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第5話:飼い犬の反乱、そして幸福な首輪(最終話)
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水曜日の放課後。
俺は担任から押し付けられたプリントの束を手に、高級マンションのエントランスに立っていた。
天宮愛リスは今日も休んでいた。
風邪が長引いているらしい。
インターホンを押すと、しばらくしてノイズ混じりの声が響いた。
『……はい』
「篠崎だ。プリント届けに来た」
『……ごめん、今、鍵開けるね』
オートロックが解除される。
俺はエレベーターに乗り込み、最上階へのボタンを押した。
数字が増えるごとに、心臓が奇妙なリズムで打ち始める。
玄関のドアが開く。
そこにいたのは、いつもの完璧な聖女ではなかった。
髪はボサボサ、ジャージ姿、熱で潤んだ瞳。
足元はおぼつかず、壁に手をついてようやく立っている状態。
チャンスだ。
俺の本能がそう告げた。
管理者が機能不全(ダウン)している。
今、プリントを渡して「お大事に」と言って帰れば、俺は正当な理由でここから立ち去れる。
このまま彼女が数日寝込めば、俺の身体(ハードウェア)から彼女の毒が抜け、正常な感覚が戻ってくるかもしれない。
今が、逃げるための最初で最後の分岐点(とっこうやく)だ。
俺はプリントを差し出した。
「これ、今日の分。あと連絡事項」
「……ありがと。わざわざ、ごめんね」
彼女は弱々しく手を受け取ろうとし――そのままするりと崩れ落ちた。
床に倒れ込む身体。荒い呼吸。
俺はそれを見下ろした。
助け起こしてベッドに運ぶ義務はない。
俺は彼氏じゃない。ただのクラスメイトだ。
ここで背を向けることが、俺に残された最後の「反乱」だ。
……思考時間、0.5秒。
俺は靴を脱ぎ、部屋に上がり込んだ。
彼女を抱き上げ、寝室へと運ぶ。
驚くほど軽い。この細い身体で、俺という人間一人を支配していたのか。
ベッドに寝かせると、俺は即座に行動を開始した。
感情はいらない。必要なのは効率だ。
まず体温計を脇に差し込む。
キッチンの冷蔵庫を開け、スポーツドリンクと保冷剤を確認。
タオルを濡らして絞る。
スマホで近所のデリバリーを検索。消化の良いお粥、到着まで20分。
手際が良い。自分でも戦慄するほどに。
この動きは、俺のものではない。
彼女が俺にしてきたことの模倣(ミラーリング)だ。
俺の思考回路(OS)は、すでに彼女と同じロジックで動くように書き換えられていたのだ。
「……なんで?」
ベッドの上で、彼女がポツリと漏らした。
「篠崎くん、逃げたかったんじゃないの? 今なら、私、追いかけられないよ」
熱に浮かされた瞳が、俺を試すように見ている。
俺は濡れタオルを彼女の額に乗せながら、無表情に答えた。
「勘違いするな」
俺は嘘をつく。
自分自身を騙すための、完璧な論理武装。
「管理者が壊れたら、俺のメンテナンスに支障が出る。明日の弁当がないと、俺の午後からのパフォーマンスが落ちるんだ。だから、早く直れ」
それは、究極の降伏宣言だった。
俺はもう、お前なしでは機能しない。
だから、俺のために生きろ。
その言葉を聞いた瞬間。
彼女の目に宿っていた不安が消え――代わりに、底知れない安堵と「確信」が満ちた。
「……そっか」
彼女は口角をわずかに上げ、恍惚とした表情で俺を見た。
それは、愛する人に優しくされた乙女の顔ではない。
長年追い求めてきた研究が完成した瞬間の、学者の顔だった。
「分かった。すぐ直すね」
彼女の手が、俺の袖を掴んだ。
その力は弱い。けれど、もう振りほどくつもりはなかった。
俺たちはもう、恋人ですらない。
ただの、互いを必要とする部品同士だ。
彼女は俺がいなければ「完璧な聖女」でいられない。
俺は彼女がいなければ「健康な人間」でいられない。
相互依存ではない。機能的共犯関係。
俺は彼女のあごの下まで布団をかけ直した。
その仕草は、まるで自分の首に、見えない首輪を丁寧にかけ直しているかのようだった。
カチャリ。
どこかで、錠が下りる音がした気がした。
「お粥、来るまで寝てろよ」
「うん……夢でも、会えるといいね」
彼女は満足そうに目を閉じた。
俺はその寝顔を見下ろしながら、ポケットの中でスマホを握りしめた。
明日の天気予報をチェックする。
彼女が起きたら、まず湿度と気温を伝えて、最適な服装を提案しなければ。
