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終章 余寒、運命の後期
六
しおりを挟むイヴオンは眠るリュエルをじっと見詰める。
あの教師。ダリヌといったか。彼はここを首になるだろう。しかし、なぜあのようなことを。
(ダリヌ…、ダリヌ・フロイド)
フロイド家。どこかで聞いた気がする。フラムと関係のある家なのだろうか。あのとき、ダリヌの雰囲気は尋常ではなかった。ゾッとするような執着を感じた――。
イヴオンが考えを巡らせているうちに講義の終わりを報せる鐘が鳴り、昼休憩となった。リュエルはまだ眠ったままだ。睡眠は頭や心の整理に役立つ。きっと今、彼は必死で強烈な出来事を穏便に処理しようとしているのだろう。
「失礼します」
そのとき、ノックの後に少年の高い声がした。
イヴオンは仕切りになっているカーテンから顔を覗かせる。入口付近に佇んでいたのは、ふわふわの檸檬色の髪の生徒と、藍色髪の背の高い生徒。
「怪我か?」
「いえ。リュエルくんがこちらにいると伺って…」
どうやら二人はリュエルの友人らしい。そういえばイヴオンは、リュエルと話している彼らを見たことがある。
「あの、何があったんですか?」
リュエルの身に起こったことは、生徒には伝えられていないようだ。しかし彼の友人には、話しておいた方がいいだろう。
「リュエルは寝てるよ。君たちに少し、話があるんだ」
イヴオンは二人をソファへ座らせた。そこへ侍人候補の二年生の二人組が血相を変えてやって来たため、イヴオンは彼ら四人にリュエルの現状を語ることになった。
「いつも通りに接してくれ。不安な顔はするなよ。本人が一番不安なんだ」
四人は神妙に頷く。
「治るまでどのくらいかかるかは個人差がある。だけど、必ず治るから。そこは安心していい」
目が覚めたら、本人から何があったか聞くことにしよう。どんなに衝撃的なことでも、きちんと受け入れなくてはならない。
イヴオンはリュエルのもとへ静かに戻る。不意に睫毛が震え、ぼんやりしたセレストの瞳がイヴオンを捉えた。
「よぅ。気分はどうだ? 友達とか先輩とか来てるぜ」
リュエルは口を開いたが、やはり声にならなかった言葉に眉根を寄せた。
「そのことについては俺が話した。あいつらに、変に気を遣う必要はないからな」
イヴオンは銀髪をぽふぽふ撫でてニッと笑む。それから、真面目な顔をした。
「さっきのこと、話せるか?」
――紙とペンを渡されたおれは、かすかに頷く。
“廊下で呼ばれて着いて行ったらいきなり”
いきなり首を絞められた。
“フラムに恨みがあるみたいだった。この銀髪、見ると虫酸が走るって”
ダリヌは何度も同じ言葉を繰り返していた。それから――。
「、ハッ、はぁっは、」
苦しい。息が、上手く吸えない。
「リュエル、いい、無理に思い出さなくていいから。息を吐いて…。そう、ゆっくり…」
背中を撫でてくれる大きな手。ゆっくり、ゆっくりと促す落ち着いた声。
おれは身体の反応に動揺していた。こんなに取り乱して。もう痛いところはないというのに、そんなに自分はショックだったのか。喧嘩を売られたり嫌そうな顔をされたり。そんなのは、慣れっこだったはずなのに。
(ああ、でも)
あの目。あれが殺意というやつなのだろうか。あんなに強い感情をぶつけられたのは初めてだった。
「リュエル、気分はどうだい? イヴオン先生がココアを作ってくれたよ」
ぼんやりしているうちに、ラルジュが側にいた。おれは差し出されたココアをおずおずと受け取る。カムナギになりたいと言っている人間が、今は声も出せない。急に情けなくなって俯く。ラルジュやレルヒも、内心では呆れているかもしれない。
「大事ないということで、ホッとしました。ここのところ急ぎ足でしたからね。たまには、のんびりするのもいいかもしれません」
頭を撫でられ、おれは窺うように顔を上げる。するとラルジュはにこりと笑った。
「また君のそんな顔を見られるとはね」
(え?)
