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四年目の春の話(最終章)

最終話 こもれびの中で

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 翌朝。午前六時。
 けっきょく、朝まではしなかった。むしろいつもより早く寝た。何度かして、午前0時くらいまで新婚旅行の話や、今後の話や、雑談をしていたら眠くなっていつの間にか眠っていた。ふたりとも疲れていたのである。
 ルイスは朝から仕事なので、スーツに着替える。
 レンは午前中は家のことをし、午後にマリアンヌを迎えにいって、親族たちを見送って、夕方から仕事の予定である。
 ルイスが身支度を終えて着替え部屋を出ると、キッチンにレンが立っていた。コーヒーの香りが漂う。レンは寝間着姿の寝ぼけ眼で、髪の毛がはねている。可愛くてルイスは少し笑う。

「おはよう。まだ寝ていてもいいのに」
「おはよう。起きちゃった。散歩でもしようかな。会社の近くまで送っていくよ」
「嬉しいな。そうだ、川べりでも歩こうか。桜が満開だろうね」

 朝食を摂って、七時前にふたりで外に出た。雨が降りそうな天気なので、傘を持っていく。レンはダウンジャケット、ルイスは春物のシンプルなトレンチコートを羽織る。
 上空では分厚い雲が流れていく。
 思っていたとおり、ルイスの会社の近くを流れる川沿いの桜並木は満開で、時折風にあおられて花弁を散らされている。橋のほうは出勤する人たちが通り過ぎるが、橋から離れると人通りはない。川沿いを歩いて、しばらくして、桜の下にあるベンチに掛ける。
 朝の光が差して、濡れた花がきらきらと輝いている。花は少しずつ落ちている。よくよく見れば、木々には緑が芽吹いている。

「雨だ」

 ぽつぽつと打つ水滴にレンが先に気づいて、二人ともそれぞれ傘を差した。
 傘の表面に、花びらとしずくが垂れる。
 ルイスは言った。

「花の雨だね」
「なんです?」
「桜の花に降りそそぐ雨のこと。桜雨、桜流しともいう」

 ルイスのほうが日本語が達者である。

「ただの通り雨みたいだ。ほら、雲が流れていく。速いね。レン、見て。東の空は晴れてる。雨はすぐに止むよ」

 たなびく東風の行方を追う。春の風は光るように流れていく。
 分厚い低い雲は千切れて、雨はやがて止んだ。
 傘を高くかかげる。もう降っていない。雨粒が花弁とともに傘に垂れて、傘のふちからぽたぽたと落ちる。
 レンは傘を畳みながら言った。

「本当に止んじゃった」

 ルイスの言うとおりになった。ルイスも傘を畳む。

「ふふ。実は僕、魔法使いなんだ。何でもわかるし、叶えられるよ」

 目の前に広がる川は朝日に満ちて、きらきらと輝いている。
 春の空の向こう、千切れた厚い雲の隙間から、放射状に光が洩れている。
 ルイスは手で空を示した。

「あ、見て、レン。空がきれい。Angels ladder。天使の梯子だよ。薄明光線。光芒、ヤコブの梯子……地上と天国を繋いでいる……旧約聖書の創世記にある。ヤコブの見た夢」
「何でも知っているね」
「僕は何でも知っているし、何でも思い通りになるし、未来のことも大体わかるんだ」
「未来まで見えちゃうのか」

 レンは笑った。
 ルイスも笑う。

「うん。昔からそう。あ、でも、いま思うと、わからないこともあったな。たとえば、日本語を学んだこととか」

 英語と中国語とスペイン語が話せたら、世界の殆どの人と話せるようになる。ルイスはフランス語も話せる。
 日本語話者は世界的には非常に少なく、日本人は自分たちが思うほど英語が話せないわけではない。それに、小学生の頃はインターナショナルスクールに通学しており、英語が公用語だった。だからルイスにとって、日本語は、日常会話程度でよかったのである。
 レンは言った。

「俺より日本語上手いよ」
「そうなんだよ。ふふ。なんてね。目的もわからないのに、ただ勉強して吸収していったんだ。小さい頃から、非合理的なことはしない方なのに。わかったのは、最近のことだよ。僕は君に出会うために、こんなに話せるようになったんだ」
「じゃあ、もし言葉が通じなかったら、俺たちはこうしていないのかな」

