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第ニ章 冴ゆ季節、心に積もる
五
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おれが何を考えようとしていたのか思い出そうとしている間にも、異世界の住人レルヒは淡々と、おれの身支度を整えるラルジュを手伝っていた。
「どうぞ」
「ありがとう」
(いたんだ)
おれは逃避の心境で思う。
「もっと戯れていたかったよ」
「そんな時間はありません。あのまま続くようでしたら、声をかけていましたよ」
さすがレルヒ。おれやラルジュがどんなにアレな状況でも、きっと異空間から普通に言葉をかけるのだろう。
「さぁリュエル、行きますよ」
「へいへい」
こんなレルヒだから、どんな場面を見られても狼狽えなくて済むのだろうが――。昨夜のしんみりとした気分はどこへやら。寝起きのインパクトのおかげで、すっかり普段通りになっていたおれである。
教室に着くと、メルがテテッとやってくる。
「おはよう、リュエル」
「おはよ。……なんだ?」
ぼぅっと見上げてくるメルに首を傾げる。
「う、ううん。なんだかリュエル、日に日にますます綺麗になっていくみたい」
「は?」
「あ、今日は讃美歌を謳う日だね」
「……ああ」
そうだった。
「聖堂、行こう」
それで教室に生徒が少なかったのかと知る。メルはおれを待っていてくれたのだろう。檸檬色の髪に指を通すと、日溜まりのように微笑んだ。
今日の全校集会は、聖靈と生きる日々の幸せを、感謝と共に神に示すという趣旨だ。全校生徒でお決まりの歌を謳う他、アルシャのウタもある。
「やっぱりここに来ると緊張するな」
聖堂の裏舞台にて、メルはほぅっと息を吐いた。披露会のときを思い出している生徒は彼だけではないようだ。ピリリとした緊張感がある。
「リュエルは緊張しないの?」
「そりゃ、しないことねえけど」
今も、何も感じないと言えば嘘になる。
「披露会でも堂々としてたね。ぼく、あんまり緊張してよく覚えてないよ」
「そうなのか?」
「うん。あんなにたくさんの人がいるなんて、思わないから」
あのときの人の多さには、おれも驚いたものだった。
「今日はまだマシだな。一人じゃないもの」
みんなで一緒に挑むからか、一人だったあのときのような緊張は確かにない。
「一人で歌うところはあるけどな」
おれはひょいと肩をすくめる。メルは人気の高さで割り当てられたが、自分の場合は嫌がらせではないかと思っている。
「う…。が、がんばろうね!」
メルがガチガチになって言うので、ふっと笑ってしまった。出番になると、整列して扉の向こうへ歩みだす。すぐ隣にブリランテがいた。
「皆で積み上げたものを、ソロパートでやらかして台無しにしたら最悪だ」
相変わらず、イラッとするような眼差しで突っかかってくる。
「言ってろ」
練習中、リーダーのようにパートをまとめていたブリランテは、いちいち注意してきた。記号に添わず声が小さいまたは大きい、ここは弾むように、ここはのびやかに。仏頂面で謳う歌ではないだの。残念ながら、ねちねち指摘してくる誰かのおかげで理解した記号は多い。
「それでは、一年聖音科の皆さんによる讃美歌です」
流れ出すパイプオルガンの重厚な響き。歌を謳うのは、最初は照れくさかった。パート練習で初めて周りの歌声を知った。声音は一人一人異なる。異なるからいいのかもしれないと思った。
――みんな真面目に取り組んでいたから。ウタに通じるところがあるのは確かで、おれも真面目に取り組むようになった。
(ブリランテはあれで歌も上手い。よく通る声でみんなにお手本を示してた…)
ソロパートになり、視線が一気におれへ集まる。一瞬途切れそうになった声を、なんとか繋いだ。隣から圧を感じるのは気のせいではないだろう。メルのソロパートも無事に終わると、少しホッとした。
「リュエル、おつかれ~」
「おつかれ」
終わってみれば、今日が一番いい出来だったと声学の教師はご満悦だった。
「ぼくは一瞬、これで終わりだと思ったよ」
