美しい世界を紡ぐウタ

日燈

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第ニ章 冴ゆ季節、心に積もる

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 晩の家庭教師のときには、三人の空気感は普段通りに戻っていた。テストが近いので、ラルジュも勉強している。しかしレルヒといったら、おれに模擬テストを作ってきたりして、ここでテスト勉強をしている姿は見たことがない。

「自分のことはいいのかよ?」

 思わず問えば、レルヒは小首を傾げた。代わりにラルジュが答える。

「レルヒは一度見聞きしたら忘れない。この頭は普通じゃないんだ」
「ラルジュ、私がおかしい人みたいな言い方やめてください」

 レルヒは眉根を寄せた。

「君はたしかにおかしいよ。いい意味でね。他意も悪意もない」
「本当に他意がないのなら、わざわざ付け加えたりしないでしょう。私のどこがおかしいのです? 言ってごらんなさい」

 ラルジュは多すぎて語り尽くせない言葉を呑みこみ、肩をすくめる。

「リュエルの勉強の邪魔になる。その議論はまたにしよう」

 先輩二人の言い合いが終わると、おれは密かに息を吐いた。おれからしてみれば、たしかにレルヒはちょっと変わっているが、ラルジュの方が色々とおかしい気がする。

「リュエル、何か意見でもあるのかい?」
「、ねえですよ」

 まったく、なんでいちいち察しが良いのだ。
 頭を使いすぎて朦朧としてきた頃、二人が自室に戻る時間になった。部屋のドアまで着いて行き、二人を見送る。

「おやすみ、リュエル」
「おやすみなさい」

 帰り際、ふわりとレルヒに抱きしめられた。

「……おやすみ」

 おれは突っ立ったまま、唖然と応える。可憐に香った花のような匂いに、いま初めて気がついた。


 ――さて、リュエルの部屋を後にしたラルジュとレルヒ。レルヒはまだ、幾分沈んだ雰囲気でいる。

「今日は星がよく見えそうだね」

 よく晴れた、月のない夜だった。

「……そうですね」

 ラルジュはレルヒの頭を一撫でし、屋上の塔の一つに進路を変更した。
 吹きさらしの窓から見える夜空は賑やかに煌めいて、ラルジュたちを迎えてくれる。空気は冷たく、たまに吹き抜ける風は肌を刺すようだ。それが今はちょうどよかった。

「私は下に兄弟がいません。兄上の背中を追うのに必死で、あなたのように年下の子と遊ぶこともなかった」

 ラルジュは窓辺に佇み、夜空を見上げている。

「今になって、ちょっと後悔しています。いえ、後悔なんて、意味がないとわかっています」

 レルヒは胸の前でギュッと手を握りしめ、俯いた。

「おまえは生きるためにその選択をしたんだ。悔いることはないよ」
「どういう意味です?」

 その言葉に小首を傾げる。ラルジュは、小さく息を吐きだした。

「おまえの才能に気づいたおまえのお兄さんは、弟をどう扱うか、かなり悩んだろうね」

 一つ違いの出来のよすぎる弟は、簡単に兄を越えられる頭を持っていた。兄カイトには次期聖華と名高い同級生がいて、絶対に侍官の座を明け渡したくない。悩んだ末に、カイトは弟を手懐けようと決めた。兄を越えようなどと、考えもしないように――。

「もし思惑通りにならなかったら、おまえは大変な目に遭ったかもしれない」

 ラルジュは当初、レルヒたちを危うい兄弟だなと感じていた。カイトは、レルヒの前ではとても優しい顔をしているが、その目は笑っていなかった。絶賛、捕獲した獲物の品定め中といったふうだった。

「……知ってましたよ。昔の兄上は、それは怖かった。それでも私は兄上を慕っていたのです。兄上にも、私を受け入れてほしいと…」

 母や父と同じように兄を想っていたし、想われたかった。いや、年が近く身近だった分、両親よりも兄への気持ちは大きかったかもしれない。

「当時の私にはそれが一番で、勉学などどうでもよかったのです」

 盲目的に兄を慕う弟。ついにカイトは危惧をなくし、そんな弟に愛しさを覚えた。

「おまえの強みはフィリァをよく知ることだ。思いのままにリュエルに接すればいい」

 年上としてとか、侍官となる身だからとか。そんなことは脇に置いていい。振り返ったラルジュは、優しい紫色の瞳にレルヒを映す。

「おまえがおまえらしくしていれば、リュエルももっと自分らしくなれるよ」

 レルヒは瞳を揺らし、諦めたように微笑を浮かべた。

「リュエルにも、言われてしまいましたしね」

 ラルジュも笑みを浮かべる。

「リュエルは、思っていたよりずっといい子だね」
「ええ。自慢の我が君です」

 リュエルは繊細だ。その心を大切に大切にしたいと思う。

「まさかこんなに気に入ってしまうとは思わなかったよ」

 ラルジュは肩をすくめた。カムナギになり、己を侍衛にする者。淡白だった気持ちはいつの間にか深みを増して、リュエルをかけがえのない存在にした。
 ――あの、息を呑むほど美しい涙。
 あれがリュエルの真想だ。澄んだ瞳は美しき天上の青をそのまま映しだす。光源に近い空と同じ色。

「あなたが気に入るくらいですから、きっと彼は、素晴らしいカムナギになるでしょうね」
「おまえの自慢の我が君だからね」

 二人は目を合わせ、ふっと笑った。


 〇*〇*〇


 シャワーを浴びて部屋に戻ると、グランが戻っていた。

「俺も浴びてくるかな」

 グランはうーんと伸びをして息を吐き、立ち上がる。ノートを閉じて着替えの支度を始めた。シャワールームへ向かおうとしておれに目をやり、足を止める。

「疲れてるなら早く寝ろよ。ちゃんと髪を乾かしてからな」

 頭にタオルを乗せたままぼうっとしていたおれは、眉根を寄せてグランを見上げる。ふと、グランが口を開いた。

「そういえば、おまえのウタはあれ以来聞いてないな。どこかで紡いでるのか?」

 ウタ。眉がピクリと動く。

「メルはよく紡いでるぜ。勉強に飽きるとすぐウタだ。これが何度聞いてもいい」

 グランはうんうん頷いて、クッと口角を上げる。

「おまえも、周りなんて気にせず紡げよな」

 一人になった部屋で、わしゃわしゃと髪を拭った。思えば、講義以外で長らくウタを紡いでいなかった。今日の、放課後まで。ウタと聞くと胸が詰まる。いや、違う。ウタはそういうものではない。
 ひっそりとした部屋で、囁くように紡ぎだす。

 ~ホィスモッ゙ ビェナ~ォイ゙メシ゚~っ、

 己を慰めるように、包みこむように身体に染み入る儚い響き。睫毛が震えた。胸がいっぱいで、上手く息が吸えない。ああ、ウタはいつもそうだった。緑の中で一人。紡いでいたのは誰のため?

(おれは自分のために紡いでたんだ――)

 ウタはいつもおれを優しく包みこみ、癒してくれる。誰のためでもない。自分のために、おれにはウタが必要だった。
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