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第一章
執務室
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驚きの表情を隠せずにいるマルコフに対し、コンドラチェンコは自らが示した盗聴について、まったく気にする様子もなく、そのまま会話を続ける。
「貴様を呼び戻した理由は実に単純さ。今の陸軍には、まともな士官の数が足りんのだよ」
メモに先ほどのメッセージを書いた後は、ひたすら書類の決済をしているのか、ある程度目を通して納得がいった内容であれば、サインを書き加えている。
ついと顔をあげ、マルコフと視線を合わせてから。コンドラチェンコは吐き捨てるように言った。
「ブガーリンを見たか? かつての貴様と同じ中尉の階級章を付けてはいるが、あれは、真面目な無能が服を着て歩いているようなものだぞ。貴様がいた頃のアカデミーなら、真っ先に叩き出されていただろうよ。だが、残念なことに、今では軍事アカデミーでたった一年半の教育を受けただけのあんな奴でも、使わざるを得んのだ」
ブガーリンとは初対面であり、同僚と言えるほどの深い付き合いは当然なく。かといって、同じ階級という立場にある身としては、あまり踏み込むわけにはいかない微妙なラインを突かれたマルコフは、コンドラチェンコの毒舌に対して苦笑で応じざるを得ない。
それに、戦時に移行したことにより、軍事アカデミーでの教育期間が短縮されているのであれば、平時に軍事アカデミーで三年の教育を受けた士官に比べて、いろいろ足りない点が出てくるのは仕方がない話ではないだろうか。
だが、コンドラチェンコはそんなことは気にもかけていない。
「あれは、王国の工作員だな。でなければ、党が軍の反逆を恐れて送り込んだ工作員だ。軍を無能な状態に追い込んでおけば、反乱を起こされる心配もせんで済む」
盗聴されているというメモを見せた本人が、誰にも遠慮せずに、思ったことを思ったままに言っている。はたして、本当に盗聴されているのだろうかと疑問に思うが、マルコフはとりあえず、当たりさわりのない回答を返した。
「それでは、軍が党を守れなくなってしまいますよ。党にとっては不利益になりませんか?」
マルコフの指摘など、とっくに思いついていそうなコンドラチェンコだが、まるでそんなことは考えもしなかったという態度で言う。
「おお、そうか」
顎の下をさすりながら、思案するそぶりを見せたコンドラチェンコは、納得がいったという表情を見せた。
「では、少なくとも、党の工作員ではなさそうだな」
笑ってそう言ったコンドラチェンコに対し、マルコフは再び苦笑で応じるしかなかった。
それまでの道化めいた会話の内容とはうってかわり、コンドラチェンコは真面目な表情に戻って、会話の内容を切り替える。
「さて、貴様には現役に復帰してもらうわけだが、配属先に関しては、できれば、貴様の意見も聞いてやりたかった。ところが、実際には、選択肢すら与えてやることができん。俺は貴様を『最前線での指揮にも耐えうる』と報告したんだが、上の方は、片目、片手の士官を最前線に置くのは不安らしい」
机の引き出しに手を伸ばし、その中から一通の封筒を取り出したコンドラチェンコは、マルコフに受け取るように促した。
「栄光の十一月七日橋。当然だが、貴様、知っておるな?」
「はい、閣下」
これは、コンドラチェンコが教官で、マルコフが生徒だった頃に教わったことがある。国土の防衛という観点から地形を考慮したうえで、あえて架橋せずにいる国防河川というものについての説明を受けた中に、該当する橋が登場していた。
マルコフは、自分が生徒であった頃の記憶を思い出しながら、答える。
「ブラーバ河に架かる橋のひとつです。たしか、中流域のプリレチェンスキー市にあって、鉄道も通っていたかと記憶しております」
授業で生徒の回答を聞いている教師のような態度であったコンドラチェンコは、目の前のかつての生徒がよどみなく答えるのを聞いて、実に満足そうだった。
「おお。俺が教えたことを覚えていたか」
嬉しそうに笑みを浮かべたコンドラチェンコは、急に真面目な表情に切り替えて、マルコフに質問する。
