美しい世界を紡ぐウタ

日燈

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序章 ウタ紡ぎ

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 アルシャは人通りの増えてきた通りをぼんやり歩く。

「アルシャ。どうです? 彼は」
「うーん、やっぱり乗り気じゃないね」

 自然に並んだカイトに、肩をすくめた。

「まぁな、あいつはすでに依頼を受けてるし。わざわざ正式なのになる必要なんかねえって、思うよな」

 反対側にオルキデが来て、いつもの三人となった。

「とれたて新鮮だよー!」
「今年は豊作だってね。あら、大きい」
「甘くて美味しいよ。試食してみるかい?」

 アルシャは朝市の溌剌とした雰囲気を横目に黙々と歩く。見晴らしの良い静かな場所まで来ると、ようやく足を止めた。

「彼を都合良く捉える輩が出てきたらと思うと、嫌なんだ」

 風が煌めく金髪を浚う。前髪に隠れて、目許は見えない。

「多くのカムナギがやりたがらない仕事を、彼に押し付ける。……あり得ないとは言いきれませんね」
「あいつなら、そこらのカムナギより上手くこなしてしまいそうだしな」

 淡々と語ったカイトの反対側で、オルキデは渋い顔をした。

「カムナギは本来、そういうものじゃない。リュエルは知らないんだ」

 あの美しいセレストの瞳。あの瞳に映る世界が悲しみに溢れていると思うと、アルシャはどうしようもない気持ちになる。それに――。

「では、知ってもらいましょうか?」

 カイトはおもむろに内ポケットから一通の書簡を取り出し、アルシャに手渡した。オルキデが目をパチクリしている。

「……そうだね」

 書かれた内容に目を通したアルシャは、かすかに笑みを浮かべた。


 ◯*◯*◯


 よく晴れたその日、小さな田舎町で、夏の訪れを祝福する祭典が執り行われていた。ゲストに由緒正しい家柄のカムナギが来るというので、盛り上がっている。

「にーに、カムナギって?」
「聖職の一つだよ。精靈に祝詞のりとを捧げるのが一番の仕事だな」
「せーしょく……のりと…?」
「ありがたいウタを紡いでくれる、スゴい人ってこと」

 カムナギの紡ぐ祝詞は独特で、簡単には会得できない。そのようなこともあり、の役職に就ける者はごく僅かしかいなかった。

「まだ学生さんなんですってよ」
「ルーマ家の人だろ? きっと美しいんだろうねぇ」

 何日も前から、町はアルシャに関する噂で持ちきりだった。


 ――まさか、アルシャが来るなんて。
 スゴいカムナギであることは知っていたが、肝心の仕事ぶりは見たことがない。そこでこの機会にと、おれは町外れの古びた聖堂まで足を運んだ。

「うわ…」

 想像以上の人だかりに尻込みする。人混みは苦手だ。この様子では、近隣の町から来ている人もいるのだろう。今すぐ帰りたいが、せっかく来たのだから、やっぱり見ておきたいと思った。
 そう思っているのは、おれだけではないかもしれない。あちらこちらに舞う光も、いつになく輝いている。精靈たちのワクワクが伝わってくるようだ。
 期待に満ちた人々の落ち着かない雰囲気とは裏腹に、祭典は粛々と進む。

「それでは、カムナギのアルシャ・ルーマ様より、言祝ことほぎを頂戴しましょう」

 待ち望んだ瞬間に、周囲が一際ざわめいた。祭壇脇にある小ぶりの扉から、アルシャがゆったりと歩みでる。明かり窓から差し込む光を浴びて、煌めく金髪と白い礼服。光の当たる角度によって、七色に色を変える彩糸さいしの紋様が美しい。その眩さときたら、まるで彼そのものが輝いているようだ。
 祭壇に立ったアルシャは一礼すると、一同を見渡し、微笑を浮かべる。

「なんて素敵なの…」

 よろめき倒れる女性たち。男ですら、彼に夢中だ。おれも光の化身のようなアルシャを唖然と眺めていた。
 おもむろにアルシャが目を閉じる。
 一気に神聖な雰囲気になった。
 静寂のなか息を吸い、紡がれる、音――。甘く柔らかに、えも言われぬ美しい調べが鼓膜を震わす。不意に広々とした緑の大地のイメージが浮かんだ。光る風が頬を撫でるように、アルシャの声が心に触れる。

「……っ、」

 それはとても温かく、じわじわと身体中に浸透した。
 アルシャの唇は絶えず形を変え、音を紡ぎだしている。伏せられた金色の睫毛。祝福するような光のなか、きらきら煌めく音の粒子たち。精靈たちの輝きも、目に眩しいほどである。
 響きは徐々に大きくなり、やがて溶けるように消えてゆく。その音が完全に消えてしまうまで、おれは息をするのも忘れていた。
 わぁっと喝采が湧く。
 ハッとして我に返った。どわどわ、どわどわ。身体の奥深くから歓喜を帯びて振動しているようだ。心臓がドクドクいっている。胸元を抑えて息を吐き、顔を上げれば、

「っ」

 思いがけず群青色の瞳とぶつかる視線――。アルシャは美しい微笑を残して扉の向こうへ消えた。
 人々は興奮冷めやらず、聖堂内は熱気とざわめきに満ちている。別天地を垣間見た衝撃を、話さずにはいられないのだろう。高揚しているのは、精靈たちも同じらしい。きらきら舞いながら輝く光の美しさといったら。
 そんな彼らに背を向け、おれは人混みから離脱した。

