6 / 23
第1章
5「陸国の暮らし」
しおりを挟む
わずかだったとはいえ、上位の神の神力を身に注ぎ込まれたことによって眠ってしまった争いの神。
本来であれば半日も経たないうちに目を醒ますはずなのだが、しかし彼は何日もそのまま 一度も目を醒ますことなく眠り続けた。
なかなか目を醒まさないのは争いの神のもとに届けられる神力が少なくなってきていることと関係がある。
互いに神力を混ぜ合った神々は眠っている間に意図せず神力を集め、結果的に以前よりも強い神力を身につけて目を醒ますことになるのだが、そうした強い神力というのはそもそも目を醒ますためにも必要なものなのだ。
普通であれば届けられる神力が…つまり陸国の人々からの想いが足りなくなることはない。だが争いの神の場合はそうではなかった。
森の木々や風、水といった暮らしに必要不可欠なものを大切に想う気持ちは増す一方で、陸国に住む人々は元から温厚であるということもあり、争いや諍いのきっかけとなる“憎む思い”や“傷つけたいという思い”を抱くことがめっきり減っていたのである。
争いの神は元々そうした人々の想いによって力を得ていた神なので、人々がそうしたものを望まなくなった時点で彼が得ることができる力も極端に少なくなっていた。
争いの神の存在が必要とされなくなり、人々から“忘れ去られかけている”ということだ。
小さな いざこざ や小競り合いくらいのそれではまったく足りない。
眠りから醒めるための神力を得るのにすら何日もの時間がかかっているということ自体がそれを物語っている。
“彼”はそんな争いの神のそばに居続けながら、目を醒ますその日をじっと待ち続けた。
それはやはり“情”というよりはある種の“責任感”によるものだっただろう。
上天界からやってきた自分のなすべきことをなす、というような責任感だ。
天界の他の神とは違って地界での果たすべき務めがあるわけではない“彼”は、ほとんど1日中 横笛や筝、琴を奏でては日が昇っては沈み、月が満ち欠けする様を眺めて過ごした。
神力を得た争いの神がきちんと目を醒ますその日が来るまで、“彼”は待っていた。
そんな最中には驚くべき再会もあった。
それはようやく陸国に降る雪が霙混じりになってきた頃のことだ。
いつものように“彼”が横笛を奏でていると屋敷の門前に覚えのある気配がして、まさかと思いながら向かったところ、何とそこに上天界にいるはずの あの九尾の神獣が佇んでいたのである。
「え!どうしてお前がここに…」
思いもしていなかった再会に驚いた“彼”は自らに【この子は上天界にまた戻ることができるか?】と問い、『できる』という答えを得て胸を撫で下ろす。
「すごいな、神獣というのは神とはまた違った特別な存在だとは思っていたけど…上天界と天界を好きに行き来することもできるとは。そうじゃないかと考えたこともあったけど、本当にそうだったんだな」
九尾の神獣との思わぬ再会はとても喜ばしいものだが、神獣の方はもっと喜んでいるらしく、いつもは薄い緑色をしている九つの尾や耳の先端を桃色に染めながら鼻面を“彼”の胸へとすり寄せてくる。
神獣はこうして気分などを毛色に反映させることが知られているが、滅多にそうすることはない。つまり今は毛色が変わってしまうほど喜んでいるらしいということのようだ。
再会を喜んで甘えてくる神獣を懐かしく思いながら抱きしめてやる“彼”。
首の辺りになにかあるのに気付いてその正体を探ってみると、そこにあったのはまさしくあの時“彼”が神力を分けて創った宝玉の首飾りだった。
親友とも呼べるほどの仲であった神獣と神力を介して会話をしたことで、“彼”はこの神獣が 主である縁の女神に『天界に行って賭けの神に会ってきたい』と相当しつこく頼み込んでいたことを知る。
上天界の神々をもってしても なしえない天界との行き来を行なうことができるのは神獣の類稀な能力であるわけだが、しかし実際はそんなことをする必要がなく、試したことのある者も1体もいなかったので、縁の女神は弟同然だった賭けの神と同様に『この神獣をも失ってしまうのではないか』と心配して天界へ行くことを許可するのを躊躇っていたらしい。
そこで神獣は自らの首にかけられた宝玉の神力を見せて【神獣は上天界と天界を好きに行き来することができるか】という問いをし、『できる』という結果が出たことを何度も何度も伝えることでようやく首を縦に振らせたのだった。
「まったく…主にそんな苦悩をさせるなんて。縁の女神は忙しいんだからそんな心労をかけちゃダメだろう」
(………)
「おまえがあまりにもしつこく訴えるもんだからさ、縁の女神も『このままだと務めの障りになるし、もう好きに行かせてやれば良いや』と思って許可したんじゃないか?」
(鼻面で繰り出される鋭い一撃)
「うわっ!悪かったって、冗談だよ!」
じゃれ合いながら気兼ねなく軽口を交わし合える仲というのは貴重なものだ。
“彼”は神獣を自身の屋敷のあの庭へと案内し、そして咲き誇る花々を自慢気に見せた。
その美しさに感嘆するように鼻面を近づけてから頬擦りをした神獣は長椅子のそばに座って辺りを見回す。
いつも様々な色や姿をした花や木が茂る上天界の庭園にいる神獣も、どうやらこの庭が気に入ったらしい。
「…え?今日だけじゃなくてこれからも度々ここへ来るつもりでいるのか?大丈夫なのかそんなことして」
(………)
「上天界に帰ったらよく沐浴をしないとダメだぞ、地界に行くわけじゃないとはいえどもこうやって行き来するからには身を清める必要が…っていうか縁の女神の務めの補佐はいいのか?お前も大概 寂しがり屋の困ったさんだな、仕事をほっぽりだすだなんて」
“彼”と神獣はそんな話をしながら上天界の他の神の近況などを語り合ってそこそこ長いこと共に過ごした。
…ふと、気配に気づいたらしい神獣があの渡り廊下の向こう側に耳を向けたときには、“彼”は「…まぁね、ちょっと重要な神を…大切なお客様をここに匿っているんだ」と肩をすくめながら応えたのだった。
ーーーーーーーー
