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第1章
7「隠しきれない想い」
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人は往々にして、誰かへの好意というものをはっきり自覚するようになると どうにもその気持ちを抑えきれなくなってしまうものだ。
相手の一挙一投足がとても気になったり、ほんの少し話せただけでも胸が熱くなるほど嬉しくなったり、なんとかして相手の視界に映り込めないかと動いてみたり。
相手に気づかれないようにと本人がどれだけ気をつけていたとしても、そうした想いは行動に表れてしまうのである。
そしてそれはある人から見ればあからさまなものであったりするので、隠しきれないことがほとんどなのだ。
ーーーーーー
「…で、2人はいつから付き合ってるんだ?」
「えっ」
これから徐々に人が多くなりだすという時間帯に差し掛かった頃の【觜宿の杯】。
いつもと同じように持ち帰りのための料理が出来上がるのを待っていた黒耀がそんな風にして唐突に訊ねてきたので、夾はちょうど一口飲んだところだった茶に咽せそうになり、慌てて茶杯を唇から離した。
「な、なんですか、いきなり。そんな…誰が」
「え?誰って君達だよ、コウ君とセン」
「俺と璇さんが?まさかそんな」
声をひそめて否定する夾だが、しかし黒耀は飄々とした様子で「なんだ。まだ付き合ってるわけじゃなかったのか」と言いながら茶を一口飲み、裏の調理場へと続く方に一瞬だけ視線を向けてから「てっきりもう付き合っているんだと思ってた」と話す。
「ちょっと前から2人とも…っていうかコウ君がセンの事を気にしてるのは分かってたからな。夏になったぐらいから特に顕著になった気がしてたけど、いつ俺達に話してくれるんだろうって。そうこうしてるうちにもう秋になってるし」
「気にしてる?俺がそんな風に見えますか」
「あぁ。コウ君がアイツを見るときの目は明らかに他とは違うよ、見てれば分かるって」
「そんな…まさか」
「まぁ、こういうのって本人は自覚ないもんだろうからな。無意識なんじゃないか?」
否定しないってことはあいつのことが気になってるのは本当なんだな、と口の端に笑みを浮かべる黒耀。
夾はすでにバレてしまっているのなら今更否定するのもしらじらしいだろう とそれ以上は否定も肯定もしないことにしたが、その代わりに(悟られていたとは…)というバツの悪さから「黒耀さんがそう思っている、ということは琥珀さんにも…」と眉根を寄せた。すると黒耀は「あ~…いや、琥珀はどうだろうな」と苦笑する。
「アイツはあんな風に見えて実際はかなりそういうことに鈍いから結構気付いてないんじゃないかと思うけど。でもさすがに気付いてるかな、それぐらいあからさまだし」
「あからさまだなんて…そんなことないですよ。もし気付いていたとすればそれは琥珀さんが黒耀さんのように鋭いからでしょう」
「いやいや、琥珀ほど鈍いのはそうそういないよ。俺がどれだけ苦労してきたことか…まったく、アイツと付き合うのは簡単じゃなかったんだぞ。そもそも5つ年上だからっていうのもあってなにかと…あ、そういえばコウ君とセンもちょうど5歳違いだったよな?じゃあ俺達のところと一緒か。気を付けた方がいいぞ、年上ってのは大人なようで実際は子供なところがあったりするからこっちが気を揉むことが多いんだ」
よほどのことがあったのか黒耀ははぁ…と小さくため息をつく。
夾が「璇さんもそうでしょうか」と首をかしげると、黒耀は頷いて応えた。
「たしかに俺とセンは同い年だけど、やっぱり付き合うってなるとそういうのとは違う面が出てくるだろうからさ。そう考えると俺とコウ君は同じ立場なわけだ、『相手が年上同士』のな」
「い、いえ、ですから俺は付き合うとか、そういうことは…」
「どうして付き合ってないんだ?好きなんだろ?告白しないのか」
突っ込んで聞かれるあまりタジタジになってしまう夾を見て、黒耀は「そんなに脈ナシって感じなのか?」とさらに訊ねてくる。
そうした恋愛におけるあれこれがよく分からず 璇が自分のことをどう思っているのかについても知る術を持っていなかった夾は、ほとんど相談するような形でこれまで璇が自分に対してしてくれたことを黒耀に打ち明けた。
一緒に中央広場まで行ったことや特別に料理を作ってもらったこと。
そして甘いもの好き、菓子好きだと話したことを覚えているのか、いつからか手作りの焼き菓子を振る舞ってくれるようになったことなど。
それをじっと聞いていた黒耀は「…コウ君は今のままでいたいと思ってるのか?」と目を細めた。
「今みたいに自分だけが想ってればいいって?コウ君は本当にそれでいいのか?それこそあっちの方からの動きを待ってたら何にもならないぞ。好きな気持ちがあるならまず動かないと。見てるだけじゃなくて」
はっきりと言う黒耀につられてすっかり本心を語る心づもりになった夾は「それはそう、でしょうけど…」と口を開く。
「でも今更どう話を切り出したらいいのかも…よく分からなくて。璇さんは俺のことをベータだと思っているでしょうし、いきなり【香り】を放つわけにもいかないじゃないですか。黒耀さん達はすごく自然な流れで明かし合えたみたいですけど」
「あぁ、琥珀に聞いたのか」
「はい。黒耀さんからの【香り】につられて第2性別を明かしたと」
「え、俺から?」
「違うんですか?琥珀さんはそう言ってましたよ」
「琥珀がそう言ったって?いや、実際は…まぁいいよ、そういうことにしておこう」
なにやら言いたそうにした黒耀だったのだが、彼はすぐに諦めて言葉を飲み込んでしまった。
(もしかして先に【香り】を放ったのは琥珀だったのでは…?)と思う夾だが、黒耀は「とにかく」と仕切り直して夾に向き直る。
「たしかにただ好きだってことを告白するのとは色々と訳が違うけど。でも悩むにしたって想うにしたって、ずっとそうしてることで何かが変わるってものでもないだろ?自分の気持ちがはっきりしてるんならすぐにでも行動を起こさないと時間がもったいないぞ。毎日毎日 時間っていうのは一瞬だって止まることなく過ぎていくんだ。考えてもみろよ、早く両想いになれたらそれだけ相手と一緒にいられる時間も増えるんだぞ?もし手をこまねいていて後から『もっと早くこうしておけばこんな幸せな時間がもっとあったのに』って思っても、それじゃもう遅いんだ」
「たとえ上手くいかなかったとしても早ければ早いほどやり直す余地だって生まれるし、どうにでもやりようはある。でも後悔はどうにもならない。もしセンが他で相手を見つけたら?家族に言われて見合いをしたら?それから焦るよりも先手を打っておいた方がいいとは思わないのか?」
見合いだのなんだのという話を出されると妙に不安感がこみ上げてきて、夾は思わず「そ、そんな、それは…っ」と声を上げてしまう。
『ほらな』といわんばかりに揚々と茶を飲む黒耀に夾が言葉を探していると…目の前にある長机の向こうから「何の話をしてるんだ?」と璇が声をかけてきた。
噂をすれば影というやつだ。
いつの間にか裏の調理場から出てきていたらしい璇は焼き菓子が一切れ載った皿を夾の目の前に置き、黒耀を訝しげに見る。
「やけに楽しそうにして。何の話をしてたんだよ?」
探りを入れようとするかのようなその話し方になんと応えるべきかと困惑してしまう夾だが、黒耀は全く動じずに「いや?ただ話をしてただけだけど」と落ち着き払って答えた。
「俺は琥珀に比べたらここへ来ることは少ないかもしれないけど、でもコウ君と話してるのなんか別に珍しいことでもないだろ。何がそんなに気になるんだ?」
「いや、気になってるとかそういうんじゃ…」
「気になってただろ、どう考えても」
はっきりと指摘された璇は怯んでそれ以上話すことなく口を噤んでしまう。
黒耀の指摘はいつも物事の本質を鋭く突いてくるようなところがあるので璇は特に弱いらしい。
だがそんな璇を見てふははっと軽く笑った黒耀は「あぁ、そろそろ『秋の儀礼』の時期だなって話をしてたんだ」と夾に目配せをしてきた。
「一年ってのは本当に早いもんだよな、すぐこうやって秋の儀礼の時期になってさ、楽しいやら驚くやら…センは今年の儀礼の日はなんか予定でもあるのか?やっぱり仕事するのか」
ごく自然にそう話題を振られた璇は手持無沙汰なのを誤魔化しでもするかのように長机を布巾で拭いつつ「そうだよ。当日の忙しさは知ってるだろ」と苦々しく答える。
「俺達みたいに普段から料理をしてるところは総出で果実の調理をしないと皆に振舞う分の用意が間に合わないから。休みなんかないよ」
「大変だよな、朝からずっと仕事仕事で」
