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2 就職活動と確認事項
二 おかえりなさい
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午後七時。
玄関が開く音がして、自室にいた俺は一直線に長い廊下に顔を出す。マンションとは思えないような広い玄関の土間に、仕事帰りの文弥さんが立っていた。スーツ姿でカバンやら紙袋やらをたくさん持っている。
「ただいま」
文弥さんと目が合って、俺も言った。
「お、おかえりなさい」
こんな感じかな? 夫婦って。
セックスをすることはわかったけれど、つがいが他に何をするのか知らなくて、とりあえず出迎えてみようかなって。
文弥さんは革靴を脱いで、手にしていた荷物すべてを放り出すと、長い廊下をバレリーナのようにくるくるしながら俺の眼前までやってきてぴたっと止まり、俺をひしっと抱きしめた。
「尚くーん!」
「は、はい」
「尚くん~! ただいまー!」
なんか大喜びしてる……。
とても喜んで俺の頭を唇であむあむしているし、強く抱きしめてくるから、うれしいってことがダイレクトに伝わってくる。こんな人なんだ、文弥さん。知らなかった。
文弥さんは仕事帰りなのにすごくいいにおいがする。このにおいを嗅いでいるとすごく落ち着くし、文弥さんのにおいだ、って俺も不思議と嬉しくなってくる。
ふつうの人付き合いだったときも、たぶん俺は雪野さんのにおいが好ましかった。セックスしてからは、解像度が高くなったみたいに、この汗のにおいが肌に合うとわかる。他人の汗がこんなにいいにおいだなんて。
「尚くん甘いにおいがする」
「文弥さんも……」
俺がおそるおそる背中に手を回すと、文弥さんはもっと強く抱きしめてくる。
「んん……尚くん……好き……嬉しい……」
もちろん、文弥さんにとって、煩わしさ避けの契約つがいなのは間違いないんだろうけど、嫌いなひととわざわざ契約したいとは思わないだろうから、文弥さんは俺のことが嫌いではなくて、むしろ好きで、俺が困っているのを助けるという意味でも、俺となら契約つがいもありって思ってくれたわけで、それはそれで俺もうれしい。
こんなふうに誰かから大事にする対象として扱われることなんて今までなかった。ひ弱で小柄で、Ωだと知られてやっぱりね、と言われたこともある。一般社会で、Ωは生きづらい。
女子からは本能的になのか避けられるし、男からも、異質さがあるのか、俺はふつうに接しているつもりでも、なんとなくよそよそしくされがち。とくにバース検査があった中学生以降は、それまでは友達だったひとすらも離れていって、俺はずっとひとりぼっち。
時々、たぶんαから、性的な興味を抱いているようなねちっこい視線を向けられることがあって、俺はΩだってことを必死に隠して生きてきた。次第に俺も他人に関わらないように気をつけるようになって、もともとひとりぼっちだけれど、俺のほうも諦めた、そんな感じ。
でも文弥さんからはそういう下心をまったく感じたことがなかった。優しいひとで、優しい目と声を向けてくれていて、俺は安心するだけだった。文弥さんは俺の、初めての友達だったのかもしれない。文弥さんは、俺を仮のつがいにしてもいいと思っていて、そこには邪な目線もあったかもしれないけれど、俺にはそれを感じさせなかった。
それは、たぶん、文弥さんが年上で、適齢期だからだと思う。俺に性的な興味をもっていたんだとしても、文弥さんの生活にセックスがあるのは自然なことだから、とりたてて意識するものではないんだ。
「尚くん、体は平気?」
「あ、はい」
ただいまのちゅう、と文弥さんはキスしてくる。軽いキスだった。深くくるのかなと思ったのに。
離れた文弥さんは顔が真っ赤になってる。どうしたんだろう。
「?」
「新婚生活が、あまりにもうれしくて……」
「あはは」
「もう一度、言って欲しいです」
「おかえりなさい? ですか?」
「ただいま尚くん!!!」
「あはは」
そんなに夫婦生活がしたかったのなら、ちゃんとした生涯の配偶者を選べばよかったのに。こんなかりそめの、一年ポッキリの契約つがい相手に、新婚生活を味わっちゃっていいのかな? だって、はじめてのことじゃん。はじめてって最初の一回しかないのに。幸せそうなのがかえって心苦しいな。
契約が終わったあとに、文弥さんが迎えるであろう奥さんにも、なんだか悪い気がしてしまうね。文弥さん、せっかくのはじめてを俺と経験してしまうこと、将来的に後悔しないのかなぁ。
「あの、ごはん……」
「あっ、メッセージ見ました? 新婚の、僕と尚くんの新婚のお祝いに何かいいものを食べにいきましょうか」
「え、見てなかったです。すみません、勝手に作って」
「作った……!? 尚くんが……!?」
「あ、はい」
こうみえて自炊はするほう。ひとりぐらしの貧乏大学生だから節約ごはんを研究してた。といっても水炊きにしただけ。一緒に食べるのかなと思って、二人分。
「僕も食べていいの……?」
「あっ、はい、もちろん」
「ありがとう……!?」
ダイニングテーブルに向かい合って鍋をつついているあいだ、文弥さんはずっと、美味しい美味しいといってにこにこしていた。
