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第二章
6「見舞い」
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目の前で突然予想だにしないことが起こると、多くの場合、人は『一体どうしたらいいのか』と呆然としてしまうものだ。
酒場の中に硝子の割れる音が轟いたその瞬間の璇がそうだった。
ついさっきまで会話していた相手が、なんと今は額から血を滴らせて立ち尽くしている。
滴るほどの流血をしている人間の姿を目の当たりにするのが初めてだった璇は、そのあまりにも衝撃的な光景に身じろぎ一つできず、目を丸くしていた。
「お前…それ…」
床に散らばっている硝子の破片にも構わず、璇はただただ額に手を当てている夾と、彼のじわりと赤に染まっていく袖を見つめる。
(俺を突き飛ばして、それで怪我したっていうのか…?俺を庇おうとして?まさか、そんな…)
(あ、あんなに血が出て、大丈夫なのか?目の辺りなんじゃないのか、あれは。だとしたら…だとしたら、どうしたらいいんだ?)
シン…とした静けさが耳に痛いほどに黙りこくってしまう2人。
するとそこに「璇?大丈夫か?」という心配そうに尋ねる声が裏手の方から聞こえてきた。
声の主が【柳宿の器】の主、つまり璇の兄である男だということは確かめるまでもない。
「外にまですごい音が聞こえてきたぞ、なんかあったのか?硝子が割れたような音が…っておい!なんだそれ、どうしたんだ!?」
裏口から入ってきた璇の兄は【觜宿の杯】の中の惨状を見るなり、慌てた様子で駆け寄ってきて夾の様子を窺う。
壊れた棚の木材や床に散乱した硝子片などから察したらしい璇の兄が「えっ、硝子で怪我したんですか?目の辺りですか?」と訊ねると、夾は「多分…眉の辺りだと思います」と答えた。
「そんなに深くは切っていないと思うんですが…すみません、少し床を汚してしまって。弁償を…」
「い、いやいや!そんなことはいいですから!とりあえずこの…この手巾を傷口に当ててください、清潔な手巾です。今すぐに外で医者を呼んできますから、そうしたら……璇!お前、何 突っ立ってるんだ!」
璇の兄に渡された手巾を傷口に当てるために一瞬だけ額に当てていた手を除けた夾。
たしかに傷口は眉のわずかに上辺りのようだったが、圧迫していた手が離れたことで溢れだす血の量は瞬間的に多くなり、さらに頬などを伝って床へと滴っていく。
それを見た璇の兄は勢いよく戸を開けて表の通りまで飛び出していき、回診からの帰途についていたらしい近所の若い医師を捕まえて戻ってくると、すぐに夾の怪我の具合を診させた。
偶然にも璇の兄が捕まえてきたその医師はこの辺りでも外傷の手当ての腕に評判があるという男だった。
若い医師はすぐさま夾の傷口の様子を診ると「…うん、スパッと切れてますね」と冷静に所見を伝える。
「幸い目には影響はないと思います、今も視力には問題ありませんよね?見え方がおかしいとかはありますか?」
「いえ、大丈夫そうです」
「それならよかった。その手巾をなるべくしっかりと傷口に押し当てて止血してください。きちんとした手当はここからすぐのところにある私の診療小屋に行ってしましょう、そこの裏口から行かせてもらえれば本当にすぐですから」
医師の指示を受けて裏口へと向かう夾。
付き添いとして一緒に診療小屋へ向かうらしい璇の兄は「璇、その硝子と床を片付けるんだ。怪我をしないように気をつけて」と声をかけて同じく裏口から出ていったのだった。
1人その場に残された璇は散らばった硝子片を集めて片付けだしたが、しかし床に付いた数滴の血の跡が嫌が応にも鮮明に先ほどまでの光景を思い出させ、何度も片付けの手を止めてしまう。
床板についていた鮮明な赤色の跡は染みにもならず すっかり綺麗元通りになった。
しかし、それでも璇の心が晴れることはなかった。
しばらくして戻ってきた璇の兄が工芸地域の職人を至急呼び寄せたところ、数日以内には補修をする予定にはなっていたとはいえ、それが間に合わずこんな事態になってしまったということに対する詫びがされる。
職人は壊れた棚の飾り扉や破損した硝子の破片、木材といった残骸を回収し、さらに他の棚の飾り扉などに問題がないかをよくよく確認してから早急に復旧することを約束して帰っていった。