「俺達のところはひたすら果実の皮を剥いて切るだけだから 料理を大量に用意しないといけない中央広場寄りの食堂とかよりはそこまで大変じゃないよ。それに今に始まったことじゃないし、慣れてるからなんとも思ってない。まぁでもちょっとは…」
「コウ君は?コウ君も仕事なのか?」
「おい!今俺が話してただろ!?」
話を途中で遮られた璇が不満気に声を上げるも、黒耀はそれを軽くあしらってもう一度夾に秋の儀礼当日について訊ねてくる。
夾は黒耀と璇からの視線を受けながら「はい、俺も朝から仕事です」と頷いて応えた。
「当日は荷車で果実をあちこちに運ぶでしょう?だからどうしても故障した荷車が多くなってしまうんです。俺達修理職人は皆それぞれの持ち場について仕事することになってるんですけど 今年もすでに職人達がそれぞれ請け負う持ち場についての連絡が来ましたよ」
「たしかに毎年壊れた荷車をその場で修理してるところを中央広場とかで見かけるよな。コウ君もその一員だからそりゃそうか。大変だな」
「えぇまぁ大変は大変ですけど…でも他の工房の職人さん達とも沢山話せるので結構楽しかったりするんですよね。普段はなかなかそういう機会がないので」
昨年の忙しいながらも和気藹々と仕事をした時のことを思い浮かべて弾む表情を見せる夾に「コウ君は本当に仕事が好きなんだな」と柔らかな笑みを向ける黒耀。
彼はそれから茶杯を片手に持った茶杯を軽く回して混ぜ、ふぅっと息をつくようにして呟いた。
「…ってことは当日は2人とも仕事なのか……」
焼き菓子を切り分けようとしていた夾はハッとしてその手を止める。
璇は収穫祭当日は仕事で忙しいらしい。ということはつまり、誰かとどこかへ出かける可能性も低いということではないか。
少なくとも他のオメガとゆっくり出かけるということは…ないだろう。
ついさっき黒耀から聞いた話も相まってそうしたことを考えてしまっていた夾は黒耀から意味ありげな視線を向けられていることに気付くと、慌てて璇が持ってきた焼き菓子の端を小さく切り分けて口に運んだ。
頬張ったそのふわふわとした菓子は夾の好みど真ん中という味であり、思わず彼は黒耀からの視線を忘れて「…!美味しいです、このお菓子!」という素直な感想を璇に伝える。
璇が「それなら良かった。また持ち帰れるように何切れか包んでおくから…」と言ったのに対して礼を言った夾は、さらにその菓子をもう一切れ口に運んだのだった。
ーーーーー
秋の儀礼では朝から陸国中の人々が大通りや中央広場を行き交って一日中大変な賑やかさになる。
陸国を加護している神々への日々の感謝のために行なわれるこの秋の儀礼、つまり収穫祭ではそれぞれの地域を統括している領主が地域を象徴する舞具を使って舞を奉納する他、農業地域の中腹辺りにある大木に実った果実をすべて収穫して中央広場やその周辺に運搬し、果汁を絞ったり甘く煮たり、菓子にするなどして陸国に住む全員で分けて食べるのだ。
陸国中の人に行き渡るほどの果実の量である。
それらを運搬するのも並大抵ではない。
秋の儀礼当日、夾があらかじめ配置されていた中央広場寄りの待機所で親方や他の職人達と談笑をしていると次第に人や荷車の往来が激しくなっていき、そして一台、また一台と不具合を起こした荷車が運ばれてくるようになった。
ちょっとした不調や一部の部品を取り替えるだけで済めばいいのだが、中には車輪が割れてしまったり軸木にひずみが生じてしまったりしたものもあって、それらに対応し終える前にまた他の荷車が持ち込まれてきたりもするのであっという間に現場はおおわらわになる。
夾は部品の組み換えや調整だけではなく、足りなくなってしまった予備の部品の調達などのために奔走して昼食の時間すらほとんど休まずに働いた。
そうして過ごしているうちにあっという間に陽が傾き、空は茜色になり始める。
午前中からひっきりなしにやってきていた果実満載の荷車はいつしかその姿を消し、代わりに街灯が灯ってそこら中の石畳を夜の装いに変え、あちこちの食堂や臨時の調理場からは香辛料を使った料理の食欲をそそる香りが立ち込める。もちろん、甘く煮た果実が中に詰まった焼き菓子の芳醇な香りも。
誰もが手仕事をしていた騒々しい昼間とは少し異なる、どこかしっとりとしたような雰囲気に包まれていく陸国。
慌しさは消え、ただただ親戚近所、友人達との食事や語らいを楽しむ時間になりつつあるのだ。
どの大通りにも中央に長机や円卓、そして料理や酒などの飲み物が揃い、夕食を求める人々で通りが混み合い始めた頃になってようやく夾を含む職人達は臨時の整備場を仕切っていた職人頭から今日の仕事の終わりを告げられて解散となった。
工房の親方から「今日も大活躍だったな。お疲れ、コウ」と声をかけられた夾も「はい、親方も」と1日の別れを告げて鉱酪通りの方へと歩き出す。
秋の収穫祭ではほとんどの人が家族と共に夕食をとるのだが、夾はこのまま鉱酪通りに出ている長机の端っこで適当に食事を済ませてから自宅へと帰るつもりでいた。
彼は昼の間に会いに来た兄夫婦から『一緒に夕食を食べないか』と誘われてはいたのだが、兄夫婦は工芸地域で兄の妻(夾の義姉)の実家の面々と夕食をとることになっているので そこに混ざるのは気が引けたというのと、工芸地域まで行ってゆっくりしていては泊まるにしても帰途につくにしても気が休まらないというので断っていたのだ。
兄夫婦は残念がっていたが、また今度時間を合わせて会おうということにして今日のところは別れた。
見る度、会う度に大きくなっている姪っ子の可愛らしさを思い浮かべながら夾が見慣れた鉱酪通りの半ばまでやってくると「あっ!コウちゃん!」という声がかけられる。
声のした方を目で探ると、鉱酪通りの中央に並べられた長机のそばから琥珀と黒耀が人の波の合間を縫ってやってきた。
「お疲れ様!仕事終わり?」
明るい琥珀のその声に「はい、今さっき解散になったところなんです」と夾が頷いて応えると、琥珀はさらに人懐っこいような笑みを浮かべて言う。
「そうなんだね!僕達も1日中ずっとドタバタしててさ、やっと黒耀と2人でゆっくり歩いて回れるようになったところなんだ」
彼らの子供達2人は午前中を中央広場や酪農地域内で遊び倒して過ごした後、仲の良い従兄弟達とお泊り会をするというのですでに琥珀の実家へと行っているらしい。
これまでに聞いてきた話からも分かる通り黒耀と琥珀にとってこの秋の儀礼の日というのはとても思い入れ深い日であるわけだが、寄り添っている2人からはあからさまに甘い雰囲気が醸し出されていて、夾もなんだか微笑ましくなってしまう。
そうしてしばらく3人で立ち話をした後は解散するつもりでいた夾。
しかしその話の流れで夾がこの後1人で夕食をとるつもりだと知った琥珀と黒耀は それなら一緒に夕食を食べないかと誘いをかけてきた。
「僕達これから色々見て回りながらこの辺りでは配られてない料理をいくつかもらってくるつもりでいるんだ。少し多めにもらってくるからさ、一緒に食べようよコウちゃん!」
「え…でもお邪魔じゃないですか?せっかくの2人の時間なのに」
「ううん、これから黒耀とはこれからこうやって色々見物してくるから大丈夫だよ!それにどうせ今夜はもう…ね?散々引っ付くつもりでいるから!ご飯は皆で一緒に食べようよ、その方が賑やかでいいでしょ?」
琥珀の「そうしようよ!」という期待感を込めた眼差しと弾む声を断ることはできず、その上黒耀も頷いているので 夾はそれを了承した。
「よかった!それなら【觜宿の杯】で待ち合わせしよ!外で食べるのもいいけどちょっと賑やかすぎるからね」
「【觜宿の杯】で?開いてるんですか?」
「うん。実は璇も一緒に食べることになっててね、璇のお兄さんからも『食事したいなら【觜宿の杯】や【柳宿の器】を使っていいよ』って言ってもらってるんだ。だからお言葉に甘えて【觜宿の杯】を使わせてもらおう!料理を持ってくるから中で待っててね」
夾が(えっ)と思っているとちょうど近くを璇の兄が通りがかり、近くの食堂で焼き上がったばかりの焼き菓子を「君達も1個どう?」と勧めてくる。
上面に網目や木の葉の飾り模様が生地で描き出されているその焼き菓子は ほどよい焼き色も相まってとても美味しそうだ。
黒耀はその中の1つを受け取って言った。
「コウ君、この焼き菓子を裏の調理場にいるセンのところへ持って行って切り分けてもらっておいてくれ」
「え」
「今切り分けておいたほうが食事の後すぐに手が伸ばせていいからな」
ほら、と手渡される焼き立てほやほやの焼き菓子。
そして黒耀と琥珀は2人寄り添って賑わう鉱酪通りの中へと消えていったのだった。
夾は黒耀達に言われた通り、焼き菓子を持って【觜宿の杯】の裏にある調理場を目指す。
調理場へと続く勝手口の戸をそっと叩いてから開けてみると、中では璇がちょうど調理場の片付けをしているところだった。
「…璇さん、お仕事お疲れ様です」
