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第8章『弁当』
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第8章『弁当』
「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
宛がわれた客間の前でぺこりと頭を下げれば、目の前にいた高根はにっこりと笑って踵を返し二階へと向かって歩いて行き、凛はそれを見て客間へと入り、襖を閉めた。
明かりを常夜灯に落とし布団へと入り、天井を見詰める。思い出すのは先程の高根の言葉、
『使用人じゃない、立場は対等、君は好きにやって良いんだ』
その言葉を何度も何度も胸中で繰り返し、浮かんだ涙を手の甲でごしごしと拭いた。
嫁ぐ前から、両親にも同じ様に扱われていた。兄も祖父もいた頃は二人が両親と真っ向から対立しており、祖父には逆らえなかった両親の態度は多少は違ったものの、それでも祖父と兄がいつも共にいてくれたわけでもなかった。
そして訪れた祖父の病没、喪が明ける事すら待たずに
「前々から決まっていた事なんだ、何度も言い付けていただろうが!」
父にそう吐き捨てられ、父の仕事の関係者の息子へと嫁がされた。
兄は恐らくそれを知らされてはいなかっただろう、許嫁がいるという事は知っていたし彼等が親子揃って家に来た時に居合わせていた事も有ったから顔は知っている筈だが、両親に似ず祖父に似た兄を両親は疎ましく思っていたし、強硬に結婚に反対していた兄に詳細を教えた筈が無い。
祖父と兄、孫であり妹である自分を可愛がってくれたあの優しさと温かさ、それを思い出し高根にも似たものを感じ、溢れ出る涙をまた拭う。
二人が生きていれば恐らく今の自分の境遇は違っていたのだろう、両親の扱いが良いものになったとは思わないが、それでも嫁ぎぞんざいに扱われた挙句に離縁されて叩き出される様な事にはならなかったに違い無い。
そんな状況の中で自分を拾ってくれた高根、どれだけ感謝しているのか、きっと彼は知らないだろう。この世の終わりとすら思っていた自分に手を差し伸べてくれ、人間らしい生活を与えてくれた。その上、自分が思い描き渇望していた穏やかな結婚生活の疑似体験迄意図せずともさせてくれている彼には本当に感謝しか無い。
あんなに優しい高根の事だ、先々代総司令の孫娘である事を伝えれば、兄や両親の事も含めて今後に手を尽くしてくれるのだろうが、それはきっと彼の負担になる。海兵隊総司令の親族として、その任がどれだけの重責であるかは分かっている、そんな自分がこれ以上の負担を掛ける事だけは有ってはならないと自らを戒めつつ、もう寝よう、凛はそんな風に考えながら静かに目を閉じた。
「……凛ちゃん、昨日の煮物、残ってる?」
「はい……私が今日お昼に頂こうと思ってたんですが……良いですか?」
翌朝の食卓、鯖の味醂干しと出汁巻き卵と青菜のおひたし、そして白飯と味噌汁を見て、高根が凛へと問い掛ける。これだけでは足りなかったのかと思いつつ凛が答えれば、高根の返答は少々想定外のものだった。
「いや……俺の昼飯に弁当で持たせて欲しいんだけど、量が無いなら凛ちゃんの昼は好きなもの食べて良いからさ」
「お弁当の方が良いなら作りますけど……残り物で良いんですか?」
「いや、わざわざ作ってもらうのは悪ぃからさ。それに、あの煮物、凄い美味かったから、あれが良い」
「分かりました、じゃあ、詰めますね。それと、高根さんの迷惑でなければ、お弁当作りますよ?」
「え、良いの?本当に?」
「はい。料理は好きですから、迷惑でなければ」
「いやいや、迷惑とかこっちの方だよ。有り難うな、お願いします」
「はい」
やや細身ながらも逞しい体躯とは正反対の恐る恐るといった風情の高根の様子、それに思わず口元が緩みつつ弁当作りを申し出れば、彼の表情は今度はぱっと明るくなり、その後に手を合わせ挨拶をして朝食を食べ始めるその様子を、凛は目を細めて見詰めていた。