「彼、何針か縫うことになったみたいだよ。しばらくは仕事を休んで静養するようにとも言われていた。兄さんはこれから夕食を届けがてら家に帰る彼に付き添ってくるから、少しの間ここを頼む」
「…うん」
「すぐに手伝いの子達も来るだろうから、それまでしっかりな」
………
その後、どうやってその日の仕事をこなしたのかについては璇自身にもよく分からなかった。
夕食を食べに来た琥珀と黒耀が「あれ、今日はまだコウ君が来てないんだね」「仕事が長引いてるんじゃないか?」と心配そうに言ったのにも、璇は夾がしばらくはここに来ることができないだろうということをしどろもどろに答えただけだった。
ーーーーーーーー
翌日もどこか気もそぞろになったまま、いつものように酒場と食堂で提供する料理の調理をしていた璇。
その手元にこそ狂いはないが…一緒に調理をしている兄からの問いかけに対する返事などの声に覇気がないのは明らかであり、重苦しい雰囲気が辺りに漂っている。
璇の兄はそんな璇を見守っていたが、やがて調理場全体が良い香りに包まれ始めたところで「璇、これをあの彼…夾君のところへ持っていって。お見舞いにね」と一食分の食事を納めたかごを差し出したのだった。
「彼の家はここから少し距離があるから、安静にするようにと言われている間はここの料理を届けてあげることにしたんだ。自分で何とかすると言っていたけど…でも3食作るためにずっと調理場に立ってたんじゃ体を休められないし、どうしても栄養が偏ってきちゃうだろうからね。ほら、これを持って璇もお見舞いに行っておいで」
兄に差し出されたかごの中には出来上がったばかりの料理がきっちりと詰め込まれている。
だが璇は兄の『お見舞いに行っておいで』という言葉に対してどこか後ろめたいような思いがあり、素直に応じようという気にはなれなかった。
見舞いに行くべきだとは分かっているものの、どうにも夾とは顔を合わせづらい。
自分のせいで硝子板が落下するという危険な状況が起こったのにもかかわらず、夾はそんな自分を庇ったことで額に数針縫うような怪我を負ったのだ。
…一体どんな顔をして見舞いに行けばいいというのだろうか。
(あんな怪我をするなんて…俺のことなんか放っておけばよかったのに)
気がつくと、璇は「…兄さんが行ったらいいんじゃない?」とぶっきらぼうに口を開いていた。
「俺が行ったって、別に話すことなんかないし。そもそもなんで俺が行かなきゃいけないんだよ、別に兄さんでいいだろ」
「璇、でも彼は…」
「あいつは勝手に降ってくる硝子板の下に出て行ったんだ、そのまま動かずにいればあんなことにはならなかったのにさ。俺は別に突き飛ばされなくったって、庇われなくったって大丈夫だったし。たしかに棚を壊したのは俺だけど、でもあいつが怪我したのは俺のせいじゃない。勝手に怪我したんだ。だから別に俺が見舞いになんて行かなくても…」
璇が言いかけたその瞬間「璇!」という鋭い声が飛んできて、彼の言葉を強引に断ち切る。
普段温厚な兄のたしなめる一言はまるで心臓を貫くようで、璇は途端に呼吸が乱れるほど苦しくなった。
「璇。そんなこと、言うもんじゃないだろ」
「…」
しばしの静寂の後、璇の兄は静かに「いいかい、璇」と話し始める。
「彼はしばらくは安静にしなくてはいけないからって、仕事を休まないといけなくなった。噂には聞いていたけど、彼は腕利きの荷車整備工なんだってね。いつも鉱酪通りの向かい側にある工房で親方と2人で作業しているみたいだけど、彼が休むことになったから、しばらくは親方1人で仕事しなくちゃいけなくなったんだ。彼やその周りの人達の日常が昨日の1件で大きく乱れることになったんだよ、分かるよね」
「璇の言う通り、もしかしたら彼が庇わなくても璇は怪我をしなかったかもしれない。でも、実際どうだったかは分からない。ただ一つの事実としてあるのは『彼が璇を庇って怪我をして、璇は無事だった』ということだよ。何か咄嗟のことが起きたときに自分の身を投げ出して誰かを庇うというのは、簡単にできることじゃない。勇気と思いやりの気持ちを持った強い人だけだ。そんな人に対して今みたいなことを言うのは違うだろう?璇」
「…彼と顔を合わせづらい、気まずいという気持ちもあるんだろうけど、それでもきちんとお見舞いに行って様子を直接見てきなさい。今日だけでも構わない、一回だけでもいいから。ほら、料理が冷めてしまう前にね」