「黒耀さん達がこの菓子を切り分けておくようにと言うので、持ってきたんですが」
夾が声を掛けると調理台を拭っていた璇は「あぁ、それならこっちに」と菓子を置くよう促す。
先ほどまで果実を沢山切り分けていたらしい調理場内は爽やかでありながらも芳醇な果実のいい香りでいっぱいになっていて、なんだか心地がいい。
早速焼き菓子を切り分けるための支度を始めた璇に、夾は「すみません、ちょうど片付けたところだったのに」と申し訳なさを滲ませて言った。
「調理台も綺麗になったばかりでしたよね」
「あぁ、別にこれくらいどうってことないから。…気にするなよ」
「ありがとうございます」
璇が慣れた様子で丸い形に焼き上げられている菓子を均等に切り分けると、中から甘く煮詰められた果実が艶やかに顔をのぞかせる。
少し透き通った黄金色の果肉は包み込んでいる生地と共になんともいい香りで調理場内を満たし、味を確かめるまでもなくその美味しさが分かるようだ。
夾はじっっっ…と焼き菓子を見つめてまさに釘付けになる。
「本当に甘いものが好きなんだな。俺が作る菓子も…いつも美味しいって言ってるし」
焼き菓子を6等分にし終えた璇が後片付けをしながら言うと、夾はようやく菓子から視線を璇に移して「璇さんが作るお菓子はいつも本当に美味しいですから」と大真面目に答えた。
「あまりにも美味しいのでいつももっと食べたくなってしまって抑えるのが大変なんですよ。サクサクしたのもふわふわしたのも…俺、璇さんが作るお菓子はどれも大好きなんです」
「そう…なのか」
「はい」
いつも【觜宿の杯】での食事が終わる頃になると「今日はこういう焼き菓子があるんだけど…」と璇が差し出してくるお手製の菓子。
これまでに振る舞われたそれらを一つずつ思い出しながら(あのお菓子が一番好きかも…いや、やっぱりこの間食べたやつが一番かも)などと考える夾に、洗い場で手を洗っていた璇は振り向いて言った。
「好き…なのは菓子だけなのか?」
思わぬ璇からの問いに「え?」と目を瞬かせる夾。
璇は濡れた手を拭うと、調理台の上にある焼き菓子に目を向けつつさらに「だから…」と言葉を続ける。
「…だから、菓子が好きってのは知ってるけど、それは俺が作ったやつだからとかそういうのは…ただ甘いものが好きだから美味いっていうだけじゃなくて 他にも何か理由、みたいなのは……」
「…いや、わるい、やっぱりなんでもない」
懸命に言葉を探していたらしい璇は結局しどろもどろになってしまっていることを気にしてかそれ以上言うのをやめてしまった。
《(ただ甘いものが好きだから美味いっていうだけじゃなくて他にも何か理由、みたいなのは……)》
璇の言わんとしていたことを理解するべく、夾は考える。
璇が作った菓子を美味しいと思うのは、ただ単に甘いものが好きだからというだけではない。
もちろん菓子ならば基本的にどんなものでも好きなのだが、しかし璇が作ったものを口にするときというのはもっと他の、味以外の部分で胸が満たされる気分になるので特に美味しいと思うのだ。
そしてその理由というのも…夾にはすでにはっきりとしている。
「…俺は璇さんが作ったものだから美味しいんだと、思っています」
「お菓子も料理も、たとえ他の人が同じものを作ったとしたって璇さんが作ったものの方が美味しいと思うはずです」
「それぐらい俺は好きです。璇さんが作るお菓子や…料理が」
本当はすぐにでも『好きな人が自分のために作ってくれたから美味しいと思うんだ』くらい直球で言いたいと思う夾だが、そんな風には言うことが出来ず、こうした妙に回りくどい言い回しをするので精一杯だ。
だが璇は「あ…そう、か」とどこか嬉しそうな声で答えた。
「それなら菓子でも料理でもまた作るよ、そんな大したことじゃないけどな。美味しいっていうならいくらでも…うん」
そう話す璇は夾の目にも明らかなほど照れた表情を浮かべている。
ふと、夾は思った。(自分のためにこうして色々としてくれるだなんて、璇さんは本当にどういうつもりなのだろうか)と。
【觜宿の杯】の主としてなのか、友人としてなのか。それとも…。
(もしかしたら璇さんもその種の好意をもってくれているのかも)という自分に都合のいい考えしか思い浮かばなくなってしまった夾は思い切って口を開く。
「…璇さんはどうしてこんなにも俺に良くしてくれるんですか?」
「お菓子のこともそうだし、特別に一皿作ってくれたりもして…手間のかかることばかり。俺が琥珀さん達と親しくしているからそういう風に接してくれているんですか?それとも何か他の理由があってのことなんですか」
夾はひそかに大きな覚悟をして訊ねていた。
『常連客だからだ』というような答えが返ってくることも有りうるが、そうなれば傷心は免れないからだ。しかしこれは今まで確かめることが出来ずにいた璇の本心を知るいい機会でもあると、彼は相当思い切って訊ねている。
外の鉱酪通りから聞こえてくる賑やかな人々の声すらも無いものとするかのように広がる静寂。
まるで時の流れが止まったか遅くなったかしたような感覚に陥りながら、夾は璇からの答えを待っていた。
長い時間が過ぎたのか、それとも意外にもごく数秒のことだったのか。
ようやく「そ、れは…」と声を出す璇。
「俺は…常連だからとかそういうことじゃ、なくて…その、俺は……だ、だから……」
璇のその反応は まだ肌寒かったあの春の日に酒棚のところでやり取りをした時とよく似ている。彼はこうして動揺した結果、踏み台から足を踏み外したのだ。
今の彼の動揺が意味するものは何なのかと夾はひたすら言葉は紡がれるのを待つ。
待って待って、待ち続けて。
ふいに璇の耳の縁が真っ赤に色づいていることに気付いた時…夾はまるで雷にでも打たれたかのような衝撃を受けた。
「っ!!」
充満していた甘い果実と菓子の香りを上書きするかのように。
たしかにはっきりと、針葉樹林の中にでもいるかのような爽やかさと深みのある香り…いや、【香り】がし始めている。
それはあの夜に香ったものよりもずっと素晴らしい芳香でたちまち夾の心臓を捉えてしまった。
その【香り】に辛味を感じるようなものは一切含まれておらず、どのような気分で放たれたものなのかについては確かめるまでも無い。
(あぁ…好きだ、本当に好きだ)
(俺はこの人のことが心底好きで堪らない)
胸の奥底深くから込み上げてくるその想いのまま立ち尽くしていると、璇もハッと何かに気づいたように顔を上げた。
もはやそこに菓子の香りは無く、針葉樹林のような【香り】と甘い花のような【香り】だけが2人を包み込んでいた。
「まさか…オメガなのか?」
驚きのあまり訊ねてくる璇に、夾はしっかりと頷いて応える。
そしてついに、【香り】がもたらすそれまでに感じたことのないような大きな多幸感に背を押された夾はずっと胸に抱き続けてきた想いを告白した。
「好きです、璇さん」
「俺…本当に好きなんです、あなたのことが」
実際に声に出したことでより一層深まるその想い。ついに告白してしまったという後戻りのできない事実に、彼の胸はかつてないほどにまで昂ぶっている。
「俺のことが好き…だって?」
「そんな…まさか、本当に?俺のことが好きだって言ったのか?」
信じられないというように何度もそう訊ねてくる璇をまっすぐに見つめ、混ざり合う【香り】に浸る夾。
「でも俺は印象が悪いはずだろ、初めて会った時もそうだし怪我も…それなのに、なんで……」
「そんなの俺はちっとも気にしてません。それよりも璇さんが俺にしてくれること全部が嬉しくて、いつの間にか俺は…本当にあなたのことを好きになっていたんです。璇さんがアルファで俺がオメガだからじゃありません。本当にただ…好きなんです」
「俺がアルファだって知ってたのか?いつから…」
「…初めからです、裏路地で壁際に追い詰められたときから。あの時俺は璇さんのことをすごく怒らせてしまっていたので…」
「う、嘘だろ!?」
璇は唖然とする。
当時はまだそういう感情を抱いていなかったとはいえ、好きな相手本人(それもオメガ)に対して怒りの感情から湧き上がる【香り】をぶつけたことがあるというのは、アルファにとってはありえない、信じられないことなのだ。
ただでさえ夾に対していくつかの罪悪感を抱えていた璇は、その上 過去の自分がしでかしていたことを知って身の置き場もなくなってよろめく。
夾はそんな璇に向かって手を差し伸べた。
「璇さんも俺のことを、その…良いと思っている、んですよね?」
「それならもうあの時のことは忘れて、今の俺だけを見てください。今こうして璇さんがこの手を取ってくれたらいいのにと思っている…俺のことを」
ゴクリと息を呑みながら『この手を握ってほしい』と願う夾。
すると彼の手に璇の手が重ねられた。
料理をする者としての、手入れが行き届いている手だ。
