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ヴィンセント 1

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湯船にたゆたう薔薇の花びらを指でどかしながら、僕は膝を抱きしめていた。

あの寝室の規模を考えれば当然のような気もするが、湯船もむやみにでかい。大人が入るにしても二、三人は余裕で許容できそうな浴槽の中でぽつんと一人、落ち着かなさに背中がどんどん丸くなっていく。
実家では母がローズなんとかの香りの入浴剤を好んで使っていたから「へー薔薇ってこんな感じなんだ」と漠然と知ったつもりになっていたが、目の前のふっくらとした花弁は天然ものの芳醇な香りを運んできた。これが本物。すごくいい匂いがする。というか本当に風呂に薔薇浮かべる人っているんだ。味噌汁のフリーズドライみたいに個包装で売られてたりするのだろうか。

「お湯加減などはいかがでしょうか?熱くはありませんか?」

背中越しに問われてビクリと肩が跳ねた。温かさと感動で惚けていたせいで頭から抜けていたがそうだった、一人じゃないんだった。思わず体育座りをする腕に力がこもる。
僕の世話をするためだろう、下にゆるくまとめていた銀髪は浴場で濡れないように高く結い上げられ、捲くられたシャツからは思ったよりもしっかりと筋肉のついた男らしい腕が伸びていた。

彼はヴィンセント。僕専属の従者。

正確には、四大公爵家たるミロワール公爵家が次男、悪役令息…あるいは悪辣冷酷で名を馳せるベルフェリオ・ミロワールの右腕だ。主人の願いをただ粛々と叶える従僕。カラスだってベルフェリオが白と言えば白にするような男。まあ、ベルフェリオ自身が両親や兄と外見が異なることで忌避されてきた背景もあり、そんな中で拾われたヴィンセントに善悪を選り分ける術もなければ、彼に是非を問うこともナンセンスなのだが。

(悪役…なんだよな、僕たち。というか僕)

王立学園の高等部への転入と共に物語はスタートする。しがない男爵家のオメガ令息がこの国の王子(+その他)に見初められ、婚約者からの卑劣な謀略を見事くぐり抜け花丸はっぴーな大団円に突き進むシンデレラストーリー。お決まりの、約束された、完全無欠の、シンデレラストーリー。

そこに多量のラッキースケベと少量のファンタジーを盛り込んだのが、僕がまさに画面を開きっぱなしにしたまま出社した本作である。なお、マウスを動かしたら即濡れ場。一寸先は闇。たすけて。

改めて自分の境遇を思い出して遠い気持ちになる。

あの後、寝室でこちらが起きていることに気がついたヴィンセントはすぐに医者を呼ぼうとしていたが、僕はいらないと首を振った。どうやら二階の窓から落ちたらしいけれど外傷もないし、すでに陽も落ちかけていたからだ。流石に傷一つないのに夜中に医者を呼びつけるのは庶民としては気が引けた。

それでも明朝にはお呼びします、と頑なに告げたヴィンセントは手早く身体のあちこちをペタペタと確認して、僕が大量の汗をかいていたためにひとまず風呂に入れることにしたようだった。
まさか前の世界に置いてきたどすけべゲームの行方に気が気じゃなかったゆえの脂汗ですとも言えず、どう伝えたものかと考えあぐねているうちに浴室に運ばれてあっという間にすっぽんぽんだ。勘が良いのか悪いのか、こちらが何か言葉を発する前に行動を全て先回りされて無抵抗のままここまで来てしまった。

しかし、見知らぬ場所とはいえ風呂くらいなら一人で入れるし、まして彼のような美人に寄り添われて入浴なんてして、万が一僕の僕が勘違いしてしまったらこちらの世界でもささやかに社会的な死を迎えてしまうかもしれない。せめて部屋の外で待機していてほしい。そう思い、僕は意を決して後ろにいる銀髪美人に振り返った。

「…ぁ、う……、」
「っ」

なんだこれ。
喉がつっかえて上手く声が出ない。

何かに阻まれたように発話できなかった僕にヴィンセントも目を見開いて驚いている。引きこもりの連休明けみたいな変な声出して悪かったな。でもそんな顔しなくてもいいのに。

「ヴィ、ぅ…けほっ」
「!っはい、ベルフェリオ様。ヴィンセントはここにおります」

そう言って浴槽に駆け寄ると、ヴィンセントは自分の服が濡れるのも構わず膝を折ってむせる僕の背中をさすってくれた。ジャケットは流石に脱いでいたが、ワイシャツの袖口は湯を吸って色が変わっていたし、ベストにも水しぶきがかかってしまっている。従者とはいえ安くはなさそうなしつらえに申し訳なさで余計息が苦しくなってくる。

「すみま、せ…ゔぃんせ、と、さん…」
「…さん?」

しまった。

目上だからつい癖で敬称をつけてしまった。怪しまれたかと恐る恐る見上げるが、すぐに杞憂だったと悟る。

「私の名は長くて呼びづらいでしょう。宜しければ、ヴィーと」

銀色の長い睫毛の奥で、純粋にこちらを思慮する温かい紫耀が揺れていた。僕の顔を覗き込むようにかがむと、滑らかな銀髪が肩を撫でた。同じ人間とは思えない美しさ。立ちのぼる湯気も相まってその姿はいっそ妖精やエルフの末裔のようで、彼に乞われれば名前だってなんだって望むままに従ってしまいそうだ。

「…ゔぃー」
「はい」

名前を呼んだだけなのに、嬉しそうに微笑まれるとそれだけでたまらない気持ちになって胸がむずむずした。
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