璇の意固地になっている胸のうちをほぐすように諭した璇の兄。
自分のせいで夾が怪我をしたという事実から目を逸らしたがっていた璇だったが、兄の言葉によって改めてその事実と向き合うことを決め、すごすごと かごを手に見舞いへと向かったのだった。
兄から渡された地図通りに夾の家を目指して歩いていると、璇はその道のりに驚いてしまう。
いや、距離自体は料理の入った重めのかごを提げながら歩いていても疲れはしない程度なのだが、なにしろ周りに民家が少ないところなのだ。
鉱酪通りから地図に従って横道に沿っていくと、その先にはちょっとした川と橋があって、その辺りからさらに人通りはぐっと少なくなる。
やがて家畜のための放牧場のほかには遠くまで草原が広がるばかりというようなのどかな風景となったところで、その家は姿を現した。
立派な佇まいで、とても1人暮らしのものとは思えないその家。
本当にここなのだろうか、と思いながら戸を軽く叩くと、中から聞き覚えのある「はい」という声が聞こえてくる。
「開いてますから、どうぞ」
璇は思わず(開いてるって…鍵もかけてないのか?)などと思いながら眉をひそめたが、慎重に取っ手を握りしめて力を込めると、たしかにその戸はいとも簡単に開いた。
「はい…あっ、璇さんでしたか」
「…」
調理場らしいところから出てきた夾は璇の姿をみとめて小さく頭を下げる。
「あの…そのかご、料理ですよね?すみませんわざわざお届けいただいて。中へどうぞ、上がってください」
招かれるまま家へと上がる璇。
酒場から持ってきた夕食入りのかごを手渡すと、夾は「ありがとうございます、いただきます」と受け取って食卓の上にかごの中の料理を1品ずつ取り出していった。
その様子は至って普通で、具合が悪そうには見えない。
だが、やはりその額には手当のための綿布が貼られていて、痛々しい。
なんと声をかければ良いのかも分からず黙りこくってしまっていた璇だったが、そんな彼に気付いた夾は「ここにどうぞ、座ってください」と椅子を勧めた。
「ここまで長く歩いたでしょう。お茶を淹れますから、一服していってください」
「いや、俺はそんな…それにあんたは安静にしてないといけないって…」
「これくらいは大丈夫ですよ。ちょうど湯も沸かしたところだったんです」
夾はハキハキと動き、調理場の方へ姿を消したかと思えば茶を注いだ客用の茶杯を持ってきて璇に差し出す。
その後もまた調理場の方から綺麗に洗われた食器(璇の兄が昨日持って行った夕食の分のもの)を持ってきてはかごの中へと詰め直して「これ、お返ししますね」と返却の準備まで済ませてしまった。
「お兄さんにもよろしくお伝え下さい。昨日は本当にお世話になったんです、ここまで送ってくださいましたし…また改めて後日お礼の方をさせていただきます」
「あ、あぁ……」
「「………」」
静まり返る家の中、璇は自身の真向かいに座った夾の方を見ることができず、手元で湯気を揺蕩わせている茶杯にばかり視線を落としていた。
ここまで来たのだ、何も言わずにいるわけにはいかない。
いくら言葉にしづらくとも、言わなくては。
唇を噛み締めながら何度もそう自分に言い聞かせた後、彼はようやく絞り出すようにして「…悪かったな」と口を開いた。
「昨日は俺のせいで、そんな大怪我を…本当に…悪かったな…」
「いえ、璇さんのせいではないでしょう?元はといえば俺があんな風に無神経なことを言ったのが悪かったんです、璇さんのせいではありませんよ」
「でも…俺のことを庇ってそんな怪我をしたんじゃないか…」
すると夾は「だからって、璇さんのせいだというわけではないでしょう?」と穏やかに言う。
「俺は自分から硝子の下に踏み出したんです。冷静に考えればもっといい方法があったと思うんですが、あの時は何故かああしてしまっていて…その結果、皆さんにご心配をおかけしてしまいました。これは私が自分で招いたことなんですから、璇さんは気になさらなくていいんですよ。俺が自分で勝手に怪我をして、余計な心配を増やしてしまったというだけのことです。その上床も汚して…あっ、そういえば肩は大丈夫ですか?いくらか強く突き飛ばしてしまいましたよね、痛めていないと良いのですが…」
夾が話すのを聞いて、璇はハッとした。
『俺が自分で勝手に怪我をして、余計な心配を増やしてしまったというだけのことです』