あの揺らいだ一瞬を耳聡く聞きつけたブリランテが、大げさな素振りで仲間に語っている。仲間の方は気づかなかったらしく、首を傾げながらブリランテの話に賛同していた。おれは眉根を寄せて聞こえないふりだ。
「そんなところあったんだ。ぼく、ぜんぜん気づかなかったよ。ブリランテ、耳いいね」
聞こえてしまったらしいメルが無邪気に言うので、ブリランテもおれも毒気を抜かれた。
全校集会が終わり、廊下は教室へ向かう生徒でいっぱいだ。一年聖音科の生徒も、固まって教室に向かっていた。狭い廊下となると、歩みはさらに遅くなる。人混みが苦手なおれは眉根を寄せた。
「詰まってるね」
メルが背伸びして言う。
「何やってんだか」
肩をすくめてしまった。
階段に差し掛かり、一段、一段、登っては止まるを繰り返す。おしゃべりしながら歩く生徒たちは、さしてこの渋滞を気にしていないらしい。ふと見れば、少し前のところで、大きなジェスチャーを交えて友人に語っている人がいた。
「それがワッと来るもんだからさ、おれ驚いて、うわって後ろに」
言いながら後ろにズザッと下がるので、
「うわっ」
後ろの生徒が押されて後ろへ。
「、っ」
その後ろにいた生徒が押されてまたまた後ろへ。そうして最後には、今まさに階段を登りきろうとしていたブリランテまで押された。
メルが思わず息を呑む。
後ろに倒れゆくブリランテ――。
運悪く、その後ろの生徒は歩みを止めて落とし物を拾っている。周りの生徒もパッと出のブリランテより、落とし物に気を取られていた。馬鹿にしたようないつもの目が恐怖に凍りつくのを見た瞬間、おれはその腕を掴んでいた。そのまま、ぐいと引っ張り上げる。
「っブリランテ、大丈夫?」
メルが心配そうに魂の抜けたような顔を覗きこむ。寸でのところで階下へのダイブを免れたブリランテは、まだ恐怖から覚めないのか、固まっていた。
「リュエルがいてよかった。あんな動き、ラルしか見たことないよ」
火事場の馬鹿力だ。おれには、ブリランテが落ちる姿がスローモーションで見えた。それにしても、あの人間か怪しい人のような動きが自分にもできたとは。いつかの図書館までの逃亡劇を思い出し、かすかに口角が上がる。
「……腕を離せ」
ポツリと落とされた声が耳に届き、ブリランテの腕を解放した。
「なんの企みか知らないが、助けられたのは事実だ。感謝してやる」
「ああ?」
こいつは何を言っているんだ。思いもよらない言葉に眉根が寄る。
「いい気になるなよ。君を認めたわけじゃない」
ブリランテは蔑むような顔で言い、フイッと視線を外して堂々と歩き始めた。と思ったら、廊下にあったちょっとした段差にコテッと躓いた。
「ブリランテ、」
「……おまえ大丈夫か?」
なんのコントだ。先ほどの恐怖がブリランテをおかしくしてしまったのか。
「、ご機嫌取りのつもりか? その手には乗らないぞ。ぼくは平気だ。問題ない。君を認めたりしないっ」
言うが否や、ブリランテは勢いよく振り返り、おれの眉間を指でビシッと刺した。
「何すんだテメェ」
おれは頬をヒクリとさせて、眉間に刺さった指を掴み取る。そのとき、メルが慌てたように口を開いた。
「リュ、リュエル、ブリランテはえっと、指でさすだけのつもりだったんだよ! 狭くて、たまたま当たっちゃったんだ!」
「にしちゃあ、やけに景気よくぶっ刺してきたぜ。なあ?」
地元でよく喧嘩していた頃のようにブリランテを睨み上げる。そんなおれに、メルが必死で腕を振った。
「それは……そう、かっこよくポーズを決めるところだったから! それで勢いがあったんだよっ。ビシッと指さないとキマらないし、恥ずかしいもの!」
「……メル、頼むからもう何も言わないでくれ。すまない、ぼくが悪かった」
メルの必死さが伝わったのはどうやらブリランテの方だった。居たたまれない雰囲気で目をそらし、メルの肩にはんなりと手を置いている。その目は死んだ魚のようだ。
「ブリランテ…! リュエル、リュエルももう怒ってないよね?」
謝られたらここまでだ。おれは怪訝に思いつつ、しぶしぶと頷いた。途中からこちらの様子を窺っていたらしい周囲がにわかにざわめく。
(あのブリランテが素直に謝った…!)