先ほど手を洗ったばかりの璇のその手は少しひんやりとしていたが、それもすぐに気にならなくなる。
触れ合った手の感触とさらにはっきりとしていく【香り】に夾がなんともいえない嬉しさでいっぱいになっていると、璇は「あの…さ」とおずおず自身の名前、本名を口にした。
「…これが俺の名前なんだ。酪農地域の言葉で『輝く璇(美しい玉)のような子』っていう意味を込めて俺の父さんがつけたらしい。これが俺の名前…なんだけど…」
「もしよかったらお前の本当の名前も、教えてくれないか?『夾』っていう呼び名じゃなくて、本当の…名前を」
陸国では本名を明かしあうことには大きな意味がある。
璇から先にそうして本名を明かされたことで関係が大きく変わるのだということを実感した夾は、頬が緩むままに自らも本名を明かした。
「俺の名前も酪農地域の言葉でつけられているんです。意味は『夾白のもとに生まれた 韶しい子』…。夾白というのは漁業地域でのとある星の呼び名なんだそうで…」
どちらの名前も酪農地域の言葉で付けられているのだが、普段話している酪農地域の言葉(方言)とは違う『名前を呼ぶときにだけ使われる少し特殊な発音』が織り成す2つの名前のその響きは何だかとても清らかで、よく調和が取れている。
2人はそれぞれの名前に『星を意味する語が入っていること』などの共通点を見つけるとさらに特別なつながりを感じ、気恥ずかしくもなってまた少し【香り】を放った。
「…でも、どうして呼び名が『夾』なんだ?その名前の響きだと『韶』を呼び名にしそうなのに」
呼び名について璇に言及された夾は苦笑して「あぁそれは…」と『夾』を呼び名にしたいきさつを話す。
呼び名というのはその語の意味合いや呼ぶときの発音、響きによって本名の中からどの辺りを抜き出すかがおおよそ決まっているのだが、それからすると夾の場合の呼び名は一般的には『韶』となるはずなのである。
しかし工芸地域で幼少期を過ごした彼の周りには同年代に『しょう』という名前の響きの子が多かったので、彼は意図的に『こう』を呼び名として名乗るようになったのだ。
今では実の兄や義姉がたまに呼ぶ以外には彼を『韶』と呼ぶ者はいない。
「家族以外では俺をそう呼ぶ人はいないんです。もうずっと『夾』と呼ばれてきましたからね」
「そうなのか」
「はい。なので璇さんも俺のことは…」
『夾と呼んでください』。
そう言いかけた瞬間、夾は璇から「韶」と呼びかけられ、ハッとして顔を上げた。
「じゃあ俺が呼ぶよ、韶」
「えっ……」
「韶。好きだ」
まさかそう呼ばれるなどとは思いもしていなかった夾は妙にくすぐったい気持ちになって「や、止めてください、『夾』でいいじゃないですか…」と手を離そうとする。
しかし璇は手を離すどころかむしろ引き寄せるようにして近づくと、もう一度はっきりとそう呼びかけたのだった。
他の人とは何もかもが違う。そんな特別感にどぎまぎしていたせいですっかり2人の距離はほとんど抱き合っているのと同じくらいになっていた。
璇の心臓が激しく鼓動しているのもありありと分かるくらいに。
夾が視線を璇の胸から首筋、そして瞳へと移していくと、あの青みがかった灰色の美しい瞳に自分が映っているのが見える。
ほんの少し夾よりも璇の方が背が高いが、目線ははっきりと交差していた。
「韶…」
囁きと共に夾の頬に触れる璇。
大切なものを愛でるように、慎重に。頬を撫でて、そして手のひらがそこを覆う。
「…いいか?」
視線が自らの唇へ向いているということを理解しながら、夾は確認を求めてくる璇に「どうすればいいのか…分からない、んですが……」と白状した。
あまりにも急な展開に彼はもうなにがどうなっているのか、どうしたらいいのかの判断が全くつかない。ただ一つ『この瞬間を逃したくない』という一念だけが彼の中にある。
「そ、の…こういうことは、初めて…で………」
「そのまま、じっとして…」
少しずつ、ゆっくりと迫ってくる璇。
夾はぎりぎりまで璇のその均整の取れた美しい唇を見つめていたが、鼻先が触れ合ったところで目を閉じ、唇から伝わってくる初めての感覚に全神経を集中させた。
重なる唇。正真正銘、それは彼にとっての初めての口づけだった。
唇というのはこんなにも感覚が鋭敏だったのか、そして柔らかいのかということに対する驚きもさることながら、間近から香ってくる【香り】に心を溶かされる夾。
しばらくしてから唇は離れたが、それでもまだそばから離れがたく、2人は腕を回して抱きしめ合う。その抱擁すらも初めての夾にとっては堪らない。
「あぁ なんだよ…本当にいい【香り】だな……」
うなじから香る夾の【香り】に感嘆のため息を漏らす璇。
「璇さんのも…本当に素敵ですよ」と璇が笑みを浮かべながら返すと、それからまた2人は混ざり合う互いの【香り】に包まれながら触れるだけの軽い口づけを交わした。
ーーーーー
【觜宿の杯】の中のいつもの席。
夾は璇と2人きりで琥珀や黒耀が料理を持ってやってくるのを待っている。
想いが通じ合っているのだと思うと…この2人きりという状況が気恥ずかしいような嬉しいような、しかしやはり気恥ずかしい感じがしてそわそわとしてしまう夾。
だがそれは璇も同じようだ。
璇は夾が普段酒を飲まない男であるということは知っているものの「なにか飲むものを…用意しようか」と酒類の提供もできることを指して言った。
今日は秋の儀礼という祭りの日だが、夾にとっては想いが成就した特別な一日だ。
さらにその特別感を強めたいという思いが湧き上がっていた夾は璇に勧められるまま『今日ぐらいは』と飲みやすいものを出してもらうことにした。
そうして璇が夾のために用意したのは白の葡萄酒を使った1杯である。
甘みがあって飲みやすいその1杯は一口味わっただけで夾のお気に入りとなり、璇をも喜ばせた。
「美味しいか?それなら良かった、実はその1杯に使った白の葡萄酒ってのは……」
璇がそう言いかけたところで【觜宿の杯】の扉が開き、沢山の料理をかごに詰めた琥珀と黒耀が「お待たせ!」と元気よく入ってくる。
2人きりの時間が終わり、それまでとは打って変わった賑やかさでいっぱいになる【觜宿の杯】。
琥珀は外の様子を実に楽しそうに語りながら持ってきた料理を円卓の上へと並べていったのだが、そうしているうちに璇と夾の間に流れる妙な雰囲気に気付き、パァッと目を輝かせて「え~っ!えっお祝いしよう!?」とそれまで以上にはしゃいだ。
「うわぁ~っ良いじゃん2人とも!すごく素敵だね!僕達が外を歩いてる間にそんなことになってたなんて!」
まるで自分のことのように嬉しがる琥珀の傍らで、黒耀も静かに祝福をしてくれている。
美味しい料理に菓子に酒、そして笑顔と笑い声。
彼らの秋の儀礼の夜はそんな風に満ち足りたもので過ぎていったのだった。
相手の一挙一投足がとても気になったり、ほんの少し話せただけでも胸が熱くなるほど嬉しくなったり、なんとかして相手の視界に映り込めないかと動いてみたり。
相手に気づかれないようにと本人がどれだけ気をつけていたとしても、そうした想いは行動に表れてしまうのである。
そしてそれはある人から見ればあからさまなものであったりするので、隠しきれないことがほとんどなのだ。
ーーーーーー
「…で、2人はいつから付き合ってるんだ?」
「えっ」
これから徐々に人が多くなりだすという時間帯に差し掛かった頃の【觜宿の杯】。
いつもと同じように持ち帰りのための料理が出来上がるのを待っていた黒耀がそんな風にして唐突に訊ねてきたので、夾はちょうど一口飲んだところだった茶に咽せそうになり、慌てて茶杯を唇から離した。
「な、なんですか、いきなり。そんな…誰が」
「え?誰って君達だよ、コウ君とセン」
「俺と璇さんが?まさかそんな」
声をひそめて否定する夾だが、しかし黒耀は飄々とした様子で「なんだ。まだ付き合ってるわけじゃなかったのか」と言いながら茶を一口飲み、裏の調理場へと続く方に一瞬だけ視線を向けてから「てっきりもう付き合っているんだと思ってた」と話す。
「ちょっと前から2人とも…っていうかコウ君がセンの事を気にしてるのは分かってたからな。夏になったぐらいから特に顕著になった気がしてたけど、いつ俺達に話してくれるんだろうって。そうこうしてるうちにもう秋になってるし」
「気にしてる?俺がそんな風に見えますか」
「あぁ。コウ君がアイツを見るときの目は明らかに他とは違うよ、見てれば分かるって」
「そんな…まさか」
「まぁ、こういうのって本人は自覚ないもんだろうからな。無意識なんじゃないか?」
否定しないってことはあいつのことが気になってるのは本当なんだな、と口の端に笑みを浮かべる黒耀。