それはつい先程、自らが兄に向かって言ったのとほとんど同じことだったのだ。
璇があのように言ったのは『夾が怪我をしたのは自分のせいではない』と自分に言い聞かせるためのものだったが、それを本人の口から聞くとなんとも言えない感情が込み上げてきて、胸が締め付けられる。
それはそこはかとなく感じていた璇の、夾に対する『罪悪感』というものだろう。
「そんなこと、言うなよ…」
息苦しささえ感じながら呟くも、夾は「でも、実際そうですから」と全く気にしていない様子で、璇はより一層沈んだ表情になってしまったのだった。
夾に対しての申し訳ない思いは消えない。
しかし、それをきっかけに璇は自然と会話の糸口を見つけることができるようになっていった。
ほどよく冷めた茶を飲みながら璇が夾と話していく中で聞き出すことができたのは
・傷はそこまで痛まないこと
・仕事内容が力仕事であるため、少し長めに自宅で静養してから徐々に仕事を再開するよう言われていること
・夕食以外の食事は自分で用意できること
などだ。
特に傷の状態については「本当に大丈夫なのか?」と心配したのだが、夾はあっけらかんとした様子で「はい、大丈夫ですよ」と答える。
「先生がくださった薬はよく効くんです。それに木工場なんかではもっとすごい怪我の話も聞きましたからね、こんな程度でどうにかなっているようではとても加工の仕事なんてできないですよ。工芸地域の木工場にいる職人の話、聞きます?木を切り出すときとかっていうのはどうしても…」
「はっ、えっ!?いやっ、いいから!!しなくていい!そんな話!」
「そうですか?それじゃ、やめておきます」
妙なところで話を広げようとするものだ、と慌てる璇を見て小さく笑った夾。
今まで2人きりで会話をする際にはもれなくあまりよろしくない雰囲気になってしまっていた璇と夾がこうした《普通》の会話をするのは全く初めてのことであり、当初はそんなつもりもなかったにも関わらず、いつの間にか互いにすっかり打ち解けてしまっていた。
手元にある茶杯の茶がなくなった頃、夾は「そろそろ ここを出ないと、觜宿が忙しくなる時間に間に合わないと思いますよ」と璇へ声をかけて立ち上がる。
「つい引き留めてしまいましたね。ここまで来てくださって、ありがとうございました」
「あぁ…いや別に…こっちこそ長居して悪かった」
「いえ、どうせ俺は家でゆっくりするほかないので」
玄関まで見送りに立つ夾を前に、璇が手に提げた返却分の食器などが入ったかごへと視線を遣りながら「…また明日、届けに来る」といくらかの勇気を込めて言うと、夾も「すみません、お手数をおかけして」と恭しく頭を下げる。
「こんなところまで申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
「別に、大したことはないから」
「お兄さんにもよろしくお伝え下さい」
「あぁ、分かった」
「それでは道中お気をつけて」
そうして挨拶もそこそこに帰途についた璇だったが、なんとなくあの家に1人で過ごしている夾のことが気掛かりで、何度も家の方を振り返りながらもうじき日暮れを迎えるであろう空の下を歩いたのだった。
その翌日。
出来上がったばかりの料理をかごへと詰めていた璇の兄は「それ、俺が持っていくよ」と璇が手を差し伸べたことに少し驚いた表情を見せた。
前日とは打って変わって自ら進んで見舞いに行くという弟のその様子に、なにか良い変化が起こったらしいということを感じて「…うん。じゃあ頼んだよ、璇」と柔らかく微笑みつつ弟を送り出した璇の兄。
それから毎日、璇は見舞いと称して夾の家に足を運ぶようになったのだった。
酒場の中に硝子の割れる音が轟いたその瞬間の璇がそうだった。
ついさっきまで会話していた相手が、なんと今は額から血を滴らせて立ち尽くしている。
滴るほどの流血をしている人間の姿を目の当たりにするのが初めてだった璇は、そのあまりにも衝撃的な光景に身じろぎ一つできず、目を丸くしていた。
「お前…それ…」
床に散らばっている硝子の破片にも構わず、璇はただただ額に手を当てている夾と、彼のじわりと赤に染まっていく袖を見つめる。
(俺を突き飛ばして、それで怪我したっていうのか…?俺を庇おうとして?まさか、そんな…)
(あ、あんなに血が出て、大丈夫なのか?目の辺りなんじゃないのか、あれは。だとしたら…だとしたら、どうしたらいいんだ?)