眠っていた争いの神は、陸国が春を迎え、人々が地を耕し、種を蒔き始めた頃になってついにその目を醒ました。
地界での時間にして真冬から春までという長い時間にわたって眠り続けていた争いの神。
「…ようやく目を醒ましたね」
窓べりに腰かけて月琴を爪弾いていた“彼”はすぐに寝台のそばへと近寄っていって様子を窺ったが、しかし『かろうじて目を醒ますだけの神力をかき集めた』という状態の争いの神はそれこそ起き上がるのが精一杯という様子であり、魄や神力が弱っていることに変わりはなかった。
このように神力が低い状態では“良くないもの”から身を守ることができずとても危険なので、このまま地界へ向かうのは無謀というものだ。
そのため“彼”は争いの神に もう少し神力が満ちた後で陸国へ連れて行く ということを約束したのだった。
力が弱っているせいもあってめっきり口数が減った争いの神は塞ぎ込んでしまうかに思われたのだが、それでもなお なるべく早く神力を高めようと、泉でひたすら沐浴をしたり瞑想などをして毎日を過ごし、比較的すぐに陸国へ向かえるだけの神力を身に着けるに至った。
初めて会った時ほどではないにせよ いくらかの力強さを取り戻した争いの神。
そこで“彼”は約束を果たすべく、文字通り争いの神に手を差し伸べたのだった。
これまで散々外へ出ることを禁じて厳しくしてきたにもかかわらず急にそのような態度をとられて「な、何の真似だそれは……」と困惑する争いの神に、“彼”は「そう身構えないで」と柔らかな表情で言う。
「地界を見て回るために君の姿を一時的に装身具に変えるんだよ。いくらか回復したとはいえども君はまだ地界へ向かうのに万全とはいえない状態だろう?君としてはあまり良い気持ちはしないかもしれないけど 私の神力で君を包み込み、姿を装身具に変えれば、そういった神力が不足している分の悪い影響を最小限にとどめたまま地界を見に行くことができる。姿を元に戻されないのではないかと心配になるかもしれないが、そんなことはしないから安心して」
「これから地界は夜明けを迎える。夜明けから陽が沈んで月が昇るまで陸国を見て回り、その後 天界へ戻ってきたら必ず姿を元に戻すと約束するよ。君が見たいと言ったところはどこでも行くし、好きに見せるから…だから私を信じてこの手を取りなさい」
そう穏やかに諭すと、争いの神はしばらく躊躇ってから おずおずと“彼”の手を取った。
“彼”が重ねたその手に意識を集中させると次の瞬間には争いの神は1つの耳飾りとなって手のひらの上にいた。
争いの神が時折覗かせる瞳と同じ血のような真紅の玉と白銀の繊細な細工が見事な耳飾りだ。
真紅の玉をぐるりと囲うようにあしらわれている白銀の細工は“彼”の神力によって創り出されたものであり、よく見ずともそれが争いの神そのものである玉を守っているのだということが分かる。
右の耳にその耳飾りをつけた“彼”が「どうかな、きちんと周りの様子が見えていると思うけど」と訊ねると、争いの神は(…妙な気分だ)と神力で応えた。
「自由に動き回ることができないから不便に思うかもしれないが、何かあればいつでも何でも言って。希望通りにするよ」
「さぁ、それでは行こうか」
“彼”が渡り廊下へと一歩踏み出すと、“彼”も耳飾りに変えられている争いの神も、すんなりと部屋の外へ出ることができる。
ちょうど陸国では撒いた種が芽吹いて青々と茂り、あちこちには色とりどりの花が咲き誇っていて、見物に適した時期になっていた。
ーーーーー
基本的に眠ることがない神々にとっては早朝だとか深夜だとかは一切関係がないので、いつもであれば屋敷の外に出た時点で何かしらの神に出くわしたり花の化身達に囲まれることが多い。
しかしながら今はちょうど神々がそれぞれの務めに忙しい時期である上に、花の化身達も花のそばにいることが多いのであまりあちこち出歩いておらず、彼らは2人きりのまま誰にも会うことなく地界へと向かうことができる。
“彼”はまず陸国の西側にある大きな高い山の頂上へと向かい、平らな岩の上に腰を下ろした。
「ほら…見て、これからまさに陽が昇るところだ。とても美しい光景を見ることができるよ」
「この陸国がある場所というのは特別でね、今 私達がいる山の向こう側にも延々と厳しい山脈が続いているんだ。だけどさらにその奥にも広大な砂漠が広がっているんだよ。けっして外から人が来ることはできないし、陸国からも人が外に行けないようになっている。もしかしたら山を越えようと試みる者も出てくるかもしれないが…ある時点で陸国の神々の加護が届かなくなってしまうから結局は命を落とすことになるだろう。神の加護がなくなるということは 食べ物だとかの人間にとって必要不可欠なものが一切手に入らなくなるということだからね、仕方がないんだ」
そうして話しているうちに連なる山の向こう側がどんどんと明るくなり、そして姿を現し始めた陽の光が少しずつそこら中の山の斜面を照らし始める。
やがて遥か下の方にある平地…つまり陸国の様子も明らかになっていった。
その光景は実に見事なものだ。
みるみる鮮やかになってゆく大地。
草木の若々しい緑に、赤や薄紅や黄、青、紫の花々。
そして眩しく光を反射する川や湖と、真反対である東の方角に広がる広大な海。
今日一日が素晴らしい一日になることを知らしめるような…そんな朝の風景がそこに広がっている。
「…ここから見る景色が最も美しいと思うんだ。“陸国”と名付けられたこの地とそこに住む人々、そして神々がそれぞれ加護しているもの すべてを目にすることができる場所だからね」
「岩山の険しい山肌もこうして眺めてみると滑らかに見えるだろう?稜線が連なって遠くまで続く様は地上からでは観ることのできない特別なものだよ。他の天界の神々はほとんどが自身の加護しているものや場所から遠く離れることができない、つまりここまで来ることができないからこんな景色が望めるとは知らないんだ。本当に…特別な景色だよ」
「…さて、ではそろそろ移動しようか。陸国の見物をするならばもっと近くへ行かなくてはね」