「その重要性については、今でも理解していると期待してよいかね?」
これについては、胸を張って答えることができる。
「はい、閣下。理解しております」
「よろしい」
満足そうにうなづいたコンドラチェンコから、封筒を開けて中身を読むように促されたマルコフは、封を切って中におさまっていた資料を取り出すと、その中身を読みはじめた。
それに合わせ、コンドラチェンコが解説を始める。
「貴様の任務は、その橋の防衛だ。前線からは離れておるし、比較的安全な後方での気楽な任務だ。はっきり言って、給料泥棒だな。軍は人材をもっと有効に活用すべきだ」
コンドラチェンコが渡してくれた資料に目を通すマルコフだったが、その内容を読み解くうちに、表情に不安の色が浮かびはじめる。
努力して隠そうとはしているのだが、完全には隠しきれていない。
結局、マルコフは自分の中で生じた疑問を解決するために、コンドラチェンコに問うしか道がなかった。
「その、閣下。よろしければ、いくつか質問をしてもよろしいでしょうか?」
「かまわんよ」
気軽に応じてくれたコンドラチェンコに感謝しつつ、マルコフは最初の疑問について問う。
「自分が指揮を取るのは、労農党の義勇婦人部隊とありますが……」
マルコフの疑問を聞きつつも、先ほどとは別の書類に目を通し、サインを記しながら。コンドラチェンコは実に気軽に応じる。
「そうだな」
大した問題ではないという態度のコンドラチェンコに対し、マルコフの方は普段の士官としての自省のきいた態度を、どこかに置き忘れてしまったらしい。
自分でも驚くくらいの声量で、思わず問い返してしまう。
「ふ、婦人部隊でありますか?!」
そんなマルコフの態度をたしなめるどころか、かえってどこか楽しんでいる様子すら見えるコンドラチェンコは、大げさに片方の眉を吊り上げて聞いてくる。
「女性は嫌いかね?」
これまでのやりとりのせいで、自分がからかわれているのではないかという疑惑を抱きつつあるマルコフも、コンドラチェンコのその問いについては否定する。
「いや、まさか。ですが、その……」
未だに腑に落ちないといった態度のマルコフに、コンドラチェンコは救いの手を差し出した。
「資料の続きに目を通したまえ。君の前任者に当たる人物がやらかしたミスについて、詳細に書かれている」
マルコフが資料を読み進めていくと、実に残念な内容が記載されている箇所を発見してしまった。
部隊の指揮を取る女性と、防空軍から技術指導に派遣された男性とが、共に手を取り合って部隊から逃走したらしい。
逃げおおせたなら彼らは幸せであったろうが、憲兵隊ならともかく、党の親衛隊に見つかってしまったようだ。
義勇兵とはいえ、志願した以上、軍人として扱われるのは当然であり、まして、戦時中にもかかわらず、与えられた職責職務を放棄しているのであるから、敵前逃亡として扱われても文句は言えない。
結果、二人は仲良く銃殺されることとなり、軍と義勇志願兵に泥を塗ったに等しい行為に対しての責任をとった。ということらしい。
何とも困った内容だ。
それにしても、王国との戦争については、連邦の勝利はもはや疑いようもなく、その奥にひかえる帝国の労農者たちの解放すら視野に入るようなこのご時世に、一体何を悲観して、駆け落ちめいた真似をしたのだろうか。まったくもって理解に苦しむ。
「軍としては、誘惑に負けないしっかりとした精神の持ち主を、当該部隊の指揮官として割り当てる必要がある。と認識している。まあ、貴様ならそんな馬鹿なまねはしないだろう。と。そういうことだな。どうだ? 意外と評価されているだろう?」
マルコフは思わずため息が漏れそうになった。
慌ててぐっと飲み込みながら、とりあえず返答する。
「……恐縮であります」
なるほど。そういうことであれば、今度の部下たちとは、一線を引いて付き合わねばなるまい。
元より好かれよう、嫌われようと思って何かをすることはないが、ここは、恐れられる存在として認識されるように振る舞う必要がありそうだ。当然だが、侮られたり、軽蔑されるような事態を招くことは、絶対にあってはならない。
ひとつめの疑問に対する回答をもらったマルコフは、もうひとつの疑問を解くために、続けて質問する。