シン…とした静けさが耳に痛いほどに黙りこくってしまう2人。
するとそこに「璇?大丈夫か?」という心配そうに尋ねる声が裏手の方から聞こえてきた。
声の主が【柳宿の器】の主、つまり璇の兄である男だということは確かめるまでもない。
「外にまですごい音が聞こえてきたぞ、なんかあったのか?硝子が割れたような音が…っておい!なんだそれ、どうしたんだ!?」
裏口から入ってきた璇の兄は【觜宿の杯】の中の惨状を見るなり、慌てた様子で駆け寄ってきて夾の様子を窺う。
壊れた棚の木材や床に散乱した硝子片などから察したらしい璇の兄が「えっ、硝子で怪我したんですか?目の辺りですか?」と訊ねると、夾は「多分…眉の辺りだと思います」と答えた。
「そんなに深くは切っていないと思うんですが…すみません、少し床を汚してしまって。弁償を…」
「い、いやいや!そんなことはいいですから!とりあえずこの…この手巾を傷口に当ててください、清潔な手巾です。今すぐに外で医者を呼んできますから、そうしたら……璇!お前、何 突っ立ってるんだ!」
璇の兄に渡された手巾を傷口に当てるために一瞬だけ額に当てていた手を除けた夾。
たしかに傷口は眉のわずかに上辺りのようだったが、圧迫していた手が離れたことで溢れだす血の量は瞬間的に多くなり、さらに頬などを伝って床へと滴っていく。
それを見た璇の兄は勢いよく戸を開けて表の通りまで飛び出していき、回診からの帰途についていたらしい近所の若い医師を捕まえて戻ってくると、すぐに夾の怪我の具合を診させた。
偶然にも璇の兄が捕まえてきたその医師はこの辺りでも外傷の手当ての腕に評判があるという男だった。
若い医師はすぐさま夾の傷口の様子を診ると「…うん、スパッと切れてますね」と冷静に所見を伝える。
「幸い目には影響はないと思います、今も視力には問題ありませんよね?見え方がおかしいとかはありますか?」
「いえ、大丈夫そうです」
「それならよかった。その手巾をなるべくしっかりと傷口に押し当てて止血してください。きちんとした手当はここからすぐのところにある私の診療小屋に行ってしましょう、そこの裏口から行かせてもらえれば本当にすぐですから」
医師の指示を受けて裏口へと向かう夾。
付き添いとして一緒に診療小屋へ向かうらしい璇の兄は「璇、その硝子と床を片付けるんだ。怪我をしないように気をつけて」と声をかけて同じく裏口から出ていったのだった。
1人その場に残された璇は散らばった硝子片を集めて片付けだしたが、しかし床に付いた数滴の血の跡が嫌が応にも鮮明に先ほどまでの光景を思い出させ、何度も片付けの手を止めてしまう。
床板についていた鮮明な赤色の跡は染みにもならず すっかり綺麗元通りになった。
しかし、それでも璇の心が晴れることはなかった。
しばらくして戻ってきた璇の兄が工芸地域の職人を至急呼び寄せたところ、数日以内には補修をする予定にはなっていたとはいえ、それが間に合わずこんな事態になってしまったということに対する詫びがされる。
職人は壊れた棚の飾り扉や破損した硝子の破片、木材といった残骸を回収し、さらに他の棚の飾り扉などに問題がないかをよくよく確認してから早急に復旧することを約束して帰っていった。
「彼、何針か縫うことになったみたいだよ。しばらくは仕事を休んで静養するようにとも言われていた。兄さんはこれから夕食を届けがてら家に帰る彼に付き添ってくるから、少しの間ここを頼む」
「…うん」
「すぐに手伝いの子達も来るだろうから、それまでしっかりな」
………
その後、どうやってその日の仕事をこなしたのかについては璇自身にもよく分からなかった。
夕食を食べに来た琥珀と黒耀が「あれ、今日はまだコウ君が来てないんだね」「仕事が長引いてるんじゃないか?」と心配そうに言ったのにも、璇は夾がしばらくはここに来ることができないだろうということをしどろもどろに答えただけだった。
ーーーーーーーー
翌日もどこか気もそぞろになったまま、いつものように酒場と食堂で提供する料理の調理をしていた璇。
その手元にこそ狂いはないが…一緒に調理をしている兄からの問いかけに対する返事などの声に覇気がないのは明らかであり、重苦しい雰囲気が辺りに漂っている。
