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第一章 いざ、新天地
十五
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学び舎フィーデルでは、教室での席順は決まっていない。そのため、時には認識していない人が前後左右の席になることもあった。
「今日はここまでにしましょう。後ろから回して」
写紋の時間。いつものように後ろから回ってきた紙と教科書に自分の物を重ね、前の生徒に渡した。受け取ったプラチナブロンドの彼は、おれが書いた聖紋を見ると鼻で笑う。不恰好で、まだ書き慣れていないのがありありと伝わる字だった。
(ヘンなのは自分でもわかってるっつの)
耳が熱い。思わずイラッと眉根を寄せる。
「幼児の描いた絵のようだ」
ボソリと落とされた言葉に、さすがにカッときた。
「ンだと!?」
ガタリと立ち上がる。
「リュエル・フラム、まだ講義中ですよ。それに、なんという荒々しい声でしょう。聖音科の自覚が足りません」
前の席の生徒は切れ長の目を細めて嫌な笑みを浮かべている。
「放課後、私の執務室に来なさい。ええもちろん、減点か補習か、好きな方を選ばせてあげましょう」
つまり、来なければ減点するぞ、と。
「リュエル・フラム、お返事は?」
おれは舌打ちし、ズンズン歩いて教室を出ていった。
「まったく…。仕様のない子ですね」
「仕方がありませんよ、先生。彼は庶民です。躾がなっていないのも当然でしょう」
――ため息を吐いた教師に答えたのは、リュエルの前の席に座っていた生徒だ。
「ああ、ブリランテ…。そのような言葉を使うべきではありません。あなたの聡明さが彼にも備わっていることを祈りましょう」
ブリランテは首席だ。すっと背筋を伸ばした凛とした雰囲気は、いかにも優等生といったふうだった。
おれはがむしゃらに緑のなかを行く。前の席の生徒の、心底馬鹿にしたような冷たい浅緑の目が眼裏にこびりついていた。
(あの野郎…)
しかし、立ち上がったときに見えた彼の写紋は、レルヒが書いて見せてくれたもののようにとても上手だった。
(くそっ)
むしゃくしゃする。おれはその辺にあった木を思いきり殴りつけた。
ガツッ
「ぅおっ!?」
「え?」
木の上から聞こえた声に驚いて顔を上げる。
迫り来る人影。
反射的に身体が動いた。
そうしておれは、木から落ちた人を寸でのところで避けることに成功した。
「ったー…。なに、イビキが煩かったか?」
いや、その前に人がいるとは思わないから。その生徒は地面に打ったお尻を擦り擦り立ち上がる。おれはにわかに後退した。ネクタイ。彼は聖武科だ。
「ん? 君、聖音科の…。なんでこんな所にいるんだ。講義は?」
木から落ちた生徒はようやくおれに目を向けると、おっとりと首を傾げた。スッキリとした短髪は榛色。顔つきも柔らかだ。
「……あんたこそ」
「ああ、おれはサボり。気づいたら講義始まってる時間でさ。遅刻って目立つだろ? もう休んじゃえと思って」
あははと朗らかに笑う姿は聖武科とは思えない。
「君もそんな感じ? 聖音科って厳しそうだよな。サボりたくなるのもわかる気がする」
うんうん頷く彼。聖武科だって厳しそうだが、大丈夫なのだろうか。他人のことは言えないが。
「でもさ、あんまり一人にならない方がいいぞ。何があるか、わからないから」
彼は腰に手を当て言った。勢いで飛び出して来てしまったおれは視線をそらす。ふと頭に浮かんだ糸目。次に会うのが恐ろしい。
「こうして会った後に何かあったとなったらアレだし…。どこに向かってたんだ?」
講義をサボっているやつなんて、ろくなのがいないから。そう言って苦笑する彼もおれも、その中の一人である。
おれは短く息を吐く。
「決めてない。寮にでも戻るさ」
「寮ね。お供するよ」
彼はサラッと隣に並び、さぁ行こうと促す。
「べつにいい」
「遠慮しないで。ラル兄に怒られたくないんだ。おれのためと思って、な?」
ん?