「次に、率いる部隊の兵科なのですが」
続きを促すように沈黙を守るコンドラチェンコを見て、マルコフは素直に疑問をぶつけた。
「高射砲兵なのですか? 自分は工兵であって、専門外でありますが」
資料には、第四三七独立防空中隊とある。文字通り、空を飛ぶ航空機の侵入を阻止するために、砲弾を上空に撃ち上げる高射砲を専門的に扱う部隊だ。
一方、マルコフは工兵だ。しかも、軍の前進を阻むあらゆる障害を破壊し、前進経路を確保することに特化した戦闘工兵だ。この場合の障害には、重量物や地中に埋め込んだ鉄骨のようなものに始まり、地雷源や対戦車壕に、防御火点といったものまで含まれる。
工兵と高射砲兵では、扱う兵器が違いすぎる。マルコフはこれまでに、爆薬やツルハシ、円匙に小銃といったものに親しんできたが、高射砲兵は大砲と砲弾を扱う。工兵の爆破作業にも複雑な計算が必要だが、上空を高速で飛ぶ航空機を撃墜するために必要な計算については、工兵が扱う範囲よりもはるかに複雑だ。
そんなマルコフの不安に対し、コンドラチェンコは何も問題はないといった態度のまま答える。
「だが、軍事アカデミーで基礎は習っただろう?」
「はい、閣下」
軍事アカデミーの基礎コースでは、陸軍の士官として備えるべき態度と知識とを、片っ端から叩き込む。各兵科に別れて詳細な教育を受けるのは、軍事アカデミー卒業後の話になる。そのため、各兵科についての基礎知識は、どの陸軍士官も叩き込まれているということになる。
もっとも、近年の軍事アカデミーで短期教育のみ受けて卒業した者であれば、その限りではない。
「成績もなかなかよかったと記憶しているぞ。ならば、何も問題はないと思うが」
コンドラチェンコは有無を言わせぬ勢いだ。
マルコフは、それに応えねばならない。
「はい、閣下。ご命令とあれば、ご期待にそえるよう万難を排して努力いたします。ですが、その。より適任な者がいるのではないでしょうか」
正直に言えば、マルコフとしては、素直に砲兵――しかも、高射砲の扱いに長けた高射砲兵――を割り当てるべきだと考えている。
だが、コンドラチェンコはそうは思っていないらしい。
「俺としては、この任務には貴様こそが適任だと確信しているんだがな」
そう述べながら、コンドラチェンコは手元で書き込んでいたメモをマルコフに手渡した。
資料の末尾に目を通せ。とある。
その内容を受け、手渡された資料の最終ページに目を通したマルコフは、自分が何故、この部隊を率いることになったのかを理解した。そこには、コンドラチェンコが予想した今次戦争の推移についてが示されていたからだ。
しかし、まあ。ここに記載されたことを本当に懸念しているとしたら、コンドラチェンコはよほどの心配性か悲観主義者ということになる。しかし、その可能性を完全に否定できるかと言われれば、これは、よほど熟慮に熟慮を重ねる必要がある。
今の戦争が王国相手で終了するならば、何も問題はなさそうだ。だが、もし、連邦が今の勢いにまかせて、王国の後に控える帝国との戦争に突入した場合、コンドラチェンコが懸念するこのシナリオが、現実のものになる可能性は否定しきれない。
とはいえ、すべては可能性の話だ。
マルコフの表情は無表情に等しいが、アカデミーで二年半の付き合いをしたコンドラチェンコには、微かに浮かんでいる感情が手に取るようにわかる。彼の表情が不安から納得に変わったのを目ざとく見分けたコンドラチェンコは、手を伸ばしてメモの返却を求める。
それと同時に、机の上に置いてあったシガレット・ケースを開くと、二本の葉巻を取り出した。シガーカッターを使って手際よく吸い口を切ると、そのうちの一本をマルコフに差し出す。
「貴様もどうだ?」
普段からよく吸う紙巻の煙草ならともかく、細身の葉巻という高級品を差し出されたマルコフは、恐縮しつつも、ありがたく頂戴することにした。
「ありがたくいただきます。閣下」
火のついたマッチを渡されたマルコフは、自分の葉巻に火をつけてから、ゆっくりと紫煙を口に含む。
自分の葉巻に火をつけるために、次のマッチを擦ったコンドラチェンコは、葉巻に火が付いたことを確認した後で、かなり短くなったマッチの最後の炎を、これまでにマルコフに見せたすべてのメモに向ける。