璇の兄はそんな璇を見守っていたが、やがて調理場全体が良い香りに包まれ始めたところで「璇、これをあの彼…夾君のところへ持っていって。お見舞いにね」と一食分の食事を納めたかごを差し出したのだった。
「彼の家はここから少し距離があるから、安静にするようにと言われている間はここの料理を届けてあげることにしたんだ。自分で何とかすると言っていたけど…でも3食作るためにずっと調理場に立ってたんじゃ体を休められないし、どうしても栄養が偏ってきちゃうだろうからね。ほら、これを持って璇もお見舞いに行っておいで」
兄に差し出されたかごの中には出来上がったばかりの料理がきっちりと詰め込まれている。
だが璇は兄の『お見舞いに行っておいで』という言葉に対してどこか後ろめたいような思いがあり、素直に応じようという気にはなれなかった。
見舞いに行くべきだとは分かっているものの、どうにも夾とは顔を合わせづらい。
自分のせいで硝子板が落下するという危険な状況が起こったのにもかかわらず、夾はそんな自分を庇ったことで額に数針縫うような怪我を負ったのだ。
…一体どんな顔をして見舞いに行けばいいというのだろうか。
(あんな怪我をするなんて…俺のことなんか放っておけばよかったのに)
気がつくと、璇は「…兄さんが行ったらいいんじゃない?」とぶっきらぼうに口を開いていた。
「俺が行ったって、別に話すことなんかないし。そもそもなんで俺が行かなきゃいけないんだよ、別に兄さんでいいだろ」
「璇、でも彼は…」
「あいつは勝手に降ってくる硝子板の下に出て行ったんだ、そのまま動かずにいればあんなことにはならなかったのにさ。俺は別に突き飛ばされなくったって、庇われなくったって大丈夫だったし。たしかに棚を壊したのは俺だけど、でもあいつが怪我したのは俺のせいじゃない。勝手に怪我したんだ。だから別に俺が見舞いになんて行かなくても…」
璇が言いかけたその瞬間「璇!」という鋭い声が飛んできて、彼の言葉を強引に断ち切る。
普段温厚な兄のたしなめる一言はまるで心臓を貫くようで、璇は途端に呼吸が乱れるほど苦しくなった。
「璇。そんなこと、言うもんじゃないだろ」
「…」
しばしの静寂の後、璇の兄は静かに「いいかい、璇」と話し始める。
「彼はしばらくは安静にしなくてはいけないからって、仕事を休まないといけなくなった。噂には聞いていたけど、彼は腕利きの荷車整備工なんだってね。いつも鉱酪通りの向かい側にある工房で親方と2人で作業しているみたいだけど、彼が休むことになったから、しばらくは親方1人で仕事しなくちゃいけなくなったんだ。彼やその周りの人達の日常が昨日の1件で大きく乱れることになったんだよ、分かるよね」
「璇の言う通り、もしかしたら彼が庇わなくても璇は怪我をしなかったかもしれない。でも、実際どうだったかは分からない。ただ一つの事実としてあるのは『彼が璇を庇って怪我をして、璇は無事だった』ということだよ。何か咄嗟のことが起きたときに自分の身を投げ出して誰かを庇うというのは、簡単にできることじゃない。勇気と思いやりの気持ちを持った強い人だけだ。そんな人に対して今みたいなことを言うのは違うだろう?璇」
「…彼と顔を合わせづらい、気まずいという気持ちもあるんだろうけど、それでもきちんとお見舞いに行って様子を直接見てきなさい。今日だけでも構わない、一回だけでもいいから。ほら、料理が冷めてしまう前にね」
璇の意固地になっている胸のうちをほぐすように諭した璇の兄。
自分のせいで夾が怪我をしたという事実から目を逸らしたがっていた璇だったが、兄の言葉によって改めてその事実と向き合うことを決め、すごすごと かごを手に見舞いへと向かったのだった。
兄から渡された地図通りに夾の家を目指して歩いていると、璇はその道のりに驚いてしまう。
いや、距離自体は料理の入った重めのかごを提げながら歩いていても疲れはしない程度なのだが、なにしろ周りに民家が少ないところなのだ。
鉱酪通りから地図に従って横道に沿っていくと、その先にはちょっとした川と橋があって、その辺りからさらに人通りはぐっと少なくなる。
やがて家畜のための放牧場のほかには遠くまで草原が広がるばかりというようなのどかな風景となったところで、その家は姿を現した。
立派な佇まいで、とても1人暮らしのものとは思えないその家。