それが、飼い犬として生きることを選んだ俺の、最初の仕事だった。
(おわり)
俺は担任から押し付けられたプリントの束を手に、高級マンションのエントランスに立っていた。
天宮愛リスは今日も休んでいた。
風邪が長引いているらしい。
インターホンを押すと、しばらくしてノイズ混じりの声が響いた。
『……はい』
「篠崎だ。プリント届けに来た」
『……ごめん、今、鍵開けるね』
オートロックが解除される。
俺はエレベーターに乗り込み、最上階へのボタンを押した。
数字が増えるごとに、心臓が奇妙なリズムで打ち始める。
玄関のドアが開く。
そこにいたのは、いつもの完璧な聖女ではなかった。
髪はボサボサ、ジャージ姿、熱で潤んだ瞳。
足元はおぼつかず、壁に手をついてようやく立っている状態。
チャンスだ。
俺の本能がそう告げた。
管理者が機能不全(ダウン)している。
今、プリントを渡して「お大事に」と言って帰れば、俺は正当な理由でここから立ち去れる。
このまま彼女が数日寝込めば、俺の身体(ハードウェア)から彼女の毒が抜け、正常な感覚が戻ってくるかもしれない。
今が、逃げるための最初で最後の分岐点(とっこうやく)だ。
俺はプリントを差し出した。
「これ、今日の分。あと連絡事項」
「……ありがと。わざわざ、ごめんね」
彼女は弱々しく手を受け取ろうとし――そのままするりと崩れ落ちた。
床に倒れ込む身体。荒い呼吸。
俺はそれを見下ろした。
助け起こしてベッドに運ぶ義務はない。
俺は彼氏じゃない。ただのクラスメイトだ。
ここで背を向けることが、俺に残された最後の「反乱」だ。
……思考時間、0.5秒。
俺は靴を脱ぎ、部屋に上がり込んだ。
彼女を抱き上げ、寝室へと運ぶ。
驚くほど軽い。この細い身体で、俺という人間一人を支配していたのか。
ベッドに寝かせると、俺は即座に行動を開始した。
感情はいらない。必要なのは効率だ。
まず体温計を脇に差し込む。
キッチンの冷蔵庫を開け、スポーツドリンクと保冷剤を確認。
タオルを濡らして絞る。
スマホで近所のデリバリーを検索。消化の良いお粥、到着まで20分。
手際が良い。自分でも戦慄するほどに。
この動きは、俺のものではない。
彼女が俺にしてきたことの模倣(ミラーリング)だ。
俺の思考回路(OS)は、すでに彼女と同じロジックで動くように書き換えられていたのだ。
「……なんで?」
ベッドの上で、彼女がポツリと漏らした。
「篠崎くん、逃げたかったんじゃないの? 今なら、私、追いかけられないよ」
熱に浮かされた瞳が、俺を試すように見ている。
俺は濡れタオルを彼女の額に乗せながら、無表情に答えた。
「勘違いするな」
俺は嘘をつく。
自分自身を騙すための、完璧な論理武装。
「管理者が壊れたら、俺のメンテナンスに支障が出る。明日の弁当がないと、俺の午後からのパフォーマンスが落ちるんだ。だから、早く直れ」
それは、究極の降伏宣言だった。
俺はもう、お前なしでは機能しない。
だから、俺のために生きろ。
その言葉を聞いた瞬間。
彼女の目に宿っていた不安が消え――代わりに、底知れない安堵と「確信」が満ちた。
「……そっか」
彼女は口角をわずかに上げ、恍惚とした表情で俺を見た。
それは、愛する人に優しくされた乙女の顔ではない。
長年追い求めてきた研究が完成した瞬間の、学者の顔だった。
「分かった。すぐ直すね」
彼女の手が、俺の袖を掴んだ。
その力は弱い。けれど、もう振りほどくつもりはなかった。
俺たちはもう、恋人ですらない。
ただの、互いを必要とする部品同士だ。
彼女は俺がいなければ「完璧な聖女」でいられない。
俺は彼女がいなければ「健康な人間」でいられない。
相互依存ではない。機能的共犯関係。
俺は彼女のあごの下まで布団をかけ直した。
その仕草は、まるで自分の首に、見えない首輪を丁寧にかけ直しているかのようだった。
カチャリ。
どこかで、錠が下りる音がした気がした。
「お粥、来るまで寝てろよ」
「うん……夢でも、会えるといいね」
彼女は満足そうに目を閉じた。
俺はその寝顔を見下ろしながら、ポケットの中でスマホを握りしめた。
明日の天気予報をチェックする。
彼女が起きたら、まず湿度と気温を伝えて、最適な服装を提案しなければ。
それが、飼い犬として生きることを選んだ俺の、最初の仕事だった。
(おわり)
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