その杯に葡萄酒を

蓬屋 月餅

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第二章

7「黄水晶の瞳」

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 見舞いとして家まで料理を届けに行き、そしてそのまま一息つきがてら茶をもらうなどして毎日少しずつこうと会話をするようになったせん
 そうして共にゆったりとした時間を過ごしていると次第に相手のそれまでとは違った姿を知るようになっていくもので、璇も夾についての様々なことを知ることになる。
 たとえば夾にも兄がいること。
 璇がそれを知ったのはまったくの偶然だった。
 見舞いに訪れ、戸を叩こうとした際に家の中から兄弟で話している声が聞こえてきたのだ。

「まったく…!怪我をしたならちゃんと知らせを寄越さないとダメだろう!まさか本当に黙ってるつもりだったのか?」
「兄さん…大した怪我じゃないから連絡しなかったんだよ。知らせたらこうやって今みたいに大袈裟に心配するって分かってたから」
「何言ってんだよ、っとにもう!工房の親方が知らせてくれたからまだよかったけど…そうじゃなかったら今頃兄さん達は何も知らずにいたんだぞ!?」

 兄だという人物からの説教じみた言葉に「俺、もう成人してるんだけど」と呆れを滲ませながら夾は答える。

「あのさ、兄さんが心配してくれるのは嬉しいよ、もちろん。でもいつまでもそんなんじゃ義姉さんに呆れられるってば。いい加減俺のことはもう少し…」
「そのが『心配だから様子を見てきて』って言ったんだよ。俺達はいつもお前がどうしてるのかを気にしてるんだ、ここに1人で暮らしてるっていうのが気がかりだから。お前は俺達の大切な家族なんだよ、うざったいかもしれないけど…でもこういうことはきちんと知らせてほしい。大体だな、ここでの1人暮らしをする条件の一つが『きちんと連絡を取り合うこと』だっただろ?それを守れないようじゃ やっぱり…」
「兄さん!分かったよ、俺が悪かったってば!」

 戸の外で一連のやり取りを聞いていた璇は(弟想いのお兄さんか…俺のところと一緒だな)(怪我をしたって聞いたら心配するに決まってる。ご家族にも悪いことをしたんだよな…)と思いながら、せっかくの兄弟の時間に水を差さないようにと夕食の入ったかごをそばの陽が当たらない涼しい場所へ静かに下ろしてその場を後にした。
 翌日「昨日は気を遣わせてしまったようで すみません。美味しくいただきました」とかごなどを返却する夾に璇が「素敵なお兄さんだな」と夾の兄の心配そうにしていた声を思い出しつつ言うと、夾は「そうなんですが…ちょっとあまりにも弟離れができてなさすぎていて」とやや眉をひそめたのだった。


ーーーーーー


 他にも、璇は夾について『けっこうな綺麗好きである』ということを知った。
 男の1人暮らしには少し広いであろうというその家は本来であれば管理が難しいはずなのだが、夾はきちんと整理整頓、掃除を行き渡らせていて、家全体をまるで贅沢な一軒の宿かのように保っている。
 彼が几帳面な性格をしているらしいということはそれまでの行動からも見て取れるものではあったが、あまり掃除などが得意ではない璇からしてみると、そんな夾の姿は感心すらしてしまうものだった。
 さらに夾は家でじっと本などを読んで過ごすような性格に見受けられていたのだが、実際はそうではないらしいということも知った。
 彼は額に怪我をしていて、安静にしていなければならないはずなのに。
 そのはずなのに夾はそれこそ掃除だ何だといっては家中を動き回っているようで、璇をヒヤヒヤさせる。
 さらに璇が夕食を届けに来た際に家を空けていることさえもあった。
 戸を叩いても中からの反応が一切なく(えっ…まさか中で倒れてるんじゃないよな?)と心配する璇をよそに「あれ、今日は早かったんですね」などと言いながらのんびり家に帰ってきた夾。
 どこへ行っていたのかと訊くと「散歩をしに行ってたんです」という答えが返ってきたため、その時ばかりは璇も「散歩…だと?」と本気で自身の耳を疑ったものだ。

「この辺りを散歩するのが俺の休日の日課なんです。お待たせしてしまいましたね」
「さ、散歩ってお前…どこまで行ってたんだよ」
「どこって。あっちの方に森があるでしょう?その辺りとか、川沿いの方とかです」
「森…?遠いんじゃないのか」
「いえ、すぐですよ。1時間もあれば…」
「い、1時間!?」

 璇が素っ頓狂な声を上げたのも無理はない。
 自宅で安静にしろと言われている怪我人が、たった今、外で1時間の散歩をしてきたというのだ。
 一体何のために仕事を休まされているのか分かってるのか、と思う璇に、夾は「これでもいつもの半分くらいにしているんですよ」と言う。

「お医者の先生にも多少の散歩程度ならかまわないと言われていますし、いいでしょう?散歩が好きなんですよ、この辺りは静かでとてもいいし…なにもそんなに驚かなくても」
「いや、だからって…別に少しくらい行かなくったってどうってことはないだろ?怪我がきちんと治るまでは大人しくしてろよ、傷が開いたらどうするんだ。周りに誰もいないのに途中でぶっ倒れでもしたら…」
「いえ、でも」
「でもじゃないだろうが」
「…」

 つい強い口調になる璇に、夾はむぅっと眉をひそめて抗議した。
 実際、長時間動くことで汗ばんだりしてしまっては治りかけの傷口にもよくないだろうし、医師だって『散歩』というのがどの程度の時間、距離で行われるものなのかは正確には理解していなかったに違いない。
 おおかた『ちょっと外の空気を吸いに行くくらい』の軽いものだと思っていたのではないだろうか。
 だからこそ『多少の散歩なら』と許可をしたはずなのだが、夾にとっての『多少』というのは医師達が思うそれとはかなり違っている。
 璇は散歩(そもそも運動全般)が嫌いなため、夾の行動がまったく理解できなかった。

「…璇さんは運動とか、されないんですか」

 眉をひそめたまま言う夾。
 璇が「しないよ、大嫌いだし」と鼻で笑って応えると、夾は大きくため息をついて「そうですか、それは素晴らしいことですね。とても羨ましいです」と遠い目をして窓の外を見た。

「いいですね、そういうかたは」
「はぁ…?なんだよ、その言い方」
「いえ、ただ単純に羨ましいと思っているだけですよ。運動などに特に気を遣っていないのにその体型を維持できているということが、俺からするとすごく羨ましいんです」

 璇が(こいつ、いきなり何言い出してんだ?)と思っていると、夾は一口茶杯の茶を飲んでから「俺…元々すごく太りやすい体質なんです」と話し始める。

「子供の頃、工芸地域で暮らしていたときの姿なんかは…今 自分で考えてみてもちょっと『丸かったな』と思うくらいで。周りの人達に甘やかされてたっていうのもあると思うんですが、でもやっぱりそのうちそういうのって気になりだすものじゃないですか?だから工房の職人達みたいにしっかりした体躯になりたくて積極的に体を動かすようになったんです。散歩はそのときからずっとやってるんですけど、いつの間にか景色を見ながら歩くのが好きになっていて、自然と休日には必ず散歩をするという習慣ができました。意外と面白いんですよ、季節によって少しずつ風景が変わったり空気の香りが違ったりして…」

「仕事をしているとそれだけで自然と運動できていることになっているので普段は特に気にしていないんですが、休みの日にはなるべく体を動かすように心がけているんです。今の状態を保つには毎日少しずつでもそうしていないといけませんし、そもそも休んでいる間に体が鈍って動けなくなってしまうのではそれまでにしてきた努力が水の泡になってしまいますから」

 夾がそうして語る『健康に気を遣っている』という話は、元から痩せ型で筋肉もつきやすい体質である璇にとっては非常に新鮮な話だった。
 璇は生まれてから今に至るまでの間、特に何もしなくても十分に引き締まった体型を維持することができていて、体を鍛えるだとか健康を気にするだとか、そういうことに対して少しも関心を持ったことがなかったのだ。
 さらに、今の夾は傍から見ても筋肉質で引き締まった体格をしているため、『丸かった』と言うほどの姿をした頃があったとはとても思えない。
 彼の幼少期がどんなだったかは知る由もないが、今の夾の姿というのはただ自然と得られたものではなく、こうした散歩などの健康に気を遣った行動があってのものだったらしいというのが璇には興味深いことだった。
 さらに、夾は体を動かすように気をつけているという話から食事にも気を遣っているのだということも話す。
 
「それこそ小さい頃は周りの人達に甘やかされていた、というか…甘い焼き菓子なんかも好きなだけ食べたりしていたんです。でもさすがにそれではいけないと思ったので自分で食事のことをよく考えるようになりました。食事ってすべての基本じゃないですか。今でも甘いものが好きなことに変わりはないんですが、体のことを考えて食べるものに気を遣うようになってみると自然と偏った食事をすることに抵抗があるようになって、自分で料理をするのも好きになりました。それこそ散歩と同じように」

「俺は家でじっくり時間と手間をかけて料理をするのが好きなんです。前日から弱火で煮込んだり、捏ねて一晩発酵させておいたのを翌朝焼いて食べたり。夜の静かな中で鍋の中身がふつふつと煮える音や匂いを感じながら過ごすのも、なかなか良いんですよ」

 この『料理が好き』という夾の感覚も、璇にとってはまったく理解ができないことだった。
 はっきり言って、璇は全般的にかなり面倒くさがり屋な性格をしているのだ。
 『料理をする』というくことには食材の準備から使い終わった調理器具の清掃までもが一連の作業の流れとして含まれていて、いざ調理をするにしても手順や工程を合わせて考えるとちょっとやそっとでは済まない。
 璇はそれが面倒で、嫌いで、仕方がなかった。

「は…本当に真面目だな。いくらそうだって言っても、料理なんて手間のかかることをよくやろうと思うよ。俺なら食堂通いする。自分で作るのなんか面倒だ」

 料理に対してあまり肯定的とはいえない態度をとりながら手元の冷めかけている茶杯に視線を落とした璇の脳裏に、《ある人》の言葉が蘇る。

ーーーーー
『料理ができる人って…良いよね。ねぇ、センも料理できるようになりなよ!そんでお兄さんと一緒に食堂やったらいいじゃん!そしたら僕毎日通っちゃおうかな~僕の好きなものを沢山作ってよね。僕?僕はやんないよ、だって人に作ってもらった方が美味しいもん。センが僕のためにって作ってくれたら、すっごく美味しいと思うんだけどな~…』
ーーーーー

 脳裏に響くその声を振り払うように、璇は「別に、俺は好きで料理なんかやってるんじゃない」と呟く。

「仕事だからやってるだけだ、そうじゃなきゃ絶対にやらない」

「家でなんか絶対に作らない」

 つい いくらか口調を強くしてしまっていた璇。
 しかし、そう言ったすぐ後から今さっき『料理をすることが好きだ』と言っていた夾のことを突き放すような言い方をしてしまったことに気付き、璇はハッとした。
 雰囲気がいくらかおかしいものになってしることは璇自身にもよく分かっているのだが、それでも覆水盆に返らずということで一度そうなってしまった以上元に戻すことなどできるはずもなく、璇はいたたまれない思いのまま茶杯の中に半分ほど残っていた茶を飲み干す。
 せっかくの談笑の最中さなかに水を差してしまい、その場に居づらくなった璇は早々に(もう、今日はここで帰るか…)と席を立つための文句を考え始めてたのだが、むしろ夾はそんな璇に「それなら一層、あんなに美味しい料理を作ることができるのはすごいことですね」と声をかけたのだった。
 まさかそんなことを言われるとは思ってもみなかった璇は面食らう。

觜宿ししゅくで出てくる料理はどれも美味しいです。俺は料理が好きなのであれこれ工夫したりするのも苦ではありませんけど、そうじゃないとしたら…それこそ大変でしょう」

「いくら仕事のためだとはいえ、あまり好きではないことをずっとやり続けるというのは俺にはできそうにありません。そもそも俺は荷車が好きじゃなかったら『荷車の整備』なんて仕事は絶対にやっていなかったと思います。でも、璇さんは実際に 觜宿を切り盛りされているんですよね。それって本当にすごいことなんじゃないでしょうか」