“彼”とその右耳にある耳飾りはしばらくじっとその景色を眺めた後、今度は地を歩きながら徐々に賑わいを増してゆく陸国を見に行った。
お世辞にもまだまだ発展しているとは言えない陸国だが、しかし人々はすでに土地を中央から6つの区画に分け、それぞれに何棟もの家を建てて生活している。
神力で姿を人間から隠している“彼”は同じく神力を使い、争いの神に 陸国が6つの地域で構成されていることなどのありとあらゆる説明をした。
「…この辺りは工芸地域と呼ばれるようになる地だよ。今はまだそれほど木も畑もないけど、そのうち繊維や染料になる植物のための畑ができるし、奥の方には家や建具を造るのに適した木が植えられるようになるんだ。“工芸に特化した地域”だけど木の実が他の地よりも豊富に採れるという特徴も兼ね備えている」
「それぞれの地域で適したことが違うのは、それはこの天界の神々が自分の神力を分けるのにはいくつかの制約があるからだ。その制約というのは神や加護するものによってそれぞれ違うようだから何とも言えないけど…なんにせよあちこちに出向かなければならないとなるとどうしても丁寧な仕事をするには不足が出てくるものだからね、むしろこの方がいいのかもしれない。もちろん距離などは神にとっては何の問題にもなりはしないんだけど、そもそもここの神々は『あちこち手広くするよりも一つ一つしっかりと丁寧に加護をしたいという』と考えているようだし、そういうものが反映されてのことなのかな。なんだか妙な感じもするね、でも人間達にとってもその方が都合がいいんだ。不便なこともあるだろうが、しかし互いに補い、助け合わなければ暮らしていくことができないという環境が陸国を1つにするからね。人が多くなれば全体のつながりが薄れていってやがては分断を生むことになる。それでは行く末は見えている。でもこの地ではそれがない。これはこの地の特徴であり、他にはない特別なものだ」
“彼”はそうした説明を挟みながら後にすべての地域への中継地点となる『中央広場』を横切り、農業地域の方角に人々を集めて話している女性の姿を見つけて「…あの人だかりの真ん中で話している人が見える?」と争いの神に話しかける。
「あの女性は花の女神だ。ほら、君もよく飲んでいるあの茶を創り出した女神だよ。彼女は時折ああして地界に行って人の前に姿を現して畑の野菜のことや花について教えたりしているんだ。初めは務めのことをあまり重視していなかったけど、人々が熱心に話を聞くものだからすっかり親身になって花や作物についての助言をするようになった。今年は彼女がきちんと様子を見ているから作物はよく実って食料にも困らなくなるだろうし、それこそ花茶とか、染料になるようなものも良く手に入ることだろうね」
人間として陸国に姿を現しながら話をしている花の女神は『人間らしく』しているものの、しかし神であるが故の匂い立つような美しさや可憐さまでは隠しきれていないので、人間達は男女問わず見惚れながら話に聞き入っていた。
“彼”が助言をするために人間達の前へと姿を現していた時と同じような感じだ。
時々朗らかな笑い声もが聞こえてくるその様子をもう少し見ていたいところだったが、花の女神には“女神としての姿”ばかりを見せている“彼”はもし仮に元の今の姿を見られれば都合が悪いと思い、早々にその場から離れることにする。しかしその奥では花の化身達が忙しそうに走り回って花を見て回ったりしているのが見えたのだった。
陸国を歩いている最中に姿を見かけた神は花の女神だけではない。
人間として誰にでも姿が見えるようにしていたのは花の女神だけだったものの、他にも水の神や森の神、風の神がいて、皆人々の暮らしぶりを見守っていたのだ。
遠くから会釈を交し合うなどしつつ、“彼”はその神々についても説明していった。
「あれは森の神だよ、どうやら今日5本の木が切られるのでその様子を見守りにきたようだね。彼はとても聡明で天界や地界についてのあれやこれをよく理解しているんだ。私は他の神々には上天界から来た存在であることを隠しているけど、どうも彼には『少なくとも天界の神ではないらしい』ということがばれているみたいだな。それに以前盤を使った遊戯をしたときはとても強くて私も少々悔しい思いをしたほどなんだよ。…名誉のために言っておくがきちんとした勝負だぞ、私は自分の力をそういうことには使わないと言っただろう?」
「あの湖のそばにいる神は水の神だ。少し控えめで屋敷もここから遠くに構えているのでにぎやかなところには姿をあまり現さないけど、しかし実際はとても深い想いを抱えている神なんだよ。彼が果たさなければならない役目はとても多いからその分苦労は絶えないだろう、しかしとても情が深い神だ」
「…ははっ、あの丘のところに立っている神が見える?彼は風の神でね、口数は少ないけれども強い神力を備えている神なんだ。彼が風を操るからこそ人間達は海に船を出して漁をすることができるんだよ。他にも暮らしの中で風を必要とする場面は多いから…今も忙しくしているらしい」
酪農地域では地に手のひらを当てて神力を流し込み、満足して微笑んでいる愛らしい少年姿の小さな神も見かけた。
裾が薄い黄緑の白い衣を身に纏っている焦げ茶色の髪をしたその小さな神を一目見た“彼”は、後にその神が成長して この地になくてはならない神になるという予感を感じ「おぉ、あの子は…」とそれについても説明しかけたが(何でもかんでも先に言ってしまっては品がないかな)と結局何も言わずにいることにする。
「薄々 正体に気付いているらしい森の神以外には私は“ただのお喋り好きの神”とか“卓上遊戯好きな神だ”と思われているんだよ、よく話しかけては盤遊戯をしないかと誘っているからね。私は神力を抑えて賭けの神であるという素性を隠しているから、きっと『一体何を加護している神なのだろうか』と不思議に思われているんじゃないかな」
