牧草地の白馬

蓬屋 月餅

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8「地界へ」

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 この時をどれだけ待ったことだろうか。
 白馬に、自らの愛おしい存在に会いに行きたいという一念で『器』を創り始めてから、8年もの月日が経ってしまった。
 【天界】では夜が丸1日分長く続いているということを考慮すると、牧草地の神は事実16年もの間にわたって 白馬に会いに行けるようになる日を待ちわび続けてきたことになる。

 【地界】での真夜中。ある時刻に時が止まり、【天界】でのもう1つの1日が始まる。
 人間のように眠ることのない神はその1日を瞑想したり、散策したり、側仕えや他の神と共に語らうなどして過ごすのだが、牧草地の神は屋敷を離れる気にもならず、ただひたすらに白馬を想いながら瞑想をして胸に抱いた仔犬へと神力を分け与えながら過ごしていた。
 きっと日々の務めがなければ
 泉で身を清める必要がなければ
 瞑想をして神力を身に巡らせる必要がなければ…
 きっとそうでなければ牧草地の神は仔犬を片時も離さず、じっと眠ったままのようなその姿を眺め続けていたに違いない。
 務めを堅実にはたしつつ、屋敷に戻ってからは物言わぬ仔犬と共に過ごした長い夜。
 いつの間にか仔犬は簡単には抱えられないほど大きくなり、いよいよ【地界】に転生している白馬の元へ向かえるくらいになっていた。

ーーーーーーーーー

「では…ちょっと行ってきてみるよ」

 牧草地の神が白馬の代わりに務めの補佐をしてくれている蝶に向けて言うと、蝶は《はい、どうかお気をつけて》とひらひら舞いながら応える。

《お屋敷も、この地も、私がきちんと見ています。なにか異変があればすぐにお報せしますから》
「うん、ありがとう。ほんの少しだけ…陽が沈む前には戻ってくるから」

 ある日、いつもの見回りを終えた牧草地の神は すっかり大きくなった『器』の犬を抱いて人々の住まう区域の近くにある森へと向かった。
 神体への影響を最小限に留めるため、【地界】におりるのは『器』に魄を移す直前にすることにしている。
 森の端に着いたらそこで【地界】に降り、魄を犬へと移す。
 そしてその後は転生した白馬を見つけるためにあちこちを走り回るだけだ。

(大丈夫…きっとうまくいく。きっと大丈夫だ)

 実のところ、牧草地の神は『魄をなにかに移す』という いまだかつて試みた ためしのないことに対しての不安がまったくないという訳ではない。
 全知ともいえる森の神への信頼が(うまくいくに違いない)という安心感を抱かせているが、それでも魄を移した後の自身の感覚がどういったものなのかについてはまったく予見のしようがないものだ。
 森の中の苔むしたいい場所を見つけた牧草地の神はそこへ犬を下ろし、その頭を一撫でする。

(よし……これであとはこの子へ意識を集中させればいい。大丈夫、落ち着いて、ただ集中すればいいんだ……)

 心を落ち着かせるように大きく深呼吸をした牧草地の神は、犬の頭に手を乗せ、瞑想をするときのようにすっと目を閉じた。
 座っている自らの身体が手を伝い、目の前に横たわっている犬へ移っていくのを思い描きながら集中する牧草地の神。
 すると、そう時間が経たないうちに手のひらの感覚が薄らぎはじめた。
 魄がいつ、どのようにして移るのかも知らない牧草地の神はその感覚に(もう目を開けてもいいということだろうか)と躊躇っていたが、不意に自らの体の感覚が変わったことに気づく。
 先ほどまで座っていたはずなのに、今はまるで横たわっているような気がするのだ。
 まさかと思いながら目を開けると、やはり体で感じた感覚の通り、視界にはまっすぐに生えているはずの木が斜めになった光景が飛び込んできた。

(うわ…こ、これって…!!)

 ぱっと起き上がった牧草地の神。
 地面についたはずの手からは感じたことのない妙な感覚が伝わってきた。
 手を見てみるとそこには明るい茶色をした前脚があって、それが自らの身体から伸びているのが分かる。
 さらに足がある方を見てみると、やはり見慣れた毛色と毛並みをした後ろ脚があった。

(はぁっ…!!やった、うまくいったんだ!これはあの犬の体だ!)