マルコフはその瞬間、彼の意図を理解した。
コンドラチェンコは、あのメモを燃やしたかったのだ。
「貴様を呼び戻した理由は実に単純さ。今の陸軍には、まともな士官の数が足りんのだよ」
メモに先ほどのメッセージを書いた後は、ひたすら書類の決済をしているのか、ある程度目を通して納得がいった内容であれば、サインを書き加えている。
ついと顔をあげ、マルコフと視線を合わせてから。コンドラチェンコは吐き捨てるように言った。
「ブガーリンを見たか? かつての貴様と同じ中尉の階級章を付けてはいるが、あれは、真面目な無能が服を着て歩いているようなものだぞ。貴様がいた頃のアカデミーなら、真っ先に叩き出されていただろうよ。だが、残念なことに、今では軍事アカデミーでたった一年半の教育を受けただけのあんな奴でも、使わざるを得んのだ」
ブガーリンとは初対面であり、同僚と言えるほどの深い付き合いは当然なく。かといって、同じ階級という立場にある身としては、あまり踏み込むわけにはいかない微妙なラインを突かれたマルコフは、コンドラチェンコの毒舌に対して苦笑で応じざるを得ない。
それに、戦時に移行したことにより、軍事アカデミーでの教育期間が短縮されているのであれば、平時に軍事アカデミーで三年の教育を受けた士官に比べて、いろいろ足りない点が出てくるのは仕方がない話ではないだろうか。
だが、コンドラチェンコはそんなことは気にもかけていない。
「あれは、王国の工作員だな。でなければ、党が軍の反逆を恐れて送り込んだ工作員だ。軍を無能な状態に追い込んでおけば、反乱を起こされる心配もせんで済む」
盗聴されているというメモを見せた本人が、誰にも遠慮せずに、思ったことを思ったままに言っている。はたして、本当に盗聴されているのだろうかと疑問に思うが、マルコフはとりあえず、当たりさわりのない回答を返した。
「それでは、軍が党を守れなくなってしまいますよ。党にとっては不利益になりませんか?」
マルコフの指摘など、とっくに思いついていそうなコンドラチェンコだが、まるでそんなことは考えもしなかったという態度で言う。
「おお、そうか」
顎の下をさすりながら、思案するそぶりを見せたコンドラチェンコは、納得がいったという表情を見せた。
「では、少なくとも、党の工作員ではなさそうだな」
笑ってそう言ったコンドラチェンコに対し、マルコフは再び苦笑で応じるしかなかった。
それまでの道化めいた会話の内容とはうってかわり、コンドラチェンコは真面目な表情に戻って、会話の内容を切り替える。
「さて、貴様には現役に復帰してもらうわけだが、配属先に関しては、できれば、貴様の意見も聞いてやりたかった。ところが、実際には、選択肢すら与えてやることができん。俺は貴様を『最前線での指揮にも耐えうる』と報告したんだが、上の方は、片目、片手の士官を最前線に置くのは不安らしい」
机の引き出しに手を伸ばし、その中から一通の封筒を取り出したコンドラチェンコは、マルコフに受け取るように促した。
「栄光の十一月七日橋。当然だが、貴様、知っておるな?」
「はい、閣下」
これは、コンドラチェンコが教官で、マルコフが生徒だった頃に教わったことがある。国土の防衛という観点から地形を考慮したうえで、あえて架橋せずにいる国防河川というものについての説明を受けた中に、該当する橋が登場していた。
マルコフは、自分が生徒であった頃の記憶を思い出しながら、答える。
「ブラーバ河に架かる橋のひとつです。たしか、中流域のプリレチェンスキー市にあって、鉄道も通っていたかと記憶しております」
授業で生徒の回答を聞いている教師のような態度であったコンドラチェンコは、目の前のかつての生徒がよどみなく答えるのを聞いて、実に満足そうだった。
「おお。俺が教えたことを覚えていたか」
嬉しそうに笑みを浮かべたコンドラチェンコは、急に真面目な表情に切り替えて、マルコフに質問する。
「その重要性については、今でも理解していると期待してよいかね?」
これについては、胸を張って答えることができる。
「はい、閣下。理解しております」
「よろしい」