「どの神も盤遊戯の駒の進め方や石の打ち方に特徴があって面白かったなぁ。またそのうち手合わせをしたいと思っているんだけど、いくら私がそう持ちかけても応じてもらえないんだよ。1度手合わせに応じると夜明けまで私に付き合わされることになるからって…それ以降はひどく警戒されてしまうから。まぁ、神々同士がそうして手合わせをしているところに顔を出して勝敗の行方を眺める楽しみ方もあるし、それはそれでいいんだけどね」
“彼”はそう話しながら引き続き人々の生活ぶりを見て行った。
木を加工する職人達、衣の繕いをする人々、学びながらも元気に駆け回る子供達…
皆それぞれこの陸国で『生活』をしている。
争いの神はそれらを黙ったまま見ているばかりで“彼”の話に相槌を打つことすらしなかった。
何度か詳しく見たがっているような気配を漂わせた場所があったので「あっちの方をもっと見てみようか?」と“彼”が歩を進めてやったりもしたが、それでも特に何も言うことはなく、無言を貫いている。
争いの神が強く関心をもったのは 人々が外から持ち込んできた農具や調理具の刃物などを研いで手入れをしているところだったり、花への水遣りの順番で揉めて小競り合いをしている子供達、そして仕事の手順について対立して軽く言い争っている職人達についてだ。
争いの神が自身の神力の源となる争いや諍いに興味を持ったのも当然のことだっただろう。
しかしどちらもそれほど大事にはなりもせず、子供達は1つの杯を2人で持ちながら一緒に水遣りをするということで仲直りし、職人達の方も『仕方がねぇな、あとでメシでも食いながらまた文句言い合うか』と愉快そうに笑って終わりだった。
まだ建物の数も竈の数も少なく、窮屈で安定した暮らしを得ているとはいえない環境。
暮らすための苦労もかなりのものだ。
しかしそれでも人々はそんな苦労をもものともせず明るく楽しそうにしていて、賑やかに、穏やかに暮らしている。
“彼”は内心ひそかに、あらためて思った。『これでは争いの神が神力を得られなくなるのも当然のことだな』と。
争いの神の神力となるような人々の想いというのは、もはやこの陸国には存在していなかったのである。
あるのは人々の自然に感謝する気持ちや笑顔に笑い声、そしてほんの少しの小競り合いと和解といった温かなものばかりであり、夜明けから陽が傾き始めるまでの半日以上に亘ってくまなく陸国を見てまわったとしても それ以外の冷たく暗い何かはどこにも見当たらなかった。
そうしていよいよ日没が迫り始めたところで、“彼”は陸国の東側に位置する酪農地域の小高い丘の上に腰を下ろし、耳飾りの姿になっている争いの神と共に日暮れを見届けることにした。
“彼”が腰を下ろしたのは夜明けを眺めた山のちょうど反対側にある丘であり、遥か彼方遠くまで広がる海と沈みゆく陽を見ることのできる場所だ。
明るかった昼を終えて次第に茜色に色付く陸国。
空だけではなく陸国をぐるりと取り囲んでいる山々や大地、人々が建てた建物も色合いを変え始めている。
「1日の中でのこうした風景移り変わりというのは本当に素晴らしいものだよ。私は夜明けだけではなく、この日暮れから夜になる瞬間も好きなんだ。活気に満ちてゆく夜明けの気配もいいけど…人々が明かりを灯して1日を労ったり、微睡んだりしている気配がとても心地いいから」
「明るく色とりどりだった風景が徐々に茜に染まり、濃い青のようになって、そしてすっかり落ち着いた色合いになる。集まって談笑する人々の灯りが瞬いて、それと共に夜空にも星が瞬き始める…やがて人々が眠りにつくと月明りがありとあらゆるものを包み込むように照らすんだ。とても美しい光景だよ」
“彼”が言った通り、水平線の彼方へと陽が沈むにつれて陸国は1つ2つと明かりを灯していった。昼間訪れた中央の辺りからは煮炊きや食事の賑やかな様子がよく伝わってくる。
夜が深まり、明かりが消えて、陸国がすっかり寝静まるまで…“彼”は争いの神と共にそこでじっと風景を眺め続けていた。
もはやあれこれと話す必要もない。
2柱の神は 波の音や木々の枝葉が風にそよぐ音、森のどこかから響く梟の鳴き声などを聴きながら、夜半まで地界で過ごしたのだった。
本来であれば半日も経たないうちに目を醒ますはずなのだが、しかし彼は何日もそのまま 一度も目を醒ますことなく眠り続けた。
なかなか目を醒まさないのは争いの神のもとに届けられる神力が少なくなってきていることと関係がある。
互いに神力を混ぜ合った神々は眠っている間に意図せず神力を集め、結果的に以前よりも強い神力を身につけて目を醒ますことになるのだが、そうした強い神力というのはそもそも目を醒ますためにも必要なものなのだ。
普通であれば届けられる神力が…つまり陸国の人々からの想いが足りなくなることはない。だが争いの神の場合はそうではなかった。
森の木々や風、水といった暮らしに必要不可欠なものを大切に想う気持ちは増す一方で、陸国に住む人々は元から温厚であるということもあり、争いや諍いのきっかけとなる“憎む思い”や“傷つけたいという思い”を抱くことがめっきり減っていたのである。
争いの神は元々そうした人々の想いによって力を得ていた神なので、人々がそうしたものを望まなくなった時点で彼が得ることができる力も極端に少なくなっていた。
争いの神の存在が必要とされなくなり、人々から“忘れ去られかけている”ということだ。
小さな いざこざ や小競り合いくらいのそれではまったく足りない。
眠りから醒めるための神力を得るのにすら何日もの時間がかかっているということ自体がそれを物語っている。
“彼”はそんな争いの神のそばに居続けながら、目を醒ますその日をじっと待ち続けた。
それはやはり“情”というよりはある種の“責任感”によるものだっただろう。
上天界からやってきた自分のなすべきことをなす、というような責任感だ。
天界の他の神とは違って地界での果たすべき務めがあるわけではない“彼”は、ほとんど1日中 横笛や筝、琴を奏でては日が昇っては沈み、月が満ち欠けする様を眺めて過ごした。
神力を得た争いの神がきちんと目を醒ますその日が来るまで、“彼”は待っていた。
そんな最中には驚くべき再会もあった。