「ラル兄?」
彼をじ……っと見上げる。髪色はちょっと似ているような気がするが、糸目ではないし、目の色も紫だ。
「ラルジュの弟か?」
「いとこだよ。年が近いからよく一緒に遊んでさ、兄弟みたいなもんかな」
しかしこのラルジュのいとこ。糸目の微笑と異なり根っから朗らかなようで、少し安心する。
「ラル兄は怒ると怖いぞ。目が赤くなって…。あ、これ言うなって言われてたんだった」
彼は「うわ、言っちゃった。どうしよう」とあわあわしている。あんまり慌てているように見えないが、彼としては全力で慌てているらしい。
「それ、知ってる」
おれは仕方なく助け船を出すことにした。ラルジュのいとこはキョトンとしている。
「え、君怒られたことあるの」
「……開眼したの見たことあるんだよ」
眉根を寄せると、彼は苦笑して語った。
「感情によって目の色が変わるって、ちょっとはあることだろ? ラル兄はそれがわかりやすくてさ。いつもは紫だけど、感情が高まると赤くなるんだ」
いつもは紫? それこそ見たことがない。
「いつもニコニコしてるの、それを隠したいんじゃないかな」
まったり語りながら運ぶ足。気づけば寮に着いていた。
「じゃあな」
ラルジュのいとこは手を上げ、去ってゆく。
(そういえば、名前を知らない)
おれがそれに気づいたのは、寮部屋に戻ってからだった。
鞄を置いて、机で突っ伏す。他の科目はともかく、聖紋だけは書けるようになりたい。とはいえ、自分はまだカムナを覚えている段階だ。
(クソ…)
レルヒが書いてくれた文字表を開き、白い砂が敷かれた練習板に指を滑らせた。
どれだけ経ったか、ふと窓の外を見た。生徒たちがおしゃべりしながら戻ってくる。講義が終わったのだろう。
(ということは今は放課後…)
ガタリと立ち上がる。減点より補習の方がマシだ。慌てて鞄に筆記用具を詰め、部屋を飛び出した。走る。走る。走る――。
「こら、廊下は走らない!」
ひたすら前を捉えて走るおれを、誰もがギョッとして避けた。
(あの教師の部屋ってどこだよ?)
教師の名前すら定かではない。一つ一つ、部屋の名前が書かれた木の板を見上げて進む。というか、
「なんて部屋にいるんだ?」
通りがかった初老の教師らしき人を捕まえる。
「写紋の教師の部屋はどこですか」
いきなり腕を掴まれた教師らしき人は、やはりギョッとして振り返った。ボーボーの白い眉と髭が印象的だ。
「えええ写紋ですかぁぁ。あああ聖紋んんん……んんん聖紋んん研究室にいいいおられるのではああああないかなぁぁ」
「……どーも」
揺れ揺れの声をなんとか聞き取り、パッと手を放す。そしてようやく、《聖紋研究室》と書かれた部屋を見つけた。
「失礼します」
本棚に囲まれた執務室。奥の机で、写紋の講義を担当していた教師が顔を上げる。
「来ましたか。さっそく、これを写紋してもらいましょう」
渡されたのは例の四つの讃紋ではない。
「上からなぞっても結構ですよ。正しく美しく書けさえすればよろしい」
教師は言いながら真っ白な紙の束を渡してくる。
「これ、全部…?」
「ええ。ざっと二十枚です」
思わず顔をしかめた。一枚書くのだって大変なのに。
「それは地域の祭りでカムナギが紡ぐもの。心してお書きなさい」
カムナギが祭りで紡ぐウタは、その時期に精靈より賜るらしい。賜る聖紋は毎回異なり、紡いだ後はお焚き上げされる。
「お返事は?」
「……はい、先生」
仕方がないので、ブスッと返したおれである。
「今日はここまでにしましょう。後ろから回して」
写紋の時間。いつものように後ろから回ってきた紙と教科書に自分の物を重ね、前の生徒に渡した。受け取ったプラチナブロンドの彼は、おれが書いた聖紋を見ると鼻で笑う。不恰好で、まだ書き慣れていないのがありありと伝わる字だった。
(ヘンなのは自分でもわかってるっつの)
耳が熱い。思わずイラッと眉根を寄せる。
「幼児の描いた絵のようだ」
ボソリと落とされた言葉に、さすがにカッときた。
「ンだと!?」
ガタリと立ち上がる。
「リュエル・フラム、まだ講義中ですよ。それに、なんという荒々しい声でしょう。聖音科の自覚が足りません」
前の席の生徒は切れ長の目を細めて嫌な笑みを浮かべている。
「放課後、私の執務室に来なさい。ええもちろん、減点か補習か、好きな方を選ばせてあげましょう」
つまり、来なければ減点するぞ、と。
「リュエル・フラム、お返事は?」
おれは舌打ちし、ズンズン歩いて教室を出ていった。
「まったく…。仕様のない子ですね」
「仕方がありませんよ、先生。彼は庶民です。躾がなっていないのも当然でしょう」
――ため息を吐いた教師に答えたのは、リュエルの前の席に座っていた生徒だ。
「ああ、ブリランテ…。そのような言葉を使うべきではありません。あなたの聡明さが彼にも備わっていることを祈りましょう」
ブリランテは首席だ。すっと背筋を伸ばした凛とした雰囲気は、いかにも優等生といったふうだった。
おれはがむしゃらに緑のなかを行く。前の席の生徒の、心底馬鹿にしたような冷たい浅緑の目が眼裏にこびりついていた。
(あの野郎…)
しかし、立ち上がったときに見えた彼の写紋は、レルヒが書いて見せてくれたもののようにとても上手だった。
(くそっ)
むしゃくしゃする。おれはその辺にあった木を思いきり殴りつけた。
ガツッ
「ぅおっ!?」
「え?」
木の上から聞こえた声に驚いて顔を上げる。
迫り来る人影。
反射的に身体が動いた。
そうしておれは、木から落ちた人を寸でのところで避けることに成功した。
「ったー…。なに、イビキが煩かったか?」
いや、その前に人がいるとは思わないから。その生徒は地面に打ったお尻を擦り擦り立ち上がる。おれはにわかに後退した。ネクタイ。彼は聖武科だ。
「ん? 君、聖音科の…。なんでこんな所にいるんだ。講義は?」
木から落ちた生徒はようやくおれに目を向けると、おっとりと首を傾げた。スッキリとした短髪は榛色。顔つきも柔らかだ。
「……あんたこそ」
「ああ、おれはサボり。気づいたら講義始まってる時間でさ。遅刻って目立つだろ? もう休んじゃえと思って」
あははと朗らかに笑う姿は聖武科とは思えない。
「君もそんな感じ? 聖音科って厳しそうだよな。サボりたくなるのもわかる気がする」
うんうん頷く彼。聖武科だって厳しそうだが、大丈夫なのだろうか。他人のことは言えないが。
「でもさ、あんまり一人にならない方がいいぞ。何があるか、わからないから」
彼は腰に手を当て言った。勢いで飛び出して来てしまったおれは視線をそらす。ふと頭に浮かんだ糸目。次に会うのが恐ろしい。
「こうして会った後に何かあったとなったらアレだし…。どこに向かってたんだ?」
講義をサボっているやつなんて、ろくなのがいないから。そう言って苦笑する彼もおれも、その中の一人である。
おれは短く息を吐く。
「決めてない。寮にでも戻るさ」
「寮ね。お供するよ」
彼はサラッと隣に並び、さぁ行こうと促す。
「べつにいい」
「遠慮しないで。ラル兄に怒られたくないんだ。おれのためと思って、な?」
ん?