そんな驚きが伝わってきた。
――その陰で最初からひっそりと成り行きを見守っていた生徒らは、一様にブリランテに同情し、癒しのメルの恐ろしさを知ったとさ。
「どうぞ」
「ありがとう」
(いたんだ)
おれは逃避の心境で思う。
「もっと戯れていたかったよ」
「そんな時間はありません。あのまま続くようでしたら、声をかけていましたよ」
さすがレルヒ。おれやラルジュがどんなにアレな状況でも、きっと異空間から普通に言葉をかけるのだろう。
「さぁリュエル、行きますよ」
「へいへい」
こんなレルヒだから、どんな場面を見られても狼狽えなくて済むのだろうが――。昨夜のしんみりとした気分はどこへやら。寝起きのインパクトのおかげで、すっかり普段通りになっていたおれである。
教室に着くと、メルがテテッとやってくる。
「おはよう、リュエル」
「おはよ。……なんだ?」
ぼぅっと見上げてくるメルに首を傾げる。
「う、ううん。なんだかリュエル、日に日にますます綺麗になっていくみたい」
「は?」
「あ、今日は讃美歌を謳う日だね」
「……ああ」
そうだった。
「聖堂、行こう」
それで教室に生徒が少なかったのかと知る。メルはおれを待っていてくれたのだろう。檸檬色の髪に指を通すと、日溜まりのように微笑んだ。
今日の全校集会は、聖靈と生きる日々の幸せを、感謝と共に神に示すという趣旨だ。全校生徒でお決まりの歌を謳う他、アルシャのウタもある。
「やっぱりここに来ると緊張するな」
聖堂の裏舞台にて、メルはほぅっと息を吐いた。披露会のときを思い出している生徒は彼だけではないようだ。ピリリとした緊張感がある。
「リュエルは緊張しないの?」
「そりゃ、しないことねえけど」
今も、何も感じないと言えば嘘になる。
「披露会でも堂々としてたね。ぼく、あんまり緊張してよく覚えてないよ」
「そうなのか?」
「うん。あんなにたくさんの人がいるなんて、思わないから」
あのときの人の多さには、おれも驚いたものだった。
「今日はまだマシだな。一人じゃないもの」
みんなで一緒に挑むからか、一人だったあのときのような緊張は確かにない。
「一人で歌うところはあるけどな」
おれはひょいと肩をすくめる。メルは人気の高さで割り当てられたが、自分の場合は嫌がらせではないかと思っている。
「う…。が、がんばろうね!」
メルがガチガチになって言うので、ふっと笑ってしまった。出番になると、整列して扉の向こうへ歩みだす。すぐ隣にブリランテがいた。
「皆で積み上げたものを、ソロパートでやらかして台無しにしたら最悪だ」
相変わらず、イラッとするような眼差しで突っかかってくる。
「言ってろ」
練習中、リーダーのようにパートをまとめていたブリランテは、いちいち注意してきた。記号に添わず声が小さいまたは大きい、ここは弾むように、ここはのびやかに。仏頂面で謳う歌ではないだの。残念ながら、ねちねち指摘してくる誰かのおかげで理解した記号は多い。
「それでは、一年聖音科の皆さんによる讃美歌です」
流れ出すパイプオルガンの重厚な響き。歌を謳うのは、最初は照れくさかった。パート練習で初めて周りの歌声を知った。声音は一人一人異なる。異なるからいいのかもしれないと思った。
――みんな真面目に取り組んでいたから。ウタに通じるところがあるのは確かで、おれも真面目に取り組むようになった。
(ブリランテはあれで歌も上手い。よく通る声でみんなにお手本を示してた…)
ソロパートになり、視線が一気におれへ集まる。一瞬途切れそうになった声を、なんとか繋いだ。隣から圧を感じるのは気のせいではないだろう。メルのソロパートも無事に終わると、少しホッとした。
「リュエル、おつかれ~」
「おつかれ」
終わってみれば、今日が一番いい出来だったと声学の教師はご満悦だった。
「ぼくは一瞬、これで終わりだと思ったよ」
あの揺らいだ一瞬を耳聡く聞きつけたブリランテが、大げさな素振りで仲間に語っている。仲間の方は気づかなかったらしく、首を傾げながらブリランテの話に賛同していた。おれは眉根を寄せて聞こえないふりだ。