それはようやく陸国に降る雪が霙混じりになってきた頃のことだ。
いつものように“彼”が横笛を奏でていると屋敷の門前に覚えのある気配がして、まさかと思いながら向かったところ、何とそこに上天界にいるはずの あの九尾の神獣が佇んでいたのである。
「え!どうしてお前がここに…」
思いもしていなかった再会に驚いた“彼”は自らに【この子は上天界にまた戻ることができるか?】と問い、『できる』という答えを得て胸を撫で下ろす。
「すごいな、神獣というのは神とはまた違った特別な存在だとは思っていたけど…上天界と天界を好きに行き来することもできるとは。そうじゃないかと考えたこともあったけど、本当にそうだったんだな」
九尾の神獣との思わぬ再会はとても喜ばしいものだが、神獣の方はもっと喜んでいるらしく、いつもは薄い緑色をしている九つの尾や耳の先端を桃色に染めながら鼻面を“彼”の胸へとすり寄せてくる。
神獣はこうして気分などを毛色に反映させることが知られているが、滅多にそうすることはない。つまり今は毛色が変わってしまうほど喜んでいるらしいということのようだ。
再会を喜んで甘えてくる神獣を懐かしく思いながら抱きしめてやる“彼”。
首の辺りになにかあるのに気付いてその正体を探ってみると、そこにあったのはまさしくあの時“彼”が神力を分けて創った宝玉の首飾りだった。
親友とも呼べるほどの仲であった神獣と神力を介して会話をしたことで、“彼”はこの神獣が 主である縁の女神に『天界に行って賭けの神に会ってきたい』と相当しつこく頼み込んでいたことを知る。
上天界の神々をもってしても なしえない天界との行き来を行なうことができるのは神獣の類稀な能力であるわけだが、しかし実際はそんなことをする必要がなく、試したことのある者も1体もいなかったので、縁の女神は弟同然だった賭けの神と同様に『この神獣をも失ってしまうのではないか』と心配して天界へ行くことを許可するのを躊躇っていたらしい。
そこで神獣は自らの首にかけられた宝玉の神力を見せて【神獣は上天界と天界を好きに行き来することができるか】という問いをし、『できる』という結果が出たことを何度も何度も伝えることでようやく首を縦に振らせたのだった。
「まったく…主にそんな苦悩をさせるなんて。縁の女神は忙しいんだからそんな心労をかけちゃダメだろう」
(………)
「おまえがあまりにもしつこく訴えるもんだからさ、縁の女神も『このままだと務めの障りになるし、もう好きに行かせてやれば良いや』と思って許可したんじゃないか?」
(鼻面で繰り出される鋭い一撃)
「うわっ!悪かったって、冗談だよ!」
じゃれ合いながら気兼ねなく軽口を交わし合える仲というのは貴重なものだ。
“彼”は神獣を自身の屋敷のあの庭へと案内し、そして咲き誇る花々を自慢気に見せた。
その美しさに感嘆するように鼻面を近づけてから頬擦りをした神獣は長椅子のそばに座って辺りを見回す。
いつも様々な色や姿をした花や木が茂る上天界の庭園にいる神獣も、どうやらこの庭が気に入ったらしい。
「…え?今日だけじゃなくてこれからも度々ここへ来るつもりでいるのか?大丈夫なのかそんなことして」
(………)
「上天界に帰ったらよく沐浴をしないとダメだぞ、地界に行くわけじゃないとはいえどもこうやって行き来するからには身を清める必要が…っていうか縁の女神の務めの補佐はいいのか?お前も大概 寂しがり屋の困ったさんだな、仕事をほっぽりだすだなんて」
“彼”と神獣はそんな話をしながら上天界の他の神の近況などを語り合ってそこそこ長いこと共に過ごした。
…ふと、気配に気づいたらしい神獣があの渡り廊下の向こう側に耳を向けたときには、“彼”は「…まぁね、ちょっと重要な神を…大切なお客様をここに匿っているんだ」と肩をすくめながら応えたのだった。
ーーーーーーーー
眠っていた争いの神は、陸国が春を迎え、人々が地を耕し、種を蒔き始めた頃になってついにその目を醒ました。
地界での時間にして真冬から春までという長い時間にわたって眠り続けていた争いの神。
「…ようやく目を醒ましたね」
窓べりに腰かけて月琴を爪弾いていた“彼”はすぐに寝台のそばへと近寄っていって様子を窺ったが、しかし『かろうじて目を醒ますだけの神力をかき集めた』という状態の争いの神はそれこそ起き上がるのが精一杯という様子であり、魄や神力が弱っていることに変わりはなかった。
このように神力が低い状態では“良くないもの”から身を守ることができずとても危険なので、このまま地界へ向かうのは無謀というものだ。
そのため“彼”は争いの神に もう少し神力が満ちた後で陸国へ連れて行く ということを約束したのだった。
力が弱っているせいもあってめっきり口数が減った争いの神は塞ぎ込んでしまうかに思われたのだが、それでもなお なるべく早く神力を高めようと、泉でひたすら沐浴をしたり瞑想などをして毎日を過ごし、比較的すぐに陸国へ向かえるだけの神力を身に着けるに至った。
初めて会った時ほどではないにせよ いくらかの力強さを取り戻した争いの神。
そこで“彼”は約束を果たすべく、文字通り争いの神に手を差し伸べたのだった。
これまで散々外へ出ることを禁じて厳しくしてきたにもかかわらず急にそのような態度をとられて「な、何の真似だそれは……」と困惑する争いの神に、“彼”は「そう身構えないで」と柔らかな表情で言う。
「地界を見て回るために君の姿を一時的に装身具に変えるんだよ。いくらか回復したとはいえども君はまだ地界へ向かうのに万全とはいえない状態だろう?君としてはあまり良い気持ちはしないかもしれないけど 私の神力で君を包み込み、姿を装身具に変えれば、そういった神力が不足している分の悪い影響を最小限にとどめたまま地界を見に行くことができる。姿を元に戻されないのではないかと心配になるかもしれないが、そんなことはしないから安心して」
「これから地界は夜明けを迎える。夜明けから陽が沈んで月が昇るまで陸国を見て回り、その後 天界へ戻ってきたら必ず姿を元に戻すと約束するよ。君が見たいと言ったところはどこでも行くし、好きに見せるから…だから私を信じてこの手を取りなさい」