満足そうにうなづいたコンドラチェンコから、封筒を開けて中身を読むように促されたマルコフは、封を切って中におさまっていた資料を取り出すと、その中身を読みはじめた。
それに合わせ、コンドラチェンコが解説を始める。
「貴様の任務は、その橋の防衛だ。前線からは離れておるし、比較的安全な後方での気楽な任務だ。はっきり言って、給料泥棒だな。軍は人材をもっと有効に活用すべきだ」
コンドラチェンコが渡してくれた資料に目を通すマルコフだったが、その内容を読み解くうちに、表情に不安の色が浮かびはじめる。
努力して隠そうとはしているのだが、完全には隠しきれていない。
結局、マルコフは自分の中で生じた疑問を解決するために、コンドラチェンコに問うしか道がなかった。
「その、閣下。よろしければ、いくつか質問をしてもよろしいでしょうか?」
「かまわんよ」
気軽に応じてくれたコンドラチェンコに感謝しつつ、マルコフは最初の疑問について問う。
「自分が指揮を取るのは、労農党の義勇婦人部隊とありますが……」
マルコフの疑問を聞きつつも、先ほどとは別の書類に目を通し、サインを記しながら。コンドラチェンコは実に気軽に応じる。
「そうだな」
大した問題ではないという態度のコンドラチェンコに対し、マルコフの方は普段の士官としての自省のきいた態度を、どこかに置き忘れてしまったらしい。
自分でも驚くくらいの声量で、思わず問い返してしまう。
「ふ、婦人部隊でありますか?!」
そんなマルコフの態度をたしなめるどころか、かえってどこか楽しんでいる様子すら見えるコンドラチェンコは、大げさに片方の眉を吊り上げて聞いてくる。
「女性は嫌いかね?」
これまでのやりとりのせいで、自分がからかわれているのではないかという疑惑を抱きつつあるマルコフも、コンドラチェンコのその問いについては否定する。
「いや、まさか。ですが、その……」
未だに腑に落ちないといった態度のマルコフに、コンドラチェンコは救いの手を差し出した。
「資料の続きに目を通したまえ。君の前任者に当たる人物がやらかしたミスについて、詳細に書かれている」
マルコフが資料を読み進めていくと、実に残念な内容が記載されている箇所を発見してしまった。
部隊の指揮を取る女性と、防空軍から技術指導に派遣された男性とが、共に手を取り合って部隊から逃走したらしい。
逃げおおせたなら彼らは幸せであったろうが、憲兵隊ならともかく、党の親衛隊に見つかってしまったようだ。
義勇兵とはいえ、志願した以上、軍人として扱われるのは当然であり、まして、戦時中にもかかわらず、与えられた職責職務を放棄しているのであるから、敵前逃亡として扱われても文句は言えない。
結果、二人は仲良く銃殺されることとなり、軍と義勇志願兵に泥を塗ったに等しい行為に対しての責任をとった。ということらしい。
何とも困った内容だ。
それにしても、王国との戦争については、連邦の勝利はもはや疑いようもなく、その奥にひかえる帝国の労農者たちの解放すら視野に入るようなこのご時世に、一体何を悲観して、駆け落ちめいた真似をしたのだろうか。まったくもって理解に苦しむ。
「軍としては、誘惑に負けないしっかりとした精神の持ち主を、当該部隊の指揮官として割り当てる必要がある。と認識している。まあ、貴様ならそんな馬鹿なまねはしないだろう。と。そういうことだな。どうだ? 意外と評価されているだろう?」
マルコフは思わずため息が漏れそうになった。
慌ててぐっと飲み込みながら、とりあえず返答する。
「……恐縮であります」
なるほど。そういうことであれば、今度の部下たちとは、一線を引いて付き合わねばなるまい。
元より好かれよう、嫌われようと思って何かをすることはないが、ここは、恐れられる存在として認識されるように振る舞う必要がありそうだ。当然だが、侮られたり、軽蔑されるような事態を招くことは、絶対にあってはならない。
ひとつめの疑問に対する回答をもらったマルコフは、もうひとつの疑問を解くために、続けて質問する。
「次に、率いる部隊の兵科なのですが」
続きを促すように沈黙を守るコンドラチェンコを見て、マルコフは素直に疑問をぶつけた。
「高射砲兵なのですか? 自分は工兵であって、専門外でありますが」
