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第一章 失くした鍵
第十節
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帰宅したムムを迎えたのはいつも通りの松葉だった。松葉の様子を見て、ムムは口を閉じる。松葉と長年一緒にいたムムには、彼の感情がどうもよろしくないということはすぐわかったのだ。松葉は椅子にも座らず壁に背中をもたれさせると、ムムの方など一切向かず口を開いた。「進捗は?」
「まあまあって感じだよ」
「ほう? じゃあ今月の生活費は払えるな?」
眉を片方だけ上げて挑発してくる松葉にムムはため息をこぼした。「今月も頼むよ、まっつー」
「いい加減にしろ、お前はもう大人だ」
「そう大人だ。だからこうして仕事を必死にこなしてきただろ? 何の問題があるっているんだ?」
「……夢だけじゃ生きていけない」松葉はフッとため息をついた。言いたいことが言えない自分にうんざりしたのだ。別に探偵を諦めてほしいわけではないのに。外野からの声が、松葉を本心とは別の言葉をしゃべらせた。
「夢じゃない。ちゃんと探偵として働いている」ムムは笑った。「それとも、もう嫌になった?」
「……馬鹿言うな」
松葉は椅子にもたれてリラックスしているムムに近寄り、その頭を掴むとぐりぐりと拳を押し付けた。ムムは回避しようともがくが、やはり男女差があるのか、なす術はない。ムムは痛みに耐えながら決して余計なことは言わないようにと務める。この行動は、松葉からの愛情から来ているものだと知っているからだ。この家でのヒエラルキーは間違いなく松葉の方が上なのだ。それを間違えてはいけない。
「感謝してるよ、ユウダイ」
「……行動で示せよ、その気持ち」
こういう時だけ名前で呼ぶのだ。この女は。松葉は自身の心をムムが完全に握っていることをあらためて理解した。彼女には勝てない。松葉が遠慮する限り。
「素人目には分からないだろうが……まっつー以上に感謝している存在なんていないよ」
「俺が素人目だから分からないと言いたいのか?」
「そうじゃない」
ムムは重要そうに眉をひそめた。
「私がこうして夢を追いかけていられるのも、生きていけるのも、全て、松葉ユウダイ、君が資金も心も援助してくれているおかげだ。親がいない私にとって君と友人になれたのは運が良かったと、そう感じざるを得ない。だからこそ、こうしてくだらない、いやくだらなくはないが、まぁ普通の失踪事件を追っているのだから。この事件が解決すれば、江ノでまぁまぁ有名なモミジさんに恩を着せることができる。そうすれば名が売れる。君に借りていたお金も、この住処も、全て返せるって寸法だよ。間違いない。だからこそ手伝ってほしい。私が夢をかなえた暁には、まっつーに損はさせない」
ムムはそう言った後、笑顔を見せた。松葉の目にはそれがムムの笑顔とは認識できないほど、歪んだ笑顔だった。「だから、見捨てないで」
松葉には見捨てる気などさらさらなかった。そもそもムムの生活のすべてを負担している今の状況を苦とも思えない。一緒に居られるだけで松葉にはそれ以上のものはないのだ。
「……今日の成果を聞かせてくれ」
「……ありがとう。でも、聞き流してくれていいから。まっつーの負担にはなりたくない」
そう前置きしたムムは今日知り得た情報を余すことなく松葉に伝えた。ムム自身が頭を整理したかったのだ。そしてそれを松葉もよく理解していた。
「マミちゃんは言った。ユズさんが怯えていたと。何に怯えていた? 借金でもないし……身寄りもないし……」
「お前と一緒じゃないか? “過去”とかな」「過去?」
松葉はムムに視線を合わせた。いつものように赤く光る瞳。眼球を傷つけてまで付けているその赤いカラコンは、松葉には呪いにしか見えない。付ける必要などないのに。しかし皮肉なことにムムの顔に赤はよく映えた。多分どの色よりもずっと、ムムが肌身離さず付けている呪いの方が似合うのだ。そんな呪いが似合っているなんて、そうムムに言えばなんと言われるだろう。
