死にたがりの少女 〜 夕空を見上げる

あらき恵実

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葛藤……。

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久しぶりに部屋のドアから外をのぞいてみた。
久しぶりに見た廊下は、すごく違和感があった。
ドアを開けたら、異星にでもつながっていたような感じ。新聞やマイコップを持ってうろうろしている患者さんたちが、奇妙な異星人のように見える。
なんでこんな場所につながっちゃったんだろう。

私は、すぐにでも部屋にひっこみたい衝動にかられたが、そうはしなかった。
今日はさくら園の施設のスタッフが面会に来る日だった。
さくら園のスタッフは、私が部屋に引きこもってばかりだと聞くと、心配するにちがいない。それは、不本意なことだった。

臆病な小動物みたいにおっかなびっくり廊下を歩く。時々すれ違う患者さんと、目を合わせないようにして。
何人かの患者さんが、
「おはよう」
「久しぶりに姿を見たね」
と声をかけてくれたが、あいまいに笑って会釈して通り過ぎた。

看護師さんに、今日は引きこもっていないということをアピールするために、ナースステーションのそばを行ったり来たりしてみた。
だけど、看護師さんたちは部屋の片隅に固まって話し込んでおり、私の姿が廊下にあることに気がつきそうになかった。

私はナースステーションの近くにある給湯器でお茶をくんでみたり、ナースステーションの壁に貼られてある給食の表を眺めたりしながら、看護師さんの様子をちらちらと眺めていた。
そうしながら、聞くともなく看護師さんの会話を聞いていた。

前から不思議に思っていたが、ナースステーションにいるとき、看護師さんはものすごく大きな声で会話をする。上司の愚痴だったり、プライベートな話だったり、給料の額の不満だったり、話の内容はもろもろだが、とにかく廊下まで筒抜けだ。それだけ大声で話していて、丸聞こえになっていることに気がついていないのだろうか。

今日は医者への不満を言い合って盛り上がっているようだった。

「どこの病院でも、精神科の医者ってコミュ障の医者が一人や二人はいるよね」

「いる、いる」

「大事な指示伝達の時に限って声が小さくて、なに言ってるかわからないの」

「そうそう。その上、何回も聞き返したら機嫌が悪くなるからさ、本当に面倒くさいよね」

「あとさ、患者対応でたまったストレスを看護師にぶつけてくるよね」

「それ、ある。
よくさ、患者さんに怒りの感情のコントロールの仕方とか指導してるじゃん。自分がまず実践しろよと思うよね」

「自分ができてないんだからさ、全然説得力ないよね」

不満告白大会は白熱していて、話がつきそうになかった。
看護師さんも大変なんだなと思いながら、私はナースステーションのそばを離れた。
気分が沈んでいるせいか、他人への不満であっても、聞いていると気持ちがしんどくなってくる。

やっぱり部屋に戻ろう。  
他人の生きているパワーというか、感情のエネルギーというか、そういうものに私は圧倒されやすい。
とくに怒っている顔を見ていると、それだけでこちらのエネルギーが吸い取られてしまう。

自分の部屋の真ん前にまできて、ドアノブに手をかけようとしたとき、サッとドアの前に立ちふさがってきた人がいた。

「ねえ、久しぶり。部屋、隣りなのに、最近まったく姿を見なかったね」

「ひ……、久しぶり……」

派手な髪色、派手なネイルをした隣の部屋の患者は、アユナという名前だった。
私は彼女が何の病気なのか知らない。精神科では、あまり患者同士で病名を尋ね合わない。
過量服薬グセがあるということだけ、本人から聞いたことがある。

「ねえ、ねえ、聞いてよ。
私、もうちょっとで退院なんだ。それでね……」

アユナは、私の耳に手を当てると、小声でこう言った。

「退院したら、私、ここの元入院患者と結婚するの」

数日前、同じ病棟の男性患者が一名退院した。
その患者と、アユナは結婚するのだと言った。
知り合ったのも親しくなったのも入院中だったが、医療者にはうまく隠していたそうだ。