玄関が開く音がして、自室にいた俺は一直線に長い廊下に顔を出す。マンションとは思えないような広い玄関の土間に、仕事帰りの文弥さんが立っていた。スーツ姿でカバンやら紙袋やらをたくさん持っている。
「ただいま」
文弥さんと目が合って、俺も言った。
「お、おかえりなさい」
こんな感じかな? 夫婦って。
セックスをすることはわかったけれど、つがいが他に何をするのか知らなくて、とりあえず出迎えてみようかなって。
文弥さんは革靴を脱いで、手にしていた荷物すべてを放り出すと、長い廊下をバレリーナのようにくるくるしながら俺の眼前までやってきてぴたっと止まり、俺をひしっと抱きしめた。
「尚くーん!」
「は、はい」
「尚くん~! ただいまー!」
なんか大喜びしてる……。
とても喜んで俺の頭を唇であむあむしているし、強く抱きしめてくるから、うれしいってことがダイレクトに伝わってくる。こんな人なんだ、文弥さん。知らなかった。
文弥さんは仕事帰りなのにすごくいいにおいがする。このにおいを嗅いでいるとすごく落ち着くし、文弥さんのにおいだ、って俺も不思議と嬉しくなってくる。
ふつうの人付き合いだったときも、たぶん俺は雪野さんのにおいが好ましかった。セックスしてからは、解像度が高くなったみたいに、この汗のにおいが肌に合うとわかる。他人の汗がこんなにいいにおいだなんて。
「尚くん甘いにおいがする」
「文弥さんも……」
俺がおそるおそる背中に手を回すと、文弥さんはもっと強く抱きしめてくる。
「んん……尚くん……好き……嬉しい……」
もちろん、文弥さんにとって、煩わしさ避けの契約つがいなのは間違いないんだろうけど、嫌いなひととわざわざ契約したいとは思わないだろうから、文弥さんは俺のことが嫌いではなくて、むしろ好きで、俺が困っているのを助けるという意味でも、俺となら契約つがいもありって思ってくれたわけで、それはそれで俺もうれしい。
こんなふうに誰かから大事にする対象として扱われることなんて今までなかった。ひ弱で小柄で、Ωだと知られてやっぱりね、と言われたこともある。一般社会で、Ωは生きづらい。
女子からは本能的になのか避けられるし、男からも、異質さがあるのか、俺はふつうに接しているつもりでも、なんとなくよそよそしくされがち。とくにバース検査があった中学生以降は、それまでは友達だったひとすらも離れていって、俺はずっとひとりぼっち。
時々、たぶんαから、性的な興味を抱いているようなねちっこい視線を向けられることがあって、俺はΩだってことを必死に隠して生きてきた。次第に俺も他人に関わらないように気をつけるようになって、もともとひとりぼっちだけれど、俺のほうも諦めた、そんな感じ。
でも文弥さんからはそういう下心をまったく感じたことがなかった。優しいひとで、優しい目と声を向けてくれていて、俺は安心するだけだった。文弥さんは俺の、初めての友達だったのかもしれない。文弥さんは、俺を仮のつがいにしてもいいと思っていて、そこには邪な目線もあったかもしれないけれど、俺にはそれを感じさせなかった。
それは、たぶん、文弥さんが年上で、適齢期だからだと思う。俺に性的な興味をもっていたんだとしても、文弥さんの生活にセックスがあるのは自然なことだから、とりたてて意識するものではないんだ。
「尚くん、体は平気?」
「あ、はい」
ただいまのちゅう、と文弥さんはキスしてくる。軽いキスだった。深くくるのかなと思ったのに。
離れた文弥さんは顔が真っ赤になってる。どうしたんだろう。
「?」
「新婚生活が、あまりにもうれしくて……」
「あはは」
「もう一度、言って欲しいです」
「おかえりなさい? ですか?」
「ただいま尚くん!!!」
「あはは」
そんなに夫婦生活がしたかったのなら、ちゃんとした生涯の配偶者を選べばよかったのに。こんなかりそめの、一年ポッキリの契約つがい相手に、新婚生活を味わっちゃっていいのかな? だって、はじめてのことじゃん。はじめてって最初の一回しかないのに。幸せそうなのがかえって心苦しいな。
契約が終わったあとに、文弥さんが迎えるであろう奥さんにも、なんだか悪い気がしてしまうね。文弥さん、せっかくのはじめてを俺と経験してしまうこと、将来的に後悔しないのかなぁ。
「あの、ごはん……」
「あっ、メッセージ見ました? 新婚の、僕と尚くんの新婚のお祝いに何かいいものを食べにいきましょうか」
「え、見てなかったです。すみません、勝手に作って」
「作った……!? 尚くんが……!?」
「あ、はい」
こうみえて自炊はするほう。ひとりぐらしの貧乏大学生だから節約ごはんを研究してた。といっても水炊きにしただけ。一緒に食べるのかなと思って、二人分。
「僕も食べていいの……?」
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「ありがとう……!?」
ダイニングテーブルに向かい合って鍋をつついているあいだ、文弥さんはずっと、美味しい美味しいといってにこにこしていた。
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