松葉はすぐに結論を出した。はぐらかされるだろう。お得意の、その剽軽な態度で。
松葉はフッと息を吐いて、頭に浮かんだ案をムムに伝えた。
「ユズさんが過去に援助してもらった相手から脅された、または過去に危ない連中とつるんでいた。まぁ、どちらにせよ、そんな野蛮な奴らから逃げるために、そして愛する家族にまで被害がいかないように失踪。……あり得なくはないだろ?」
「あり得なくはないな」ムムは松葉の言葉を反復した。
「おい」
嫌味にしか聞こえないその反復に対して松葉は眉をしかめる。しかし、ムムにはそういう意図があったわけではないらしい。数秒の沈黙の後、ムムはその意図に気付いたようにパッと顔を上げ、手を大きく横に振った。
「違う違う、そういう意味じゃないよ。まっつーの意見をもとに、可能性を見出していくと……。仮定その一、ユズさんが援助してもらっていた誰かと駆け落ち、仮定その二、ユズさんの過去に何かトラブルがありそれに家族を巻き込ませないために失踪、仮定その三、モミジさんの一人芝居、これに関してはユズさん失踪の理由を色々考えられそうだが、まぁとりあえず後でいいか。仮定その四ユズさんは失踪したわけではなく、何者かに殺された。手紙を送ってきたのは犯人からの挑戦状。これでどう?」
「仮定その四には無理があるだろ。なんでわざわざ殺した後、手紙を送る? 何年も経ってから手紙を送る心理が分からない」
「それに関しては少し辻褄が合う部分があるんだよ、まっつー」
ムムは笑った。松葉は、今まで見た中で一番歪んだ笑顔だと思った。そして同時にその案を聞きたくないと願った。どんな案であったとしても、松葉の都合のいいような話が聞けそうにないからだ。しかしそんなことなど知らないムムは、空を仰いで、言った。
「……モミジさんの職場に届いたという手紙。変なところはたくさんあったけど、中でも私が目を付けたのは、この一文。“もう会うことはないし、私の持ち物をすべて処分してもいいから”文脈だけで見れば、モミジさんにとって自身の所有物を見るのがつらいだろうし、処分にも困らないように、といった気遣い的な言葉に見えなくもない。でも、これだけで見ればどう? “私の持ち物をすべて処分して”意味が違って聞こえてくる。そう、まるでこう言っているみたいじゃないか。“確固たる証拠を家に忘れてしまった”ってね。私が見た限り、モミジさんは本当にすべて処分してしまっているみたいだけど、でも、そのことを藍沢ユズは知らない。分かるだろ?」
「情報操作する気か」「そういうこと」
「あの家には藍沢ユズにまつわる何か重要なものが残っている。そういう噂を流せば、この手紙を送った相手も焦り出すはずだ」
「……大きな収穫があるといいな」
「……協力を求めているつもりなんだけど? 江ノ唯一の医者に」
ムムは真っ直ぐに松葉に目を合わせた。それにつられるように松葉もムムの方を見る。二人の視線はぴったりと重なり、互いに背けずにいた。
「俺の領分じゃない」松葉はフッと息を吐いた。そして同時に目をそらす。
しかしムムがそれを許さない。その赤い瞳を更にぎらつかせながらムムは吐き捨てた。
「でも、関係ないわけじゃない。カノンだってそう言うはずだ」
久しぶりに聞いたその名前に、松葉は思わず眉間にしわを寄せた。カノン。久しぶりに聞いた名前だ。
膠着状態がしばらく続いたが、今回の勝者は松葉だった。根気負けしたムムは言う。
「今日は飲みたい気分だ。買って来よう」
松葉が乗り気じゃないことを酌んだムムは誤魔化すように笑った。ムムはごくたまに記憶を飛ばすぐらい酒を買い込み、それらを一日で飲み切ることがある。松葉は過去を忘れたい故の行動だと、つい最近まで思っていたが、しかしそうではなかったらしい。彼女のこの行動は、死んでしまったカノンに捧げる供え酒だったのだ。記憶を飛ばしたいのではない。むしろその逆で、記憶を植え付けたいのだ。自身に。そうすれば決して忘れない。カノンに関するどんな些細なことでも。
ムムは財布を取り出そうとして、誤ってケータイを取り出したことに気付いた。戻そうとした手が止まる。妙なことに、通知が来ている。
「あれ、着信があったのか?」