「そんなところあったんだ。ぼく、ぜんぜん気づかなかったよ。ブリランテ、耳いいね」
聞こえてしまったらしいメルが無邪気に言うので、ブリランテもおれも毒気を抜かれた。
全校集会が終わり、廊下は教室へ向かう生徒でいっぱいだ。一年聖音科の生徒も、固まって教室に向かっていた。狭い廊下となると、歩みはさらに遅くなる。人混みが苦手なおれは眉根を寄せた。
「詰まってるね」
メルが背伸びして言う。
「何やってんだか」
肩をすくめてしまった。
階段に差し掛かり、一段、一段、登っては止まるを繰り返す。おしゃべりしながら歩く生徒たちは、さしてこの渋滞を気にしていないらしい。ふと見れば、少し前のところで、大きなジェスチャーを交えて友人に語っている人がいた。
「それがワッと来るもんだからさ、おれ驚いて、うわって後ろに」
言いながら後ろにズザッと下がるので、
「うわっ」
後ろの生徒が押されて後ろへ。
「、っ」
その後ろにいた生徒が押されてまたまた後ろへ。そうして最後には、今まさに階段を登りきろうとしていたブリランテまで押された。
メルが思わず息を呑む。
後ろに倒れゆくブリランテ――。
運悪く、その後ろの生徒は歩みを止めて落とし物を拾っている。周りの生徒もパッと出のブリランテより、落とし物に気を取られていた。馬鹿にしたようないつもの目が恐怖に凍りつくのを見た瞬間、おれはその腕を掴んでいた。そのまま、ぐいと引っ張り上げる。
「っブリランテ、大丈夫?」
メルが心配そうに魂の抜けたような顔を覗きこむ。寸でのところで階下へのダイブを免れたブリランテは、まだ恐怖から覚めないのか、固まっていた。
「リュエルがいてよかった。あんな動き、ラルしか見たことないよ」
火事場の馬鹿力だ。おれには、ブリランテが落ちる姿がスローモーションで見えた。それにしても、あの人間か怪しい人のような動きが自分にもできたとは。いつかの図書館までの逃亡劇を思い出し、かすかに口角が上がる。
「……腕を離せ」
ポツリと落とされた声が耳に届き、ブリランテの腕を解放した。
「なんの企みか知らないが、助けられたのは事実だ。感謝してやる」
「ああ?」
こいつは何を言っているんだ。思いもよらない言葉に眉根が寄る。
「いい気になるなよ。君を認めたわけじゃない」
ブリランテは蔑むような顔で言い、フイッと視線を外して堂々と歩き始めた。と思ったら、廊下にあったちょっとした段差にコテッと躓いた。
「ブリランテ、」
「……おまえ大丈夫か?」
なんのコントだ。先ほどの恐怖がブリランテをおかしくしてしまったのか。
「、ご機嫌取りのつもりか? その手には乗らないぞ。ぼくは平気だ。問題ない。君を認めたりしないっ」
言うが否や、ブリランテは勢いよく振り返り、おれの眉間を指でビシッと刺した。
「何すんだテメェ」
おれは頬をヒクリとさせて、眉間に刺さった指を掴み取る。そのとき、メルが慌てたように口を開いた。
「リュ、リュエル、ブリランテはえっと、指でさすだけのつもりだったんだよ! 狭くて、たまたま当たっちゃったんだ!」
「にしちゃあ、やけに景気よくぶっ刺してきたぜ。なあ?」
地元でよく喧嘩していた頃のようにブリランテを睨み上げる。そんなおれに、メルが必死で腕を振った。
「それは……そう、かっこよくポーズを決めるところだったから! それで勢いがあったんだよっ。ビシッと指さないとキマらないし、恥ずかしいもの!」
「……メル、頼むからもう何も言わないでくれ。すまない、ぼくが悪かった」
メルの必死さが伝わったのはどうやらブリランテの方だった。居たたまれない雰囲気で目をそらし、メルの肩にはんなりと手を置いている。その目は死んだ魚のようだ。
「ブリランテ…! リュエル、リュエルももう怒ってないよね?」
謝られたらここまでだ。おれは怪訝に思いつつ、しぶしぶと頷いた。途中からこちらの様子を窺っていたらしい周囲がにわかにざわめく。
(あのブリランテが素直に謝った…!)
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