「……うまくやっていけそうなの?」

「それ、どういう意味?」

アユナの眉の辺りに、怒りの色が浮かぶ。

私はしどろもどろになりながらこう言った。

「だってさ、患者さん同士でしょ……。
心に弱い部分を抱えた人同士で結婚してさ、お互いのことをちゃんと大事にできるのかな、自分のことだけでいっぱいいっぱいにならないかなって……」

「ハア? それ、アンタが言う?」

アユナは分かりやすく顔をしかめた。

「自分とレンがうまくいかなかったからって、人の恋愛にケチつけないでよ。最低」

人差し指の、ネイルが塗られた長い爪の先で私の胸をつんとついてきた。私は少しよろけて、後ろに一歩後退した。

「ケチつけたつもりじゃ……」

アユナはフンと鼻を鳴らすと私から顔を背けた。

「だいたい、うまくいかなきゃ、別れたらいいじゃん。
アンタみたいに、男とうまくいかなかっただけでウジウジしてるヤツって、バカみたい」

アユナはハッキリとそう言い切ると、自分の部屋に戻っていった。隣の部屋のドアがバタンと閉じる。

それから、私はしばらく廊下で呆然としていた。
アユナの考え方は、まるで自分とはかけ離れていた。あのような奔放で割り切った考え方もあるのか、と思った。

アユナは未来に不安など抱かないのだろうか。
まるで魚みたいだなと思った。海の中の魚。
すいすいと、自由に進みたい方向へ泳いでいく。
でも、私は海で生きるなんて、だだっ広すぎて怖い。
何が待ち受けているか分からないから。

私は金魚蜂の中の金魚みたいだ。
金魚鉢の中をグルグルと回るみたいに、ずっと同じことを考えるクセがある。
自分の部屋に戻ったあと、私は、彼女から放たれた言葉を繰り返し巻き返し思い出していた。

ーーアンタみたいに、男とうまくいかなかっただけでウジウジしてるヤツって、バカみたい。

バカみたい、か。
確かにアユナみたいな人にはそう見えるだろうな……。

考えるのをやめよう。
グルグル考えたっていいことがない。答えがでるわけでもないし、落ち込むだけだ。
だけど、やめようと思っても、それは簡単ではない。気持ちを切り替えることが下手くそだから、鉢から出られない金魚みたいに、同じ疑問の中でグルグルと回り続けてしまう。

すると、そんな私のもとへ尋ねてきた患者がいた。

タツオミという名の入院患者で、自衛隊で勤務していた二十代の男性だった。
仕事場の上司とうまがあわず、適応障害や不眠症、抑うつ状態になったそうだ(これは、彼の方から「リコにだけ、話すけど……」と言って打ち明けてくれたことだった)。