 誰にでもできることじゃないですよ、と何気なく夾は言う。

「いや…俺は1人でやってるんじゃなく、兄さんと手分けしながらやってるんだし…料理の作り方なんかは、昔から伝わってる通りにやってるだけで…」

 気恥ずかしくなってしまった璇が呟くと、「でもいつも同じ味で同じように作ることができるというのは、やっぱり腕がないとできないことですから」と夾は答えた。
 屈託のない夾のその真っすぐな言葉に、璇は瞬きすら忘れてしまう。
 そしてその瞬間、彼は初めて夾の瞳が少々特別な色をしていることに気が付いた。
 それまで璇は夾の瞳の色は『明るい茶色』であると認識していたのだが、改めて見てみるとそんな単純な表現ではとても足りない色をしていたのだ。

(綺麗…だな…)

 わずかに伏せた夾の瞳が、すぐ横の窓から柔らかく差し込む昼の陽の光に照らされている。
 その瞳は黄銅のような明るい色をしていた。
 いや、その透明感からして『黄水晶』と言う方が正しいだろう。
 透き通った瞳は陽の光を受けてキラキラと輝き、美しい弧を描いているそれは精巧に作られた傷一つない硝子細工か何かのようでもある。
 璇がなんとか心の中でその瞳の美しさを言い表そうとしても、相応しい表現が見つからないという不思議な瞳だ。
 さらにその黄水晶のような瞳は濃い茶か黒に細く縁取られていて、周りの白との対比がなんとも素晴らしい。
 それまで他人の瞳などにはまったく気に留めたことがなかったにもかかわらず、夾の瞳がただの明るい茶ではないと知った途端、璇はなぜかその瞳から目が逸らせなくなってしまった。

 瞳とは本来こんなにも美しい色なんだろうか。
 縁取りがされているものなんだろうか。
 自分の瞳は…いや、自分のはこうではなかったはずだ。

 そのまま釘付けになっているとまばたきがされ、豊かな睫毛が一瞬瞳を覆い隠して潤いをもたらす。
 するとそれまで以上に瞳が瑞々しく輝いた。
 たった一度の瞬き、ただそれだけ。
 だがそのなんということもない動きでさえもが璇をより一層惹きつけてやまない。
 ついぼぅっとしてしまっていた璇は(…そうだ、料理の話をしてたんだったっけか)と気を取り直すと、心の内に湧き上がったまだ会話を終わらせたくないという気持ちから「あんたは、料理のどこが好きなんだ?」と訊いていた。

「食材を洗ったり切ったり、それに火加減だってずっとそばで見てたりしないといけないし…面倒だろ」

 すると夾は「まぁ、そうですよね」と静かに笑う。

「でも切り方や火の通し方、下処理の仕方によって出来上がる料理が何通りにもなるのって、面白いじゃないですか?使う香辛料の種類や量を変えてもまた別のものになりますし、食材によって『強火でサッとする』のと『一晩かけてじっくりする』のとって、適した調理法がそれぞれ違うのも面白いと思うんです」

 さらに「料理が出来上がるまでの時間をゆったりと待つのも、結構楽しいんですよ」とも付け加えた夾。
 璇は縁取られた黄水晶のような瞳だけでなく、楽しげに語る夾の表情からもすっかり目が離せなくなっていたのだった。


ーーーーーーー


 いつの間にか罪悪感からだけでなく《他の理由》もあって夾の元へ料理を届けに行くようになっていた璇だが、ちょうどそこで夾は仕事に復帰してもいいと医師からお墨付きを得て、この見舞いも終わることになる。
 ある日「もう明日からは大丈夫です。ありがとうございました」と告げられた璇は夾の怪我が仕事をしてもいいくらいにまで回復したということを喜ぶ気持ちもあったが、それと同時に再び店主と客という間柄の『日常』に戻ってしまうことが少々寂しくもなっていて「それは…良かったな」と答えるので精一杯だった。
 見舞いが終わることが惜しかったのは、もしかしたら少しだけ『酒場と夾の家とを行き来する道の風景が好きになり始めていたから』ということも関係していたかもしれない。
 ともかく、夾が仕事を休んでいた期間というのはけっして長いわけではなかったのだが、ただ、たしかに 確実に。
 璇は夾のことが気になり始めていたのだった。
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