夾はすでにバレてしまっているのなら今更否定するのもしらじらしいだろう とそれ以上は否定も肯定もしないことにしたが、その代わりに(悟られていたとは…)というバツの悪さから「黒耀さんがそう思っている、ということは琥珀さんにも…」と眉根を寄せた。すると黒耀は「あ~…いや、琥珀はどうだろうな」と苦笑する。
「アイツはあんな風に見えて実際はかなりそういうことに鈍いから結構気付いてないんじゃないかと思うけど。でもさすがに気付いてるかな、それぐらいあからさまだし」
「あからさまだなんて…そんなことないですよ。もし気付いていたとすればそれは琥珀さんが黒耀さんのように鋭いからでしょう」
「いやいや、琥珀ほど鈍いのはそうそういないよ。俺がどれだけ苦労してきたことか…まったく、アイツと付き合うのは簡単じゃなかったんだぞ。そもそも5つ年上だからっていうのもあってなにかと…あ、そういえばコウ君とセンもちょうど5歳違いだったよな?じゃあ俺達のところと一緒か。気を付けた方がいいぞ、年上ってのは大人なようで実際は子供なところがあったりするからこっちが気を揉むことが多いんだ」
よほどのことがあったのか黒耀ははぁ…と小さくため息をつく。
夾が「璇さんもそうでしょうか」と首をかしげると、黒耀は頷いて応えた。
「たしかに俺とセンは同い年だけど、やっぱり付き合うってなるとそういうのとは違う面が出てくるだろうからさ。そう考えると俺とコウ君は同じ立場なわけだ、『相手が年上同士』のな」
「い、いえ、ですから俺は付き合うとか、そういうことは…」
「どうして付き合ってないんだ?好きなんだろ?告白しないのか」
突っ込んで聞かれるあまりタジタジになってしまう夾を見て、黒耀は「そんなに脈ナシって感じなのか?」とさらに訊ねてくる。
そうした恋愛におけるあれこれがよく分からず 璇が自分のことをどう思っているのかについても知る術を持っていなかった夾は、ほとんど相談するような形でこれまで璇が自分に対してしてくれたことを黒耀に打ち明けた。
一緒に中央広場まで行ったことや特別に料理を作ってもらったこと。
そして甘いもの好き、菓子好きだと話したことを覚えているのか、いつからか手作りの焼き菓子を振る舞ってくれるようになったことなど。
それをじっと聞いていた黒耀は「…コウ君は今のままでいたいと思ってるのか?」と目を細めた。
「今みたいに自分だけが想ってればいいって?コウ君は本当にそれでいいのか?それこそあっちの方からの動きを待ってたら何にもならないぞ。好きな気持ちがあるならまず動かないと。見てるだけじゃなくて」
はっきりと言う黒耀につられてすっかり本心を語る心づもりになった夾は「それはそう、でしょうけど…」と口を開く。
「でも今更どう話を切り出したらいいのかも…よく分からなくて。璇さんは俺のことをベータだと思っているでしょうし、いきなり【香り】を放つわけにもいかないじゃないですか。黒耀さん達はすごく自然な流れで明かし合えたみたいですけど」
「あぁ、琥珀に聞いたのか」
「はい。黒耀さんからの【香り】につられて第2性別を明かしたと」
「え、俺から?」
「違うんですか?琥珀さんはそう言ってましたよ」
「琥珀がそう言ったって?いや、実際は…まぁいいよ、そういうことにしておこう」
なにやら言いたそうにした黒耀だったのだが、彼はすぐに諦めて言葉を飲み込んでしまった。
(もしかして先に【香り】を放ったのは琥珀だったのでは…?)と思う夾だが、黒耀は「とにかく」と仕切り直して夾に向き直る。
「たしかにただ好きだってことを告白するのとは色々と訳が違うけど。でも悩むにしたって想うにしたって、ずっとそうしてることで何かが変わるってものでもないだろ?自分の気持ちがはっきりしてるんならすぐにでも行動を起こさないと時間がもったいないぞ。毎日毎日 時間っていうのは一瞬だって止まることなく過ぎていくんだ。考えてもみろよ、早く両想いになれたらそれだけ相手と一緒にいられる時間も増えるんだぞ?もし手をこまねいていて後から『もっと早くこうしておけばこんな幸せな時間がもっとあったのに』って思っても、それじゃもう遅いんだ」
「たとえ上手くいかなかったとしても早ければ早いほどやり直す余地だって生まれるし、どうにでもやりようはある。でも後悔はどうにもならない。もしセンが他で相手を見つけたら?家族に言われて見合いをしたら?それから焦るよりも先手を打っておいた方がいいとは思わないのか?」
見合いだのなんだのという話を出されると妙に不安感がこみ上げてきて、夾は思わず「そ、そんな、それは…っ」と声を上げてしまう。
『ほらな』といわんばかりに揚々と茶を飲む黒耀に夾が言葉を探していると…目の前にある長机の向こうから「何の話をしてるんだ?」と璇が声をかけてきた。
噂をすれば影というやつだ。
いつの間にか裏の調理場から出てきていたらしい璇は焼き菓子が一切れ載った皿を夾の目の前に置き、黒耀を訝しげに見る。
「やけに楽しそうにして。何の話をしてたんだよ?」
探りを入れようとするかのようなその話し方になんと応えるべきかと困惑してしまう夾だが、黒耀は全く動じずに「いや?ただ話をしてただけだけど」と落ち着き払って答えた。
「俺は琥珀に比べたらここへ来ることは少ないかもしれないけど、でもコウ君と話してるのなんか別に珍しいことでもないだろ。何がそんなに気になるんだ?」
「いや、気になってるとかそういうんじゃ…」
「気になってただろ、どう考えても」
はっきりと指摘された璇は怯んでそれ以上話すことなく口を噤んでしまう。
黒耀の指摘はいつも物事の本質を鋭く突いてくるようなところがあるので璇は特に弱いらしい。
だがそんな璇を見てふははっと軽く笑った黒耀は「あぁ、そろそろ『秋の儀礼』の時期だなって話をしてたんだ」と夾に目配せをしてきた。
「一年ってのは本当に早いもんだよな、すぐこうやって秋の儀礼の時期になってさ、楽しいやら驚くやら…センは今年の儀礼の日はなんか予定でもあるのか?やっぱり仕事するのか」
ごく自然にそう話題を振られた璇は手持無沙汰なのを誤魔化しでもするかのように長机を布巾で拭いつつ「そうだよ。当日の忙しさは知ってるだろ」と苦々しく答える。
「俺達みたいに普段から料理をしてるところは総出で果実の調理をしないと皆に振舞う分の用意が間に合わないから。休みなんかないよ」
「大変だよな、朝からずっと仕事仕事で」
「俺達のところはひたすら果実の皮を剥いて切るだけだから 料理を大量に用意しないといけない中央広場寄りの食堂とかよりはそこまで大変じゃないよ。それに今に始まったことじゃないし、慣れてるからなんとも思ってない。まぁでもちょっとは…」
「コウ君は?コウ君も仕事なのか?」
「おい!今俺が話してただろ!?」
話を途中で遮られた璇が不満気に声を上げるも、黒耀はそれを軽くあしらってもう一度夾に秋の儀礼当日について訊ねてくる。
夾は黒耀と璇からの視線を受けながら「はい、俺も朝から仕事です」と頷いて応えた。
「当日は荷車で果実をあちこちに運ぶでしょう?だからどうしても故障した荷車が多くなってしまうんです。俺達修理職人は皆それぞれの持ち場について仕事することになってるんですけど 今年もすでに職人達がそれぞれ請け負う持ち場についての連絡が来ましたよ」
「たしかに毎年壊れた荷車をその場で修理してるところを中央広場とかで見かけるよな。コウ君もその一員だからそりゃそうか。大変だな」
「えぇまぁ大変は大変ですけど…でも他の工房の職人さん達とも沢山話せるので結構楽しかったりするんですよね。普段はなかなかそういう機会がないので」
昨年の忙しいながらも和気藹々と仕事をした時のことを思い浮かべて弾む表情を見せる夾に「コウ君は本当に仕事が好きなんだな」と柔らかな笑みを向ける黒耀。
彼はそれから茶杯を片手に持った茶杯を軽く回して混ぜ、ふぅっと息をつくようにして呟いた。
「…ってことは当日は2人とも仕事なのか……」
焼き菓子を切り分けようとしていた夾はハッとしてその手を止める。
璇は収穫祭当日は仕事で忙しいらしい。ということはつまり、誰かとどこかへ出かける可能性も低いということではないか。
少なくとも他のオメガとゆっくり出かけるということは…ないだろう。
ついさっき黒耀から聞いた話も相まってそうしたことを考えてしまっていた夾は黒耀から意味ありげな視線を向けられていることに気付くと、慌てて璇が持ってきた焼き菓子の端を小さく切り分けて口に運んだ。
頬張ったそのふわふわとした菓子は夾の好みど真ん中という味であり、思わず彼は黒耀からの視線を忘れて「…!美味しいです、このお菓子!」という素直な感想を璇に伝える。
璇が「それなら良かった。また持ち帰れるように何切れか包んでおくから…」と言ったのに対して礼を言った夾は、さらにその菓子をもう一切れ口に運んだのだった。
ーーーーー
秋の儀礼では朝から陸国中の人々が大通りや中央広場を行き交って一日中大変な賑やかさになる。
