…」
「、アートンっ！！」
「しっかりしろ、俺がわかるか？　幼馴染のウーくんだぞ、なあ――」

　賑やかな連中に踵を返したおれは、振り返ることなく山道を下りた。当然のごとく足が向くのは、移動の陣がある町外れの公園だ。そこから一瞬で街へ出て、テオのいる《なんでも屋》へ向かう。
　すっかり日常だ。
　出会ったときからテオはあの調子で、人を寄せ付けない雰囲気を醸し出すおれのところへ、お構いなしで来た。

『あんた、スゲェな』

　無邪気に笑って。

『ぅお、美人』
『っ寄るな離れろ』

　突然縮んだ距離に驚いたけれど、澄んだ瞳が真っ直ぐに見上げてくるので、突き放すことはできなくて。

『前髪長すぎじゃね？』
『おまえが短いんだよッ』
『ははっ、長いと鬱陶しいじゃん』
『おまえのほうが鬱陶しい』
『ひどっ。でも、初めて言われてちょっと新鮮』

　テオの表情はころころ変わる。

『……なんで喜んでるんだよ』
『あー…、なんかさ、意外と話してくれるんだなって』

　おれはそっぽを向いて唇を引き結んだ。それから気づけば、依頼の話になって――。

『今度こういう話を聞いたら、リュエルに繋ぐよ。ウタが好きなんだろ？ 』
『そんなこと言ってねえ』
『じゃあなんで紡いだんだよ。俺も新しい商売できて嬉しいし、人助けにもなるし。三方良しだな』

　あの時、これから始まる新しい日々の予感を、確かに感じていた。


　◯＊◯＊◯


「よっ、リュエル。今回はちょっと歩くぜ」

　その日、街の移動の陣で合流したおれとテオは、次なる依頼に向かっていた。

「次から次に、よく依頼が舞い込むな」
「噂が噂を呼ぶってね。こっちの筋では、リュエルは有名人だから」
「変な噂流すなよ」

　ジト目でテオを見やる。

「まえに釘を刺されたしなー」

　テオは苦笑して頬を掻いた。

「なに言われたんだ」
「あぁ、アルシャさんたちじゃねえよ。ほら、古書店の」
「ネージュさんか」

　ネージュは古書店のオーナーでありながら、情報屋でもある。

「あの人、聖界にも詳しくてさ」

　それなら、フラム家のことも知っているに違いない。テオは聞いただろうか。話す機会がなかなかなくて、おれがまだ語れていない遠い過去のこと――。

「ぅわ、こりゃ大層な山だな」

　どこか気の抜けた声に意識が引き戻された。

「……この上に人が住んでるのか？」
「山の向こうに集落があるんだと」
「このルートしかないのかよ」

　思った以上に本格的な登山となりそうで、半目でテオの方を向く。

「山に囲まれた場所だから、どこから行くにしても山越えになるってさ。一番楽な行き方を聞いたんだぜ。そしたら、この山を越えるルートだって。手紙には、 "ちょっとした山" って書いてあったんだ」
「……その集落は猛者の集まりか？」

　ちょっとあんまり行きたくない気がする。

「引き受けちまったもんはしょうがねえ。行こうぜ」

　仕方がないので、息を吐いてテオに続いた。雨の季節だ。昨晩も雨が降ったのだろう。濃厚な緑の匂い。草木が瑞々しく輝いて美しい――なんてよそ見をしている余裕はない。ぬかるんだ足場が滑るのだ。おれは木や岩に手をついて、慎重に足を進めた。
　息が上がってきた頃、前を行くテオが大きな岩を発見して振り返った。

「あそこで、ちょっと、休もう」

　頷こうとしたとき、横から顔面に飛んできた何か。思わず仰け反る。
　頬にチリリとした痛み。
　テオが真っ青な顔で目を見開いた。
　口を開くのがスローモーションで見える。

「っリュエル！！」

　視界に映り込む空の青。

（足が滑っ）

　背筋が凍り、ギュっと目を閉じた次の瞬間、頭に衝撃が。仰向けに落ちて頭から着地したにしては、それほど痛みはない。心臓がバクバクしている。落ちたショックで身体が上手く起こせなかった。

「大丈夫かい？」

　聞き覚えのない声を不審に思い、まだ感覚があまりない身体をなんとか動かし振り返る。そこでおれは、その人を下敷きにしていることにようやく気がついた。

「わっ、わるい」
「間一髪。受け止められてよかったよ」

　どうやら彼は、自ら進んで下敷きになったらしい。笑顔で言うので、良い人だなと思う。

「あんたは、どこか怪我とか…」

　見たところ、出血はないようだ。背中の方を強く打ちつけていないと良いのだが。

「これくらい何ともない。君は？」
「平気だ」

　まだ頭がぼんやりするが、それくらいである。すると彼は糸目のままゆっくりと手を伸ばし、おれの頬を親指の腹でスっと撫でた。

「っ、」

　先ほど何かで切れたところだ。思い出したらチリチリ痛む。糸目の彼は感情の読めない顔のまま、水筒の水でハンカチーフを濡らして頬を拭ってくれた。

「……どーも」
「どういたしまして」
「リュエル！　怪我はないか！？」

　降ってきた声の方を向くと、テオが転がりそうになりながら駆けてくる。

「何かが飛んできた方を見に行ったら、人が倒れてた。やっぱりおまえ、狙われてるんだ」
「一人で行くなよ。それこそ危ないだろ」
「だって、気になるだろ。おまえが身体起こしてるの見えたから、近くにいるうちに姿だけでも見ようと思ったんだ」

　会話を聞いていた糸目の人が、首を傾げてテオを見上げる。

「俺が悪人とは思わなかったのかい？」
「……それは考えなかったな」

　テオは不思議そうに糸目を眺めた。おれも改めて彼を目に映す。穏やかな雰囲気ながら精悍な顔立ち。テオより赤みが少ない茶色の髪。年齢も近そうだ。着ている服の素材感や話し方から、育ちの良さが窺える。そんな人が、どうしてこんな所に一人でいるのだろう。

「俺の名はラルジュ。俺が護衛をやろうか」
「俺はテオ。あんた、護衛業の人なのか」
「まぁね」

　得体の知れない相手ではあるが、助けてくれたことだし、悪人ではなさそうだ。

「正直、そろそろ護衛が必要かなと思ってたんだ。ってことで、よろしく、ラルジュさん」
「おい、」
「今回だけさ。今後のことは、この依頼を無事に終えてから考えようぜ」

　なかなか冷静に考えているらしいテオに、おれは渋々頷いた。

「必ず君たちを守りきると約束するよ」

　ラルジュはそう言って、笑みを深めた。