栄光の十一月七日橋 ~義勇婦人部隊の防空戦記~

相沢 竜一

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第一章

国防省

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 戦勝に次ぐ戦勝に沸く国防省の廊下を歩く、一人の男がいる。
 陸軍の制服に身を包んだその男は、廊下で人とすれ違うたびに会釈を交わしていた。
 労農赤軍では、着帽、無帽にかかわらず、常に右手で挙手の敬礼を行う。と定められている。一般的な軍の慣行とは異なるが、革命という大きな潮流の中で生まれた、労農赤軍特有の礼式のひとつだ。
 そういう意味では、帽子を左腕に抱えて歩く彼が会釈を行うのは、妥当とは言えない。定められた礼式から外れているからだ。だが、そんな彼を非難する者は誰もいない。
 その理由は、彼の外見的な特徴にある。
 彼の右腕を通す上着の袖は、ひじのあたりで折り返されて、肩口のわずかに下のあたりにピンで固定されているのだ。当然ながら、そこに腕が収まっているようには見えない。
 つまり、彼の右腕は、上腕のひじに近いところで切断されている。ということになる。
 そして、その欠損が生来の物ではないことを示すものが、彼の左胸に下がっている。
 名誉戦傷章。
 軍務において、身体に後遺症が残るほどの受傷をした際に叙される勲章だ。
 もっとも、彼が軍務において失ったのは、右腕だけではないらしい。彼の右目は眼帯で覆われており、眼帯では隠しきれない傷跡が顔の右半面に残っている。このことから、彼は右目も失っていると推測できる。
 国家のために身体の一部を捧げた男。それが、彼が礼式に外れた挨拶を交わすことを許可している理由に他ならない。
 さらに言えば、名誉戦傷章の隣に並ぶ第二級祖国英雄勲章は、彼の軍人としての価値を示している。己の危険を顧みず、多数の戦友の生命の危機を救った男。つまり、手放しで称賛されるべき男。ということだ。
 しかし、その軍服に階級章はついていない。
 それも当然。彼は、二年ほど前に退役していたのだ。退役の理由は無論、彼が戦場で負った傷に由来する。
 そんな、一度軍をリタイアした男が、再び国防省の廊下を歩く理由については、詳細に説明すべきだろう。

 一週間ほど前になるが、ある法律が公布され、即日施行された。
 傷痍軍人現役復帰促進法というその法律は、戦傷を理由に現役を退いた軍人のうち、士官と下士官について、本人の意思と健康状態とが許せば、元の階級のまま現役に復帰させる。というものだ。
 このような法律が人民最高会議に提出され、賛成多数で可決されたのは、中・少尉および軍曹の慢性的な不足が原因だった。最前線で指揮をとる尉官たちに損害が多く発生することと、士官と兵士の間に立ち、軍を支える支柱とでもいうべき下士官の慢性的な不足も、法律が施行された理由のひとつではあるが、最大の原因は、軍の規模が極端に肥大化したことにある。
 平時では陸軍、海軍、戦略空軍、防空軍の四軍を合わせて、実に一二八万人の常備兵力を有する労農赤軍が、戦時への移行に伴う三度の動員の結果、今では三〇八万人という途方もない数字に膨れ上がっている。実に二.五倍に迫る勢いである。その結果、士官と下士官が著しく不足することになった。
 当然、平時からの備えは考慮されていた。例えば、大学在学中に軍の指定する単位を必要数取得し、卒業後にわずか半年の間だけ、下士官たる伍長としての兵役を務めた場合、予備役に編入すると同時に少尉に任官させるという予備士官制度や、兵の中でも特に優秀なものに対し、兵役期間終了時に伍長に昇進させてから予備役に編入する予備下士官制度といった仕組みを設けて、戦時に向けた人材のプールに尽力してきた労農赤軍ではあったが、いざ蓋を開けてみると、拡大した軍の規模と損失とを埋め合わせるには、まったくもって足りない。という事態に陥っていた。
 戦場で一定の能力と勇気とを示した者を、臨時昇進させて指揮官とするのは、当然のように行われているが、その者の階級を上げる以上、階級に見合った知識と技術を習得させるため、教育する機会を設ける必要がある。
 戦場での実戦こそが最良の教育現場という意見もあるが、それではあまりにも暴力的にすぎる。
 そこで軍が目をつけたのが、負傷して退役した廃兵たちだった。
 彼らの多くは、戦前に士官、下士官となるための教育を十分に受けているし、実際の戦場も経験している。身体を著しく欠損した者に対し、最前線での勤務を命じるのは無理だとしても、例えば、地雷で両足を失った中佐を、参謀として後方の司令部で勤務させたり、全身に酷い火傷を負った曹長に、補充兵の教育を担当させるのは、困難ではあるかもしれないが、不可能ではない。
 後方に配置すべき要員の一部を彼らで置き換え、健常なものを最前線に送ろうという思想から始まったこの法案ではあったが、結局、一度は現役を退いた彼らの大半が、前線での勤務を望み、その能力を十分に備えていたことと、後方要員として教育してきた人材を、わざわざ最前線に送り込んで失うことのリスクもあったことから、法律の条文にあった『後方への配置を原則とする』という文言は、あってなきがごとく運用されていくことになるのだが、それは、もう少し未来の話だ。

