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1話 出会い
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同じ頃、東京の摩天楼を俯瞰する超高層ビルの最上階。
分厚いガラスの向こうに広がる景色を背に、一人の男が退屈そうに座っていた。
……以上が、次期プロジェクトの概要となります
部下の報告が、静寂な役員室に虚しく響く。
男――一条蒼真(いちじょう そうま)は、興味なさげに指先でデスクをなぞった。
整いすぎた顔立ちには何の感情も浮かんでいない。
彼はこの国の経済を動かす一条グループの若き総帥。
生まれながらのα。
支配者として君臨することが約束された、選ばれた人間。
「……分かった。下がっていい」
「はっ!失礼いたします!」
部下が緊張した面持ちで退室していく。
一人になった部屋で、蒼真は深くため息をついた。
満たされない。
何もかもが、色褪せて見える。
最高の地位も、富も、群がる人間も、彼の心を少しも揺さぶらない。
αとしての本能が、何かを渇望している。
全てを薙ぎ倒すほどの衝動を、魂を揺さぶるような『運命』を。
「蒼真様、次のご予定ですが……」
秘書の女性が控えめに声をかける。
彼女は有能なベータだ。
蒼真の周りは、従順で無臭のベータで固められている。
他のαのフェロモンは鬱陶しいし、そこらへんのΩの安い香りは不快なだけだった。
「キャンセルだ。今日はもう帰る」
「かしこまりました」
感情のない声で告げると、蒼真は席を立った。
このままここにいても、退屈が募るだけだ。
黒塗りの高級車が待つエントランスへ向かう。
雑踏、排気ガス、ありふれた人々の匂い。
その全てが、彼の神経を苛立たせるノイズでしかなかった。
その瞬間だった。
……っ!?
全てのノイズが消え去り、世界から音がなくなった。
代わりに、彼の全神経を貫く、信じられないほど甘美な『香り』が鼻腔をかすめた。
熟れた桃のようでありながら、雨上がりの森のように澄み切っている。
それでいて、他のどんな匂いも消し去ってしまうほど圧倒的に官能的な匂いを漂わせた。
αの本能が、雷に打たれたように覚醒する。
全身の血が沸騰し、理性の鎖が焼き切れる音がした。
こんな香りは知らない。
今まで出会ったどのΩとも違う。
純粋で、無垢で、そして恐ろしく蠱惑的。
「お待ちください、蒼真様!」
運転手が開けた車のドアを無視し、蒼真は群衆の中へと歩き出した。
違う。邪魔をするな。俺はここにいるべきじゃない。
早く、この香りの元へ行かなくてはならない。
人波をかき分け、まるで獣のように研ぎ澄まされた嗅覚だけを頼りに進む。
いた。見つけた。
雑踏の片隅で、小さな背中が震えている。
うずくまるようにして、必死に何かに耐えている少女。
顔色は紙のように白く、今にも消えてしまいそうだ。
彼女だ。間違いない。あの香りは、この少女から放たれている。
一歩、また一歩と近づく。
距離が縮まるにつれて、香りは蜜のように濃くなっていく。
蒼真の喉が、ゴクリと鳴った。
欲しい。手に入れたい。
この香りを、この存在の全てを、俺だけのものにしたい。
その殺気に似た気配に気づいたのか、少女がゆっくりと顔を上げた。
怯えに濡れた大きな瞳が、まっすぐに蒼真を捉える。
その瞬間、柚羽の世界は、この男の存在だけで塗りつぶされた。
(α……!?)
尋常ではないプレッシャー。
全身が縫い付けられたように動けない。
本能が警鐘を鳴らし続けている。
逃げろ、と。
しかし体は、支配者の前ですくみ上がるだけだった。
男は、蒼真は、彼女の目の前で足を止めると、恍惚とした表情で深く息を吸い込んだ。
……見つけた
地を這うような低い声。
それは祝福の言葉ではなく、獲物を見つけた捕食者の宣告だった。
「いや……ちがう……私は……」
柚羽はかろうじて声を絞り出す。
違う、私はベータだ。
あなたたちが求めるような存在じゃない。
だから、放っておいて。
だが、蒼真は満足げに首を横に振った。
「君の香りだ。こんなにも僕に刺激を与えているのにそんな事言わないでくれ」
その声には、揺るぎない確信が満ちていた。
「誰にも渡さない」
そう言って伸ばされた指が、柚羽の頬に触れる。
びり、と電気が走ったような衝撃。
その瞬間、蒼真から放たれた濃厚なフェロモン――静かな森を思わせるサンダルウッドの香りが、柚羽の抵抗を根こそぎ奪い去った。
あ……ダメだ。
意識が、遠のいていく。
恐怖と、抗えない本能と、そして目の前の男の圧倒的な存在感に、柚羽の心は耐えきれなかった。
ぐらりと体が傾く。
世界が暗転する直前、彼女が見たのは、自分を手に入れたという狂気的なまでの独占欲に燃える、美しい男の瞳だった。
倒れ込む柚羽の体を、蒼真は逃がすまいと強く抱きしめた。
腕の中に収まる、驚くほど華奢な体。
首筋に顔を埋め、その香りを直接吸い込む。
「ああ、これだ。俺がずっと探し求めていた、運命の香り。これからずっと一緒だ。俺の運命」
誰にも聞こえない声で囁き、蒼真は意識を失った少女を抱きかかえたまま、自分のテリトリーである黒いリムジンへと向かった。
