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レンが消えた日
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レンは救助隊の手で川から引き上げられると、救急車へ乗せられてどこかの病院へ運ばれて行った。
去っていく救急車を川原から見送った。
真っ白な車体の上で、赤いランプがクルクルと回っていた。
サイレンの音は私の耳には入らなかった。
レンを助けるために川に飛び込んだ一般人と警察官が話をする声も、集まった野次馬の声も聞こえなかった。
ただ、赤いランプだけが嫌に鮮やかな色をして、私の記憶にくっきりとした足跡をつけて走り去っていった。
レンは救急外来のある大きな病院に運ばれていくのだろうーー。
運ばれたあと、レンがいったいどうなるのか。
それは、誰にもわからないことだった。
不安は驚くほど感じなかった。
悲しくもなかった。
野次馬の一人に、家の中で着るようなヨレヨレの服を着たおばさんがいた。おそらく近所の人だろう。
そのおばさんが、テレビでニュースを見て感想をつぶやくように、
「若い男の子が入水自殺しようとしたんだって。嫌ね、若いのに」
と話していた。
そうね、と隣にいた同じような外観のおばさんが答えていた。
嫌ね、若いのに。
そうね。
おばさんたち二人の間では、レンの起こした出来事はたったその数文字で片付けられてしまったみたいだ。
私は、頭からつま先までずぶ濡れの状態で、衣服から水を滴らせながら、野次馬たちの顔を眺めた。
野次馬たちはみんな、おばさん二人組と同じようにニュースを眺めているような顔をしていた。薄い膜を隔てているような目、関心はあるがしょせん他人事と思っているような顔。
私にとっては、そんな野次馬たちが、テレビ画面の向こう側にいる人みたいに見えていた。
これは、本当の出来事だろうかーー。
私は、この川原も、そこに集まる野次馬たちも、やけに静かに流れる川も、その上に広々と広がる空も、現実味がないように思えてきた。
心が、目の前の景色を拒絶している。
目の前の景色が、確かにそこにあるという感覚が遠のいていく。
同時に、自分自身がそこにいるという感覚も遠のいていく。
風船になったみたいーー。
私は目を閉じてそう思った。
自分の衣服から水滴がポタポタと地面に落ちる音がする。
衣服が濡れて体にはりついている。
その感触を確かに皮膚に感じるのに、その皮膚も、皮膚に包まれた体も、不思議なことにもう自分のものじゃなくなってしまったみたいに感じた。
体はここにあるけれど、それが私の体ではなく、誰か知らない人のものであるような、私という存在自体があやふやになっていくような、不思議な感覚だった。
ふわふわとした心地がするーー。
私は現実とのつながりを失って、風船みたいにふわふわと、どこでもない場所をただよっているみたいに感じた。
そんな気持ちになる理由はわかっていた。
〝レンが私の前から消えた〟
〝私を置いて消えた〟
そんなことが起こってしまった時点で、私の時間は止まってしまったのだった。
そこから先の未来は、全部つくりものみたいに思えた。
だから、悲しくなかった。
レンが死んだらどうしようとか、そんなこと、私には考えられなかった。
むしろ、レンが救急車に乗って、私の目の前から消えた時点で、私の世界は一度死んでしまったのだった。
警察官の一人が私に近づいてくる。
手にはメモを持っている。
これまでの経緯を話さないといけないんだろう。
私はそう思いながら、やはり、どこか現実味のない気持ちでいた。
・・・
車に揺られながら、窓の外を眺める。
私はさくら園の施設の車の後部座席に乗っていた。
車は川原から元いた病院に向かっていた。そして、運転席にはさくら園の施設長が、助手席には脱走した病棟の看護師長さんが乗っていて、二人して私に小言を言っていた。
二人は小言の合間に、何度も、
「あなた達のことを、関係者がどれだけ心配したことか……」
という言葉をはさんだ。
私はバックミラー越しに二人の顔を眺める。
言葉では「心配した」と言いながら、顔は「迷惑した」と言っていた。
眉間に寄せられたシワ。
への字の口。
大人って、言ってることと違う顔をよくする。
「警察から電話がかかってきた時にはとても驚いたのよ。あなたが無事だったことは何よりだけど……」
看護師長さんも、さくら園の施設長も、言葉の上ではとても優しかった。私たちがやったことをいけないことして咎めながらも、できるだけ優しく注意しようとしてくれていた。
だけどその言葉と表情が一致していないので、私の心は余計にシワシワとした。
本当は迷惑ーー。
そんな心の声がよりはっきりと聞こえた気がしたから。
しかし、自分たちがしたことを思い返したら、病院スタッフにも施設のスタッフにも、迷惑がられて当たり前ではあった。
そう、当たり前だ。
でも、頭でそう理解できても、心がヒリヒリした。
レンがもしここにいたなら、二人の表情を見て怒っていたかもしれない。
自分がやったことを棚にあげて、シートから立ち上がってワアワアわめいていたかもしれない。
レンは小さな子供みたいだから。傷つきやすい上にすぐ怒る面倒くさいやつだから。
そのくせ、自分で自分の感情をコントロールできないことをすごく悩んでいるので、怒ったあとに後悔するにちがいない。
本当に、どうしようもない人だと思う。
私はレンのことをどうしようもないと思うたびに、悲しいような、泣きたくなるような、なんとも言えない気持ちを感じる。
私はやっぱり、どうしようもないレンのことが好きなんだと思う。
車が電車の線路脇を通る。
いつも病院の窓から見ていた線路だ。車はあと数分で病院に到着する。看護師長が私に振り返り、最後にもう一度念をおすように言った。
「もう二度と病院を抜け出さないでね。
今度やったら強制退院になるわよ」
私はうなずいたが、どことなく気持ちが上の空だった。レンのことを考えていたからだ。
言葉が耳に入っていないのを見抜いたのか、看護師長が眉間にシワをよせてため息をついた。
「それとね、救急病院に運ばれた彼は、もう、うちの病院には戻ってこないからね」
私は、突拍子もなく目の前にカエルかトカゲか爆弾でも投げてよこされたみたいな気持ちになった。
「戻ってこないって、どういう意味ですか?」
「そのままの意味よ。
彼が今、どういう状態にあるか分からないけれど、命に別状がなかったとしたら、身体的な治療が終わり次第、また精神科へ転院することでしょう。
でも、そうなったとしても、うちの病院ではもう彼を診ません」
「なら、レンはどこに行くんですか?」
看護師長は首を横にふる。
「それは、もう私たちには知る必要のないことだし、干渉すべきことでもないわ。
彼はもう、うちの患者ではないの」
私は胸がズンと重たくなだった。
出禁。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
病院のルールからあまりに逸脱した行動があると、病院に出禁になると、患者同士がウワサしているのを聞いたことがある。
「それは……、レンが病院に迷惑をかけたからですか?」
看護師長はまた一つ深いため息をついた。
「治療契約という言葉があるの。
治療も、ある程度のルールを設けてその中でやっていかないといけないものなのよ。彼は私たちと結んだ約束を何度も破ったの。それじゃあ治療は続けていけない」
病棟師長は淡々と断定的に話した。
きっと師長一人の意見ではなく、病院の決定事項なんだろうと私は思った。
ということは、その決定はもうくつがえらないということだ。
なんて絶望的な話だろう。
レンが川の中に姿を消した瞬間の、とぷん、という音を思い出した。
静かなその音。
死のうとした者がたてる音にしては、あまりにあっけなかった。
そして、川の上に広がる空は、びっくりするくらい青かった。
私は今、もう一度その音を聞いた気がした。
それは、私のいる世界からレンが姿を消してしまった音だった。
私はもう、レンの命が助かったかどうかすら、知りようがないらしい。
数日前まで、何度も病院の屋上で二人並んで空を見上げたというのにーー。
夕方、病棟を抜け出して、ネームバンドを巻いた腕をくっつけあって、手のひらを夕陽にかざしたのはいつのことだっただろう。
それは、確か、たった数日前のことだったはずだった。
続く~
去っていく救急車を川原から見送った。
真っ白な車体の上で、赤いランプがクルクルと回っていた。
サイレンの音は私の耳には入らなかった。
レンを助けるために川に飛び込んだ一般人と警察官が話をする声も、集まった野次馬の声も聞こえなかった。
ただ、赤いランプだけが嫌に鮮やかな色をして、私の記憶にくっきりとした足跡をつけて走り去っていった。
レンは救急外来のある大きな病院に運ばれていくのだろうーー。
運ばれたあと、レンがいったいどうなるのか。
それは、誰にもわからないことだった。
不安は驚くほど感じなかった。
悲しくもなかった。
野次馬の一人に、家の中で着るようなヨレヨレの服を着たおばさんがいた。おそらく近所の人だろう。
そのおばさんが、テレビでニュースを見て感想をつぶやくように、
「若い男の子が入水自殺しようとしたんだって。嫌ね、若いのに」
と話していた。
そうね、と隣にいた同じような外観のおばさんが答えていた。
嫌ね、若いのに。
そうね。
おばさんたち二人の間では、レンの起こした出来事はたったその数文字で片付けられてしまったみたいだ。
私は、頭からつま先までずぶ濡れの状態で、衣服から水を滴らせながら、野次馬たちの顔を眺めた。
野次馬たちはみんな、おばさん二人組と同じようにニュースを眺めているような顔をしていた。薄い膜を隔てているような目、関心はあるがしょせん他人事と思っているような顔。
私にとっては、そんな野次馬たちが、テレビ画面の向こう側にいる人みたいに見えていた。
これは、本当の出来事だろうかーー。
私は、この川原も、そこに集まる野次馬たちも、やけに静かに流れる川も、その上に広々と広がる空も、現実味がないように思えてきた。
心が、目の前の景色を拒絶している。
目の前の景色が、確かにそこにあるという感覚が遠のいていく。
同時に、自分自身がそこにいるという感覚も遠のいていく。
風船になったみたいーー。
私は目を閉じてそう思った。
自分の衣服から水滴がポタポタと地面に落ちる音がする。
衣服が濡れて体にはりついている。
その感触を確かに皮膚に感じるのに、その皮膚も、皮膚に包まれた体も、不思議なことにもう自分のものじゃなくなってしまったみたいに感じた。
体はここにあるけれど、それが私の体ではなく、誰か知らない人のものであるような、私という存在自体があやふやになっていくような、不思議な感覚だった。
ふわふわとした心地がするーー。
私は現実とのつながりを失って、風船みたいにふわふわと、どこでもない場所をただよっているみたいに感じた。
そんな気持ちになる理由はわかっていた。
〝レンが私の前から消えた〟
〝私を置いて消えた〟
そんなことが起こってしまった時点で、私の時間は止まってしまったのだった。
そこから先の未来は、全部つくりものみたいに思えた。
だから、悲しくなかった。
レンが死んだらどうしようとか、そんなこと、私には考えられなかった。
むしろ、レンが救急車に乗って、私の目の前から消えた時点で、私の世界は一度死んでしまったのだった。
警察官の一人が私に近づいてくる。
手にはメモを持っている。
これまでの経緯を話さないといけないんだろう。
私はそう思いながら、やはり、どこか現実味のない気持ちでいた。
・・・
車に揺られながら、窓の外を眺める。
私はさくら園の施設の車の後部座席に乗っていた。
車は川原から元いた病院に向かっていた。そして、運転席にはさくら園の施設長が、助手席には脱走した病棟の看護師長さんが乗っていて、二人して私に小言を言っていた。
二人は小言の合間に、何度も、
「あなた達のことを、関係者がどれだけ心配したことか……」
という言葉をはさんだ。
私はバックミラー越しに二人の顔を眺める。
言葉では「心配した」と言いながら、顔は「迷惑した」と言っていた。
眉間に寄せられたシワ。
への字の口。
大人って、言ってることと違う顔をよくする。
「警察から電話がかかってきた時にはとても驚いたのよ。あなたが無事だったことは何よりだけど……」
看護師長さんも、さくら園の施設長も、言葉の上ではとても優しかった。私たちがやったことをいけないことして咎めながらも、できるだけ優しく注意しようとしてくれていた。
だけどその言葉と表情が一致していないので、私の心は余計にシワシワとした。
本当は迷惑ーー。
そんな心の声がよりはっきりと聞こえた気がしたから。
しかし、自分たちがしたことを思い返したら、病院スタッフにも施設のスタッフにも、迷惑がられて当たり前ではあった。
そう、当たり前だ。
でも、頭でそう理解できても、心がヒリヒリした。
レンがもしここにいたなら、二人の表情を見て怒っていたかもしれない。
自分がやったことを棚にあげて、シートから立ち上がってワアワアわめいていたかもしれない。
レンは小さな子供みたいだから。傷つきやすい上にすぐ怒る面倒くさいやつだから。
そのくせ、自分で自分の感情をコントロールできないことをすごく悩んでいるので、怒ったあとに後悔するにちがいない。
本当に、どうしようもない人だと思う。
私はレンのことをどうしようもないと思うたびに、悲しいような、泣きたくなるような、なんとも言えない気持ちを感じる。
私はやっぱり、どうしようもないレンのことが好きなんだと思う。
車が電車の線路脇を通る。
いつも病院の窓から見ていた線路だ。車はあと数分で病院に到着する。看護師長が私に振り返り、最後にもう一度念をおすように言った。
「もう二度と病院を抜け出さないでね。
今度やったら強制退院になるわよ」
私はうなずいたが、どことなく気持ちが上の空だった。レンのことを考えていたからだ。
言葉が耳に入っていないのを見抜いたのか、看護師長が眉間にシワをよせてため息をついた。
「それとね、救急病院に運ばれた彼は、もう、うちの病院には戻ってこないからね」
私は、突拍子もなく目の前にカエルかトカゲか爆弾でも投げてよこされたみたいな気持ちになった。
「戻ってこないって、どういう意味ですか?」
「そのままの意味よ。
彼が今、どういう状態にあるか分からないけれど、命に別状がなかったとしたら、身体的な治療が終わり次第、また精神科へ転院することでしょう。
でも、そうなったとしても、うちの病院ではもう彼を診ません」
「なら、レンはどこに行くんですか?」
看護師長は首を横にふる。
「それは、もう私たちには知る必要のないことだし、干渉すべきことでもないわ。
彼はもう、うちの患者ではないの」
私は胸がズンと重たくなだった。
出禁。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
病院のルールからあまりに逸脱した行動があると、病院に出禁になると、患者同士がウワサしているのを聞いたことがある。
「それは……、レンが病院に迷惑をかけたからですか?」
看護師長はまた一つ深いため息をついた。
「治療契約という言葉があるの。
治療も、ある程度のルールを設けてその中でやっていかないといけないものなのよ。彼は私たちと結んだ約束を何度も破ったの。それじゃあ治療は続けていけない」
病棟師長は淡々と断定的に話した。
きっと師長一人の意見ではなく、病院の決定事項なんだろうと私は思った。
ということは、その決定はもうくつがえらないということだ。
なんて絶望的な話だろう。
レンが川の中に姿を消した瞬間の、とぷん、という音を思い出した。
静かなその音。
死のうとした者がたてる音にしては、あまりにあっけなかった。
そして、川の上に広がる空は、びっくりするくらい青かった。
私は今、もう一度その音を聞いた気がした。
それは、私のいる世界からレンが姿を消してしまった音だった。
私はもう、レンの命が助かったかどうかすら、知りようがないらしい。
数日前まで、何度も病院の屋上で二人並んで空を見上げたというのにーー。
夕方、病棟を抜け出して、ネームバンドを巻いた腕をくっつけあって、手のひらを夕陽にかざしたのはいつのことだっただろう。
それは、確か、たった数日前のことだったはずだった。
続く~
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