不在着信と、そしてメッセージ。電話番号しか分からないが、おそらく遠州からだ。メッセージを見たムムの手が止まる。そして、そのあまりにも冷静な声色で、メッセージの内容を松葉に伝えた。
「藍沢ユズの死体が発見された」
「まあまあって感じだよ」
「ほう? じゃあ今月の生活費は払えるな?」
眉を片方だけ上げて挑発してくる松葉にムムはため息をこぼした。「今月も頼むよ、まっつー」
「いい加減にしろ、お前はもう大人だ」
「そう大人だ。だからこうして仕事を必死にこなしてきただろ? 何の問題があるっているんだ?」
「……夢だけじゃ生きていけない」松葉はフッとため息をついた。言いたいことが言えない自分にうんざりしたのだ。別に探偵を諦めてほしいわけではないのに。外野からの声が、松葉を本心とは別の言葉をしゃべらせた。
「夢じゃない。ちゃんと探偵として働いている」ムムは笑った。「それとも、もう嫌になった?」
「……馬鹿言うな」
松葉は椅子にもたれてリラックスしているムムに近寄り、その頭を掴むとぐりぐりと拳を押し付けた。ムムは回避しようともがくが、やはり男女差があるのか、なす術はない。ムムは痛みに耐えながら決して余計なことは言わないようにと務める。この行動は、松葉からの愛情から来ているものだと知っているからだ。この家でのヒエラルキーは間違いなく松葉の方が上なのだ。それを間違えてはいけない。
「感謝してるよ、ユウダイ」
「……行動で示せよ、その気持ち」
こういう時だけ名前で呼ぶのだ。この女は。松葉は自身の心をムムが完全に握っていることをあらためて理解した。彼女には勝てない。松葉が遠慮する限り。
「素人目には分からないだろうが……まっつー以上に感謝している存在なんていないよ」
「俺が素人目だから分からないと言いたいのか?」
「そうじゃない」
ムムは重要そうに眉をひそめた。
「私がこうして夢を追いかけていられるのも、生きていけるのも、全て、松葉ユウダイ、君が資金も心も援助してくれているおかげだ。親がいない私にとって君と友人になれたのは運が良かったと、そう感じざるを得ない。だからこそ、こうしてくだらない、いやくだらなくはないが、まぁ普通の失踪事件を追っているのだから。この事件が解決すれば、江ノでまぁまぁ有名なモミジさんに恩を着せることができる。そうすれば名が売れる。君に借りていたお金も、この住処も、全て返せるって寸法だよ。間違いない。だからこそ手伝ってほしい。私が夢をかなえた暁には、まっつーに損はさせない」
ムムはそう言った後、笑顔を見せた。松葉の目にはそれがムムの笑顔とは認識できないほど、歪んだ笑顔だった。「だから、見捨てないで」
松葉には見捨てる気などさらさらなかった。そもそもムムの生活のすべてを負担している今の状況を苦とも思えない。一緒に居られるだけで松葉にはそれ以上のものはないのだ。
「……今日の成果を聞かせてくれ」
「……ありがとう。でも、聞き流してくれていいから。まっつーの負担にはなりたくない」
そう前置きしたムムは今日知り得た情報を余すことなく松葉に伝えた。ムム自身が頭を整理したかったのだ。そしてそれを松葉もよく理解していた。
「マミちゃんは言った。ユズさんが怯えていたと。何に怯えていた? 借金でもないし……身寄りもないし……」
「お前と一緒じゃないか? “過去”とかな」「過去?」
松葉はムムに視線を合わせた。いつものように赤く光る瞳。眼球を傷つけてまで付けているその赤いカラコンは、松葉には呪いにしか見えない。付ける必要などないのに。しかし皮肉なことにムムの顔に赤はよく映えた。多分どの色よりもずっと、ムムが肌身離さず付けている呪いの方が似合うのだ。そんな呪いが似合っているなんて、そうムムに言えばなんと言われるだろう。
松葉はすぐに結論を出した。はぐらかされるだろう。お得意の、その剽軽な態度で。
松葉はフッと息を吐いて、頭に浮かんだ案をムムに伝えた。
「ユズさんが過去に援助してもらった相手から脅された、または過去に危ない連中とつるんでいた。まぁ、どちらにせよ、そんな野蛮な奴らから逃げるために、そして愛する家族にまで被害がいかないように失踪。……あり得なくはないだろ?」