本当にここなのだろうか、と思いながら戸を軽く叩くと、中から聞き覚えのある「はい」という声が聞こえてくる。
「開いてますから、どうぞ」
璇は思わず(開いてるって…鍵もかけてないのか?)などと思いながら眉をひそめたが、慎重に取っ手を握りしめて力を込めると、たしかにその戸はいとも簡単に開いた。
「はい…あっ、璇さんでしたか」
「…」
調理場らしいところから出てきた夾は璇の姿をみとめて小さく頭を下げる。
「あの…そのかご、料理ですよね?すみませんわざわざお届けいただいて。中へどうぞ、上がってください」
招かれるまま家へと上がる璇。
酒場から持ってきた夕食入りのかごを手渡すと、夾は「ありがとうございます、いただきます」と受け取って食卓の上にかごの中の料理を1品ずつ取り出していった。
その様子は至って普通で、具合が悪そうには見えない。
だが、やはりその額には手当のための綿布が貼られていて、痛々しい。
なんと声をかければ良いのかも分からず黙りこくってしまっていた璇だったが、そんな彼に気付いた夾は「ここにどうぞ、座ってください」と椅子を勧めた。
「ここまで長く歩いたでしょう。お茶を淹れますから、一服していってください」
「いや、俺はそんな…それにあんたは安静にしてないといけないって…」
「これくらいは大丈夫ですよ。ちょうど湯も沸かしたところだったんです」
夾はハキハキと動き、調理場の方へ姿を消したかと思えば茶を注いだ客用の茶杯を持ってきて璇に差し出す。
その後もまた調理場の方から綺麗に洗われた食器(璇の兄が昨日持って行った夕食の分のもの)を持ってきてはかごの中へと詰め直して「これ、お返ししますね」と返却の準備まで済ませてしまった。
「お兄さんにもよろしくお伝え下さい。昨日は本当にお世話になったんです、ここまで送ってくださいましたし…また改めて後日お礼の方をさせていただきます」
「あ、あぁ……」
「「………」」
静まり返る家の中、璇は自身の真向かいに座った夾の方を見ることができず、手元で湯気を揺蕩わせている茶杯にばかり視線を落としていた。
ここまで来たのだ、何も言わずにいるわけにはいかない。
いくら言葉にしづらくとも、言わなくては。
唇を噛み締めながら何度もそう自分に言い聞かせた後、彼はようやく絞り出すようにして「…悪かったな」と口を開いた。
「昨日は俺のせいで、そんな大怪我を…本当に…悪かったな…」
「いえ、璇さんのせいではないでしょう?元はといえば俺があんな風に無神経なことを言ったのが悪かったんです、璇さんのせいではありませんよ」
「でも…俺のことを庇ってそんな怪我をしたんじゃないか…」
すると夾は「だからって、璇さんのせいだというわけではないでしょう?」と穏やかに言う。
「俺は自分から硝子の下に踏み出したんです。冷静に考えればもっといい方法があったと思うんですが、あの時は何故かああしてしまっていて…その結果、皆さんにご心配をおかけしてしまいました。これは私が自分で招いたことなんですから、璇さんは気になさらなくていいんですよ。俺が自分で勝手に怪我をして、余計な心配を増やしてしまったというだけのことです。その上床も汚して…あっ、そういえば肩は大丈夫ですか?いくらか強く突き飛ばしてしまいましたよね、痛めていないと良いのですが…」
夾が話すのを聞いて、璇はハッとした。
『俺が自分で勝手に怪我をして、余計な心配を増やしてしまったというだけのことです』
それはつい先程、自らが兄に向かって言ったのとほとんど同じことだったのだ。
璇があのように言ったのは『夾が怪我をしたのは自分のせいではない』と自分に言い聞かせるためのものだったが、それを本人の口から聞くとなんとも言えない感情が込み上げてきて、胸が締め付けられる。
それはそこはかとなく感じていた璇の、夾に対する『罪悪感』というものだろう。
「そんなこと、言うなよ…」
息苦しささえ感じながら呟くも、夾は「でも、実際そうですから」と全く気にしていない様子で、璇はより一層沈んだ表情になってしまったのだった。
夾に対しての申し訳ない思いは消えない。
しかし、それをきっかけに璇は自然と会話の糸口を見つけることができるようになっていった。
ほどよく冷めた茶を飲みながら璇が夾と話していく中で聞き出すことができたのは
・傷はそこまで痛まないこと