 嬉しさと安堵で胸がいっぱいになる牧草地の神の視界に何かしきりに動くものが飛び込んでくる。
 それは犬の尾だった。
 牧草地の神の魄が移されたことで『命』を得た『器』の犬は牧草地の神そのものであり、感情などもそのまま表現してしまうらしい。
 牧草地の神は立ち上がってその場をぐるぐる歩いてみたり、軽く体を振ったり、伸びをしたりして犬としての感覚をたしかめてみた。
 特別に『犬だからこうだ』などと考えなくてもこの体はきちんと歩き、ぶるぶると全身を震わせ、前脚を前へと投げ出しながら体全体を伸ばす。
 犬として動くのは初めてだというのに、不思議なことに体はすべてを知っているかのようだ。

 辺りを見渡してみるも、そこには牧草地の神の元の姿である人型は見当たらない。
 それもそのはずだ。
 神の姿は魄が常に創り出している『器』といえるようなものであり、魄が犬に移っている今は元の姿は消え失せているのだ。
 衣も同様に魄が創り出しているものであるため、残っていない。
 だが、白馬から渡されたあの腕輪は…?

(あれ…あるとすればこの辺なのに……うーん、無いな?あれはハクの神力が宿っているものだからここに残ってるはずだと思うんだけど…)

 犬らしく辺りの匂いを嗅いでみるも、一向にそれらしきものは見つけられない。
 【天界】に戻りさえすれば腕輪に宿る白馬の神力を辿って容易く見つけることはできるのだが、牧草地の神は(こんなことなら外して置けば良かったかな…)と後悔して尾を下げる。
 どんな時も外さずに身につけていたため、外して屋敷に置いておこうというそもそもの考えがなかったのだ。
 すっかりしょげてしまった牧草地の神だったが、突然 酪農地域の放牧場がある方向から今までに感じたことのないほどの強さの白馬の気配を感じ取り、その方へとすべての注意を向ける。
 はっきりとした、確実なその気配。
 この気配を辿っていけば必ず白馬に会えるという、たしかな、強い予感がする。

(ハク!!)

 牧草地の神は途端に他のことを考えられなくなり、すぐさまその気配のする方へと全力で駆け出した。

ーーーーーーーー

 犬の姿で走るのも もちろん初めてのことだが、それでも思うままに四肢を動かして草地の上を駆け抜けることができる。

 毛並みが撫でつけられる感覚
 脚の裏が土と草とを蹴る感覚
 思いきり体を伸び縮みさせて風を切る感覚

 どれも真新しく素晴らしい感覚だが、牧草地の神にはそれらを楽しんでいる暇などない。
 脇目も振らず、ただ1つの気配を辿って森を抜け、広く続く草原を走り、柵を飛び越えて1つ目の放牧場の中を突っ切っていく。
 次第に近付く気配に胸を躍らせると同時に若干の緊張がはしる中、前方に2つ目の放牧場との境となる広い道が見えてきた。
 そこに小さくある人影。
 それはまさしく…

(ハク!!!)

 勢いよく柵を飛び越えた牧草地の神はその勢いのままに小さな人影へと走り寄った。

「わっ、な、なに!?」

 突然全速力で走り寄ってきた犬に驚き、仰け反って避けようとした少年。
 牧草地の神はその少年の顔を見つめながら喜びの感情を爆発させた。

(ハク!会えたね、ハク!会いに来たんだよ、ハク!)

 牧草地の神の尾は千切れんばかりに左右へ激しく揺れ動いている。
 ついに会えた。
 少年は【天界】で共に過ごしていた白馬の、人の姿をしていたときの面影をそっくりそのまま残していた。
 8歳くらいの幼い姿ではあるものの、この少年は間違いなく転生した白馬だ。

(やっと、やっと会えた!あぁっ、ハク!)

「ど、どうしたんだろう、このわんちゃん…僕のことを捜してたみたいだね?」

 少年姿の白馬は足元で飛びかかるのを必死に抑えようとしながら尾を振っている犬を撫でる。
 どうやら白馬は転生の泉に入った際に【天界】での記憶と共に神力まで封印されてしまったらしく、撫でている手のひらからは白馬の神力はまったく感じられない。
 しかし、それでもこうして撫でられていると非常に満たされた気分になる。
 まったく不思議なことだが、牧草地の神にはそれだけで充分満足だった。

「君、どこの子なの?初めて会った気がしないね、僕にこんなに懐いてくれてるなんて。何かいい匂いでもする?」

(ハク!君に会えたから嬉しいんだよ!)