現在、タツオミは仕事から離れたことで、ストレスから解放され、抑うつや不眠も回復傾向にあった。
いずれ退院するだろう。

「どうしたの?」

少しソワソワとした様子で部屋に入ってきたタツオミに尋ねると、
「最初、予定されていたより、退院が早くなりそうなんだ」
と答えが返ってきた。

「そう……、おめでとう……」

アユナに続いて、タツオミもかーー。
自分だけ取り残されていくような気持ちを感じながら、苦労して笑顔をとりつくろった。

「あのさ……、連絡先を教えてくれないかな」

下手な笑顔をつくって、
「ごめん、私、連絡をマメにする方じゃないから……」 
と答えた。

「俺さ、退院したら、九州に戻ってまた自衛隊として働くんだ。違う上司の元でね」

タツオミは九州にある陸上自衛隊駐屯地で働いていた。
本州にあるこの病院に入院しているのは、実家が本州にあり、一時的に実家で療養してから入院したからだった。

「だからさ、連絡先が分からなかったら、退院後、それっきりになっちゃうんだよ」

「そっか……」

「リコは、それを聞いてさみしいなって思わない?」

「ん……、さみしくないわけじゃないけど……」

「けど?」

「……、あのさ……、他の患者さんの中には、退院後もタツオミと連絡取り合いたいっていう人いると思うよ。
タツオミは、病棟の中に友達も多いし」

タツオミと親しくなることを拒んでいるわけではなかった。
単純に苦手なのだ。友達をつくることが。

しかし、タツオミはひどく悲しそうな顔をしたので驚いた。悲しいだけじゃなく、怒っているようにも見えた。

「他の患者さんじゃ意味ないんだ。俺は、リコとつながっていたいんだよ」

私は、自分の心臓が大きな音を立てるのを聞いた。

「それって……、どういう意味?」

「どういうって……」

タツオミは自衛隊員らしい小ざっぱりした髪と真面目な顔立ちをしている。その顔を少し赤くして、しばらく沈黙していた。
タツオミのそんな顔を、私は初めて見た。

タツオミは私の質問には答えないまま、そっぽを向いた。

「すぐに返事くれなくていいから、考えといてよ……」

彼は赤い顔をしたままで、そう言って私に背中を向け、ドアに向かって歩き出した。
私はその後頭部を見つめていた。
今、タツオミはどんな顔をしているんだろう。

タツオミがドアノブに手をかける。ガチャリとドアが開き、廊下に出ようとしたその時、チラリと私に振り返り、何か言葉を期待するような眼差しをした。

私は再びドキリとして、視線が泳いだ。

私は何も彼に言ってあげることができなかった。
ただ、呼吸が少し浅くなったのを感じながら、自分の足元を見つめていた。横顔にタツオミの視線を感じながらーー。

次の瞬間、ドアが音をたてて閉じていた。

私は、フーッとため息をついた。
浅かった呼吸が少しずつ戻っていく。

驚いた。

驚いたーー。

顔が熱い。
まさか、タツオミが、私を好きーー?
まだ、信じられない。
でも、きっとそういうことだろう……。

世界はめまぐるしい。
アユナも、タツオミも、退院する予定になったり恋をしたり、事情が刻々と変わっていく。

タツオミは、真面目で努力家な人だから、自衛隊員の仕事に向いているだろう。私は自衛隊の制服を着たタツオミを想像した。

タツオミには、退院後にちゃんと仕事があるのだ。
ちゃんと生きていく力のある人なのだ。レンとは違って、未来が不確かではない人。
彼なら、気分が落ち込みやすい私を支えてくれるかもしれない。こんな私でも、タツオミといれば、未来に希望をもてるかもしれない。もちろん、誰かに支えられたら、支え返してあげないけど、心に余裕ができたら私にもそれができるかもしれない。

私は自分がタツオミの彼女として、彼の隣を歩く姿を想像してみた。
想像の中の自分は、幸福そうだった。
タツオミは好青年だった。
気分に波があって傷つきやすいレンなんかよりずっと。

でも……。
それでも……。

私の心に住んでいるのは、
好青年でもなく、未来に明るい兆しもないレンだった。

私はため息をついた。好きという気持ちはやっかいだ。
私はどうしてレンに惹かれるのだろう。傷ついた小動物みたいな目をして、不器用に生きているレンに。

不完全な生き物。

私は自分とレンのことを、そんなふうに思う。

私もレンも、気持ちが不安定になりやすい。
病状も、ちょっとしたストレスで崩れやすい。
だから、病状を悪化させるようなリスクは避けた方がいいんだろう。
リスクって、例えば、不安定な生活とか。不安定な恋とか、不安定な結婚生活とかーー。

でも、私たちは病状を安定させるために生きているわけじゃないと思う。
自分の人生を生きるために生きている。
自分で自分を幸せにするために生きている。

だけど、私たちの幸せってなんだろう。

例えば、結婚や出産について。

私の母は気持ちが不安定な人だった。
私はそんな母に育てられて十分な養育が受けられなかった。それでつらい思いをした。
だからこそ、私は〝子供〟という生き物には、みんな幸せになってほしいと思っている。
もちろん、幸せな子供も不幸せな子供も世界中にたくさんいるから、世界中の子供が幸せであってほしいと思うことは無理があるけど、祈るような気持ちでこう思うのだ。
これから生まれてくる子供には、みんな幸福で安定した家庭で育ってほしい。

私のそんな願いは、レンとの未来を願う気持ちと矛盾している。

だから、私は考えてしまう。

私たちの幸せって、どこに向かって歩けばあるのだろうーー。




続く~
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