「ラル兄?」
彼をじ……っと見上げる。髪色はちょっと似ているような気がするが、糸目ではないし、目の色も紫だ。
「ラルジュの弟か?」
「いとこだよ。年が近いからよく一緒に遊んでさ、兄弟みたいなもんかな」
しかしこのラルジュのいとこ。糸目の微笑と異なり根っから朗らかなようで、少し安心する。
「ラル兄は怒ると怖いぞ。目が赤くなって…。あ、これ言うなって言われてたんだった」
彼は「うわ、言っちゃった。どうしよう」とあわあわしている。あんまり慌てているように見えないが、彼としては全力で慌てているらしい。
「それ、知ってる」
おれは仕方なく助け船を出すことにした。ラルジュのいとこはキョトンとしている。
「え、君怒られたことあるの」
「……開眼したの見たことあるんだよ」
眉根を寄せると、彼は苦笑して語った。
「感情によって目の色が変わるって、ちょっとはあることだろ? ラル兄はそれがわかりやすくてさ。いつもは紫だけど、感情が高まると赤くなるんだ」
いつもは紫? それこそ見たことがない。
「いつもニコニコしてるの、それを隠したいんじゃないかな」
まったり語りながら運ぶ足。気づけば寮に着いていた。
「じゃあな」
ラルジュのいとこは手を上げ、去ってゆく。
(そういえば、名前を知らない)
おれがそれに気づいたのは、寮部屋に戻ってからだった。
鞄を置いて、机で突っ伏す。他の科目はともかく、聖紋だけは書けるようになりたい。とはいえ、自分はまだカムナを覚えている段階だ。
(クソ…)
レルヒが書いてくれた文字表を開き、白い砂が敷かれた練習板に指を滑らせた。
どれだけ経ったか、ふと窓の外を見た。生徒たちがおしゃべりしながら戻ってくる。講義が終わったのだろう。
(ということは今は放課後…)
ガタリと立ち上がる。減点より補習の方がマシだ。慌てて鞄に筆記用具を詰め、部屋を飛び出した。走る。走る。走る――。
「こら、廊下は走らない!」
ひたすら前を捉えて走るおれを、誰もがギョッとして避けた。
(あの教師の部屋ってどこだよ?)
教師の名前すら定かではない。一つ一つ、部屋の名前が書かれた木の板を見上げて進む。というか、
「なんて部屋にいるんだ?」
通りがかった初老の教師らしき人を捕まえる。
「写紋の教師の部屋はどこですか」
いきなり腕を掴まれた教師らしき人は、やはりギョッとして振り返った。ボーボーの白い眉と髭が印象的だ。
「えええ写紋ですかぁぁ。あああ聖紋んんん……んんん聖紋んん研究室にいいいおられるのではああああないかなぁぁ」
「……どーも」
揺れ揺れの声をなんとか聞き取り、パッと手を放す。そしてようやく、《聖紋研究室》と書かれた部屋を見つけた。
「失礼します」
本棚に囲まれた執務室。奥の机で、写紋の講義を担当していた教師が顔を上げる。
「来ましたか。さっそく、これを写紋してもらいましょう」
渡されたのは例の四つの讃紋ではない。
「上からなぞっても結構ですよ。正しく美しく書けさえすればよろしい」
教師は言いながら真っ白な紙の束を渡してくる。
「これ、全部…?」
「ええ。ざっと二十枚です」
思わず顔をしかめた。一枚書くのだって大変なのに。
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カムナギが祭りで紡ぐウタは、その時期に精靈より賜るらしい。賜る聖紋は毎回異なり、紡いだ後はお焚き上げされる。
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