 衝動のまま、足を進ませる。
 背の高い木々を越えた向こうにちょっとした野原があるのだ。ひっそり静かで、お気に入りの場所である。
 木陰から出ると強い日差しに視界を奪われ、思わず手をかざす。
 ゆっくりと手を下ろしたとき、目に飛び込んできた人物に息を呑んだ。鮮やかに脳裏へ焼きついた彼が――先ほどまで人々の頭の向こう、遠く祭壇にいたアルシャが、そこにいた。

「どうだった?」

 アルシャはふわりと笑みを浮かべる。カムナギのウタを目の当たりにしたおれは、“ウタ紡ぎ” として立つ現場との違いをまざまざと実感させられた。湧き上がる感情に耐え切れず、踵を返す。
 足を踏み出そうとしたとき、草を踏みしめる音が近づいて、顔を上げる頃には目の前にアルシャの姿が。思わず後退しかけた身体は、柔らかな声に引き留められた。

「君は今でもウタが好きだね」

 群青色の瞳が美しく煌めく。

『ウタが好きなんだ?』

 ふいに浮かび上がった遠い記憶。幼い日、おれはいつものようにお気に入りの場所で座って紡いでいた。木々の向こうからひょっこり現れた見知らぬ子は、ツバの広い帽子のせいで顔がよく見えない。

『ウタが好きなんだ?』

 可憐な声は遊ぶよう。

『……べつに』

 おれはツンとそっぽを向いた。ウタを聞かれたのが恥ずかしいのもあったが、ウタが好きなんて言ったら、きっと笑われる。周りの子はみんな、口をそろえて剣士になりたいと言うのだ。
 見知らぬ子が草を踏む音が近づいても、素知らぬフリで、近くの茂みを意味もなく睨みつけていた。

『ぼくは好きだよ』

 ハッとして、声の方を向く。

(お、……とこ?)

 彼はすぐ近くに佇んでいた。草原に座っていたため、おれにはその顔が見えたのだ。

『ぼくはウタが好き。しょうらいはね、カムナギになるんだ』

 彼は臆面もなく言い、ふわりと微笑む。群青色の瞳があんまり綺麗で、胸がキュッとした。そっと伸ばされた白い手が、新雪を掬うように髪に触れてくる。

『こんど、きみのウタをぼくに聞かせて。またね』

 きらきら光る木漏れ日のなか、彼は美しい笑みを残して木々の向こうへ去った。


 すっかり忘れていた。彼の言葉も、あのとき感じた気持ちも全て。思い出した今、胸が痛い。

「リュエル、君がカムナギになってくれたらって、僕は思うよ」
「、なんで」
「……君は聖界に必要な存在だから」

 鼻で笑ってしまう。

「聖界に?」

 疎まれることはあれど、必要とされるなんて考え難い。そのはずなのに、アルシャが曇りない眼で見詰めてくるので言葉をなくした。まっすぐな視線に耐えきれず、睫毛を伏せる。

「でも、おれは…」
「君の家のことは、聖職関係者ならだいたい知ってる」

 おれは目を丸くして、今度こそ顔を背けてしまった。
 不意に右手を取られ、何やら封書を握らされる。こっそりと目をやると、”リュエル・フラム” ――達筆な字で、自分の名前が書かれているではないか。驚く間もなく、アルシャの方へ向けていた横髪をさらりと耳にかけられた。耳許で、甘やかな声がそっと囁く。

「フィーデルへおいで。待ってるよ」

 おれは耳を抑えて後ろへ下がった。顔が熱い。前髪越しに睨みつけると、アルシャはくつくつ笑った。嘲笑でも皮肉でもない。自然で、温かみすら感じるような雰囲気だ。
 かつて睨みつけた相手に、このように笑われたことがあっただろうか。いや、ない。
 おれは動揺を悟られないよう、眼力を強めて牽制した。それなのにアルシャときたら、まったく気にせずスタスタとやって来る。

「ほら、綺麗な顔が台無しだよ」

 その上、人差し指の腹で眉間をクリクリ押してきた。おれは思わずその指を掴み取る。

「誰のせいだ…ッ」

 勢いづいて口を開いたところで、はたと我に返った。近距離に、優しい雰囲気の端麗な顔がある。そんな相手の爪先まで美しい指を、むんずと掴んでいる自分――。

「ぅわっ」

 パッと手を離し、仰け反った。

「その反応は傷つくなぁ…」

 苦笑したアルシャが、こんな反応をされたのは初めてだとボヤく。冗談めいた言い方だったが、明らかにしょんぼりして見え、目が泳ぐ。

「あー…、あんた、こんな所にいていいのかよ?」

 うっかり失念していたが、アルシャはカムナギという貴重な存在なのだ。

「大丈夫さ。僕が好きに動くのは、今に始まったことじゃないから。……ああでも、そろそろ行かないとな」

 アルシャは木々の向こうへ目をやり呟くと、美しい瞳をこちらへ戻した。

「またね」

 あのときと同じ、美しい微笑み。去りゆく後ろ姿を目で追う。封書を持つ手に、力がこもった。
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