彼はもう二度と、手放す気はなかった。
分厚いガラスの向こうに広がる景色を背に、一人の男が退屈そうに座っていた。
……以上が、次期プロジェクトの概要となります
部下の報告が、静寂な役員室に虚しく響く。
男――一条蒼真(いちじょう そうま)は、興味なさげに指先でデスクをなぞった。
整いすぎた顔立ちには何の感情も浮かんでいない。
彼はこの国の経済を動かす一条グループの若き総帥。
生まれながらのα。
支配者として君臨することが約束された、選ばれた人間。
「……分かった。下がっていい」
「はっ!失礼いたします!」
部下が緊張した面持ちで退室していく。
一人になった部屋で、蒼真は深くため息をついた。
満たされない。
何もかもが、色褪せて見える。
最高の地位も、富も、群がる人間も、彼の心を少しも揺さぶらない。
αとしての本能が、何かを渇望している。
全てを薙ぎ倒すほどの衝動を、魂を揺さぶるような『運命』を。
「蒼真様、次のご予定ですが……」
秘書の女性が控えめに声をかける。
彼女は有能なベータだ。
蒼真の周りは、従順で無臭のベータで固められている。
他のαのフェロモンは鬱陶しいし、そこらへんのΩの安い香りは不快なだけだった。
「キャンセルだ。今日はもう帰る」
「かしこまりました」
感情のない声で告げると、蒼真は席を立った。
このままここにいても、退屈が募るだけだ。
黒塗りの高級車が待つエントランスへ向かう。
雑踏、排気ガス、ありふれた人々の匂い。
その全てが、彼の神経を苛立たせるノイズでしかなかった。
その瞬間だった。
……っ!?
全てのノイズが消え去り、世界から音がなくなった。
代わりに、彼の全神経を貫く、信じられないほど甘美な『香り』が鼻腔をかすめた。
熟れた桃のようでありながら、雨上がりの森のように澄み切っている。
それでいて、他のどんな匂いも消し去ってしまうほど圧倒的に官能的な匂いを漂わせた。
αの本能が、雷に打たれたように覚醒する。
全身の血が沸騰し、理性の鎖が焼き切れる音がした。
こんな香りは知らない。
今まで出会ったどのΩとも違う。
純粋で、無垢で、そして恐ろしく蠱惑的。
「お待ちください、蒼真様!」
運転手が開けた車のドアを無視し、蒼真は群衆の中へと歩き出した。
違う。邪魔をするな。俺はここにいるべきじゃない。
早く、この香りの元へ行かなくてはならない。
人波をかき分け、まるで獣のように研ぎ澄まされた嗅覚だけを頼りに進む。
いた。見つけた。
雑踏の片隅で、小さな背中が震えている。
うずくまるようにして、必死に何かに耐えている少女。
顔色は紙のように白く、今にも消えてしまいそうだ。
彼女だ。間違いない。あの香りは、この少女から放たれている。
一歩、また一歩と近づく。
距離が縮まるにつれて、香りは蜜のように濃くなっていく。
蒼真の喉が、ゴクリと鳴った。
欲しい。手に入れたい。
この香りを、この存在の全てを、俺だけのものにしたい。
その殺気に似た気配に気づいたのか、少女がゆっくりと顔を上げた。
怯えに濡れた大きな瞳が、まっすぐに蒼真を捉える。
その瞬間、柚羽の世界は、この男の存在だけで塗りつぶされた。
(α……!?)
尋常ではないプレッシャー。
全身が縫い付けられたように動けない。
本能が警鐘を鳴らし続けている。
逃げろ、と。
しかし体は、支配者の前ですくみ上がるだけだった。
男は、蒼真は、彼女の目の前で足を止めると、恍惚とした表情で深く息を吸い込んだ。
……見つけた
地を這うような低い声。
それは祝福の言葉ではなく、獲物を見つけた捕食者の宣告だった。
「いや……ちがう……私は……」
柚羽はかろうじて声を絞り出す。
違う、私はベータだ。
あなたたちが求めるような存在じゃない。
だから、放っておいて。
だが、蒼真は満足げに首を横に振った。
「君の香りだ。こんなにも僕に刺激を与えているのにそんな事言わないでくれ」
その声には、揺るぎない確信が満ちていた。
「誰にも渡さない」
そう言って伸ばされた指が、柚羽の頬に触れる。
びり、と電気が走ったような衝撃。
その瞬間、蒼真から放たれた濃厚なフェロモン――静かな森を思わせるサンダルウッドの香りが、柚羽の抵抗を根こそぎ奪い去った。
あ……ダメだ。
意識が、遠のいていく。
恐怖と、抗えない本能と、そして目の前の男の圧倒的な存在感に、柚羽の心は耐えきれなかった。
ぐらりと体が傾く。
世界が暗転する直前、彼女が見たのは、自分を手に入れたという狂気的なまでの独占欲に燃える、美しい男の瞳だった。
倒れ込む柚羽の体を、蒼真は逃がすまいと強く抱きしめた。
腕の中に収まる、驚くほど華奢な体。
首筋に顔を埋め、その香りを直接吸い込む。
「ああ、これだ。俺がずっと探し求めていた、運命の香り。これからずっと一緒だ。俺の運命」
誰にも聞こえない声で囁き、蒼真は意識を失った少女を抱きかかえたまま、自分のテリトリーである黒いリムジンへと向かった。
彼はもう二度と、手放す気はなかった。
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