「ああ、懐かしいですねぇ。最初の頃は、よくこんな顔をしてました」
「最近は凛々しい顔ばかりだったから、やたらとかわいく見えて困る」
(は、)
「ラルジュ、こんなに人がいるところで襲うのは、さすがにどうかと思いますよ」
「わかってるよ。今はしないさ」
(いや、いつだって止めとけよ)
想像の斜め上をいく二人の反応に唖然としてしまう。おれが大人しく黙ったままなのをいいことに、ラルジュとレルヒはどんどん話を進めていた。
「午後の講義は出られるかな」
「午後一は声学らしいですね。せっかくなので、休んでしまったらどうです?」
そうすれば、教科書通りのウタを聞かなくて済む。
「ああ、そうだね。イヴオン先生に欠席の紙を書いていただこう」
「では、私が」
え。いや、声は出ないけど普通に元気なんですけど。おれの思いを余所に、レルヒはさっそく頼みに行っている。
「ほー、教科書通りのウタにねぇ。いかにもリュエルっぽいな」
イヴオンはくつくつ笑いながらさらさらと紙にペンを走らせた。
(おい、教師がそれでいいのか)
ポカンとしているうちに、イヴオンがメルを手招きした。
「これ、次の講義の先生に渡してくれ」
「はいっ」
メルは勇ましく頷き、グランを伴いこちらへやって来る。
「ちゃんと先生に渡すから、安心して休んでね」
(いや、おれは普通に元気だって)
「最近、やたら真面目にやってたからな。たまにはいいんじゃないか?」
グランはニッと笑う。おれは肩の力を抜いて、諦めたように頷いた。それにしても、みんな普通に接してくれてよかった。
何気なくベッド脇に佇んだままのラルジュを見上げる。どこか表情が固い。視線を感じたのか、こちらを向いた。その顔はすっかりいつも通りに戻っていたが――。
「水でも飲みたくなったのかい?」
ソファの方からレルヒたちのおしゃべりが聞こえる。仕切りとなっているカーテンの内側には、おれとラルジュだけ。おれは首を横へ振る。
じっとその顔を見上げていたら、ラルジュは観念したように息を吐きだした。
「今回ばかりは胆が冷えたよ」
――イヴオンが通りかからなければ、もしかしたらリュエルは、そのまま息を引き取っていたかもしれない。
きつく拳を握り、ラルジュは横を向いている。そこに滲むのは悔しさか。おれは目を見開いた。こんなラルジュは初めて見る。
「すまない。君に余計な気を回させて。……俺もまだまだだ」
ラルジュは努めてゆっくり息を吐き冷静を装うと、気軽な雰囲気で肩をすくめた。
おれは固く握りしめられたままの拳へ手を伸ばす。そこから赤い雫がぽたりと落ちた。
“握りすぎだろ”
なに平然としてるんだ。慌てて手を開かせようとすると、その手を取られ、引っ張られ、あれよと言う間に抱きしめられていた。
ああ、ラルジュは怖かったんだ。いつかレルヒの別荘で交わした約束を思い出す。
ラルジュがこんなにらしくなくなるほど、自分は危機的状況だったのか。そこでようやく命の危機にあったことを認識したおれは、途端にゾッとして身体が震えた。思わず触れている体温にすがりつく。
「すまない、リュエル。すまなかった」
違う。ラルジュのせいじゃない。そうじゃなくて…。強く抱きしめ返してくれた腕の中、おれは顔を上げて上着を引っ張り、ラルジュにこちらを向かせる。そうして彼が口を開くより早く、そこへ手のひらを押し当てた。
口許を覆われたラルジュが唖然と固まっている。思いが伝わるように、紅の瞳をじっと見つめた。
不意に掻き抱かれる。
強く抱きしめてくる腕が求めてやまないと伝えるようで眩暈がした。
抱擁が解かれると、ぬっと伸びた手に首を掴まれる。
「知らぬ間に逝ったら許さないよ」
横へ一閃する指の動きに懐かしさすら覚えた。あんなことがあった後なのに、首を掴まれてもまったく恐怖がない。
紅の瞳がじっと見下ろしてくる。言葉とは裏腹に、その色は懇願するようだ。おれはネクタイを引っ張り顔を寄せると、その目許にそっとキスをした。
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