陸国を加護している神々への日々の感謝のために行なわれるこの秋の儀礼、つまり収穫祭ではそれぞれの地域を統括している領主が地域を象徴する舞具を使って舞を奉納する他、農業地域の中腹辺りにある大木に実った果実をすべて収穫して中央広場やその周辺に運搬し、果汁を絞ったり甘く煮たり、菓子にするなどして陸国に住む全員で分けて食べるのだ。
陸国中の人に行き渡るほどの果実の量である。
それらを運搬するのも並大抵ではない。
秋の儀礼当日、夾があらかじめ配置されていた中央広場寄りの待機所で親方や他の職人達と談笑をしていると次第に人や荷車の往来が激しくなっていき、そして一台、また一台と不具合を起こした荷車が運ばれてくるようになった。
ちょっとした不調や一部の部品を取り替えるだけで済めばいいのだが、中には車輪が割れてしまったり軸木にひずみが生じてしまったりしたものもあって、それらに対応し終える前にまた他の荷車が持ち込まれてきたりもするのであっという間に現場はおおわらわになる。
夾は部品の組み換えや調整だけではなく、足りなくなってしまった予備の部品の調達などのために奔走して昼食の時間すらほとんど休まずに働いた。
そうして過ごしているうちにあっという間に陽が傾き、空は茜色になり始める。
午前中からひっきりなしにやってきていた果実満載の荷車はいつしかその姿を消し、代わりに街灯が灯ってそこら中の石畳を夜の装いに変え、あちこちの食堂や臨時の調理場からは香辛料を使った料理の食欲をそそる香りが立ち込める。もちろん、甘く煮た果実が中に詰まった焼き菓子の芳醇な香りも。
誰もが手仕事をしていた騒々しい昼間とは少し異なる、どこかしっとりとしたような雰囲気に包まれていく陸国。
慌しさは消え、ただただ親戚近所、友人達との食事や語らいを楽しむ時間になりつつあるのだ。
どの大通りにも中央に長机や円卓、そして料理や酒などの飲み物が揃い、夕食を求める人々で通りが混み合い始めた頃になってようやく夾を含む職人達は臨時の整備場を仕切っていた職人頭から今日の仕事の終わりを告げられて解散となった。
工房の親方から「今日も大活躍だったな。お疲れ、コウ」と声をかけられた夾も「はい、親方も」と1日の別れを告げて鉱酪通りの方へと歩き出す。
秋の収穫祭ではほとんどの人が家族と共に夕食をとるのだが、夾はこのまま鉱酪通りに出ている長机の端っこで適当に食事を済ませてから自宅へと帰るつもりでいた。
彼は昼の間に会いに来た兄夫婦から『一緒に夕食を食べないか』と誘われてはいたのだが、兄夫婦は工芸地域で兄の妻(夾の義姉)の実家の面々と夕食をとることになっているので そこに混ざるのは気が引けたというのと、工芸地域まで行ってゆっくりしていては泊まるにしても帰途につくにしても気が休まらないというので断っていたのだ。
兄夫婦は残念がっていたが、また今度時間を合わせて会おうということにして今日のところは別れた。
見る度、会う度に大きくなっている姪っ子の可愛らしさを思い浮かべながら夾が見慣れた鉱酪通りの半ばまでやってくると「あっ!コウちゃん!」という声がかけられる。
声のした方を目で探ると、鉱酪通りの中央に並べられた長机のそばから琥珀と黒耀が人の波の合間を縫ってやってきた。
「お疲れ様!仕事終わり?」
明るい琥珀のその声に「はい、今さっき解散になったところなんです」と夾が頷いて応えると、琥珀はさらに人懐っこいような笑みを浮かべて言う。
「そうなんだね!僕達も1日中ずっとドタバタしててさ、やっと黒耀と2人でゆっくり歩いて回れるようになったところなんだ」
彼らの子供達2人は午前中を中央広場や酪農地域内で遊び倒して過ごした後、仲の良い従兄弟達とお泊り会をするというのですでに琥珀の実家へと行っているらしい。
これまでに聞いてきた話からも分かる通り黒耀と琥珀にとってこの秋の儀礼の日というのはとても思い入れ深い日であるわけだが、寄り添っている2人からはあからさまに甘い雰囲気が醸し出されていて、夾もなんだか微笑ましくなってしまう。
そうしてしばらく3人で立ち話をした後は解散するつもりでいた夾。
しかしその話の流れで夾がこの後1人で夕食をとるつもりだと知った琥珀と黒耀は それなら一緒に夕食を食べないかと誘いをかけてきた。
「僕達これから色々見て回りながらこの辺りでは配られてない料理をいくつかもらってくるつもりでいるんだ。少し多めにもらってくるからさ、一緒に食べようよコウちゃん!」
「え…でもお邪魔じゃないですか?せっかくの2人の時間なのに」
「ううん、これから黒耀とはこれからこうやって色々見物してくるから大丈夫だよ!それにどうせ今夜はもう…ね?散々引っ付くつもりでいるから!ご飯は皆で一緒に食べようよ、その方が賑やかでいいでしょ?」
琥珀の「そうしようよ!」という期待感を込めた眼差しと弾む声を断ることはできず、その上黒耀も頷いているので 夾はそれを了承した。
「よかった!それなら【觜宿の杯】で待ち合わせしよ!外で食べるのもいいけどちょっと賑やかすぎるからね」
「【觜宿の杯】で?開いてるんですか?」
「うん。実は璇も一緒に食べることになっててね、璇のお兄さんからも『食事したいなら【觜宿の杯】や【柳宿の器】を使っていいよ』って言ってもらってるんだ。だからお言葉に甘えて【觜宿の杯】を使わせてもらおう!料理を持ってくるから中で待っててね」
夾が(えっ)と思っているとちょうど近くを璇の兄が通りがかり、近くの食堂で焼き上がったばかりの焼き菓子を「君達も1個どう?」と勧めてくる。
上面に網目や木の葉の飾り模様が生地で描き出されているその焼き菓子は ほどよい焼き色も相まってとても美味しそうだ。
黒耀はその中の1つを受け取って言った。
「コウ君、この焼き菓子を裏の調理場にいるセンのところへ持って行って切り分けてもらっておいてくれ」
「え」
「今切り分けておいたほうが食事の後すぐに手が伸ばせていいからな」
ほら、と手渡される焼き立てほやほやの焼き菓子。
そして黒耀と琥珀は2人寄り添って賑わう鉱酪通りの中へと消えていったのだった。
夾は黒耀達に言われた通り、焼き菓子を持って【觜宿の杯】の裏にある調理場を目指す。
調理場へと続く勝手口の戸をそっと叩いてから開けてみると、中では璇がちょうど調理場の片付けをしているところだった。
「…璇さん、お仕事お疲れ様です」
「黒耀さん達がこの菓子を切り分けておくようにと言うので、持ってきたんですが」
夾が声を掛けると調理台を拭っていた璇は「あぁ、それならこっちに」と菓子を置くよう促す。
先ほどまで果実を沢山切り分けていたらしい調理場内は爽やかでありながらも芳醇な果実のいい香りでいっぱいになっていて、なんだか心地がいい。
早速焼き菓子を切り分けるための支度を始めた璇に、夾は「すみません、ちょうど片付けたところだったのに」と申し訳なさを滲ませて言った。
「調理台も綺麗になったばかりでしたよね」
「あぁ、別にこれくらいどうってことないから。…気にするなよ」
「ありがとうございます」
璇が慣れた様子で丸い形に焼き上げられている菓子を均等に切り分けると、中から甘く煮詰められた果実が艶やかに顔をのぞかせる。
少し透き通った黄金色の果肉は包み込んでいる生地と共になんともいい香りで調理場内を満たし、味を確かめるまでもなくその美味しさが分かるようだ。
夾はじっっっ…と焼き菓子を見つめてまさに釘付けになる。
「本当に甘いものが好きなんだな。俺が作る菓子も…いつも美味しいって言ってるし」
焼き菓子を6等分にし終えた璇が後片付けをしながら言うと、夾はようやく菓子から視線を璇に移して「璇さんが作るお菓子はいつも本当に美味しいですから」と大真面目に答えた。
「あまりにも美味しいのでいつももっと食べたくなってしまって抑えるのが大変なんですよ。サクサクしたのもふわふわしたのも…俺、璇さんが作るお菓子はどれも大好きなんです」
「そう…なのか」
「はい」
いつも【觜宿の杯】での食事が終わる頃になると「今日はこういう焼き菓子があるんだけど…」と璇が差し出してくるお手製の菓子。
これまでに振る舞われたそれらを一つずつ思い出しながら(あのお菓子が一番好きかも…いや、やっぱりこの間食べたやつが一番かも)などと考える夾に、洗い場で手を洗っていた璇は振り向いて言った。
「好き…なのは菓子だけなのか?」
思わぬ璇からの問いに「え?」と目を瞬かせる夾。
璇は濡れた手を拭うと、調理台の上にある焼き菓子に目を向けつつさらに「だから…」と言葉を続ける。
「…だから、菓子が好きってのは知ってるけど、それは俺が作ったやつだからとかそういうのは…ただ甘いものが好きだから美味いっていうだけじゃなくて 他にも何か理由、みたいなのは……」
「…いや、わるい、やっぱりなんでもない」