そう穏やかに諭すと、争いの神はしばらく躊躇ってから おずおずと“彼”の手を取った。
“彼”が重ねたその手に意識を集中させると次の瞬間には争いの神は1つの耳飾りとなって手のひらの上にいた。
争いの神が時折覗かせる瞳と同じ血のような真紅の玉と白銀の繊細な細工が見事な耳飾りだ。
真紅の玉をぐるりと囲うようにあしらわれている白銀の細工は“彼”の神力によって創り出されたものであり、よく見ずともそれが争いの神そのものである玉を守っているのだということが分かる。
右の耳にその耳飾りをつけた“彼”が「どうかな、きちんと周りの様子が見えていると思うけど」と訊ねると、争いの神は(…妙な気分だ)と神力で応えた。
「自由に動き回ることができないから不便に思うかもしれないが、何かあればいつでも何でも言って。希望通りにするよ」
「さぁ、それでは行こうか」
“彼”が渡り廊下へと一歩踏み出すと、“彼”も耳飾りに変えられている争いの神も、すんなりと部屋の外へ出ることができる。
ちょうど陸国では撒いた種が芽吹いて青々と茂り、あちこちには色とりどりの花が咲き誇っていて、見物に適した時期になっていた。
ーーーーー
基本的に眠ることがない神々にとっては早朝だとか深夜だとかは一切関係がないので、いつもであれば屋敷の外に出た時点で何かしらの神に出くわしたり花の化身達に囲まれることが多い。
しかしながら今はちょうど神々がそれぞれの務めに忙しい時期である上に、花の化身達も花のそばにいることが多いのであまりあちこち出歩いておらず、彼らは2人きりのまま誰にも会うことなく地界へと向かうことができる。
“彼”はまず陸国の西側にある大きな高い山の頂上へと向かい、平らな岩の上に腰を下ろした。
「ほら…見て、これからまさに陽が昇るところだ。とても美しい光景を見ることができるよ」
「この陸国がある場所というのは特別でね、今 私達がいる山の向こう側にも延々と厳しい山脈が続いているんだ。だけどさらにその奥にも広大な砂漠が広がっているんだよ。けっして外から人が来ることはできないし、陸国からも人が外に行けないようになっている。もしかしたら山を越えようと試みる者も出てくるかもしれないが…ある時点で陸国の神々の加護が届かなくなってしまうから結局は命を落とすことになるだろう。神の加護がなくなるということは 食べ物だとかの人間にとって必要不可欠なものが一切手に入らなくなるということだからね、仕方がないんだ」
そうして話しているうちに連なる山の向こう側がどんどんと明るくなり、そして姿を現し始めた陽の光が少しずつそこら中の山の斜面を照らし始める。
やがて遥か下の方にある平地…つまり陸国の様子も明らかになっていった。
その光景は実に見事なものだ。
みるみる鮮やかになってゆく大地。
草木の若々しい緑に、赤や薄紅や黄、青、紫の花々。
そして眩しく光を反射する川や湖と、真反対である東の方角に広がる広大な海。
今日一日が素晴らしい一日になることを知らしめるような…そんな朝の風景がそこに広がっている。
「…ここから見る景色が最も美しいと思うんだ。“陸国”と名付けられたこの地とそこに住む人々、そして神々がそれぞれ加護しているもの すべてを目にすることができる場所だからね」
「岩山の険しい山肌もこうして眺めてみると滑らかに見えるだろう?稜線が連なって遠くまで続く様は地上からでは観ることのできない特別なものだよ。他の天界の神々はほとんどが自身の加護しているものや場所から遠く離れることができない、つまりここまで来ることができないからこんな景色が望めるとは知らないんだ。本当に…特別な景色だよ」
「…さて、ではそろそろ移動しようか。陸国の見物をするならばもっと近くへ行かなくてはね」
“彼”とその右耳にある耳飾りはしばらくじっとその景色を眺めた後、今度は地を歩きながら徐々に賑わいを増してゆく陸国を見に行った。
お世辞にもまだまだ発展しているとは言えない陸国だが、しかし人々はすでに土地を中央から6つの区画に分け、それぞれに何棟もの家を建てて生活している。
神力で姿を人間から隠している“彼”は同じく神力を使い、争いの神に 陸国が6つの地域で構成されていることなどのありとあらゆる説明をした。
「…この辺りは工芸地域と呼ばれるようになる地だよ。今はまだそれほど木も畑もないけど、そのうち繊維や染料になる植物のための畑ができるし、奥の方には家や建具を造るのに適した木が植えられるようになるんだ。“工芸に特化した地域”だけど木の実が他の地よりも豊富に採れるという特徴も兼ね備えている」
「それぞれの地域で適したことが違うのは、それはこの天界の神々が自分の神力を分けるのにはいくつかの制約があるからだ。その制約というのは神や加護するものによってそれぞれ違うようだから何とも言えないけど…なんにせよあちこちに出向かなければならないとなるとどうしても丁寧な仕事をするには不足が出てくるものだからね、むしろこの方がいいのかもしれない。もちろん距離などは神にとっては何の問題にもなりはしないんだけど、そもそもここの神々は『あちこち手広くするよりも一つ一つしっかりと丁寧に加護をしたいという』と考えているようだし、そういうものが反映されてのことなのかな。なんだか妙な感じもするね、でも人間達にとってもその方が都合がいいんだ。不便なこともあるだろうが、しかし互いに補い、助け合わなければ暮らしていくことができないという環境が陸国を1つにするからね。人が多くなれば全体のつながりが薄れていってやがては分断を生むことになる。それでは行く末は見えている。でもこの地ではそれがない。これはこの地の特徴であり、他にはない特別なものだ」
“彼”はそうした説明を挟みながら後にすべての地域への中継地点となる『中央広場』を横切り、農業地域の方角に人々を集めて話している女性の姿を見つけて「…あの人だかりの真ん中で話している人が見える?」と争いの神に話しかける。