「あり得なくはないな」ムムは松葉の言葉を反復した。
「おい」
嫌味にしか聞こえないその反復に対して松葉は眉をしかめる。しかし、ムムにはそういう意図があったわけではないらしい。数秒の沈黙の後、ムムはその意図に気付いたようにパッと顔を上げ、手を大きく横に振った。
「違う違う、そういう意味じゃないよ。まっつーの意見をもとに、可能性を見出していくと……。仮定その一、ユズさんが援助してもらっていた誰かと駆け落ち、仮定その二、ユズさんの過去に何かトラブルがありそれに家族を巻き込ませないために失踪、仮定その三、モミジさんの一人芝居、これに関してはユズさん失踪の理由を色々考えられそうだが、まぁとりあえず後でいいか。仮定その四ユズさんは失踪したわけではなく、何者かに殺された。手紙を送ってきたのは犯人からの挑戦状。これでどう?」
「仮定その四には無理があるだろ。なんでわざわざ殺した後、手紙を送る? 何年も経ってから手紙を送る心理が分からない」
「それに関しては少し辻褄が合う部分があるんだよ、まっつー」
ムムは笑った。松葉は、今まで見た中で一番歪んだ笑顔だと思った。そして同時にその案を聞きたくないと願った。どんな案であったとしても、松葉の都合のいいような話が聞けそうにないからだ。しかしそんなことなど知らないムムは、空を仰いで、言った。
「……モミジさんの職場に届いたという手紙。変なところはたくさんあったけど、中でも私が目を付けたのは、この一文。“もう会うことはないし、私の持ち物をすべて処分してもいいから”文脈だけで見れば、モミジさんにとって自身の所有物を見るのがつらいだろうし、処分にも困らないように、といった気遣い的な言葉に見えなくもない。でも、これだけで見ればどう? “私の持ち物をすべて処分して”意味が違って聞こえてくる。そう、まるでこう言っているみたいじゃないか。“確固たる証拠を家に忘れてしまった”ってね。私が見た限り、モミジさんは本当にすべて処分してしまっているみたいだけど、でも、そのことを藍沢ユズは知らない。分かるだろ?」
「情報操作する気か」「そういうこと」
「あの家には藍沢ユズにまつわる何か重要なものが残っている。そういう噂を流せば、この手紙を送った相手も焦り出すはずだ」
「……大きな収穫があるといいな」
「……協力を求めているつもりなんだけど? 江ノ唯一の医者に」
ムムは真っ直ぐに松葉に目を合わせた。それにつられるように松葉もムムの方を見る。二人の視線はぴったりと重なり、互いに背けずにいた。
「俺の領分じゃない」松葉はフッと息を吐いた。そして同時に目をそらす。
しかしムムがそれを許さない。その赤い瞳を更にぎらつかせながらムムは吐き捨てた。
「でも、関係ないわけじゃない。カノンだってそう言うはずだ」
久しぶりに聞いたその名前に、松葉は思わず眉間にしわを寄せた。カノン。久しぶりに聞いた名前だ。
膠着状態がしばらく続いたが、今回の勝者は松葉だった。根気負けしたムムは言う。
「今日は飲みたい気分だ。買って来よう」
松葉が乗り気じゃないことを酌んだムムは誤魔化すように笑った。ムムはごくたまに記憶を飛ばすぐらい酒を買い込み、それらを一日で飲み切ることがある。松葉は過去を忘れたい故の行動だと、つい最近まで思っていたが、しかしそうではなかったらしい。彼女のこの行動は、死んでしまったカノンに捧げる供え酒だったのだ。記憶を飛ばしたいのではない。むしろその逆で、記憶を植え付けたいのだ。自身に。そうすれば決して忘れない。カノンに関するどんな些細なことでも。
ムムは財布を取り出そうとして、誤ってケータイを取り出したことに気付いた。戻そうとした手が止まる。妙なことに、通知が来ている。
「あれ、着信があったのか?」
不在着信と、そしてメッセージ。電話番号しか分からないが、おそらく遠州からだ。メッセージを見たムムの手が止まる。そして、そのあまりにも冷静な声色で、メッセージの内容を松葉に伝えた。
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