 そんなことはないとレンは思う。
 ルイスは答える。

「ううん。出会ってさえいれば、きっと僕たちはお互いを知ろうとする。言葉が通じなくたって、僕はかならずレンを好きになる」
「俺もそうです。俺だって、あなたを好きになる」
「だけど、そもそも僕の日本語が上手くなかったら、日本には戻らなかったんだよね。アメリカか、もしくはシンガポール。シミュレーションしてみたけれど、どうも出会わないんだ」

 レンとの出会いのことを考えると、ルイスは運命などというものの存在を感じてしまう。あまり信じていないのに。
 どこか気まぐれのような、過去の自分の必死さがなければ、今頃どこで、誰と、何をしていたのだろうか。そして、レンも、誰と何をしていたのだろうか。そう考えると、なんだか切ない。
 レンは、奇妙な自信をもって、得意気に言った。

「そのときは、今度は俺のほうが、会いにいきます。だから、そんなに不安がらないで」

 いつもは自分のほうが突拍子もないのに、これについてはレンのほうに無理があるので、ルイスは笑った。

「本当? 安心していてもいい?」
「うん。世界中のどこにいても、アメリカでも、シンガポールでも、南極だって、きっと見つけるから」

 それはいいなとルイスは思って、まずはニューヨークかシンガポールの雑踏の中で出会う自分たちを想像してみる。南極はなかろうが面白い。
 そうか。見つけてくれるのか。

「ふふ。英語の勉強をしないといけないよ」
「さいきん、ちょっとやってます」
「知ってるよ。テキストを開いては寝ているでしょう」
「……なんでばれてるんだろ」
「さあね」

 レンが内緒で勉強を試みていたのはいじらしい。隠し事なんてできないのに。ただし、算数も勉強する必要がある。経営者なのに数字の感覚に弱いのは危ないとルイスは思っている。英語よりも喫緊の課題である。
 ベンチを立って、満開の桜の下にふたりで立った。ふたりきりだ。
 桜ごしに降り注ぐ光が、ルイスの金色の髪を照らす。空色の瞳がレンを見る。
 レンはルイスを、天使のように美しいと思う。彼は三十五歳にしていまだ美しいのである。
 そろそろ会社に行かないといけない。だが、お互いに離れるのが惜しい。
 ルイスは、レンを見つめながら微笑んだ。
 昨日も誓ったけれど、と前置きをする。

「レン。僕は、君と生きていきます」

 レンも、ルイスを見つめる。
 その眼差しに、ルイスは微笑む。
 なぜいつまで経っても可愛いままなのだろう。
 眠たげな顔も、眩しさに目を細める様子も、自分を見るときの優しい微笑みも、ときに無理をする様子も、包み込むような心も、何もかもひっくるめて愛おしい。彼の心を手に入れたくて、手に入れられなくて苦しんで、そばにいるだけでいいのだと気づいた。この子と家族になった。これからも一緒に生きていく。
 レンはルイスを、初めて出会ったときから好きだった。一目惚れだった。ずっと好きなままだ。
 あれから丸三年が経つ。
 思いがけないことばかりが起こり、今ここにふたりで立っている。
 レンは不思議でたまらない。同じ場所にいながら、なんと遠いところに辿り着いてしまったのだろうか。そんな風に思う。だがいまは何も恐れることがない。
 恋で、そして、いつの間にか愛になった。大切な家族になり、かけがえのない存在だ。
 ルイスが笑うとレンは嬉しい。
 レンが笑うとルイスも嬉しい。
 相手が笑うと自分は幸せなのだと、ふたりとも思っている。こんなにもあたたかい気持ちがあることを、彼に出会うまで知らなかった。時々苦しくなるほど愛しい。気持ちが満たされて、溢れる。
 レンも言う。

「俺も、あなたと生きていきます」

 同じ指輪をはめたお互いの手を取る。誰もいない。
 目を見合わせて、額を寄せる。胸が熱くなる。
 鼻先を、頬を寄せる。
 目を閉じながらそっと唇を重ねる。

 ふたりで、満開の桜の木が作る、風に揺れる木漏れ日の中にいる。
 薄紅色の桜の花びらが、光を受けながら、はらはらとふたりに降り注いでいる。





 <終わり>


 お読みいただきありがとうございました。
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