「あの女性は花の女神だ。ほら、君もよく飲んでいるあの茶を創り出した女神だよ。彼女は時折ああして地界に行って人の前に姿を現して畑の野菜のことや花について教えたりしているんだ。初めは務めのことをあまり重視していなかったけど、人々が熱心に話を聞くものだからすっかり親身になって花や作物についての助言をするようになった。今年は彼女がきちんと様子を見ているから作物はよく実って食料にも困らなくなるだろうし、それこそ花茶とか、染料になるようなものも良く手に入ることだろうね」
人間として陸国に姿を現しながら話をしている花の女神は『人間らしく』しているものの、しかし神であるが故の匂い立つような美しさや可憐さまでは隠しきれていないので、人間達は男女問わず見惚れながら話に聞き入っていた。
“彼”が助言をするために人間達の前へと姿を現していた時と同じような感じだ。
時々朗らかな笑い声もが聞こえてくるその様子をもう少し見ていたいところだったが、花の女神には“女神としての姿”ばかりを見せている“彼”はもし仮に元の今の姿を見られれば都合が悪いと思い、早々にその場から離れることにする。しかしその奥では花の化身達が忙しそうに走り回って花を見て回ったりしているのが見えたのだった。
陸国を歩いている最中に姿を見かけた神は花の女神だけではない。
人間として誰にでも姿が見えるようにしていたのは花の女神だけだったものの、他にも水の神や森の神、風の神がいて、皆人々の暮らしぶりを見守っていたのだ。
遠くから会釈を交し合うなどしつつ、“彼”はその神々についても説明していった。
「あれは森の神だよ、どうやら今日5本の木が切られるのでその様子を見守りにきたようだね。彼はとても聡明で天界や地界についてのあれやこれをよく理解しているんだ。私は他の神々には上天界から来た存在であることを隠しているけど、どうも彼には『少なくとも天界の神ではないらしい』ということがばれているみたいだな。それに以前盤を使った遊戯をしたときはとても強くて私も少々悔しい思いをしたほどなんだよ。…名誉のために言っておくがきちんとした勝負だぞ、私は自分の力をそういうことには使わないと言っただろう?」
「あの湖のそばにいる神は水の神だ。少し控えめで屋敷もここから遠くに構えているのでにぎやかなところには姿をあまり現さないけど、しかし実際はとても深い想いを抱えている神なんだよ。彼が果たさなければならない役目はとても多いからその分苦労は絶えないだろう、しかしとても情が深い神だ」
「…ははっ、あの丘のところに立っている神が見える?彼は風の神でね、口数は少ないけれども強い神力を備えている神なんだ。彼が風を操るからこそ人間達は海に船を出して漁をすることができるんだよ。他にも暮らしの中で風を必要とする場面は多いから…今も忙しくしているらしい」
酪農地域では地に手のひらを当てて神力を流し込み、満足して微笑んでいる愛らしい少年姿の小さな神も見かけた。
裾が薄い黄緑の白い衣を身に纏っている焦げ茶色の髪をしたその小さな神を一目見た“彼”は、後にその神が成長して この地になくてはならない神になるという予感を感じ「おぉ、あの子は…」とそれについても説明しかけたが(何でもかんでも先に言ってしまっては品がないかな)と結局何も言わずにいることにする。
「薄々 正体に気付いているらしい森の神以外には私は“ただのお喋り好きの神”とか“卓上遊戯好きな神だ”と思われているんだよ、よく話しかけては盤遊戯をしないかと誘っているからね。私は神力を抑えて賭けの神であるという素性を隠しているから、きっと『一体何を加護している神なのだろうか』と不思議に思われているんじゃないかな」
「どの神も盤遊戯の駒の進め方や石の打ち方に特徴があって面白かったなぁ。またそのうち手合わせをしたいと思っているんだけど、いくら私がそう持ちかけても応じてもらえないんだよ。1度手合わせに応じると夜明けまで私に付き合わされることになるからって…それ以降はひどく警戒されてしまうから。まぁ、神々同士がそうして手合わせをしているところに顔を出して勝敗の行方を眺める楽しみ方もあるし、それはそれでいいんだけどね」
“彼”はそう話しながら引き続き人々の生活ぶりを見て行った。
木を加工する職人達、衣の繕いをする人々、学びながらも元気に駆け回る子供達…
皆それぞれこの陸国で『生活』をしている。
争いの神はそれらを黙ったまま見ているばかりで“彼”の話に相槌を打つことすらしなかった。
何度か詳しく見たがっているような気配を漂わせた場所があったので「あっちの方をもっと見てみようか?」と“彼”が歩を進めてやったりもしたが、それでも特に何も言うことはなく、無言を貫いている。
争いの神が強く関心をもったのは 人々が外から持ち込んできた農具や調理具の刃物などを研いで手入れをしているところだったり、花への水遣りの順番で揉めて小競り合いをしている子供達、そして仕事の手順について対立して軽く言い争っている職人達についてだ。
争いの神が自身の神力の源となる争いや諍いに興味を持ったのも当然のことだっただろう。
しかしどちらもそれほど大事にはなりもせず、子供達は1つの杯を2人で持ちながら一緒に水遣りをするということで仲直りし、職人達の方も『仕方がねぇな、あとでメシでも食いながらまた文句言い合うか』と愉快そうに笑って終わりだった。
まだ建物の数も竈の数も少なく、窮屈で安定した暮らしを得ているとはいえない環境。
暮らすための苦労もかなりのものだ。
しかしそれでも人々はそんな苦労をもものともせず明るく楽しそうにしていて、賑やかに、穏やかに暮らしている。
“彼”は内心ひそかに、あらためて思った。『これでは争いの神が神力を得られなくなるのも当然のことだな』と。
争いの神の神力となるような人々の想いというのは、もはやこの陸国には存在していなかったのである。
あるのは人々の自然に感謝する気持ちや笑顔に笑い声、そしてほんの少しの小競り合いと和解といった温かなものばかりであり、夜明けから陽が傾き始めるまでの半日以上に亘ってくまなく陸国を見てまわったとしても それ以外の冷たく暗い何かはどこにも見当たらなかった。