「じゃあ、これ、お弁当です。お弁当箱が無くて蓋付きの容器に入れただけなので、傾けたりすると零れちゃうので気を付けて下さいね」
「おー、ありがとーなー。弁当箱買って来るからさ、明日からも頼むな」
「はい、行ってらっしゃい」
「うん、行って来ます」
まるで壊れ物を扱うかの様に包みをそっと受け取り小脇に抱えて玄関を出て行く高根、昨日の残り物と白飯を詰めただけの中身なのに、そんな事を思いながら
「……何か……可愛い」
そう呟き、小さく噴き出した。
孫、そして妹には滅法甘かった祖父と兄ですらああも喜ぶ事は無かったが、違いは関係性なのか性格か。十八も年上の大人の男に対して思う事ではないのかも知れないが、見た目とはちぐはぐな何とも言えない可愛らしさにまた小さく笑い、家事に取り掛かろうと踵を返した。
掃除と洗濯を済ませた後は客間の布団を干し、高根の寝台の布団も干してしまえば後は特に目立った用事は思いつかない。高根は明日からは弁当も頼むと言っていたから、その為の食材の買い出しと、常備菜の類の作り置きもしておいた方が良さそうだと思い至り、買い物に行こうと身支度を整える。
出掛ける前に紙と鉛筆を出して来てどんな組み合わせにしようかと買う物を考えながらそれを書きつけ、こんなに穏やかで且つ浮足立つ様なくすぐったさを感じるのは初めてかも知れない、と、そう思った。
結婚する迄は祖父や兄よりも両親、特に専業主婦だった母と過ごす時間の方が圧倒的に多かったし、結婚してからは買い物以外の外出も制限され婚家の人間以外との接触はほぼ無かった。そんな生活の中で作った料理を喜ばれる事も無く、料理も、それに伴う買い物にも、喜びや幸せを感じた事は一度も無く、それが普通なのだろうとすら思っていた。
けれど、そうではないのだと高根が教えてくれた、今はまだ少し構えてしまうし怖いとも思うけれど、少しずつ慣れて行けば良いのだろうか、高根は何と言うだろうか。身を立て直す迄の期間限定とは言えど、その間に彼の恩に報いる事が出来れば良いけれど、そんな事を思いつつ、凛は紙を手に立ち上がり、買い物に出ようかとゆっくりと歩き出した。
「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
宛がわれた客間の前でぺこりと頭を下げれば、目の前にいた高根はにっこりと笑って踵を返し二階へと向かって歩いて行き、凛はそれを見て客間へと入り、襖を閉めた。
明かりを常夜灯に落とし布団へと入り、天井を見詰める。思い出すのは先程の高根の言葉、
『使用人じゃない、立場は対等、君は好きにやって良いんだ』
その言葉を何度も何度も胸中で繰り返し、浮かんだ涙を手の甲でごしごしと拭いた。
嫁ぐ前から、両親にも同じ様に扱われていた。兄も祖父もいた頃は二人が両親と真っ向から対立しており、祖父には逆らえなかった両親の態度は多少は違ったものの、それでも祖父と兄がいつも共にいてくれたわけでもなかった。
そして訪れた祖父の病没、喪が明ける事すら待たずに
「前々から決まっていた事なんだ、何度も言い付けていただろうが!」
父にそう吐き捨てられ、父の仕事の関係者の息子へと嫁がされた。
兄は恐らくそれを知らされてはいなかっただろう、許嫁がいるという事は知っていたし彼等が親子揃って家に来た時に居合わせていた事も有ったから顔は知っている筈だが、両親に似ず祖父に似た兄を両親は疎ましく思っていたし、強硬に結婚に反対していた兄に詳細を教えた筈が無い。
祖父と兄、孫であり妹である自分を可愛がってくれたあの優しさと温かさ、それを思い出し高根にも似たものを感じ、溢れ出る涙をまた拭う。
二人が生きていれば恐らく今の自分の境遇は違っていたのだろう、両親の扱いが良いものになったとは思わないが、それでも嫁ぎぞんざいに扱われた挙句に離縁されて叩き出される様な事にはならなかったに違い無い。
そんな状況の中で自分を拾ってくれた高根、どれだけ感謝しているのか、きっと彼は知らないだろう。この世の終わりとすら思っていた自分に手を差し伸べてくれ、人間らしい生活を与えてくれた。その上、自分が思い描き渇望していた穏やかな結婚生活の疑似体験迄意図せずともさせてくれている彼には本当に感謝しか無い。