 さて。
 傷痍軍人現役復帰促進法の施行により、現役への復帰を命ぜられた彼は、ようやく目的地にたどり着いた。国防省陸軍本部第二部第四課。後の方は数字ばかりなうえ、少々長い部署名ではあるが、陸軍の全将兵の人事を担当する部署である。
 その一角に、これみよがしに「傷痍軍人現役復帰促進法対象者受付」と書かれた札が立てられた机が用意されている。
 そこに座っているのは、二人の女性だった。
 一人は少尉。もう一人は軍曹だ。
 隻腕隻眼の彼は、その二人の前に立つと、懐から一通の封筒を取り出して彼女らに手渡す。
「アレクセイ・マルコフ元陸軍工兵中尉。出頭命令を受け、参上致しました」
 退役しているため、元の階級は上であっても、今は民間人と変わらない。物腰低く出たマルコフに対し、二人の女性は椅子に座ったまま、マルコフが渡した封筒の中の書類を確認する。
「アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ・マルコフ元陸軍工兵中尉殿ですね。あちらのお部屋にお入りください。第四課長のクリメント・コンドラチェンコ准将閣下がお待ちです」
「クリメント・コンドラチェンコ閣下?」
 マルコフはその名前に思い当る節がある。彼が他国で言う士官学校にあたる、軍事アカデミーの基本コース在学中に、大変世話になった教官の名が、クリメント・ルキヤノヴィチ・コンドラチェンコだったからだ。ただ、彼は当時は大佐に昇進したばかりだと言っていたし、わずか二年で准将に昇進しているとは思えない。まったくの人違いである可能性もある。
 もし、同一人物であったとしたら、軍事アカデミーで二年半にわたって指導してもらった恩師と久しぶりの再会ということになる。多少、心がはやるが、それを表には出さないように努力して押し込める。

