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はじまりはじまり

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嘘だあ。

寝台の上、無駄に華美な刺繍が施された絨毯のような毛布を握りしめて僕は天を仰いだ。

サイドテーブルには同じくゴテゴテとした装飾の手鏡が置いてあったが、まだ覗く度胸はない。だるい身体を無理やり起こして部屋を見回すと、いかにもお貴族様の寝室といった風情でため息が一つ零れた。視線が下に落ちる。はらり、と絹糸のような乳白色の髪が滑り降りて膝にかかった。仕事のストレスがとうとうここまで来たか…なんて冗談を考えつく時点で、思ったよりも余裕があるらしい。軽くつまんで引っ張るとツンと頭皮が張って、やっぱりこれは自分の髪なんだと自覚した。

当然だが僕の髪はこんなに長くはない。寝てる間に伸びたのだろうか。呪いの市松人形か何かか僕は。

職場の第一会議室よりもだだっ広い室内。視界の端に映る、遠近感がおかしくなる大きさのクローゼット。壁面から天井にかけては植物を模した繊細な装飾が彫られていて、まるで美術館にいるようだった。もういっそ考えるのを放棄して芸術鑑賞でもしたい気分だ。

ぐ、ぱ、と意志の通りに動く、けれども明らかに自分のものではない小さな手を見つめる。

(…いいとこの坊ちゃん?というか日本かここ)

重力に任せてキングサイズのベッドにぼすん、と重たい頭を沈めると、いつもの綿の抜けきった煎餅布団とのギャップにますます閉口した。

知ってる。この展開。この状況。

なにせ、こちとらここ数年は異世界転生・悪役令嬢令息を糧に生きていた社会人だ。まさか自分がそれに選抜されるとは夢にも思わなかったが、残業後の帰り道に馬鹿デカいトラックが自分めがけて突っ込んできた瞬間おっとこれは、と不謹慎にも心が浮き立った。実際には身体ごと宙に吹っ飛んだのだが。

別段痛みも感じなかったせいか、ショッキングな記憶の割には随分と他人事のような気分だった。まあ、前の世界に強い未練があるわけでもなし、長いものには巻かれろ主義の僕だ。起きたことよりもこれからの事を考えた方が建設的

………いや、ある。まずい。

ガバリと身体を起こす。全身の血の気がとんでもない勢いで引いていくのを感じた。嫌な汗が止まらない。



家の鍵じゃない。それよりももっと、社会的な生死を左右する重大な。どうせ一人暮らしだからとパスワードもろくに設定せずに今日もデスクの上に置いてきた、しかも確か、PC版だからとレーティングも飛び越えてぐっちゃぐちゃのどっろどろの成人向けボーイズラブゲームをプレイしている真っ最中だった、そう、ノートパソコン。

消去しなければ。

もしくは徹底的に再起不能にしなければ。

死人に口なしとは言うが、こちらは記憶もそのままに第二の人生がスタートしているのだ。今後万が一知り合いにでも覗かれて「うわあ…香々見かがみ君ってこういうのが趣味だったんだあ」なんて半笑いでデータを漁られる可能性に怯えながら生きていくなんてたまったもんじゃない。帰らなければ。早急に。

そう青くなっていた所で不意にコンコン、と控えめなノック音が部屋に響いた。

「…失礼いたします」

思考が止まる。

そういえば、今、僕は誰で、どんな立ち位置なんだろう。
なにかしらの物語の、主人公なんて贅沢は言わなくてもその家族とか、モブとか。扉の向こうの声からしておそらく「彼」は、果たして自分の味方だろうか。目と目が合ったら即バトルなんて戦闘狂だったらどうしよう。

咄嗟に逃げようにも窓にはなぜか部屋に似つかわしくない格子があり、入り口は今しがたノックされた扉一つのみ。脱出型のホラーゲーは専門外だ。武器になりそうなものもゴツい手鏡くらいしか見当たらず、ひとまずそれを握りしめて扉を凝視することしかできない。

「………」

たっぷり30秒の後にドアノブが回る。身体に力が入る。
静寂を壊さないようにそっと入ってきたのは、青みがかった美しい銀髪を一つに結った燕尾服の男。いかにも執事といった風体の彼はこの美術館のような部屋の雰囲気にもとてもよく合っていて、薄く伏せられた瞳にはアメジストが輝いていた。僕は息を呑んだ。何も考えられなくなる位きれいだ。
思わずノートパソコンのことなんて忘れるくらい。

「…っ、」
「!」

宝石と目が合ってしまった。

同じ様に驚いている彼の瞳に自分が映り込んでいると思うといたたまれない気持ちになるのと同時に、強い既視感を覚えた。
それはこの身体の記憶、彼が自分専属の従者であったこと、普段は冷静で、今みたいに泣きそうな顔でこちらに駆け寄って来るタイプではないということ、そして。

「お目覚めになられたのですね」


ああ、なんということだろう。


「ベルフェリオ様」


彼の主人が、僕なのか。
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