懸命に言葉を探していたらしい璇は結局しどろもどろになってしまっていることを気にしてかそれ以上言うのをやめてしまった。
《(ただ甘いものが好きだから美味いっていうだけじゃなくて他にも何か理由、みたいなのは……)》
璇の言わんとしていたことを理解するべく、夾は考える。
璇が作った菓子を美味しいと思うのは、ただ単に甘いものが好きだからというだけではない。
もちろん菓子ならば基本的にどんなものでも好きなのだが、しかし璇が作ったものを口にするときというのはもっと他の、味以外の部分で胸が満たされる気分になるので特に美味しいと思うのだ。
そしてその理由というのも…夾にはすでにはっきりとしている。
「…俺は璇さんが作ったものだから美味しいんだと、思っています」
「お菓子も料理も、たとえ他の人が同じものを作ったとしたって璇さんが作ったものの方が美味しいと思うはずです」
「それぐらい俺は好きです。璇さんが作るお菓子や…料理が」
本当はすぐにでも『好きな人が自分のために作ってくれたから美味しいと思うんだ』くらい直球で言いたいと思う夾だが、そんな風には言うことが出来ず、こうした妙に回りくどい言い回しをするので精一杯だ。
だが璇は「あ…そう、か」とどこか嬉しそうな声で答えた。
「それなら菓子でも料理でもまた作るよ、そんな大したことじゃないけどな。美味しいっていうならいくらでも…うん」
そう話す璇は夾の目にも明らかなほど照れた表情を浮かべている。
ふと、夾は思った。(自分のためにこうして色々としてくれるだなんて、璇さんは本当にどういうつもりなのだろうか)と。
【觜宿の杯】の主としてなのか、友人としてなのか。それとも…。
(もしかしたら璇さんもその種の好意をもってくれているのかも)という自分に都合のいい考えしか思い浮かばなくなってしまった夾は思い切って口を開く。
「…璇さんはどうしてこんなにも俺に良くしてくれるんですか?」
「お菓子のこともそうだし、特別に一皿作ってくれたりもして…手間のかかることばかり。俺が琥珀さん達と親しくしているからそういう風に接してくれているんですか?それとも何か他の理由があってのことなんですか」
夾はひそかに大きな覚悟をして訊ねていた。
『常連客だからだ』というような答えが返ってくることも有りうるが、そうなれば傷心は免れないからだ。しかしこれは今まで確かめることが出来ずにいた璇の本心を知るいい機会でもあると、彼は相当思い切って訊ねている。
外の鉱酪通りから聞こえてくる賑やかな人々の声すらも無いものとするかのように広がる静寂。
まるで時の流れが止まったか遅くなったかしたような感覚に陥りながら、夾は璇からの答えを待っていた。
長い時間が過ぎたのか、それとも意外にもごく数秒のことだったのか。
ようやく「そ、れは…」と声を出す璇。
「俺は…常連だからとかそういうことじゃ、なくて…その、俺は……だ、だから……」
璇のその反応は まだ肌寒かったあの春の日に酒棚のところでやり取りをした時とよく似ている。彼はこうして動揺した結果、踏み台から足を踏み外したのだ。
今の彼の動揺が意味するものは何なのかと夾はひたすら言葉は紡がれるのを待つ。
待って待って、待ち続けて。
ふいに璇の耳の縁が真っ赤に色づいていることに気付いた時…夾はまるで雷にでも打たれたかのような衝撃を受けた。
「っ!!」
充満していた甘い果実と菓子の香りを上書きするかのように。
たしかにはっきりと、針葉樹林の中にでもいるかのような爽やかさと深みのある香り…いや、【香り】がし始めている。
それはあの夜に香ったものよりもずっと素晴らしい芳香でたちまち夾の心臓を捉えてしまった。
その【香り】に辛味を感じるようなものは一切含まれておらず、どのような気分で放たれたものなのかについては確かめるまでも無い。
(あぁ…好きだ、本当に好きだ)
(俺はこの人のことが心底好きで堪らない)
胸の奥底深くから込み上げてくるその想いのまま立ち尽くしていると、璇もハッと何かに気づいたように顔を上げた。
もはやそこに菓子の香りは無く、針葉樹林のような【香り】と甘い花のような【香り】だけが2人を包み込んでいた。
「まさか…オメガなのか?」
驚きのあまり訊ねてくる璇に、夾はしっかりと頷いて応える。
そしてついに、【香り】がもたらすそれまでに感じたことのないような大きな多幸感に背を押された夾はずっと胸に抱き続けてきた想いを告白した。
「好きです、璇さん」
「俺…本当に好きなんです、あなたのことが」
実際に声に出したことでより一層深まるその想い。ついに告白してしまったという後戻りのできない事実に、彼の胸はかつてないほどにまで昂ぶっている。
「俺のことが好き…だって?」
「そんな…まさか、本当に?俺のことが好きだって言ったのか?」
信じられないというように何度もそう訊ねてくる璇をまっすぐに見つめ、混ざり合う【香り】に浸る夾。
「でも俺は印象が悪いはずだろ、初めて会った時もそうだし怪我も…それなのに、なんで……」
「そんなの俺はちっとも気にしてません。それよりも璇さんが俺にしてくれること全部が嬉しくて、いつの間にか俺は…本当にあなたのことを好きになっていたんです。璇さんがアルファで俺がオメガだからじゃありません。本当にただ…好きなんです」
「俺がアルファだって知ってたのか?いつから…」
「…初めからです、裏路地で壁際に追い詰められたときから。あの時俺は璇さんのことをすごく怒らせてしまっていたので…」
「う、嘘だろ!?」
璇は唖然とする。
当時はまだそういう感情を抱いていなかったとはいえ、好きな相手本人(それもオメガ)に対して怒りの感情から湧き上がる【香り】をぶつけたことがあるというのは、アルファにとってはありえない、信じられないことなのだ。
ただでさえ夾に対していくつかの罪悪感を抱えていた璇は、その上 過去の自分がしでかしていたことを知って身の置き場もなくなってよろめく。
夾はそんな璇に向かって手を差し伸べた。
「璇さんも俺のことを、その…良いと思っている、んですよね?」
「それならもうあの時のことは忘れて、今の俺だけを見てください。今こうして璇さんがこの手を取ってくれたらいいのにと思っている…俺のことを」
ゴクリと息を呑みながら『この手を握ってほしい』と願う夾。
すると彼の手に璇の手が重ねられた。
料理をする者としての、手入れが行き届いている手だ。
先ほど手を洗ったばかりの璇のその手は少しひんやりとしていたが、それもすぐに気にならなくなる。
触れ合った手の感触とさらにはっきりとしていく【香り】に夾がなんともいえない嬉しさでいっぱいになっていると、璇は「あの…さ」とおずおず自身の名前、本名を口にした。
「…これが俺の名前なんだ。酪農地域の言葉で『輝く璇(美しい玉)のような子』っていう意味を込めて俺の父さんがつけたらしい。これが俺の名前…なんだけど…」
「もしよかったらお前の本当の名前も、教えてくれないか?『夾』っていう呼び名じゃなくて、本当の…名前を」
陸国では本名を明かしあうことには大きな意味がある。
璇から先にそうして本名を明かされたことで関係が大きく変わるのだということを実感した夾は、頬が緩むままに自らも本名を明かした。
「俺の名前も酪農地域の言葉でつけられているんです。意味は『夾白のもとに生まれた 韶しい子』…。夾白というのは漁業地域でのとある星の呼び名なんだそうで…」
どちらの名前も酪農地域の言葉で付けられているのだが、普段話している酪農地域の言葉(方言)とは違う『名前を呼ぶときにだけ使われる少し特殊な発音』が織り成す2つの名前のその響きは何だかとても清らかで、よく調和が取れている。
2人はそれぞれの名前に『星を意味する語が入っていること』などの共通点を見つけるとさらに特別なつながりを感じ、気恥ずかしくもなってまた少し【香り】を放った。
「…でも、どうして呼び名が『夾』なんだ?その名前の響きだと『韶』を呼び名にしそうなのに」
呼び名について璇に言及された夾は苦笑して「あぁそれは…」と『夾』を呼び名にしたいきさつを話す。
呼び名というのはその語の意味合いや呼ぶときの発音、響きによって本名の中からどの辺りを抜き出すかがおおよそ決まっているのだが、それからすると夾の場合の呼び名は一般的には『韶』となるはずなのである。
しかし工芸地域で幼少期を過ごした彼の周りには同年代に『しょう』という名前の響きの子が多かったので、彼は意図的に『こう』を呼び名として名乗るようになったのだ。
今では実の兄や義姉がたまに呼ぶ以外には彼を『韶』と呼ぶ者はいない。
「家族以外では俺をそう呼ぶ人はいないんです。もうずっと『夾』と呼ばれてきましたからね」
「そうなのか」
「はい。なので璇さんも俺のことは…」
『夾と呼んでください』。