あんなに優しい高根の事だ、先々代総司令の孫娘である事を伝えれば、兄や両親の事も含めて今後に手を尽くしてくれるのだろうが、それはきっと彼の負担になる。海兵隊総司令の親族として、その任がどれだけの重責であるかは分かっている、そんな自分がこれ以上の負担を掛ける事だけは有ってはならないと自らを戒めつつ、もう寝よう、凛はそんな風に考えながら静かに目を閉じた。
「……凛ちゃん、昨日の煮物、残ってる?」
「はい……私が今日お昼に頂こうと思ってたんですが……良いですか?」
翌朝の食卓、鯖の味醂干しと出汁巻き卵と青菜のおひたし、そして白飯と味噌汁を見て、高根が凛へと問い掛ける。これだけでは足りなかったのかと思いつつ凛が答えれば、高根の返答は少々想定外のものだった。
「いや……俺の昼飯に弁当で持たせて欲しいんだけど、量が無いなら凛ちゃんの昼は好きなもの食べて良いからさ」
「お弁当の方が良いなら作りますけど……残り物で良いんですか?」
「いや、わざわざ作ってもらうのは悪ぃからさ。それに、あの煮物、凄い美味かったから、あれが良い」
「分かりました、じゃあ、詰めますね。それと、高根さんの迷惑でなければ、お弁当作りますよ?」
「え、良いの?本当に?」
「はい。料理は好きですから、迷惑でなければ」
「いやいや、迷惑とかこっちの方だよ。有り難うな、お願いします」
「はい」
やや細身ながらも逞しい体躯とは正反対の恐る恐るといった風情の高根の様子、それに思わず口元が緩みつつ弁当作りを申し出れば、彼の表情は今度はぱっと明るくなり、その後に手を合わせ挨拶をして朝食を食べ始めるその様子を、凛は目を細めて見詰めていた。
「じゃあ、これ、お弁当です。お弁当箱が無くて蓋付きの容器に入れただけなので、傾けたりすると零れちゃうので気を付けて下さいね」
「おー、ありがとーなー。弁当箱買って来るからさ、明日からも頼むな」
「はい、行ってらっしゃい」
「うん、行って来ます」
まるで壊れ物を扱うかの様に包みをそっと受け取り小脇に抱えて玄関を出て行く高根、昨日の残り物と白飯を詰めただけの中身なのに、そんな事を思いながら
「……何か……可愛い」
そう呟き、小さく噴き出した。
孫、そして妹には滅法甘かった祖父と兄ですらああも喜ぶ事は無かったが、違いは関係性なのか性格か。十八も年上の大人の男に対して思う事ではないのかも知れないが、見た目とはちぐはぐな何とも言えない可愛らしさにまた小さく笑い、家事に取り掛かろうと踵を返した。
掃除と洗濯を済ませた後は客間の布団を干し、高根の寝台の布団も干してしまえば後は特に目立った用事は思いつかない。高根は明日からは弁当も頼むと言っていたから、その為の食材の買い出しと、常備菜の類の作り置きもしておいた方が良さそうだと思い至り、買い物に行こうと身支度を整える。
出掛ける前に紙と鉛筆を出して来てどんな組み合わせにしようかと買う物を考えながらそれを書きつけ、こんなに穏やかで且つ浮足立つ様なくすぐったさを感じるのは初めてかも知れない、と、そう思った。
結婚する迄は祖父や兄よりも両親、特に専業主婦だった母と過ごす時間の方が圧倒的に多かったし、結婚してからは買い物以外の外出も制限され婚家の人間以外との接触はほぼ無かった。そんな生活の中で作った料理を喜ばれる事も無く、料理も、それに伴う買い物にも、喜びや幸せを感じた事は一度も無く、それが普通なのだろうとすら思っていた。
けれど、そうではないのだと高根が教えてくれた、今はまだ少し構えてしまうし怖いとも思うけれど、少しずつ慣れて行けば良いのだろうか、高根は何と言うだろうか。身を立て直す迄の期間限定とは言えど、その間に彼の恩に報いる事が出来れば良いけれど、そんな事を思いつつ、凛は紙を手に立ち上がり、買い物に出ようかとゆっくりと歩き出した。
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