「うーん…なんだろう、どうしてこんなに嬉しそうなのかな?あははっ、可愛いね!人懐っこいなぁ、本当に今初めて会った子なのに。こんなに変わった模様なんだもん、前に会ったことがあればちゃんと覚えてるはずだよね」
 
 白馬の言葉を聞いて牧草地の神は(変わった模様…?)と首を傾げる。
 牧草地の神が創った『器』は全身自らの髪色と同じ茶の1色で、特に模様などはつけなかったはずなのに。
 不思議に思った牧草地の神が前脚や後ろ脚、尾や腹を見てみるも、やはり模様などは見当たらない。

(私はこの犬のことを知り尽くしている、それこそ数え切れないほどの時間を眺めて過ごしてきたんだからね。だけどハクが言うんだから何かしら模様があるのかもしれない…だとしたら顔周りかな?あとで屋敷に戻ったら見てみないと)

 そう考えながら撫でられていると、白馬は「もう帰らなきゃいけないんだよ、僕」と残念そうに言った。

「ずっとこうしてたいけど…君もお家に帰らなきゃね。こんなにいい子なんだし、君は野良じゃないでしょ?…そうだ、おじさんに聞けばどこの犬舎の子か分かるかな?」

 白馬は立ち上がると、「おいで」と声をかけて後をついてくるように促す。
 【天界】にいた頃とは立場が真逆になっているが、それでも2人で隣り合って歩けるということに変わりはない。
 牧草地の神は喜んで白馬に従う。

「わぁ、本当にお利口さんだね?僕の言葉が分かってるみたい」

(うん、ちゃんと分かってるんだよ)

「僕のお家はこの道をまっすぐ行ったところなんだ。おじさんはよく犬舎の方に行ったりしてるから、きっと君のことも知ってるはずだよ。そしたらお家に帰れるよね」

(ハク…それより、君はいつもこうして1人でこんな所を歩いてるの?だめだよ、なにかあったらどうするの。神力もないのに…困ったことがあったら助けを呼べないでしょ?そもそも何をしてたの、これはなに?)

 牧草地の神が白馬の持つかごに鼻面を突っ込むと、白馬は「なに?これが気になるの?」とそれを傾けて見せる。

「もう空っぽだけどね、お馬さん達にあげるお野菜とかが入ってたんだ。さっきまでお世話係の人達のお手伝いをしてて、それが終わったから帰るところだったんだよ」

(1人で帰るの?他の人は?)

「あっ、見て!ここのお花は昨日まで咲いてなかったのに!朝咲いたのかな?へへ…僕ね、この道をこうして1人で歩くのが好きなんだ。1人だとこういう小さいところもじっくりと見ることができるんだよ、誰かと一緒だとお話に夢中になっちゃうから、お花とかをつい見逃しちゃうの」

 牧草地の神の言葉は白馬には届いておらず、問いかけたいことに対しての完全な答えが返ってくるとは限らないのだが、それでも白馬はまるで親しい友人と会話をするかのように話し続けた。

 白馬の懐かしささえ感じる声を聞いているだけで牧草地の神の胸は安らぎ、ずっとこうしてそばにいたいという思いを湧き上がらせる。
 しかしその思いは山々でも、神としての務めがある以上いつまでもこうしてはいられない。
 陽が沈む前には屋敷に戻らなければならないため、自由に【地界】を歩き回って過ごすのには限界があるのだ。
 まっすぐの道を2人で歩いていると時が経つのはあっという間で、移動の時間も考えるとそろそろ牧草地の神は犬へと魄を移したあの森へ帰らなければならなくなってしまう。
 (このままハクを1人にはしておきたくないのに…)と悩んでいると、ちょうど前方に人影が見えてきて、白馬は「あっ、おじさん!」と手を振った。
 白馬が知り合いに会えたらしいと胸を撫で下ろした牧草地の神は、別れを告げるように白馬の手へ鼻を軽くくっつけると、そのまま森の方角へと走り出した。

「あっ、待って!どこに行くの?」

 再び白馬と会うためには、もう何年も待つ必要はないだろう。

(大丈夫、また会いに来るよ!)

 牧草地の神は満ち足りた気分でその場をあとにした。
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