そう言いかけた瞬間、夾は璇から「韶」と呼びかけられ、ハッとして顔を上げた。
「じゃあ俺が呼ぶよ、韶」
「えっ……」
「韶。好きだ」
まさかそう呼ばれるなどとは思いもしていなかった夾は妙にくすぐったい気持ちになって「や、止めてください、『夾』でいいじゃないですか…」と手を離そうとする。
しかし璇は手を離すどころかむしろ引き寄せるようにして近づくと、もう一度はっきりとそう呼びかけたのだった。
他の人とは何もかもが違う。そんな特別感にどぎまぎしていたせいですっかり2人の距離はほとんど抱き合っているのと同じくらいになっていた。
璇の心臓が激しく鼓動しているのもありありと分かるくらいに。
夾が視線を璇の胸から首筋、そして瞳へと移していくと、あの青みがかった灰色の美しい瞳に自分が映っているのが見える。
ほんの少し夾よりも璇の方が背が高いが、目線ははっきりと交差していた。
「韶…」
囁きと共に夾の頬に触れる璇。
大切なものを愛でるように、慎重に。頬を撫でて、そして手のひらがそこを覆う。
「…いいか?」
視線が自らの唇へ向いているということを理解しながら、夾は確認を求めてくる璇に「どうすればいいのか…分からない、んですが……」と白状した。
あまりにも急な展開に彼はもうなにがどうなっているのか、どうしたらいいのかの判断が全くつかない。ただ一つ『この瞬間を逃したくない』という一念だけが彼の中にある。
「そ、の…こういうことは、初めて…で………」
「そのまま、じっとして…」
少しずつ、ゆっくりと迫ってくる璇。
夾はぎりぎりまで璇のその均整の取れた美しい唇を見つめていたが、鼻先が触れ合ったところで目を閉じ、唇から伝わってくる初めての感覚に全神経を集中させた。
重なる唇。正真正銘、それは彼にとっての初めての口づけだった。
唇というのはこんなにも感覚が鋭敏だったのか、そして柔らかいのかということに対する驚きもさることながら、間近から香ってくる【香り】に心を溶かされる夾。
しばらくしてから唇は離れたが、それでもまだそばから離れがたく、2人は腕を回して抱きしめ合う。その抱擁すらも初めての夾にとっては堪らない。
「あぁ なんだよ…本当にいい【香り】だな……」
うなじから香る夾の【香り】に感嘆のため息を漏らす璇。
「璇さんのも…本当に素敵ですよ」と璇が笑みを浮かべながら返すと、それからまた2人は混ざり合う互いの【香り】に包まれながら触れるだけの軽い口づけを交わした。
ーーーーー
【觜宿の杯】の中のいつもの席。
夾は璇と2人きりで琥珀や黒耀が料理を持ってやってくるのを待っている。
想いが通じ合っているのだと思うと…この2人きりという状況が気恥ずかしいような嬉しいような、しかしやはり気恥ずかしい感じがしてそわそわとしてしまう夾。
だがそれは璇も同じようだ。
璇は夾が普段酒を飲まない男であるということは知っているものの「なにか飲むものを…用意しようか」と酒類の提供もできることを指して言った。
今日は秋の儀礼という祭りの日だが、夾にとっては想いが成就した特別な一日だ。
さらにその特別感を強めたいという思いが湧き上がっていた夾は璇に勧められるまま『今日ぐらいは』と飲みやすいものを出してもらうことにした。
そうして璇が夾のために用意したのは白の葡萄酒を使った1杯である。
甘みがあって飲みやすいその1杯は一口味わっただけで夾のお気に入りとなり、璇をも喜ばせた。
「美味しいか?それなら良かった、実はその1杯に使った白の葡萄酒ってのは……」
璇がそう言いかけたところで【觜宿の杯】の扉が開き、沢山の料理をかごに詰めた琥珀と黒耀が「お待たせ!」と元気よく入ってくる。
2人きりの時間が終わり、それまでとは打って変わった賑やかさでいっぱいになる【觜宿の杯】。
琥珀は外の様子を実に楽しそうに語りながら持ってきた料理を円卓の上へと並べていったのだが、そうしているうちに璇と夾の間に流れる妙な雰囲気に気付き、パァッと目を輝かせて「え~っ!えっお祝いしよう!?」とそれまで以上にはしゃいだ。
「うわぁ~っ良いじゃん2人とも!すごく素敵だね!僕達が外を歩いてる間にそんなことになってたなんて!」
まるで自分のことのように嬉しがる琥珀の傍らで、黒耀も静かに祝福をしてくれている。
美味しい料理に菓子に酒、そして笑顔と笑い声。
彼らの秋の儀礼の夜はそんな風に満ち足りたもので過ぎていったのだった。
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オメガバースで独自の設定があるかもです
27歳×16歳のカップルです
この小説の世界では法律上大丈夫です オメガバの世界だからね
それでもよければ読んでくださるとうれしいです
オメガ大学生、溺愛アルファ社長に囲い込まれました
こたま
BL
あっ!脇道から出てきたハイヤーが僕の自転車の前輪にぶつかり、転倒してしまった。ハイヤーの後部座席に乗っていたのは若いアルファの社長である東条秀之だった。大学生の木村千尋は病院の特別室に入院し怪我の治療を受けた。退院の時期になったらなぜか自宅ではなく社長宅でお世話になることに。溺愛アルファ×可愛いオメガのハッピーエンドBLです。読んで頂きありがとうございます。今後随時追加更新するかもしれません。
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
流れる星、どうかお願い
ハル
BL
羽水 結弦(うすい ゆずる)
オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年
高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼
そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ
”要が幸せになりますように”
オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ
王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに!
一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので
ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが
お付き合いください!
Ωの不幸は蜜の味
grotta
BL
俺はΩだけどαとつがいになることが出来ない。うなじに火傷を負ってフェロモン受容機能が損なわれたから噛まれてもつがいになれないのだ――。
Ωの川西望はこれまで不幸な恋ばかりしてきた。
そんな自分でも良いと言ってくれた相手と結婚することになるも、直前で婚約は破棄される。
何もかも諦めかけた時、望に同居を持ちかけてきたのはマンションのオーナーである北条雪哉だった。
6千文字程度のショートショート。
思いついてダダっと書いたので設定ゆるいです。
隣の番は、俺だけを見ている
雪兎
BL
Ωである高校生の湊(みなと)は、幼いころから体が弱く、友人も少ない。そんな湊の隣に住んでいるのは、幼馴染で幼少期から湊に執着してきたαの律(りつ)。律は湊の護衛のように常にそばにいて、彼に近づく人間を片っ端から遠ざけてしまう。
ある日、湊は学校で軽い発情期の前触れに襲われ、助けてくれたのもやはり律だった。逃れられない幼馴染との関係に戸惑う湊だが、律は静かに囁く。「もう、俺からは逃げられない」――。
執着愛が静かに絡みつく、オメガバース・あまあま系BL。
【キャラクター設定】
■主人公(受け)
名前:湊(みなと)
属性:Ω(オメガ)
年齢:17歳
性格:引っ込み思案でおとなしいが、内面は芯が強い。幼少期から体が弱く、他人に頼ることが多かったため、律に守られるのが当たり前になっている。
特徴:小柄で華奢。淡い茶髪で色白。表情はおだやかだが、感情が表に出やすい。
■相手(攻め)
名前:律(りつ)
属性:α(アルファ)
年齢:18歳
性格:独占欲が非常に強く、湊に対してのみ甘く、他人には冷たい。基本的に無表情だが、湊のこととなると感情的になる。
特徴:長身で整った顔立ち。黒髪でクールな雰囲気。幼少期に湊を助けたことをきっかけに執着心が芽生え、彼を「俺の番」と心に決めている。
ちゃんちゃら
三旨加泉
BL
軽い気持ちで普段仲の良い大地と関係を持ってしまった海斗。自分はβだと思っていたが、Ωだと発覚して…?
夫夫としてはゼロからのスタートとなった二人。すれ違いまくる中、二人が出した決断はー。
ビター色の強いオメガバースラブロマンス。
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