そうしていよいよ日没が迫り始めたところで、“彼”は陸国の東側に位置する酪農地域の小高い丘の上に腰を下ろし、耳飾りの姿になっている争いの神と共に日暮れを見届けることにした。
“彼”が腰を下ろしたのは夜明けを眺めた山のちょうど反対側にある丘であり、遥か彼方遠くまで広がる海と沈みゆく陽を見ることのできる場所だ。
明るかった昼を終えて次第に茜色に色付く陸国。
空だけではなく陸国をぐるりと取り囲んでいる山々や大地、人々が建てた建物も色合いを変え始めている。
「1日の中でのこうした風景移り変わりというのは本当に素晴らしいものだよ。私は夜明けだけではなく、この日暮れから夜になる瞬間も好きなんだ。活気に満ちてゆく夜明けの気配もいいけど…人々が明かりを灯して1日を労ったり、微睡んだりしている気配がとても心地いいから」
「明るく色とりどりだった風景が徐々に茜に染まり、濃い青のようになって、そしてすっかり落ち着いた色合いになる。集まって談笑する人々の灯りが瞬いて、それと共に夜空にも星が瞬き始める…やがて人々が眠りにつくと月明りがありとあらゆるものを包み込むように照らすんだ。とても美しい光景だよ」
“彼”が言った通り、水平線の彼方へと陽が沈むにつれて陸国は1つ2つと明かりを灯していった。昼間訪れた中央の辺りからは煮炊きや食事の賑やかな様子がよく伝わってくる。
夜が深まり、明かりが消えて、陸国がすっかり寝静まるまで…“彼”は争いの神と共にそこでじっと風景を眺め続けていた。
もはやあれこれと話す必要もない。
2柱の神は 波の音や木々の枝葉が風にそよぐ音、森のどこかから響く梟の鳴き声などを聴きながら、夜半まで地界で過ごしたのだった。
10
あなたにおすすめの小説
【完結済】あの日、王子の隣を去った俺は、いまもあなたを想っている
キノア9g
BL
かつて、誰よりも大切だった人と別れた――それが、すべての始まりだった。
今はただ、冒険者として任務をこなす日々。けれどある日、思いがけず「彼」と再び顔を合わせることになる。
魔法と剣が支配するリオセルト大陸。
平和を取り戻しつつあるこの世界で、心に火種を抱えたふたりが、交差する。
過去を捨てたはずの男と、捨てきれなかった男。
すれ違った時間の中に、まだ消えていない想いがある。
――これは、「終わったはずの恋」に、もう一度立ち向かう物語。
切なくも温かい、“再会”から始まるファンタジーBL。
全8話
お題『復縁/元恋人と3年後に再会/主人公は冒険者/身を引いた形』設定担当AI /c
今まで尽してきた私に、妾になれと言うんですか…?
水垣するめ
恋愛
主人公伯爵家のメアリー・キングスレーは公爵家長男のロビン・ウィンターと婚約していた。
メアリーは幼い頃から公爵のロビンと釣り合うように厳しい教育を受けていた。
そして学園に通い始めてからもロビンのために、生徒会の仕事を請け負い、尽していた。
しかしある日突然、ロビンは平民の女性を連れてきて「彼女を正妻にする!」と宣言した。
そしえメアリーには「お前は妾にする」と言ってきて…。
メアリーはロビンに失望し、婚約破棄をする。
婚約破棄は面子に関わるとロビンは引き留めようとしたが、メアリーは婚約破棄を押し通す。
そしてその後、ロビンのメアリーに対する仕打ちを知った王子や、周囲の貴族はロビンを責め始める…。
※小説家になろうでも掲載しています。
【完結】家族に虐げられた高雅な銀狼Ωと慈愛に満ちた美形αが出会い愛を知る *挿絵入れました*
亜沙美多郎
BL
銀狼アシェルは、一週間続いた高熱で突然変異を起こしオメガとなった。代々アルファしか産まれたことのない銀狼の家系で唯一の……。
それでも医者の家に長男として生まれ、父の病院を受け継ぐためにアルファと偽りアルファ専門の学校へ通っている。
そんなある日、定期的にやってくる発情期に備え、家から離れた別宅に移動していると突然ヒートが始まってしまう。
予定外のヒートにいつもよりも症状が酷い。足がガクガクと震え、蹲ったまま倒れてしまった。
そこに現れたのが雪豹のフォーリア。フォーリアは母とお茶屋さんを営んでいる。でもそれは表向きで、本当は様々なハーブを調合して質の良いオメガ専用抑制剤を作っているのだった。
発情したアシェルを見つけ、介抱したことから二人の秘密の時間が始まった。
アルファに戻りたいオメガのアシェル。オメガになりたかったアルファのフォーリア。真実を知るたびに惹かれ合う2人の運命は……。
*フォーリア8歳、アシェル18歳スタート。
*オメガバースの独自設定があります。
*性描写のあるストーリーには★マークを付けます。
希少なΩだと隠して生きてきた薬師は、視察に来た冷徹なα騎士団長に一瞬で見抜かれ「お前は俺の番だ」と帝都に連れ去られてしまう
水凪しおん
BL
「君は、今日から俺のものだ」
辺境の村で薬師として静かに暮らす青年カイリ。彼には誰にも言えない秘密があった。それは希少なΩ(オメガ)でありながら、その性を偽りβ(ベータ)として生きていること。
ある日、村を訪れたのは『帝国の氷盾』と畏れられる冷徹な騎士団総長、リアム。彼は最上級のα(アルファ)であり、カイリが必死に隠してきたΩの資質をいとも簡単に見抜いてしまう。
「お前のその特異な力を、帝国のために使え」
強引に帝都へ連れ去られ、リアムの屋敷で“偽りの主従関係”を結ぶことになったカイリ。冷たい命令とは裏腹に、リアムが時折見せる不器用な優しさと孤独を秘めた瞳に、カイリの心は次第に揺らいでいく。
しかし、カイリの持つ特別なフェロモンは帝国の覇権を揺るがす甘美な毒。やがて二人は、宮廷を渦巻く巨大な陰謀に巻き込まれていく――。
運命の番(つがい)に抗う不遇のΩと、愛を知らない最強α騎士。
偽りの関係から始まる、甘く切ない身分差ファンタジー・ラブ!
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる