死にたがりの少女 〜 夕空を見上げる

あらき恵実

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あの日の問いかけ

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頭の中で、レンの声がする。

ーー生きてて良かった?

八月のある夕方、病院の屋上でレンは私にそう尋ねた。
私たちは、屋上を囲うフェンスのそばにいた。
フェンスの向こうには、夕焼け空と、空と同じ色に染まった街並みが見えていた。
心にまで染み込んできそうな、柔らかな透き通ったすみれ色。

西陽に目を細めて、うん、と私は答えた。
そう答えさせてしまうような空だった。

それから、私たちは夕焼け空に向かって手を伸ばした。
腕をピタリとくっつけあって。
そして、空の色に縁取られた、二つの手を眺めて笑った。
二人の手首には、ネームバンドが巻きつけられていた。
それは、私たちが同じような弱さを抱えている証のようにも見えたし、二人を結びつけるお守りみたいにも見えた。

「私のこと、離さないでね」

レンはその言葉にすぐ返事をしなかった。腕を下ろすとフェンスにもたれ、黙ったまま街を見下ろしていた。

西陽の下を電車が走っていく音がする。カンカンカンカンという踏切の音も聞こえた。
踏み切りの音はどこかさみしい。
さみしい音は、レンの横顔によく似合っていた。
私はなんだか胸がキュウッと痛くなった。

ーーレン……。
あのとき、どうして、すぐにうなずいてくれなかったの?

私は心の中でレンに問いかけた。

ーーもうすでに、決めてたの?
どこかで、生きるのをやめちゃうって……。
フェンスの向こうに紙飛行機でも飛ばすみたいに、ポイッと生きることを投げ出しちゃうつもりでいたの?

私は、病室にいて、真っ昼間からベッドに横たわってそんなことばかり考えていた。
もう少しで作業療法士さんが、作業療法の誘いにやってくるはずだ。
医療者らしい誠実そうな笑顔を浮かべて、ウツウツとした反応しか見せない私を、飽きもせずに誘いにくるはずだった。

私はレンがいなくなった日以降、ほとんど病室に閉じこもっている。
作業療法にも参加していない。

私は重たいため息をついて、仰向きから横向きへと寝返った。そして、病室を眺めまわした。

レンはこの部屋に何度もやってきたことがある。
私は、窓際に立っていたり、壁にもたれかかっていたり、ベッドの端に腰かけていたりするレンの姿をありありと思いうかべることができた。
そして、思いうかべると同時に、いくつもの思い出が思い出された。
何げない会話、小さなケンカ、大きなケンカ、ドアに近づく足音がないか気にしながらキスをしたこと。

私の心がずんと重たくなった。

頭の中では、ずっと同じ問いがグルグルと回っていた。

ーーどうして何にも言ってくれなかったの?

ーーそれとも、レンは私に言葉以外のサインを出していたの?

ーー私、レンのサインを見逃してた?

やがて、病室をノックする音がして、思ったとおり作業療法士さんがやってきた。
作業療法士さんは、こんにちわ、とか、今日も外はとっても暑いですよ、真夏日ですね、とか定型文みたいな言葉を口にしながらベッドの脇にやってきた。
そして、横たわっている私を見て、一瞬ギョッとした顔をした。
私があんまりにも暗い顔をしていたからかもしれない。

「行かないですよ」

私は作業療法士さんが本題を切り出す前に、そう言ってスッパリと作業療法を断った。
作業療法士さんの顔は見なかった。
仕事といえど、せっかく誘いにきたのに断られたら気分が良いはずはない。

「そうですか……」

低いトーンの声が聞こえた。

断るにしてもベッドに横たわったままでは申し訳ないような気がして、私はベッド端に腰かけてうつむいていた。そんな私に作業療法士さんはこう言った。

「……あんまり、考えごとをする時間がありすぎてもしんどいですよ」

だから、あんまり部屋に閉じこもらない方がいいって言いたいんだろう。
だけど、今は体を起こすことすらおっくうだった。
気持ちが重たいと体も重たい。
悲しみは鉛なのかもしれない。
私は胸の中に大きな鉛のかたまりを持っている。

「私が選ぶことは、いつも、間違いだらけなんです」

「間違い?」

「治療のためには、治す努力を自分でしないといけないって、看護師さんに何度も言われました。
……だから、作業療法を断るのは間違ってるって分かってます」

「だったら……」

「でも、無理なんです。
ただ部屋に閉じこもって同じことばっかり悩んでたって、どうにもならないこともわかってます。
だけど、今はどうにもできないんです……」

作業療法士さんは、悲しいと困っているの中間みたいな顔をして、私の話を聞いていた。それから、わかりました、と言って私に背を向けた。

バタン、とドアが閉まる音がした。

部屋が急にしんとした。病室のエアコンのモーターがブーンと機械音をたてているのが小さく聞こえた。

私は静かになった部屋の中で、また一つため息をついた。

ーーねえ、レン……。

私は、心の中でレンに問いかけた。

ーーレンがしようとしたことが、未遂に終わったのか、成功してしまったのか知らないけれど、目の前でそれを見た人の気持ちを考えたことがある?
かけがえのない人が、自分を置き去りにして、消えてしまおうとする……、そんな瞬間を見てしまった人の気持ち、考えたことがある?

レンの自殺騒ぎがあってから二週間が経っていた。
レンが起こしたことの実感は、じわじわと日を追うごとに増していった。

実感が増すごとに、悲しみも増してきた。
痛みにも似た悲しみ。
胸をえぐるみたいな、鋭い悲しみ。

そして、時々ふっと、何にも感じられなくなる瞬間があった。
それを過ぎると、また胸は真っ二つに張り裂けそうなくらい痛みを感じた。

そんなふうに波がありながら、日毎にレンの起こしたことが、否定しようのない事実だと受け止められるようになっていった。

すると、今度は悲しみ以外の気持ちが心に浮かぶようになった。

それは、〝怒り〟だった。
今、私の心には悲しみと怒りが複雑にもつれあっていた。

ーーなんで?

ーーなんで?

ーーなんで?

ーーなんでそんなことをしたの?
なんで何も言ってくれなかったの?
なんで突然、私をおいて消えてしまったの?

質問をぶつけたい相手はもういなかった。

ーー生きてて良かった?

私に向かって、そう尋ねたレンがなんで?

そんなふうに尋ねるのなら、レンも〝生きててよかった〟って、そばにいて言ってよ。二人でそう言って笑おうよ。

じんわりと涙が目ににじむ。
悲しみと怒りで顔が熱い。
私はベッドにボスッと横になり、枕に顔を押し当てた。

コンコン、とノックの音がした。
また、作業療法士さんが戻ってきたんだろうか?
私は上半身を起こしてドアに目を向けた。

ドアが開いて、姿を現したのは同じ病棟の男性患者だった。
確か……、歳は二十歳前後くらいだった。
フルネームは知らない。
興味もない。
他の患者さんから、アヤトと呼ばれていた。
アヤトと親しくするつもりは私にはなかった。しかし、アヤトは私を廊下や広間で見かけるとよく話しかけてきた。

「作業療法、さぼったの?」

アヤトは勝手に病室へ入ってきて、壁際にあった椅子をベッド脇に持ってくると、椅子に腰かけた。

「言わないで。責められてるみたいに感じるから……」

アヤトは「わるい、わるい」と軽い口調で言って笑った。

「なあ、落ち込んでるの?」

私は黙った。
それは、私の心にそれ以上侵入しようとしないでほしいという意思表示だった。
しかし、そんなことをアヤトはまったく意に返さないようで、ズケズケと質問を重ねてきた。

「レン、出禁くらったってウワサじゃん。
おまえら、病院を抜け出して、何をやったの? 
どうしてリコだけ戻ってきたの?」

私は目を閉じた。
心から、アヤトの言葉を閉め出すためだった。

「ごめん……。頭が痛いから、あんまりしゃべりたい気分じゃないの」

「なんだよ、早く出てけってこと?」

私は黙り込み、うつぶせになってまた枕に顔を押し当てた。

「なあ……」

後頭部に彼の声がふってきた。
まだ居座るつもりだろうか。私はもう一言も会話したくなかった。

「おまえら、付き合ってたんだよな?
やったことあるの? レンと」

下品な笑いを含んだ口調だった。

私は枕に顔を押し当てたまま目を見開いた。
カッと体が怒りで熱くなるのを感じた。

私はガバッと起き上がると、アヤトが避ける間もないくらい素早くアヤトの頬を平手で打った。
パシンッと驚くほど大きい音がした。

人を叩いたのは初めてだった。
そんなに怒ったのも初めてだった。
手のひらが痛かった。
扱いなれない激しい感情に、全身がワナワナと震えていた。

アヤトのした質問は、私のこれまでの人生で一番最低な質問だった。

なぜ、今、こんなタイミングで、そんな質問ができるんだろう。
レンを失ったばかりの私に、そんな馬鹿げた質問をーー。

たくさんの言葉と怒りが、頭をかけめぐった。
でも、私は怒りを言葉にできず、ただワナワナと震えていた。
そして、怒るかわりに、ポロポロと涙をこぼしていた。
レンとの関係を、心ない言葉で汚されたようで悔しかった。

アヤトはそんな私を黙ってじっと見ていた。
少し赤い頬をして。
感情の読み取れない表情をして。

しばらくしてーー、アヤトはすっと立ち上がった。
部屋から出ていくのだろうと私は思った。
だけど、アヤトは私の肩にそっと手を置くと、すっと顔を私の顔に近づけた。

びっくりして硬直した私の頬に、アヤトはキスをした。
そして、何にも言わずに部屋から出ていった。

あとに残された私は、胸の中がぐちゃぐちゃになっていた。
たくさんの感情が整理もつかないまま、胸にパンパンに詰めこまれていた。
心の傷を無遠慮にいじくられ、下品な質問をぶつけられ、突然のキスでさらに心をかき乱されたのだ。
整理なんてできようもなかった。
私の心がバケツなら、もうあふれ出す間際までたくさんの感情を注ぎ込んだ状態だった。

私は、自分の呼吸の音を聞いていた。

心の中のバケツは、表面張力ギリギリで保たれていた。
一見、バケツの水面は静かだった。
しかし、その静けさは、ドッと水があふれ出す間際の静けさだった。

私は、静かにベッドをおりると、床頭台の引き出しの奥に隠すようにしまいこんでいたコップを取り出した。
それはプラスチックのコップで、床に叩きつけても割れない。しかし、足で力いっぱい踏みつけると割ることができることを私は経験的に知っていた。
私はそれをバリンッと音を立てて踏みくだくと、かけらを一つ手に取った。

かけらは鋭利に尖っていた。
尖った端が、キラリと冷たく光る。

それを左手首に押し当てようとしたとき、ふいに、チリン、という涼しい音を思いだした。
それはベビーカステラを売っていた夜店の、テントの下に吊るされていた風鈴の音だった。
風鈴は、ふくらみのある輪郭をしているが、中は空っぽだった。すうすうと、夜風が内側を通り抜けていく。そのたびに、チリンチリン、とさみしげな音が夜の空気をふるわせた。

私は、胸がすうっとさみしくなった。

私はこれまで何度も自傷行為をしてきた。
父と母が虐待の認定を受けたとき。
母がアルコール依存症になったとき。
さくら園から自宅に外泊中、母が父とケンカをして自暴自棄になって「死にたい」と口にしたとき。
病院に入院してからも、何度か、理由もはっきりしないまま、自傷行為をした。

何度、繰り返すんだろう。
繰り返すたびに、私は自分がより虚しい生き物になっていく気がした。

左手首に押し当てられたコップのかけらが、電灯の光を跳ね返してキラリと光った。
それは、もとは飲み物を飲む道具だった。
今は自傷行為のための道具だった。
しかし、じっと見つめてみると、そんな危険なものとは思えないくらいキラキラと光ってきれいだった。

ーー生きててよかった?
私の耳に、レンの声がよみがえる。

レンは、なぜ、私にそう問いかけたんだろう。
自殺しちゃう数日前に、なぜーー。

私はコップのかけらを持った手を、だらりと垂らした。

ーー教えてよ、レン。
どうして、そんな問いかけを私にくれたの?

生きていたら、どんなことがあるの?

ねえ、今、目の前に現れて答えてよ……、レン。


続く~
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