資料には、第四三七独立防空中隊とある。文字通り、空を飛ぶ航空機の侵入を阻止するために、砲弾を上空に撃ち上げる高射砲を専門的に扱う部隊だ。
一方、マルコフは工兵だ。しかも、軍の前進を阻むあらゆる障害を破壊し、前進経路を確保することに特化した戦闘工兵だ。この場合の障害には、重量物や地中に埋め込んだ鉄骨のようなものに始まり、地雷源や対戦車壕に、防御火点といったものまで含まれる。
工兵と高射砲兵では、扱う兵器が違いすぎる。マルコフはこれまでに、爆薬やツルハシ、円匙に小銃といったものに親しんできたが、高射砲兵は大砲と砲弾を扱う。工兵の爆破作業にも複雑な計算が必要だが、上空を高速で飛ぶ航空機を撃墜するために必要な計算については、工兵が扱う範囲よりもはるかに複雑だ。
そんなマルコフの不安に対し、コンドラチェンコは何も問題はないといった態度のまま答える。
「だが、軍事アカデミーで基礎は習っただろう?」
「はい、閣下」
軍事アカデミーの基礎コースでは、陸軍の士官として備えるべき態度と知識とを、片っ端から叩き込む。各兵科に別れて詳細な教育を受けるのは、軍事アカデミー卒業後の話になる。そのため、各兵科についての基礎知識は、どの陸軍士官も叩き込まれているということになる。
もっとも、近年の軍事アカデミーで短期教育のみ受けて卒業した者であれば、その限りではない。
「成績もなかなかよかったと記憶しているぞ。ならば、何も問題はないと思うが」
コンドラチェンコは有無を言わせぬ勢いだ。
マルコフは、それに応えねばならない。
「はい、閣下。ご命令とあれば、ご期待にそえるよう万難を排して努力いたします。ですが、その。より適任な者がいるのではないでしょうか」
正直に言えば、マルコフとしては、素直に砲兵――しかも、高射砲の扱いに長けた高射砲兵――を割り当てるべきだと考えている。
だが、コンドラチェンコはそうは思っていないらしい。
「俺としては、この任務には貴様こそが適任だと確信しているんだがな」
そう述べながら、コンドラチェンコは手元で書き込んでいたメモをマルコフに手渡した。
資料の末尾に目を通せ。とある。
その内容を受け、手渡された資料の最終ページに目を通したマルコフは、自分が何故、この部隊を率いることになったのかを理解した。そこには、コンドラチェンコが予想した今次戦争の推移についてが示されていたからだ。
しかし、まあ。ここに記載されたことを本当に懸念しているとしたら、コンドラチェンコはよほどの心配性か悲観主義者ということになる。しかし、その可能性を完全に否定できるかと言われれば、これは、よほど熟慮に熟慮を重ねる必要がある。
今の戦争が王国相手で終了するならば、何も問題はなさそうだ。だが、もし、連邦が今の勢いにまかせて、王国の後に控える帝国との戦争に突入した場合、コンドラチェンコが懸念するこのシナリオが、現実のものになる可能性は否定しきれない。
とはいえ、すべては可能性の話だ。
マルコフの表情は無表情に等しいが、アカデミーで二年半の付き合いをしたコンドラチェンコには、微かに浮かんでいる感情が手に取るようにわかる。彼の表情が不安から納得に変わったのを目ざとく見分けたコンドラチェンコは、手を伸ばしてメモの返却を求める。
それと同時に、机の上に置いてあったシガレット・ケースを開くと、二本の葉巻を取り出した。シガーカッターを使って手際よく吸い口を切ると、そのうちの一本をマルコフに差し出す。
「貴様もどうだ?」
普段からよく吸う紙巻の煙草ならともかく、細身の葉巻という高級品を差し出されたマルコフは、恐縮しつつも、ありがたく頂戴することにした。
「ありがたくいただきます。閣下」
火のついたマッチを渡されたマルコフは、自分の葉巻に火をつけてから、ゆっくりと紫煙を口に含む。
自分の葉巻に火をつけるために、次のマッチを擦ったコンドラチェンコは、葉巻に火が付いたことを確認した後で、かなり短くなったマッチの最後の炎を、これまでにマルコフに見せたすべてのメモに向ける。
マルコフはその瞬間、彼の意図を理解した。
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