 案内としてマルコフの先に立つ女性下士官が、准将が待つという部屋の扉をノックすると、中から「入れ!」の声があった。
 片腕の無いマルコフに配慮をしたのか、親切にも扉を開けてくれた女性下士官に対して例を言いながら、マルコフは室内へと入る。
 陸軍の人事を掌る第四課長に与えられた部屋の中には、机がふたつ置かれていた。正面にひときわ大きな机がひとつ。そして、入口に近いあたりに小さい机がひとつ。もちろん、正面の机がこの部屋の主だ。
 そこには、マルコフが見慣れた男が座っていた。軍事アカデミーの基本コースで様々な形で世話になった、コンドラチェンコ教官だ。もっとも、当時の彼は、将官の椅子に興味があるようにはまるで見えない男だったが。それが、今では閣下と呼ばれる存在になっている。
 ぱっと見た目は、軍人というよりは、中学か高校あたりで理科ないし数学の教師をやっていそうな風貌だった。眼鏡をかけた秀才ないし学者風の顔立ちで、実際、状況判断や複雑な数式を用いた計算などをさせると、彼に並ぶものは労農赤軍全体でもそうはいない。それに、彼が書いた論文のいくつかは、労農赤軍のドクトリンに採用されている。参謀将校としての能力も申し分ない。
 ところが、この外見にこの性格でありながら、いざ戦場に立つと、実に勇猛果敢な戦闘を繰り広げる男でもある。家が貧しく生活が苦しかったため、若いうちから軍人としての立身出世を夢見ていた彼は、十分な能力を備えていたにもかかわらず、平民という理由だけで士官学校への入学ができなかった。そのため、平民に許されていた下士官学校へと入学したのだが、そこで革命が起きる。
 下士官学校には、士官となるべき人材たる貴族を支えるため、その使用人も在学していたが、平民出身の学生たちの多くは、労農党が組織した赤軍へと身を投じた。コンドラチェンコもその一人だ。
 戦場でその能力を実績として示したコンドラチェンコは、周囲の下士官兵から少尉に推薦されて、士官の仲間入りをした。それ以降、革命戦争において数々の武功をあげ、内戦が終結する頃には大尉にまで昇進していた。まさに文武両道といった男だった。そのため、軍事アカデミーの生徒たちからは、常に憧れの目で見られていた。
 そういう意味では、今、彼が准将という階級を得ているのは、至極妥当なことなのであろう。
 書類に視線を落としていたコンドラチェンコが、来客者を見ようと顔をあげた瞬間、それまでの気難しそうな顔が一転、満面の笑みにかわる。
「おお! アリョーシャ生徒。久しいな!」
 軍事アカデミー時代の呼び方で、わざわざ立ち上がって両手を開いて迎えてくれたコンドラチェンコに、マルコフは素早く歩み寄ると、互いに抱擁を交わした。
 そんなコンドラチェンコに対し、マルコフも軍事アカデミー時代の呼び方で応じる。
「お久しぶりです、コンドラチェンコ教官。お元気そうで何よりです」
「いやいや、元気なものか。疲れる一方だよ」
 抱擁を終えて身体を離したコンドラチェンコは、マルコフの左上腕に右手を添えながら、彼の身体をしげしげと眺める。
「貴様は、思っていたよりも元気そうだな」
 笑ってそう述べるコンドラチェンコに、マルコフは苦笑で応じる。
「余裕が出てきたのはつい最近ですね。それまでは、日々の雑務をこなすことすら大変でしたよ」
 何しろ、片腕と片目を失うという重傷を負ったマルコフだったから、体力の回復には相当な期間を要した。その期間については、あまりよい思い出はない。にもかかわらず、元気と称されるのは、体力が回復してきている証拠なのだろうか。
「おかげで、貴様に対しては、心置きなく現役復帰を命じられそうだ」
 にやりと笑ったコンドラチェンコに、マルコフも胸を張って答える。
「ありがたくあります、閣下」
 満足そうにうなずくコンドラチェンコは、部屋の入口に近い机に座り、ひたすら書類と向き合っている士官に向かい、声をかける。ただ、その声はどこか冷やかで、マルコフに対するものとは異なっていた。
「ブガーリン君。すまんが、マルコフ君へのプレゼントを、ここに連れてきてくれんか?」
 いきなりコンドラチェンコに声をかけられたことで、かなり驚いたらしい彼は、椅子から急に立ち上がろうとして、椅子を思いきり蹴り倒してしまう。
 騒がしい音が室内に響く中、ブガーリンと呼ばれた士官は、躊躇いがちな声で聞いた。
「はい、閣下。ええと、その……」
 何をどうすればいいのかが理解できていない様子のブガーリンに対し、コンドラチェンコは侮蔑を隠すことなく言い放つ。
「貴様が煙たがっているあの男を、今すぐここに連れてこいと言っとるんだ。わかったか? わかったなら、早く連れてこい!」
 急に声を荒らげたコンドラチェンコの剣幕に怯えたのか、ブガーリンは倒した椅子を戻すことなく、脱兎のごとく部屋から飛び出していった。
 そんなブガーリンの姿に満足を覚えたのか、コンドラチェンコは自席に戻ると、椅子に座る。
 マルコフにも着席をすすめながら、コンドラチェンコは手元の紙に何か書き物を始めた。
 コンドラチェンコの机の上には山のように書類が積まれているため、執務の一環なのだろうと思って、ただ黙って様子を見ていたマルコフに対し、コンドラチェンコは手元の紙をひょいと持ち上げて彼に見せた。
 紙に書かれた文言を見たマルコフの表情が曇る。
 そこにはこう書かれていたからだ。
『盗聴されている。発言には気をつけろ』
 と。
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