・仕事内容が力仕事であるため、少し長めに自宅で静養してから徐々に仕事を再開するよう言われていること
・夕食以外の食事は自分で用意できること
などだ。
特に傷の状態については「本当に大丈夫なのか?」と心配したのだが、夾はあっけらかんとした様子で「はい、大丈夫ですよ」と答える。
「先生がくださった薬はよく効くんです。それに木工場なんかではもっとすごい怪我の話も聞きましたからね、こんな程度でどうにかなっているようではとても加工の仕事なんてできないですよ。工芸地域の木工場にいる職人の話、聞きます?木を切り出すときとかっていうのはどうしても…」
「はっ、えっ!?いやっ、いいから!!しなくていい!そんな話!」
「そうですか?それじゃ、やめておきます」
妙なところで話を広げようとするものだ、と慌てる璇を見て小さく笑った夾。
今まで2人きりで会話をする際にはもれなくあまりよろしくない雰囲気になってしまっていた璇と夾がこうした《普通》の会話をするのは全く初めてのことであり、当初はそんなつもりもなかったにも関わらず、いつの間にか互いにすっかり打ち解けてしまっていた。
手元にある茶杯の茶がなくなった頃、夾は「そろそろ ここを出ないと、觜宿が忙しくなる時間に間に合わないと思いますよ」と璇へ声をかけて立ち上がる。
「つい引き留めてしまいましたね。ここまで来てくださって、ありがとうございました」
「あぁ…いや別に…こっちこそ長居して悪かった」
「いえ、どうせ俺は家でゆっくりするほかないので」
玄関まで見送りに立つ夾を前に、璇が手に提げた返却分の食器などが入ったかごへと視線を遣りながら「…また明日、届けに来る」といくらかの勇気を込めて言うと、夾も「すみません、お手数をおかけして」と恭しく頭を下げる。
「こんなところまで申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
「別に、大したことはないから」
「お兄さんにもよろしくお伝え下さい」
「あぁ、分かった」
「それでは道中お気をつけて」
そうして挨拶もそこそこに帰途についた璇だったが、なんとなくあの家に1人で過ごしている夾のことが気掛かりで、何度も家の方を振り返りながらもうじき日暮れを迎えるであろう空の下を歩いたのだった。
その翌日。
出来上がったばかりの料理をかごへと詰めていた璇の兄は「それ、俺が持っていくよ」と璇が手を差し伸べたことに少し驚いた表情を見せた。
前日とは打って変わって自ら進んで見舞いに行くという弟のその様子に、なにか良い変化が起こったらしいということを感じて「…うん。じゃあ頼んだよ、璇」と柔らかく微笑みつつ弟を送り出した璇の兄。
それから毎日、璇は見舞いと称して夾の家に足を運ぶようになったのだった。
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借金のカタで二十歳上の実業家に嫁いだΩ。鳥かごで一年過ごすだけの契約だったのに、氷の帝王と呼ばれた彼に激しく愛され、唯一無二の番になる
水凪しおん
BL
名家の次男として生まれたΩ(オメガ)の青年、藍沢伊織。彼はある日突然、家の負債の肩代わりとして、二十歳も年上のα(アルファ)である実業家、久遠征四郎の屋敷へと送られる。事実上の政略結婚。しかし伊織を待ち受けていたのは、愛のない契約だった。
「一年間、俺の『鳥』としてこの屋敷で静かに暮らせ。そうすれば君の家族は救おう」
過去に愛する番を亡くし心を凍てつかせた「氷の帝王」こと征四郎。伊織はただ美しい置物として鳥かごの中で生きることを強いられる。しかしその瞳の奥に宿る深い孤独に触れるうち、伊織の心には反発とは違う感情が芽生え始める。
ひたむきな優しさは、氷の心を溶かす陽だまりとなるか。
孤独なαと健気なΩが、偽りの契約から真実の愛を見出すまでの、切なくも美しいシンデレラストーリー。
完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました
美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!
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